桂川 直文
役人達は地位と権益を守るためなら何でもする。
平気でしらばっくれるし、いくらでも嘘をつく。
嘘つきは泥棒の始まりと言うが、
そもそも役人なんて初めから税金泥棒だったのだ。
平成17年3月11日、大阪高裁にて私の事件の控訴審判決があり、控訴棄却が言い渡されました。公判において弁護側は夥しい書証を提出し、私は自らの大麻体験や海外での知見等を述べて検察側主張と検察提出資料を完璧に論破しました。しかし裁判所の判決は、控訴棄却とする結論が先にあり、そこに誘導するべく証拠を解釈され、且つ不都合な証拠は無視されて論旨が組み立てられました。
真実を述べて闘った公判の経緯から、大麻無害の判決を期待して傍聴席を埋めた大麻愛好者達は裁判長のあまりの言いように、見てはいけないものを見たような恐怖で慄然として声もなく固まったままでした。被告席に居て正面を向いていた私ですが、そんな空気は背後から伝わってきました。
裁判は公正に行われるものと本当に信じていた若者達にとっては、検事と判事がグルになったやり方には相当ショックだったことでしょう。裁判官といえども権益にしがみついて生きる横並びの公務員、我が身の安泰と自己存続のために精神性を棄てた恥を知らない人達だったのです。
日本は主権在民、三権分立の国といわれていますが実体はそうではありません。族議員、官僚、それに連なる利権企業が集団を形成し、そした複合体による独裁国家なのです。独立した機関と思われている裁判所も、検察、警察、刑務所、矯正協会、差し入れ業者まで含めた「法務共同体」とでもいう権益集団に含まれます。かつて犯罪が少なかった頃は各刑務所間で受刑者の奪い合いがあったといいます。とくに私のように法が間違っていると主張する者は法務権益を脅かす思想犯として厳しく断罪されます。もしかしたら法務共同体の人たちはラブ&ピースの大麻が自由化されれば犯罪が激減すると直感しているのかも知れません。確かにヨーロッパ先進国の事例を見れば、大麻の自由化は大麻以外の有害とされる薬物使用の非刑罰化につながり、そうした国々では麻薬取締官などという職業はありません。
自らの信念で大麻の有益性を社会に訴えれば当局の監視下に置かれ、裁判で真実を述べれば刑が重くなる。このような大麻取締法の運用はかつての治安維持法と同様のものであり、取締当局こそ権力の濫用による主権者に対する犯罪者であるといえます。
治安維持法は1925年に公布され1945年10月に廃止されるまで特高(特別高等警察)は同法を武器に国民の思想、言論、結社の自由を弾圧しました。治安維持法が無かったら日本は戦争に巻き込まれることはなかったと言われています。当時の司法は「法がある」とする理由で罪の無い被疑者に有罪判決を下し続け、戦争が終わって、治安維持法の適用こそ権力による犯罪行為と判っても、同法が撤廃されるまでそれを止めようとしなかったのです。前科者とはこの国の司法のことだったのです。
「悪法も法なり」とする幼稚な論理の恐ろしさを私達は充分知っていながら、またまた司法が同じことを繰り返すのを許してしまいました。それは私達が臆病だったことに尽きます。
現在我が国は毎年80兆円の予算を組みながら税収は40兆円強しかありません。積み上がった借金は、国債、地方債に年金や公益法人等の隠れ借金を加えれば、その額は一説によれば2000兆円とも言われています。既に国家財政は破綻しているのに国家の指導者達は国民を騙してさらに国債を買わせようとしています。意識を拡大する大麻の作用は為政者達のペテンを透かして見せてくれます。大麻取締法など無く、民衆が自由に大麻を吸えることができていたなら日本国が潰れるところまで来ることはなかったと思わざるをえません。
既に存在することを許されていない役人達の「大麻には害毒があり刑罰による規制が必要だ」とする、おためごかしの理由に国民は従う必要などないのです。私達は泥棒達と一緒に滅びる訳にはいきません。時代は変わるのです。
自由な意志で大麻を栽培し、マナーを守って大麻を吸いましょう。
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