薬物取り締まりと人権擁護についてー弁護士の立場から
弁護士 丸井 英弘
はじめに
薬物使用とその取り締まりの問題を検討するためには、薬物使用によってどの様な害が生じるのか、また害が生じるとしても刑事罰をもって規制するのが適当であるか否かを明らかにしなければならない。
市民生活において最も尊重されなければならない価値は、個人の生命・身体・財産であり、また思想・表現・趣味・嗜好の自由である。これらは基本的人権として、近代憲法の中心的内容となっている。ところで刑事犯罪とは、その違反者に対して、身体的自由を制約し、経済的不利益、社会的地位の剥脱を科するものであるので、それを科される者にとっては人権侵害そのものである。
従って薬物使用によって刑事罰を課するには、具体的な社会的被害が立証されている場合に限定されなければならない。そうでなければ、薬物使用という個人の趣味・嗜好に国家が介入することになり、個人の自由を否定する家父長的・権威主義的社会になり、管理社会化がより一層進行するであろう。特に、大麻の様に、具体的被害が立証されていないものについて、懲役刑でもって規制し、毎年二千人以上もの逮捕者を出している日本の現実は、国家権力が、個々人の趣味、嗜好に介入し、その行動を監視することを意味している。?また、仮りにある種の薬物を使用して、人に危害を加えた行為、すなわち、傷害行為自体刑法でもって規制されているのであり、さらにたとえば酒気帯び運転や薬物の影響によって正常な運転ができないおそれのある運転は、道路交通法六五条、六六条等特別の罰則があるのであるから、具体的な被害が発生しない前段階でもって、薬物使用を規制することは、一種の予備罪もしくは予防拘禁と同様であり人権保障を第一義とする社会にあっては極力さけなければならない。
薬物の所持、使用に対する処罰は、カーター大統領が、連邦議会に対する薬物乱用に関する一九七七年の大統領教書でもいっている様に、その薬物使用による害よりも大きな害を与えてはならない。?もとより筆者は、薬物使用を野放しにせよと主張しているのではない。むしろ現在の薬事行政は大麻を厳しく処罰する一方で、過去キノホルム、クロロキン、チクロ等有害物質を含有する合法的な薬物による悲惨な薬害事故や最近では合法的な抗うつ剤の副作用によって死傷事故を引き起こしているのであり、薬物に対する正確な情報の提供と適切な規制は極めて遅れているといってよい。現在必要なことは、まず第一にいろいろな薬物に対する正確な調査と情報提供であり、その上での有害な薬物に対する適切、有効な規制である。
1.薬物の定義
大麻などの作用について論議する場合、薬物であるとか麻薬であるとかとう形で行われるが、これらは薬物や麻薬についての科学的定義に基づくものでは必ずしもない。マリファナと薬物乱用に関する全米委員会の第一次、および第二次報告でも指摘しているように、薬物の科学的定義は、「その化学的属性によって生物の構造あるいは機能に影響を及ぼす食物以外のすべての物質」といわれる。したがって、農薬や産業に使われる化学物質も含まれる。
この定義は、積極的意味も消極的意味ももっていない。薬物と食物を含む一切の物質は人間に対し望ましい効果をもつ場合もあれば、望ましくない効果をもつ場合もある。たとえば飲食は人間の生存にとって必要であり、また楽しいことでもある。しかし過度に摂取したり、その人の体質に合わない場合には内蔵疾患や高血圧、糖尿病等を発生させる。
しかし、薬物という言葉が、マスコミや捜査当局あるいは裁判所等で取り上げられている様な薬物乱用とか薬物問題といった文脈で使われている場合は、薬物の意味は科学的、客観的というよりは社会的、主観的に使われている。ある薬物を有益とか有害とか分類するのは、分類をする人が何を望ましいと考えるのかという価値判断に大きくかかってくる。特に薬物の中でも大麻とかアルコール・タバコ・コーヒー・鎮痛剤などのような精神的に作用するいわゆる向精神薬(感覚・感情などの精神状態を変化させることによって行動に影響を及ぼす能力を有する物質)は、薬物の作用に対する有害か無害かの判断は、判断をする人の価値観に基本的にかかってくる。
全米委員会の第二次報告一〇、一一頁でも次の様に述べている。
