オランダで最初の国内の麻薬規制に関する法律は、1919年に制定されたアヘン法から始まるが、この法律はもともと国内で何らかの麻薬問題が生じたために制定された法律ではない。
この法律は、アメリカ主導によって開催された1909年の上海会議、1911年のハーグ会議に、オランダがアヘンとコカインの生産国として参加した結果、アメリカからの圧力と国際協調の目的で制定されたものである。
そのため当時、実際にこの法律が適用された逮捕や起訴が行われることはほとんどなく、医薬品の規制法程度の意味しか持つことはなかった 。[2]
オランダがアヘン法の実際的な適用を開始するのは第二次世界大戦後からである。
戦後1950年代のオランダでは、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンピーク)から麻製品の生産を名目にカナビスが輸入され、そのほとんどが黒人によって消費されていた。
しかしアヘン法ではカナビスは規制の対象になっていなかったため、当時黒人を中心としたカナビスの使用者が実際に取締りや起訴されることはほとんどなかった 。[3]
しかし戦後ドイツに駐屯していたアメリカの黒人兵がアムステルダムまでカナビスを買いに来ていたことがアメリカによって問題化されると、オランダは1953年にアヘン法を改定し、カナビスの所持と販売にも罰則規定を設け、アムステルダムに麻薬の取締りに特化した警察ユニットを配備した 。[4]
その結果1955年には、アメリカ軍との共同作戦による3人のアメリカ兵の逮捕を含む国内最初のカナビスの逮捕者を出すことになる。
しかしその後60年代中頃まではカナビスに関する違反者が逮捕、起訴されることは稀で、仮にアヘン法によって逮捕されても数週間か数ヶ月で釈放されるのが普通で、また逮捕者の多くはアヘン喫煙を行っていた中国人移民達であった 。[5]
状況が変化したのは1960年代後半からである。1965年にアヘン法で逮捕された人数はわずか30人程であったが、1970年には1,000人まで増え、その大半がカナビスを使用する白人の若者達によって占められていた 。[6]
この背景には60年代のオランダでも、アメリカ同様、若者の体制批判やサブカルチャーへの傾倒が進み、マリファナやLSDの使用は新しい若者文化のシンボリックな存在となっていたことがあげられる。
また時を同じくして、ゴールデントライアングル産のヘロインがヨーロッパに流入するようになると、オランダでも70年代初頭からヘロイン中毒者が増加した。オランダ人の麻薬問題の専門家であるグルントによれば、
国家及び地方の当局の当初の反応は、今日我々が多くの他の国々でみている反応とさほど異なることはなかった。すなわち以下のようなシンプルな言説、これは望まれていない現象であり、われわれはあらゆる手段でもってこれを取り除かねばならない。あらゆる手段とは抑圧的な法的取締り政策であり迅速な麻薬禁止の運動である 。
しかしその後オランダの麻薬政策は、このようなゼロ・トレランスポリシーを基本とするアメリカ型の禁止政策とは異なる道を歩むことになる。[7]
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[2] Korf, Dirk J. (1995) Dutch Treat: Formal Control and Illicit Drug Use in the Netherlands, Amsterdam; Thesis Publishers, p.2.
[3] Ibid., p.53.
[4] Ibid., p.4.
[5] Ibid., p.53.
[6] Ibid., pp.53-54.
[7] Grund, J.P.C. (1989) “Where Do We Go from Here? The Future of Dutch Drug Policy”, British Journal of Addiction, 84, p.993.
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