本人による上告趣意書

投稿日時 2005-09-05 | カテゴリ: Iさん裁判

本人による上告趣意書

平成17年(あ)第1175号 大麻取締法違反、関税法違反被告事件
被告人 ■■■■

上告趣意書

最高裁判所 第三小法廷 御中

2005年(平成17年)7月26日
被告人  ■■■■

第1 はじめに

 私は、昨年6月に逮捕されて以来、二度と法律違反をしない意志を当初からはっきり伝えてきた。違法であることを知りながら今回の行為に及び、それによって家族や知人に多大に迷惑をかけてしまったことに大変苦痛を感じており、反省の意思は一貫して変らない。

 しかし個人使用目的の大麻の取扱いには、刑罰に相当する害悪などあり得ず、そもそも大麻の作用自体に、法律によって取締るべき有害性の無いことは、現在に至るまでの膨大な欧米の公的機関による研究と、近年の非犯罪化の動向によっても、既に結論が出ている。大麻自体に有害性が無いことが明らかである以上、他人にも社会にも被害を与えることはあり得ず、自分自身に対してさえ害はあり得ない。公共の福祉に反せず、他者の権利も侵害せず、どこにも被害者の存在しない行為に対し、原判決の実刑4年半(及び罰金100万円)は余りにも重過ぎ、不当だとしか思えない。

 取調べの担当であった浅沼検事は、「あんた自分のやった事で世の中がどういうことになるのか解っているのか!」「日本が薬物で汚染されるんだよ!」と言ったが、そうはならない事だけは確かなのである。大麻はそういうものではない。このように虚偽の事実と単なる偏見に汚染された現状こそ、社会と国民にとって害悪であると私は信じる。

 大麻の有害性には根拠がなく事実に反することと、大麻取締法の違憲性については、控訴審において信頼性のある資料の提出とともに詳しく述べた。しかし判決文では量刑の理由について、専ら「営利性」を言うのみで、それ以外の説明は一切無かった。どのような理由によって実刑4年半の重刑なのか、何故これほどの重刑を科す必要があるのかという本質的問題には一切触れず、審議するつもりも無いことだけは理解できたものの、理由も解らないままでは納得出来ない。

 大麻取締法の違憲性を主張すること、大麻に関する正しい事実を正しく認識してほしいと願うこと、これ等を主張することは、既に述べた反省の意とは絶対に矛盾しないと確信してのことである。是非とも公正な審議を賜りたく、そのために上告するものである。

第2 大麻取締法の違憲性

1.大麻取締法は、その適用の立法事実を欠き、その定める罪科は不当に重すぎ、憲法13条(個人の自由と幸福追求権)、14条(法の下の平等)、18条(狭義の自己所有権)、19条(思想と良心の自由)、25条(広義の生存権)、31条(適正手続の保障)、36条(罪刑均衡の原則)に違反し、違憲無効である(法令違憲あるいは適用違憲)。

 これを適用した原判決は不当であり、破棄されるべきである。

 以下、詳しく述べる。

2.立法事実の不在

(1)大麻取締法には保護法益がない。目的も書かれていず、立法事実が不在である。その罰則規定は明らかに必要最小限のものではなく、手続の適正を欠くものであって憲法31条に反し、罪刑の均衡を失して過度に重く、同36条に反して違憲である。

 昭和62年の長野地裁伊那支部では、当時の厚生省麻薬課長への証人尋問が行われ、大麻による社会的弊害は当時も過去にも無かったこと、また厚生省は専ら覚醒剤に予算を回しており、大麻に関するデータは一切保有していないことなどが明らかになった(長野地方裁判所伊那支部,昭和60年(わ)第6号大麻取締法違反被告事件,第10回公判調書証人尋問) [*1]

 更に昨年2004年には、市民団体(現在会員数3650人)によって厚生労働省に対する情報開示請求がなされた結果、厚労省は現在に至っても大麻に関するデータを一切保有していないことが明らかとなった(厚生労働省発薬食第040833号他)。大麻によって何らかの健康障害が起きたことは無く、大麻に起因する二次犯罪が発生した事実も無いのである [*2]

 アルコールやタバコが大麻の喫煙以上に保健衛生上害があり、健康上有害であることは医学的にも明らかであるが、なぜ大麻が、それらの物質よりもより強く規制されなければならないかという点は全く不明であり、不合理極まりない。未成年者に対する規制さえしておけば足りるのではないかということは、煙草、アルコールの規制と比較すれば容易に分かることである。大麻取締法は、1948年(昭和23年)制定されたが、GHQの要請で一方的に制定されたと考えられるのみで、その法律を支える立法事実はまったく不明確である。

 仮に大麻の危険性・有害性を肯定していたところで、一体誰に対して有害だというのか、誰のための法律なのかが全く不明である。立法当時はもとより、現在においても、強い刑罰を伴う規制を成人に対してまで必要とする立法事実は希薄である。

 一方、飲酒や喫煙は、害があろうとも個人の自由として認められているのであり、幸福追求権として保障されている。

(2)大麻はいわゆる麻薬ではない。厚労省(具体的には厚生労働省外郭団体である財団法人『麻薬・覚せい剤乱用防止センター』に代表される)は、ひとえに過剰な表現を用いて大麻の害悪を宣伝するが、厚労省は過去にも現在にも一切のデータを保有したことがなく、自ら宣伝する大麻の有害性には根拠の無いことを認めている(にも拘らず同センターのホームページは、その出典さえ示されていない大麻に関する記述を、現在も改めていない)。

 有害性を問題にするなら、薬物に限らず、合法的な医薬品・化粧品・食品・嗜好品などを含むいかなる物質であっても、使い方や使用量を誤れば人体に有害に作用するものであり、有害性を完全に否定することは不可能である。同様に完全なる無害性というものも現実世界にはあり得ない。これまでの裁判所の見解では、「有害性を否定できない限り」というのが決まり文句のようであるが、これは初めから検討するつもりはないと言うに等しい。