「薬物という言葉の不正確さは深刻な社会的影響を与えてきている。一般大衆は街中の薬物と医学的な薬物とは全く違った原理に従って作用すると信ずる様に条件づけられている。その結果、街にあるいわゆる薬物の危険性は過大視される一方、医療薬については、その危険性は見逃されている。このような混乱はなくさなければならない。アルコールは、疑いもなく薬物である。すべての薬物は、同一の一般的原理に基づいて作用する。そしてこれらの薬物の効果は、量によって変るのである。各々の薬物には望ましい効果の意味における効果力があり、また望ましくない効果すなわち中毒性があり、さらに致死量がある。大量の場合には、すべての薬物が危険である。薬物使用の個人的なもしくは社会的影響は、摂取の回数、期間によって増大する。したがって、薬物に対する政策は、右の様な同一の原理に基づいて、全ての薬物に適用するという基本に立って始めて、一貫性のあるものになる。」
2.麻薬の定義と大麻
すでに述べたように薬物の定義は極めてあいまいであり、主観的な価値判断的要素が強いものであるが、麻薬という言葉も同様に極めてあいまいに使われている。特に大麻に関しては、麻薬であるとの前提の上での議論や報道がみられる。
麻薬という言葉は、一九二四年(大正一四年)にジュネーブで開かれた第二回アヘン会議で作成された第二アヘン条約批准実施に伴い、国内法令としての内務省一七号「麻薬取締規制」が昭和五年に制定された際にできた言葉であって、当時業界紙で麻薬とは何だと大いに騒がれたそうである。当時、日本で問題になっていたのは、アヘン(その原料はケシ)、ヘロイン等アヘン系薬物であり、「アヘン類似品」「麻薬薬」「危険薬品」という名称も使われていたのであって、「麻薬」という言葉は「麻酔薬」からでてきたものと思われる。つまり「麻薬」の「麻」は「麻酔薬」の「麻」であり、「大麻」の「麻」は「アサ」 のことであって、両者は何の関係もないのである。
さらに「麻薬」の科学的定義からしても、大麻は「麻薬」ではない。「麻薬」を具体的に定義すれば次の様にいいうるであろう。
「強い精神的および肉体的依存と使用量を増加する耐性傾向があって、その使用を中止すると禁断症状が起り、精神および身体に障害を与え、さらには種々の犯罪を誘発する様な薬物」。
しかしながら、大麻は薬理的にも社会的にも右の様に言われる「麻薬」では決してない。
大麻が「麻薬」の一種であるとされた理由として、従来次の様な有害性があるといわれてきた。①身体的依存がある。②強い精神的依存によって害悪が生じる。③人を攻撃的にして、暴力犯罪をひき起こす。④催奇型性がある。⑤踏み石理論(大麻の害が、かりにそれほどではないとしても、大麻を吸飲するとより強い刺激を求めて、ヘロイン等の使用に進んでいく)。
しかし、以上の点については、客観性のない「神話」であって、通常の大麻使用は個人的にも社会的にも害がないということが既に次の権威ある資料によって明らかになっている。
① 1893年から1895年にかけてのイギリス政府調査団によるインドにおけるマリファナ使用についての調査報告。
②1931年から1932年にかけてのパナマ地域に駐留していたアメリカ軍人のマリファナ使用に関するアメリカ軍の調査報告
③1944年に発表されたカガーディア報告。
④1971年のWHO科学研究グループの「キャンナビスの使用」と題する報告。
⑤マリファナおよび薬物乱用に関する全米委員会の「マリファナ誤解のきざし」と題する1972年に出された第一次報告。
⑥同委員会の一九七三年に出された第二次報告。
3.大麻取締法違反事件の被害者は、その本人と家族である。
筆者は、弁護士を開業して2年目の1975年に初めて大麻取締法違反事件を担当し、それ以降現在まで34年間に渡り多くの大麻取締法違反事件を担当してきたが、その最大の特徴は大麻使用を原因とする被害者が存在しないということである。被害者が存在しないにもかかわらず、大麻と言う植物をもっていたり栽培していたというだけで市民の身柄を拘束するという現状の刑事政策は、憲法13条で保証されている個人の幸福追求権を否定するものであり、是正されなければならないと考えています。
大麻取締法違反事件の被害者は、皮肉なことに逮捕された本人とその家族である。日本の現状は、大麻で逮捕されたこと自体で会社員である場合には、その会社が有名であればあるほど即解雇されるのが通常であり(学生の場合には逮捕が分かれば退学や停学にされている)、その後不起訴になったとしても本人の社会的地位が回復されることはなく、疑わしきは罰せずという刑事法の原則が全く無視されている。また、大麻取締法違反で逮捕された人に対する社会復帰に向けての社会的支援は、全くないのが現状である。
大麻取締行政のこのような現状を変え、とりあえず、大麻事案については、その身柄を拘束するということを廃止することこそ、現在最も必要である。