大学卒業後は自転車で世界一周する決心が固まっていた私は、全く就職活動することなく卒業し、旅の資金稼ぎのために電子機器メーカーの期間工として働いた。
そして99年12月、パースからシドニーへのオーストラリア横断+ニュージーランド走破のため、オーストラリア西端のパースへと飛んだ。
「地球の歩き方」に載っている安宿に行くと、ワーキングホリデーの日本人だらけで、日本から飛んできたのに、また日本に戻ってしまったような感じだった。
パースで数日間準備をし、遥か東のシドニーに向かって走り出した。物価が安いアジアでは、毎日宿に泊まり、その辺の食堂で食べていたが、オーストラリアではそうはいかない。キャンプ場か、宿に入ってもドミトリー(相部屋)で、自炊の生活である。
オーストラリア西部を抜けると、難所・ナラボー平原。1,200kmの間、町は全くなく、100~200kmおきに、ロードハウス(ガソリンスタンド兼商店兼モーテルとキャンプ場)があるぐらいなのである。ナラボー平原への入口・ノースマンで食料10kg、水10kgを自転車に無理矢理積み込んで突入した。
自転車で一日に走れる距離は100kmぐらい。日によっては全く補給ポイントがなく、藪の中でキャンプという日もあるし、150kmひたすら直線という区間も。カセットを何本も持ち歩きたくないので(当時はi-podなど無かった)ラジオを持ってきたが、ラジオの電波も入りゃしない・・・。
こんな退屈な道で、唯一の楽しみだったのがロードハウスでの冷えたビール。
何処の酒が美味かった云々って話はよく聞くが、「頑張って走った後のビール」が一番だろう。ひたすらだだっ広い平原で退屈だったが、海に接する区間もあり、写真のような景色も見られた。
2000年元旦は、ナラボー平原のど真ん中で地平線からの初日の出を!と思っていたが、その日はロードハウスにはたどり着けず、見晴らしも良くない藪の中で寂しい正月を迎えた。せめて短波ラジオだったら、紅白聞けたのに・・・。
こうして走り続けて10日間、ようやく次の町、セドゥナにたどり着いた。
先ず行ったのは、スーパーマーケット。ビールも肉も何でも買えるし、安い。ナラボー平原のロードハウスは、最寄の町が遠い程、品揃えが悪くなり、値段は高くなるのであった。
ここからのルートは、特に難所はなく、アデレード、メルボルンと進んでいく。英語はなかなか上手くならないが、タバコを巻くのが上手くなってきた。オーストラリアでタバコは日本より高く、貧乏旅行者の多くが割安な巻きタバコを吸うようになる。
どの町だったかは忘れたが、街中の公衆トイレに注射器回収ボックスを設置してあり、中を覗いてみると、本当に注射器が入っていた。ハードドラッグの常用者も少なくないのだろう。
パースを出発して2ヵ月半、走行距離で5,500kmでシドニーにたどり着き、日本人の溜まり場・東京ビレッジに泊まった。
私が到着した2,3日後、チャリダーS君が到着し、話をしているとジョイントを差し出されたが、それまで全く大麻というものを見たことも吸ったこともなく、差し出されたタバコが大麻であるとは考えもしなかった。
「えっ、何?」
「ガンジャだよ」
「ん?葉っぱとか言うやつ?」
さらに聞いてみると、「害なんて酒・タバコ以下だけど、当局の都合で麻薬扱いされている」「クソ熱いテントでも、飯がよく食え、よく眠れる」ということで、S君もバリバリ走れてるし、一度吸ってみようかと、吸わせてもらった。
「ん、別に何も変わらないけど・・・」
とスパスパ吸ってると、後からグラグラになってしまった。イスに座っているのもキツくなり、吐き気もして、トイレに行って吐き、何とかベッドに戻って動けなくなってしまった。当時はまだかわいかったもので、ベッドの上で、頭の中がグルグル回りながら「こんな事になるんだから、無害な訳はない。訳も無く禁止にされる訳はないだろう。」などと考えていた。S君は、慣れてないうちに吸いすぎるとそうなる。次からは良くなると言うが・・・、シドニー滞在中は、また吸いたいとは思わなかった。
そして、00年3月1日、シドニーからニュージーランド・クライストチャーチへと飛んだ。
ニュージーランド編に続く
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