ある青年の話



いつだったか、そう遠くない昔。

長距離バスで隣り合わせた青年から聞いた話。

 

青年のお父さんは多発性硬化症という難病で、症状は進行していた。

医者の勧めのまま、いくつもの薬剤を使ったが、症状は改善しなかった。

海外の文献を調べているとき、青年は大麻が多発性硬化症に効果があることを知った。

青年には大麻を吸った経験もなく、関心もなかった。

父の病に効く可能性を知り、医者に相談した。

だが、国内では、処方どころか、研究すら禁止されていることを知った。

青年は、その非人道さに強く憤りを感じたが、現状ではどうしようもなかった。

例え、自身の医療目的にでさえ、栽培や所持を行えば逮捕が待っている。

それが先進国日本の現在であることを知った。

青年は、違法を承知で、薬物の売買で知られる繁華街に通い、外国人から大麻を買うようになった。

父の症状が改善した。

ヤケドしてさえ気づかなかった腕の感覚が戻ってきた。

青年自身は大麻を吸いたいとも思わず、すべては父の薬として消費した。

頻度高く大麻を求める青年に、ある日、売り手の外国人が言った。

Boy, more slowly.

青年は、自分が吸いたくて大麻を求めているのではない。

悔しくて涙が出たという。

 

ある日、いつもと同じように、同じ売り手から大麻を買っての帰り道。

張り込んでいた警察に、青年は大麻取締法の現行犯で逮捕された。

父の症状が悪化した。

自分のために大麻を買いに出た息子の逮捕は、

父を精神的にも苦しめた。

青年は、不起訴だったそうだ。

だが、勤務先からは解雇された。

 

大麻を入手する伝を失い、父親の病状が悪化するなか、

青年は、そのような事情の者に大麻をただで分けてくれる男の存在を知り、

これから安曇野に会いに行くところだと言った。

 

不覚にも、その男の名を、私は覚えていない。

 

←表紙