 ◎大麻問題で英国上院委員会顧問を務め、王立カレッジの名誉会員その他多数の肩書きをもつレズリー・アイバーセン博士は、「カナビス(大麻)はアスピリンよりも安全な薬で、長期間使用しても深刻な副作用はない。」「いかなる薬といえども、百パーセント安全ではない。アスピリンやこれに類する鎮痛薬の副作用によって毎年、何千名という人びとが死亡している。大麻にも当然、副作用がある。しかし、そうだとしたらそれはどの程度深刻なものなのだろうか? そしてそれは、大麻の合法利用を禁じる方策を正当化するほどのものなのだろうか?」と述べている。(L・アイバーセン著『マリファナの科学』築地書館より)

 ◎医療マリファナの治験を行なっている英国GW製薬の文書によると、「カナビスの安全性については数百年にわたって、死亡した例は一件も報告されていないほど確かなものである。実際、カナビスの致死量指数は通常使用の4万倍と見積もられており、アスピリンの23倍、モルヒネの50倍に比較してはるかに高い」のである。(GW製薬 http://www.gwpharm.com)

 ◎国連世界保健機構(WHO)の「薬物乱用プログラム・レポート」1997年の報告は、次のように述べる。「カナビノイドを短期または長期にわたって使用しても、人間や動物の肝機能に影響を与える兆候はほとんどない。動物実験では、カナビノイドは腸運動を低下させ胃の内容物の排出を遅らせる働きがあることが示されているが、その結果として便秘を引き起こすというような明確な証拠はない。また、通常のカナビスの使用の範囲では、アルコールの体内吸収に影響を与えることもほとんどない。」(http://whqlibdoc.who.int/hq/1997/WHO_msa_PSA_97.4.pdf)

(3)大麻の個人使用は、それによって公共の福祉に反することがなく、他人の権利を侵害しない限り、自己決定・自己責任に基づく個人の自由な行為にすぎない。たとえば飲酒の引き起こす犯罪は、具体的な犯罪によってのみ裁かれる。飲酒そのものが不道徳と考える人も多数いるが、この考えを他人に押し付けることは許されない。呑みたい者にも呑みたくない者にも、その人が他人に害を与えない限り、いずれも強要することは許されるべきでない。

 自分の自由を行使して、そのやり方が他人の目から見て「本人のためにならない」と思われても、止めるよう強制することは出来ない。

 また、真に道徳的問題に関する事柄なら、権利侵害に至らないインフォーマルな社会的制裁が自ずと加えられるのであり、それによって個人の規律や社会の秩序はある程度は保たれる。道徳の実現は政府の任務ではなくて、社会を構成する人々の行動の結果である。自分にとってどのような生き方が望ましいかを決めるのは本人であって、公的な判断の対象ではない。

 アルコールにしても大麻にしても、酔って体現されるのは、結局のところその個人の潜在的な性質に他ならない。

 それでも尚、アルコールが暴力的な作用を呼び起こすケースが圧倒的に多いのに比して、大麻の作用が非常に平和的であることは、ポルトガルにおけるサッカーのユーロ2004大会においても証明されている。ポルトガル警察は、暴徒化するフーリガン問題の対策として、大会期間中は大麻の喫煙を黙認すると発表した。酒を飲んで暴徒化されるよりも、大麻を喫煙してのんびりしてもらう方が遥かに良いことからこの決断を下した。試合後の報告は、この戦略が成功したことを伝えている。(http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,3604,1236239,00.html)

(4)諸外国の規制緩和の動向は、大麻に取締るべき理由も必要もないことを示すものといえる。

 大麻の個人使用を非犯罪化している国々は、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン、カナダ、オーストラリアなど。

 アメリカ合衆国では、現在12州が大麻の個人使用を非犯罪化。医療使用については9つの州で合法化(大麻がヘロイン同等の範疇に入れられているアメリカの薬物規制法においても、臨床試験を含む大麻の医療研究等は可能であり、実際に研究が続けられている)。非犯罪化対策は12州のほか、地方自治体の単位でも現在4か所で導入されている。シカゴ市は2004年9月より、大麻の非犯罪化を検討中。今年2005年に入り、ウィスコンシン州の州都マディソン市も、大麻をほぼ非犯罪化。バンクーバー市は、市長ラリー・キャンベルが、市内での大麻の販売を近日中に合法化したいと発言。

 ポルトガルでは、2001年1月に法改正案が議会を通過。全ての麻薬の個人使用を罰則の対象としない代りに、麻薬使用者は依存症の程度に応じて治療を受ける義務を負う。

 ニュージーランドでは、2003年8月、代議院衛生委員会が「高い優先順位」で大麻の法的分類を見直すよう国会に勧告。

 ジャマイカでは、2004年5月、国家ガンジャ委員会が、「諸法律は個人のプライベートな大麻使用を罪に問わないようにするべき」という報告を決議した。

 ロシアでは、2004年5月、規制薬物の少量の所持を非犯罪化。

 デンマークでは、少量の大麻所持を警告のみで対応するよう検察長官が警察に勧告。100g以下の所持は警告のみ、または約5400円の罰金(自転車に乗りながら携帯電話を使うことの方が罰金は高い)。

 スペインのカタルニア地方は、2005年2月、医療大麻の処方開始を健康局の担当者が発表した。

 つい先頃5月には、スイスの連邦薬物委員会が、「もっと説得力のあるドラッグ政策を採用すべき」と発表。報告書によると、フランシス・フォン・デル・リンデ委員長は政府に対し、「われわれは、薬物を道徳的規律で判断することを止め、もっと現実に対応して振舞う必要がある。」 と語ったという。(http://www.thehempire.com/pm/more/A3645_0_1_0_M/)

 更に7月には、米国のカソリック保守的地盤のロードアイランド州でも医療大麻が支持されていると報道された。(http://www.thehempire.com/pm/comments/P/3799_0_1_0/)

 尚、英国政府との協議による英国GW製薬が開発した世界初の総合的な大麻製剤「サティベックス」は、2004年にカナダで認可され、今年になって配布が開始された。(GW製薬 http://www.gwpharm.com)

(5)これらの非犯罪化政策が悪い結果をもたらしたとの報告はこれまでに無い。あれば既に問題になっている筈だが、ますます有効な効果が期待されていればこそ、これに倣う都市や自治体が相次いでいるのである。

 シカゴ市の大麻の非犯罪化は、シカゴ市警の巡査部長によって提案され、市長がその方針を支持しているが、これにより年間推定500万ドルの収益があげられるという。市長は、犯罪として追及し続けるのは、納税者のお金や警察の時間や財源を無駄にすると語っている。(NORML News Archives http://www.norml.org/index.cfm?Group_ID=6235)

 米バージニア州では、大麻に関連した逮捕と裁判費用が年間4,340万ドル(約46億円)にものぼることがジョージ・メーソン大学の調査結果で明らかになっている。調査結果の著者は、「大麻の単純所持者を検挙することで、より重要視されている犯罪の捜査や摘発を妨げている」「州や地方自治体の予算をより有効に使い、かつ若者を不必要に刑務所に入れる必要がなくなる」という。過去に反対姿勢をとってきた米麻薬取締局長官のジョン・ウォルターズ氏も、最近ではこの非犯罪化政策を支持するかのような発言をしている。(http://www.norml.org/index.cfm?Group_ID=6235)

 また、刑罰の重さは大麻使用率に影響しないことも、研究結果が報告されている(2004年5月 米・カリフォルニア,American Journal of Public Healthに掲載)。この研究が、米国で非犯罪化を達成した州とそうではない州とに差がないとするアメリカ政府による研究結果をも裏付けた。大麻を法的に取締る結果、年間約10億ドル(約1,140億円)と70万人の逮捕に繋がるが、度重なる研究で、取締りに効果がないという結論が出されている。(http://www.norml.org/index.cfm?Group_ID=6056)

 更に2004年3月、国連の第47回麻薬委員会の開催にあわせてヨーロッパ財団ネットワーク(NEF)のComite des SagesおよびThe Senlis Councilの代表らが集まったシンポジウムで、国連の麻薬取締りが酷評された。公演者は、取締りの現状が麻薬関連犯罪を増加させ、国際安全を危機に陥れ、テロリズムの資金源にさせていると批判している。英国の元コロンビア大使キース・モリス氏によれば、「この(刑罰をもってする麻薬類の禁止)システムは機能していない」。元インターポール事務総長のレイモンド・ケンダル氏によると、国連は1998年に「2008年を目標に麻薬類のない世界を目指した」が、「目標の半分以上が経過しているが、麻薬は今まで以上にある。何かを成し遂げていることはない」。(http://www.norml.org/index.cfm?Group_ID=5992)

3.刑罰の不均衡

(1)大麻取締法には選択刑としての罰金刑がない。昭和38年の改正までは罰金刑があった。それが当時流行していたヘロインの蔓延を防止する目的で薬物関連法規が一斉に強化され、大麻による社会的弊害は一切なかったにも拘らず、大麻取締法の罰金刑もが廃止された。

 つまり大麻取締法の罰則規定が過度に厳しいのは、大麻についての根拠のない誤った認識、ヘロイン等と同列に扱われたことに起因するもので、罰金刑を廃止した法改正には全く根拠がない。仮に大麻取締法の制定時にはその規制の必要性を認める立法事実があったとするにしても、昭和38年の罰金刑廃止による過度の罰則強化は、刑罰の不均衡を生じさせ、少なくともこの時点で、大麻取締法は必要最小限度の規制を逸脱し、手続の適正を欠いて憲法31条に違反している。

 刑の内容は、一貫して筋の通ったものでなければならず、罪の大きさと刑の大きさとは均衡を保つものでなければならない。大麻の刑罰規制は、覚せい剤取締法等と比較すれば決して重くはないとの見解が多くの裁判例で示されるが、有害性の殆どない大麻に、ましてや選択刑としての罰金刑さえ無いことは、重過ぎることが誰の目にも明らかである。

(2)人間の自然な感覚によっても、合理的な考えによっても、理由なく無用な苦痛を与えたり、不必要に残酷な取り扱いをすることには意味がなく、不正であると言ってよい。憲法36条がこれを表したものと考えられる。

 倫理学や政治哲学においても、自説を積極的に主張しようとするならば、それ以上正当化できない直観にどこかで訴えかけざるを得ない。まさに「理由のない苦痛は避けるべきだ」とか「自分の身体は(道徳的な意味でも)自分のものだ」という判断は、それ以上正当化できなくても、否定し難い直観であり、人間である以上、道徳的直観に訴えかけることは自然である。いわば「人道に反する」というのがそれであろう。

第3 原判決の問題点

(1)原判決は、大麻取締法が違憲であるとの主張に対し、20年前の最高裁決定をもって「合憲であることは明白」というのみで、理由の説明がない。この決定の根拠には大麻に関する認識の誤りがあり、その後は研究も進み、現在は当時と状況が大きく異なる。そのため、事実を踏まえ信頼のおける資料を示して主張したのだから、納得させる説明がなされるべきである。

(2)原判決は、本件を営利目的と断定する証拠はないにも拘らず、過去に大麻を売る意図を持ったことがあるのならば今回も必ずや営利目的であるという。この考え方は余りにも短絡的すぎる。また、量が多いから自己使用目的とは信じられないのだという。あたかも全ての行為は金目当てによるものという一元的な価値観と偏見に基づいて断定をしているにすぎない。

 実際、社会が物質的に豊かになればなるほど、却って金で買えないものは増える一方であることに人々は気付かされるのが現実である。初めから大麻を換金用の品物としてしか見ておらず、大麻によって得られる価値は金に換えられないと思う者もいることを、検察官ばかりか裁判所までもが認めない。また仮に認めたところで、それをもって心身への依存性を示すと見做し、大麻の有害論へ短絡的に結び付けられるばかりである。本件に限らず、これまでの殆どの裁判例では、まるで何かに依存すること自体が悪徳であるかの如く形容されてきたが、これが差別的な見解であることは明らかである。

 この見解によれば、充実感や心の平安を求めることや、芸術作品や人間関係などは、比較にならぬほど依存性が高く、即ち有害ということになる。しかしこれ等を希求することは法律によって禁止されてはいない。それどころか幸福追求の権利と精神の自由は憲法によって保障されている。

 原判決は、憲法13条および14条の精神に著しく反している。

第4 最高裁判例の問題点

(1)昭和60年の最高裁決定当時は、海外においても公的機関による大麻の研究は現在ほど多くはなく、国内で手軽に参照できる情報は少なかったに違いない。しかし、現在は欧米諸国で急速に研究が進み、個人使用の非犯罪化と医療目的使用の合法化が加速的に実行されている状況である。

 にも拘らず、最近の裁判例を見ても、十分な資料が弁護側から提出されていながら、裁判所の見解は殆ど当時と変らない。むしろ、既に判例があるからという理由で、より簡単に、一律に処理されているようである。

 国内で研究がなされない以上、他国の状況を無視してはならない筈である。20年前と大きく異なる現状を考慮せず、問題を放置しておくために生じる弊害は、その取組みが遅れるに従って拡大するばかりである。

 もはや情報の入手は誰にでも容易である。20年前と違い、翻訳出版された多数の書籍は、公的機関による科学的・学術的な研究結果を網羅したもの、更には、大麻の文化・歴史を網羅したもの、医学博士による大麻の医療効果のレポート、現場の医師と患者の体験談、大麻がバイオマスエネルギーとして環境改善に必須の存在であること、大麻産業の大きな可能性、種は栄養食品として大豆以上であること等々、あらゆる分野にわたり内容も詳しく充実している。国内で大麻について書かれた出版物も増えた。もはや大麻に関する情報に「根拠がない」とする根拠はどこにもない。

 それが事実であるかないか、有害であろうと無かろうと関知しないというのが、残念ながら国を挙げての姿勢であると思わざるを得ない。裁判所はただ「根拠がない」「相当である」「合憲である」などとしか言わないのが通常である。なぜ合憲であるかの理由といえば、「既に判例が出ているから」に尽きるようである。裁判所にとっては立派な理由になり得るのだろうが、既に現状に合わない判例を見直してほしいと願う訴えに対する判断の理由にはなっていない。

(2)上記の最高裁判例の再検討は、当初から法学者によっても指摘されている。いずれも、今後「有害性」に関する事実がより明確となるなら、検討し直す余地があるものと捉えられている [*3]

 ◎「ところで、昭和三八年の「麻薬取締法等の一部を改正する法律」(昭和三八年六月二一日法律第一〇八号)によって、麻薬取締法、大麻取締法、あへん法の罰則が整備強化されたのであるが、それまでは本法の実質犯については三年以上の懲役、選択刑・併科刑としての罰金刑が規定されていたところであるし、大麻の有害性が従来考えられていた程のものではないとすれば、立法政策として罰金刑を復活させる余地はある。」(吉田敏雄「第六章 大麻取締法」~『注釈特別刑法 第八巻』立花書房,1990年,362-365頁)

 ◎「しかし、「有害性」の内容、大麻取締法をめぐる憲法議論において、それがどのような意味をもつかについてはなお検討が必要であろう。」(吉岡一男「法学教室」64号110頁)

 ◎「大麻の有害性がかって考えられていた程のものでないとすれば、大麻取締規制はもとより本法でも昭和三八年の改正までは実質犯にも選択刑として罰金刑が設けられていたことをも考慮すると、立法論としては実質犯についても、選択刑として罰金刑を復活させることが考慮されてよいと思う。」(植村立郎「Ⅶ 大麻取締法」~『注解特別刑法5Ⅱ 第2版』平野竜一編,青林書院,1992年,82-87頁)

 ◎また1994年、ドイツの連邦憲法裁判所は、少量の大麻製品の自己使用目的の行為に関し訴追を免除すべきであると判示したが、法学者は次のように解説している。「わが国でも、大麻取締法の合憲性について、裁判でしばしば争われてきたところであるが、1985年に最高裁判所が大麻の有害性を肯定して以来、実務上はすでに決着がついたとみなされているようである。学説上もこの決定に対して正面から異を唱えるものは存在しない。連邦憲法裁判所の本決定は、この再検討を促すものであろう。」(工藤達郎「ハシシ(Cannabis)決定~薬物酩酊の権利?」~『ドイツの最新憲法判例』信山社/大学図書,1999年,40-45頁)

 更に、昭和62年5月30日、長野地裁伊那支部における判決では、大麻取締法を合憲としながらも、「アルコールやタバコに比べ大麻の規制は著しく厳しい」、少量・私的使用の場合の懲役刑についても「立法論としては再検討の余地がある」との見解が示されている。

(3)但し、平成17年4月19日宣告の高松高裁判決(平成16年(う)第400号)では、大麻の有害性を完全に否定する内容ではなかったという。「…有害性の程度についての見解の相違などから、人体に対する有害性を否定し、又は有害性を肯定できるだけの決定的な証拠はないとする見解も存することが認められる。このように、大麻の有害性については、多様な見解が存するところ…」と書かれたことは、注目であった [*4]

第5 大麻取締法による弊害

1.大麻取締法は国民の遵法精神を損なう

(1)悪法とその放置がもたらす弊害と損失は計り知れない。「必要の前に法律はない」という言葉の如く、国家の非常事態においてはそのような考え方も必要な場合はあるだろう。しかし個人においても、難病に苦しむ患者などは、最早そのような切迫した状況にあるのではないか。

 現実には、重度の病人は医療大麻の合法化運動などをする体力も気力も無かろう。大麻の医療効果を知らない患者も多いだろうが、自己の生命が危険に晒されている時、もし善意で大麻の使用を勧められて所持すれば、現行法では逮捕される。

 近時、大麻取締法の違憲性とともに医療大麻の必要性を主張した裁判例が既にあるが、「医療目的による使用については、大麻の有害性を前提としてそのような研究が外国で始まっているにすぎない」と処断されるなど(平成16年(う)第577号 大阪高裁判決) [*5]、裁判所は全く取り合わないのが現実である。これでは、「必要の前に法律の解釈は無限に自由である」と裁判所が認めているも同然で、法と政治に対する不信感を国民に植え付け、国民もそれに倣うなら、法律は有名無実と化すのみである。

 実際、大麻の研究も禁じられ、大麻製剤の輸入さえ不可能な現状は、その気力と体力の許される限り、海外へ大麻の治療を受けに行く者を増やす一方であろう。

(2)個人的な大麻事犯で逮捕される人々の多くは、他の面では法を遵守しているのが一般的である。このことは予てより「公知の事実」といってよい。しかも有罪になった多くの人は、たとえ、さらなる刑事裁判に巻き込まれたり人間関係や住居が損なわれたりしても、大麻の使用を止めないケースが多いという。そうした意味で、刑事罰のシステムは目的を果たしていない。これは、そもそも実感として大麻の作用に何ら害悪が認められず、道徳的にも全く害悪の生じないことに起因するからに他ならない。しかし有罪判決を受ければ、雇用に重大な影響を与えるなど、犯罪の内容に比して損失は大きく、何のためのシステムなのか全く不明である。

2.大麻取締法は、医療問題の解決と発展を阻む

(1)大麻を海外で医療利用している人たちは、癌、エイズ、多発性硬化症、関節炎、てんかん、緑内障、慢性疼痛、喘息、うつ病、その他さまざまな疾患に対処するために、それぞれ自分に合った方法で使っている。多くの人にとって大麻は、従来の療法に失敗して最後にやっとたどり着いた「安住の地」になっている。

 大麻の毒性がアルコールやタバコよりずっと低く、カフェインと同程度であり、有害どころか海外では医薬品として認可され、さらに様々な医学的可能性が大きく期待されている現代にあっては、医学的研究すら禁じている大麻取締法は明らかに日本の医学・薬学の足枷であり、国民の健康や経済発展の見地からも日本国の保護法益を著しく侵害している。

(2)平成15年4月30日の文部科学省・厚生労働省「全国治験活性化3カ年計画」は次のように述べている。

 「我が国における治験の空洞化は、つぎのような問題を生じている。

 ⅰ)患者にとって、国内での治験が遅れる又は行われないことにより、最先端の医薬品等へのアクセスが遅れること

 ⅱ)医療機関や医師等にとっても、最先端の医薬品等へのアクセスが遅れることにより、技術水準のレベルアップが遅れること

 ⅲ)製薬産業等にとっては、国内での研究開発力が低下し、さらに治験に係る新しい事業(治験施設支援機関(SMO)や開発業務受託機関(CRO)等)の振興やそれに伴う雇用の創出といった面でマイナスであること

 以上、我が国の保健医療水準や産業の国際競争力に対してマイナスの影響が大きいものと考えられる。

 したがって、画期的新薬の開発を促進し、患者に対し迅速に新薬を提供していくためには、我が国における治験環境の充実を図り、新薬の開発に資する魅力ある創薬環境を実現していく必要がある。」(「治験」ホームページ http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/chiken/kasseika.htmlより)

 かかる点から見ても、医療目的の臨床試験すら禁止し、医薬品としての研究を阻害している大麻取締法は、国民の健康と幸福を保障した憲法13条および広義の生存権である同25条に違反している。政府が最小限の生活を保障することは、絶対的貧困の救済等と同じく、難病患者や重度の病人の救済も当然含まれると思われる。むしろ大麻使用は政府によって早急に奨励されるべき逸材のはずである。

 国はこれまで大麻の有害性を立証していないのであるから、「有害性等をも考慮した」上での立法裁量にゆだねられているとして、大麻の使用に関する裁判所の判断を放棄するのは、司法権の独立性を放棄することであり、三権分立を基礎としたわが国の民主主義の否定に通じるものである。裁判所は、いわゆる先進諸国のなかで日本だけが臨床試験を法的に禁止しているという特殊な事情を踏まえ、大麻の使用を一切禁止している理由を(殊に医療に関しては早急に)明らかにさせるべきである。

(3)国が大麻への偏見を改め、正確な見解を示さない限り、世間一般の偏見もどうにもならない。大麻といえば覚醒剤と同じであると思い込んで恐れる人が未だに多い。大麻の存在は国からも世間からも、いわば二重の迫害を受けていると言える。この偏見が、医療の現場にも多大な影響を及ぼし、それはつまり患者たちに影響が及ぶのである。

 日本尊厳死協会の理事で日本大学薬理学教授(当時)の田村豊幸氏は、モルヒネと併せて大麻が癌治療に有効活用できる可能性を既に指摘していた。しかしモルヒネ同様、大麻に対する偏見がその普及を阻むであろうと指摘し、「人間がクスリを使うのではなく、クスリに負ける人間を中心にしてモノを考えようという性悪説的発想が、麻薬をも誤解させているのである。」と述べている(『安楽死論集第9集』1985年刊,「癌に対する丸山ワクチンと大麻による安楽死」より)。

 残念ながら現在も、このような国内の状況は変わっていない。日本の医療関係者の殆どは、インターネットや海外の医療ジャーナルなどで情報を得て、医療大麻に関する欧米の状況を知っているという。しかし「日本のマリファナ治療の可能性」を尋ねると、大多数は「大麻取締法が大前提になっている日本社会では考えられない」と答えるという(『医療マリファナの奇跡』矢部武著,亜紀書房,1998年刊より)。

3.大麻取締法は、環境改善と産業の発展をも阻む

 大麻は医学界においてだけでなく、環境保護問題においても、産業界においても、まさに三拍子揃った奇跡的とさえ呼べるほどの逸材である。大麻は、布や紙から始まって、食用、化粧品、石鹸、(生分解性)プラスチック、建材、油脂、重油など様々な用途で利用されてきた。日用生活に必要なもの全てが大麻から生産できるとさえ言われる。この驚くべき植物は栽培も容易で環境に対する負荷も少なく、「地球を環境破壊から救う」と期待されている。木や石油の消費を減らすことのできる大麻製品は、セロファンからダイナマイトまで2万5千種以上ある。

 FCDA(The Family Council on Drug Awareness)が発表した報告によると、「知りうる限りの植物の中で、カナビス(大麻)からは、植物自身に備わったユニークな性質のおかげで最も経済性に富んだバイオマス燃料を作りだすことができる」。しかし、「カナビスの禁止法は、全人類が消費しているエネルギー用ウランやガソリンやプラスチックなどの石油製品など高汚染高価格の燃料に対する、現状で唯一利用可能なエコロジカルな代替品であるこの植物の利用を阻んでいる」。

 カナビスには綿と違って肥料が必要なく、干ばつにも寒さにも極めて強く、辺境の耕作に適していない土地でも繁茂する。土壌を痩せさせないばかりか、むしろ痩せた土地の改良に役立つ。カナビス・バイオマス燃料はすぐにでも世界中で生産し利用することが可能なのである。(http://www.ccguide.org.uk/cbee.phpほか)

 このような生命力の強さゆえに、今でもしばしば山中で自生しているのが発見されるという。しかしこれほどに有用な植物が、法禁物ゆえに、見つけ次第、無益にも焼却処分に処せられてしまうのである。

 自然環境保護や地球温暖化防止、環境負荷の少ない持続可能な循環型社会への取組みは、少なくとも平成12年以来、日本でも大きく扱われている筈である。既に大手自動車メーカーや電気・通信メーカーは積極的である。平成12年は「循環型社会元年」と位置づけられ、循環型社会形成推進基本法、環境物品等の調達推進法(グリーン購入法)などが公布されている。

 環境問題にも産業の発展にも、大麻取締法は大きな軛となっている。

4.大麻取締法は、国家的・経済的な損失をもたらす

 現在、国内で大麻により逮捕される者は年間2000人以上にものぼり、これが大変な税金の無駄遣いになっていることは、先に述べた米国の統計を待たずとも明らかである。更に最近、次のような記事も発表された。日本の場合にも参考になる筈である。

【カナビス禁止は金食い虫 ~経済、個人,社会への悪影響】AlterNet(2005年6月3日)

 今月の始め、500人の先端経済学者の指導的立場にある保守派の重鎮ミルトン・フリードマンが、マリファナの禁止がコストに見合うものなのかどうかについて、国家的な議論をするように呼びかけた。

 きっかけはハーバード大学の経済学者ジェフリー・ミロン博士の新しい論文で、禁止を通常の規制システムに置き換えた場合を見積もっている。それによると、現在国家が費している費用のうち年間100~150億ドルの歳費を削減できるという。「少なくともこうした議論で、現在のマリファナ禁止政策がはたして納税者や過去の税収や関連するさまざま活動のコストに十分見合ったものなのかどうか見直す契機になるはず。」 とフリードマンらは総括している。

 論文では、マリファナの禁止が多大なコストを伴うばかりではなく、国民の人生を破壊し社会に害を与えていることがよく示されているが、金銭面から見ると次のようになる。

 ミロン博士が連邦政府や州政府のさまざまな統計使用を使って見積もったところによると、禁止を規制に置き換えることで政府が年間に支出している法執行に伴う経費のうち77億ドルが節約でき、さらに規制したマリファナ販売で日常品並に課税すれば24億ドルの税収が得られる。もしアルコールやタバコ並に課税すれば税収は62億ドルになり、さらに税率を変えればもっと多くなることも考えられる(ミロン博士の場合の見積もりは控えめな方で、州刑務所の経費については、マリファナで収監されている受刑者数は、博士が仮定したよりも連邦麻薬局が最近発表したばかりの数の方が60%も多い)。

 エベレット・ダークセン元上院議員によれば、それを使って学校を修復し、社会の安全を強化し、テロからアメリカを守ることができる。

 例えば、セキュリティ専門家が懸念するように、ソビエト時代に作られ放置されている何千発の核兵器がテロリストに渡る恐れがあり、その処理には約300億ドルかかるが、この金額はマリファナの規制によって得られる節約と税収の3年分にも満たない。また、2002年の海運安全法に基づいて、沿岸警備隊が3150の港と9200隻の船舶を守るために必要とされる73億ドルが、たった1年の節約で全べてを賄うことができる。

 一方、マリファナに禁止に何百億ドルもの費用をつぎこんで何が得られたのだろうか? マリファナが街からいっこうに無くなっていないことだけは確かだ。昨年の政府の調査関係者の話では、高校生上学年の85.8%がマリファナが簡単に手に入ると答えており、この数字は実際上ここ30年間変わっていない。

 マリファナの禁止でこの市場を無くすことはできない。禁止は単に犯罪と暴力のギャングに特権を与えているに過ぎず、社会がその費用を毎日支払っていることになる。これは1920年代にアメリカが禁酒法で苛まれた時期に起こったことそのものである。/ブルース・マルケン マリファナ・ポリシー・プロジェクト広報主任(http://www.thehempire.com/pm/more/A3682_0_1_0_M/)

第6 自己所有権に基づく「自由の領域」について

 各人は自分自身の所有者である。自己の身体と精神は、誰によっても不可侵な個人の領域である。個人の自由を尊重することは、「自己所有権」のテーゼと同視されるものである。

 各人が個性ある個々別々の人格として認められるためには、身体所有権を出発点とせざるを得ない。自己所有権は、人間の身体という自然な境界に基づいて、各個人の道徳的領域の間に明確な境界を設定する。つまり「自由」は「自分の身体」に帰着する。自己の身体に権限を持つものは自身のみであり、個人の領域は誰によっても強制的な干渉を受けない。

 憲法第18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」という規定は、狭義の自己所有権テーゼの極めて控えめな表現と言える。自己所有権は、犯罪に対する刑罰を除き、人身の自由に対する自らの同意のない強制を許さないから、苦役を伴わない拘束や監禁とも対立する。有害が確定していない被告人・被疑者の逮捕・抑留・拘禁などの制約は、実際上やむを得ない場合であっても、それには「極めて強い理由」が要求される。

 本件のような「被害者なき犯罪」に、その理由があるとは到底認められない。

 そもそも何故、犯罪者に対しては拘禁や労働の強制が許されるのかといえば、単純かつ自然な答えの一つは、犯罪者は他人の権利を侵害したのだから、自分の自己所有権が制約されてもやむを得ない、というものだろう。現実問題として、国家・社会を含む被害者の存在する犯罪に対しては、他者の権利を侵害したことへの制裁としても、犯罪予防効果としても、加害者への刑罰制度は最低限必要であろうし、そのような行為には刑罰による事前の禁止も必要である。しかし、社会や他人への直接的・間接的な被害も発生せず、誰の権利も侵害せず、公共の福祉に反したわけでもない、「被害者なき犯罪」に対しては、刑罰を科す必要も理由も無い。これ等の行為が詐欺や脅迫などを伴う時は、その不法行為によってのみ処罰されるべきである。

 人身所有権は、基本的人権に含まれるさまざまの自由が決してばらばらの異質な概念の寄せ集めではなく、自分の人身への支配権という基本的な自由の具体化(派生物でもなく)だということを示している。自己所有権という基本的な権利の中には、無数の自由権が含まれていると言える。それらの自由権は、行動の性質や目的によってそれぞれの名前を与えられているが、それは例示にすぎず、この例示によって、一般的な自由の具体化のうち示されていないものが排除されるものではない。憲法13条でいう「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の中には、一般的な行動の自由を読み込むことができる。

 一般的自由は他者の自由と衝突しない。一般的な行動の自由が基本的人権に含まれている、というよりむしろ、一般的な行動の自由が基本的人権の中核的部分であるといえる。もちろん、殺人や強盗などの、他人の自由を侵害する自由はそもそも「自由」ではなく、他者に対して積極的な行為を要求する「権利」、他人の自由を制約する「権利」は、自由権の中に含まれないことは言うまでもない。

 一般的な行動の自由は、実際には「自分の身体」による行動を指すことになるから、人身所有権、自己所有権といえる。このように理解された各人の「自由の領域」は、身体と財産によって画されているから、自由権は決して衝突しない。

 価値観は国や民族によって大きく異なるし、世代や状況によっても異なり、個人によってもまさに様々である。当事者に対して他人が自分の幸福観や人生観を押し付け、彼らがそれを通じてより良い生活の機会を得ようとする自由を禁止する権利はない。他人が当事者に代って、その意思に反してまで、彼らの行動を決定することは認められるべきでない。

 その行為から生ずる様々の利害得失に関して、誰よりもよく知っているのは当事者自身である。本人の選択の利益を受け、コストを負うのも、本人自身である。他人の行為への嫌悪感は、自分がそれをしない理由になるし、それを止めさせるべく説得する理由にはなっても、強制的に禁止する理由にはならない。

 これに対し、自己所有権テーゼを共有しない人に自己所有権テーゼを突きつけることは、彼らに我々の幸福観を押し付けているのではなく、彼らが彼らの幸福観を我々に押し付けてくるのを妨いでいるに過ぎない、のである。

第7 個人の自由と尊重について

 最後に、繰り返して言っておきたい。大麻の個人使用は、個人の自由な領域の問題にすぎない。そうあるべきものと考える。喫煙や飲酒の如く、未成年者や車の運転に対してのみ規制すればよいことである。より最大多数の最大幸福は、個人の自由が尊重されてこそ実現されうる。幸福とは、「考える必要がない」便利さや「自分で自分の事を決めずにすむ」楽さ加減にあるのではなく、物質的か精神的かによらず、「自己の目的を追求することの自由」にあると考える。

 本件の控訴趣意書において引用した、英国政府による「インド大麻薬物委員会」の報告書には、委員会によってJ・S・ミルの言葉が大きく引用されていた。ミルの自由論は、日本国憲法の基本精神と同じであり、それを表しているのが憲法13条であることは言うまでもない。

 「インド大麻薬物委員会」は大麻の取締り法を「贅沢取締り法」として位置づけて考察したが、この「贅沢」こそ、即ち「幸福の追求」に他ならない。

 本件において主張したい趣旨は、ミルの代表作『自由論』において語り尽され、結論付けられていることに同じである。より具体的には、一言でいうなら、「個人は、その行為が自分自身以外の何びとの利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない。」ということに尽きる。

 ミルの『自由論』は、「本書をおいて自由を語ることはできないといわれる不朽の古典」(岩波文庫より)であるが、ミル自身がこの著作について、「別に取立てて言うほどの独創性はない。」といっている通り、その内容は一見、今日では耳慣れたものにも聞こえる。しかし、書かれて150年近く経った現在、その内容は古くならないばかりか正に普遍的であることを実感させられるのである。いつの世においても完全な理想的社会などはあり得ず、政府も万能ではあり得ない。ゆえに、ミルの言葉は現在も恐らく今後も、我々に示唆を与え続けるであろう。

 ここで述べておきたい「自由」に関する事柄は、すべてミルの言葉にあるので、その要約をもって主張に代えたい。

 (この論文の目的は)――用いられる手段が法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、あるいは世論の精神的強制であるか否かにかかわらず、およそ社会が強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとして、一つの極めて単純な原理を主張することにある。

 その原理とは、人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ干渉することが、正当な根拠をもつとされる唯一の目的は「自己防衛」である、というにある。また、文明社会のどの構成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にある、というにある。

 ある行為をなすこと、または差し控えることが、彼のためになるとか、あるいは彼を幸福にするであろうとか、あるいはまた、それが他人の目から見て賢明であり正しいことでさえもあるとかいった理由で、このような行為をしたり差し控えたりするよう強制することは、決して正当ではありえない。これらの理由は、彼に諫言し、彼を説得し、または彼に懇願することのためには充分な理由であるが、彼に強制し、また彼がそうしなかった場合に何らかの害悪をもって彼に報いるためには充分な理由とはならないのである。このような干渉を是認するためには、彼の行為が、誰か他の人に害悪をもたらすと計測されるものでなければならない。

 いかなる人の行為でも、その人が社会に対して責を負わねばならぬ唯一の部分は、「他人に関係する部分」である。単に彼自身だけに関する部分においては、彼の独立は当然絶対的である。各人は自分自身に対して、すなわち自分の肉体と精神とに対しては、その主権者なのである。自分自身の健康に対しても、肉体の健康や、精神や霊魂の健康いずれかを問わず、正当な守護者である。

 自己配慮に属する行為(その人のみに拘わる行為)に関する限り、最後の断を下すべき者は彼自身である。彼が犯すおそれのある全ての過ちよりも、他人がその人の幸福と見なすものを彼に強制することを許す実害の方が、遥かに大きいのである。

 彼がその行為によって、公衆のために彼の負担しなくてはならない何らかの明確な義務を果たしえなくなるならば、彼は、社会的な犯罪を犯すものである。しかし、何びとも、単に酩酊しているからといって、処罰されるべきではない(兵士や警官が公務中に酩酊しているならば、処罰されて然るべきである)。要するに、個人に対してか、あるいは公衆に対して、明確な損害または明確な損害の危険が存在する場合にのみ、問題は自由の領域から除かれて道徳や法律の領域に移されるのである。

 もし彼が我々を不快にするならば、我々は嫌悪の情を示してもよいし、また、自己を不快にする物から遠ざかるのと同じように、彼から遠ざかることもできる。しかし、だからといって、彼の生活をも不快にするように要請されていると思ってはならない。

 しばしば公衆は、彼らの非難するような行為を行なう人々の喜びや便宜に対して、完全な無関心をもってこれを看過し、彼ら自身の好むところだけを考慮する。世の中には、自分の嫌悪する行為を自分に対する権利の侵害であるかのように考え、また、自己の感情を傷つける暴行であるかのようにそれを憤る人が多い。

 毒薬は、罪のない目的のために求められるのみならず、有益な目的のためにも求められるものであって、一方の場合(悪い目的のための購入や使用)に制限を加えることは、他方の場合(善い目的のための購入や使用)に対して影響を及ぼさずにはいないのである。

 例えば酩酊は、普通の場合には、法律をもって干渉すべき妥当な事柄ではない。しかし、酩酊すれば興奮して他人に害を加える人においては、酩酊することは他人に対する犯罪である。

 メイン法(米国の禁酒法)や、シナに対する阿片の輸入禁止や、毒薬販売の制限や、要するに、「干渉」の目的が特定の商品の獲得を不可能または困難にする全ての場合がそれである。これらの干渉は、生産者又は販売者の自由に対する侵害としてではなく、購買者の自由に対する侵害として、反対されるべきものである。

 思想の自由とその発表の自由が絶対に必要であるのと同じ理由によって、人間は自己の意見を実行する自由をも持たねばならないのではないか。但し、自分自身の責任と危険とにおいてなされる限り、自己の意見を自己の生活に実現してゆくことの自由、という意味である。

 正当の理由なしに他人に害を与える行為は制圧されねばならないが、他人に干渉することを慎み、単に自分自身に関する事柄について自分の性向と判断とに従って行為するに止まっているならば、彼が彼自身の責任においてその意見を何の干渉も受けずに実行に移すこともまた許されねばならない、ということは、意見が自由でなければならぬという、正にそれと同じ理由によって証明されるのである。

 個人の独立に対する集団的な合法的干渉には、一つの限界がある。この限界を発見し、その侵犯に対して防禦することが、人間の状態がよい条件の下にあることにとって不可欠のものである。しかし、その限界をどこに置くべきであるかという実際問題は、ほとんど未解決のままである。

 第一には法律によって、また法律の施行に適しない多数の問題については世論によって、若干の行為の規則が課せられなくてはならない。これらの規則がいかなるものであるべきかということは、人間生活における主要な問題である。

 しかし、いかなる時代いかなる国の人民も、この問題の難問であることに疑問を持たず、あたかも人類の意見の常に一致してきた問題であるかのように考えている。彼ら自身の間に行なわれている規則は、彼らにとっては自明であるように見え、また自分自身を容認できるもののように見える。

 このようなほとんど普遍的な錯覚は、習慣の魔術的勢力の一つの実例であって、蓋し習慣は、人類が互いに課している行為の規則について、いかなる疑念をも抱かせないようにする効力のあるものである。そもそも強制せらるべき行為の規則はいかなるものであるべきかという問題については、他の人々へも己れ自身へも、何らその理由を説明する必要のないものと一般に考えられているために、習慣の効力はいよいよ完全なものとなる。

 そして、いかなる人も、自己の判断の標準は自己自身の好みであるということを自認しようとはしない。しかしながら、行為の問題に関するある意見が、確固たる理由の上に立っていない場合には、それは「一個人の好み」としての重要性しかないのである。また、理由が与えられている場合にも、もしもその理由が、単に他の人々の自己と同様の好みへの訴えであるに過ぎないならば、それは依然として、「多数人の好み」であるに過ぎない。

 法または世論によって強制されてきた行動および忍耐の行為の規則を決定する今一つの大原理は、俗世界の君主たちや彼らの神々の好むところ、または厭うところと想像されるものに迎合しようとする、人類の奴隷根性であった。この奴隷根性は、本質的には利己的なものではあるが、偽善ではなくて、完全にまことの嫌悪の感情を発生させ、人々を駆って魔術者と異端者とを焚殺させた。

 こうした数々の劣等な影響力の間で、社会全体の明白な利益ということもまたもちろん、道徳的情操を指導する上に或る役割を果たした。このようにして、社会またはその有力な一部分の嗜好と嫌悪とは、法律または世論による刑罰をもって一般人の遵守すべきものとして定められた、諸々の規則を事実上決定してきた主要なことなのである。

 個人とは区別されたものとしての社会が、たとえ何らかの利害関係は持つとしても、単に間接的な利害関係しか持たない活動の領域が存在する。その中には、個人自身の身に影響を及ぼす個人生活と行動、或いは、たとえそれが他人に影響するとしても、その人々が欺かれることなく自由に、それに同意し参加しているような、個人の生活や行動の全部が含まれている。この「個人自身にのみ拘わりをもつ行動の領域」こそ、まさに人間の自由の固有の領域である。

 第一に、それは「意識」という内面的領域を包含している。最も包括的な意味における「良心の自由」と「思想および感情の自由」を包括し、また、実際的あるいは思弁的な問題、科学的、道徳的、もしくは神学的な問題のすべてに関する、意見と感想との「絶対的な自由」を包括する。

 そして、この原理は「思考および目的追求の自由」を必要とする。すなわち、我々自身の性格に適合するような生活の計画を打ち立てることの自由、また、その行為によってもたらされる結果を感受する限りは、我々の好むとおりに行為することの自由を必要とする。それは、我々のなすことが、我々の同胞たちを害しない限り、たとえ彼らが我々の行為を愚かであるとか、つむじ曲りであるとか、誤っていると考えようとも、彼らから邪魔されることのない自由である。

 これらの諸自由が大体において尊重されている社会でない限りは、その政体が何であろうとも、自由な社会ではない。自由の名に値する唯一の自由は、我々が他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を阻害しようとしない限り、我々が「自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由」である。

 人類は、自分にとって幸福だと思われるような生活を互いに許す方が、他の人々が幸福と感ずるような生活を各人に強いるよりも、得るところが一層多いのである。

 この理論は決して新奇なものではなく、また、ある人にとっては自明の理の感があるかもしれないが、現存の世論と実践の一般的傾向にこれ以上に背馳する理論はないのである。

 歴史は迫害によって沈黙させられた真理の実例に充ちている。ソクラテスは「不敬」と「不道徳」とのゆえをもって有罪判決を受けた後、同国人によって死刑に処せられた。その学説は「青年を腐敗させる者」であるから不道徳とされた。後にはイエス・キリストも、とく神者・最大の不敬漢として死を与えられた。知性と正義においても時代の叡智と呼べるほど




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