大麻活動家列伝 ~ リネット・ショー
投稿日時 2012-04-02 | カテゴリ: 海外情報
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1990年 1月、彼女は、麻薬ディーラーの警察への密告による非情な手入れと逮捕・収監をきっかけに、医療大麻合法化活動家としての人生を歩み始める。また、彼女自身も、医療大麻を必要とするPTSD及びうつ病患者の一人でもある。
警察の多量の麻薬所持の疑いでの捜査の手入れは本当に非情なもので、彼女の家の全てが破壊され、彼女自身も酷い仕打ちを受けた。警察が見つけた物は、多少の売買用の5パウンドの大麻だけであり、それを12パウンドと誇張したうえでの逮捕だった。17歳からほとんど連絡を取っていない父親に引き取られた後の7か月後、彼女は80日間収監された。1989年の政府の麻薬戦争宣言がこの事件の直前だったこともあり、現在と比べれば、大麻5パウンドで80日間収監は、軽い刑である(因みに現在は5パウンド密売目的所持で2年ほどの刑)。 しかしこの酷い仕打ちにより彼女は大麻合法化活動の口火を切ることとなる。彼女は釈放後すぐさま大麻合法化活動で自分に何ができるのかを考えたくさんの人物と接触をとった。その中の一人が後に出てくるジャック ヘラーである。 1989年9月某日、政府の麻薬宣言が公表された。そして、同年、9月10日、母親が亡くなり、1990年1月20には逮捕、同年4月にはジャックと出会っている。この一連の出来事が彼女を本当の大麻合法化活動家へと目覚めさせる、
彼女が大麻を使い始めたのは、1969年の16歳の時で、父親の虐待により、家に帰るのを泣きながら渋っていた時に、ヒッピーのマシューにより大麻をもらったのがきっかけである。小さい頃からの父親の厳しい躾に、かなり落ち込んでいた彼女は大麻により精神的に助けられた。16歳の時から定期的に大麻を使用し、17歳の時に大麻を使用している事に激怒した父親は、彼女を追い出し、彼女も家に帰ることはなかった。追い出されたのちは、大麻を売ることで生計を立て、当時より大麻は、鬱病などの症状発症時に使用していた。彼女は大麻を求めてヒッピータウンやハワイのマウイ島に行った。ハワイには見たこともないような大きな大麻があり、莫大なその量に驚いた。ハワイからニュージャージーに戻り、1976年に親友と音楽家としてバンドを組み、歌をうたった。
音楽家として過ごした日々はかなり忙しく大麻を吸わずに過ごさなければならず、バンドの中にできた彼氏も重荷になったり、お金のために仕事をすることに嫌気が指したりと、いよいよ彼女はうつ病が発症した。その後、そのバンドを離れ、シアトルへ移った。有名な音楽家のダック レイボンに出会い、また音楽に目覚めた。そのスタジオで再び歌を歌い始め、大麻は多少持っていたのだが、またもや金の為の仕事に嫌気が指し次は78年にハリウッドに向かった。あるイベントで歌ったことがきっかけで、才能を見いだされ、ジョン ベルーシの紹介を受け、彼に雇われ、良い時間を過ごした。しかし、1982年、彼は麻薬の過剰摂取で死んでしまう。その事件の犯人として彼女は咎められ逃亡生活が始まることになる一方、ジョン ベルーシの事件を受けて麻薬戦争は加速していく。
彼の死後、ショックすぎるあまり,二回の自殺未遂を繰り返しその2回目の時に14歳以降の記憶を無くしてしまい、何もできなくなるほど落ち込んでしまう。一年ほどベッドの上で、大麻も見ることもなく錠剤薬で過ごし、安全な場所を求め、友達の家を転々とした。幸いなことに、ピアノの技術は覚えていたため、療養も兼ねて、地方の大学でクラシックオーケストラクラスに参加したのだった。
彼女は次のように主張している。医療大麻があれば、ジョンのようなハードドラッグをする人々を救うことができるのだ。
逮捕の後、1992年、サンフランシスコで最初の医療大麻センターの摂取量カウンセラとして、デニスペロンに雇われた。1994年、彼女はデニスからの出向でジャック・ヘラーの事務所に駆け寄り、バンナイズ(LAの近郊)で大麻請願者を養成、またLAの月例大麻集会で勇ましいスピーチをしながら、デニスとジャックは彼女を麻と医療大麻の活動の為の、‘真直ぐで真っ白なサウンドバイト’な女性活動家に育て上げた。
1994年大麻活動家のゴッドファザーとして知られているジャック・ヘラーに出会った当時、彼女は、彼から渡された大麻に関する本により更に理解を深めた。そして、デニスとジャックに大麻について叩き込まれ、大麻講師になり、ジャックの本の情報を基本とし、彼女自身の生涯のバイブルも培われる。 彼女がデニスとジャックの下、大麻合法化活動に精を入れ始めた時、医療大麻に関わる様々な人々と出会う。エイズ危機の時期に、エイズで苦しむ末期患者が医療大麻を使用するコミュニティを訪れ、彼らの為に、ジョイントを巻き上げ一緒に吸った。彼女もマリファナブラウニを一日に3回食べることで精神的に安定しており、更にそのコミュニティの為に頑張った。
多数の大麻反対が敵対する中、彼女と他の活動家は、医療大麻の為に戦った。なんと、当時の警察はエイズ患者に乱暴し、刑務所に送っていたのだ。 彼らは、エイズ患者の為に更に活動を広げようと決意した。1994年4月15日、彼らは当局から、来局を要請する旨の電話を受けた。再び逮捕されるという思いが過ったが、とにかくそこへ向かった。そこには、彼女が知る、大麻を使用する患者が腕を組みビルを囲んでいた。その光景にとても感動し、ショックを受けた。警察車両が制止され、患者たちが警察にブーイングの嵐を浴びせており、メディアも駆けつけていた。この辱めとメディアの存在により、警察車両は引き下がったのだ。全員が喜び、局員達も、姿を見せることもなく、患者たちは大麻を使用できるようになった。本当に大きな進歩であった。
彼女はLAに行った際、マリファナブラウニの作り方を訓えるよう任じられ、そのレシピは国際的に公表されている。 そして、彼女らは活動を先導し、医療大麻の為の請願を得る為、たくさんの政治家や、セレブと連絡を取り、多数の請願者に大麻には正しいことを教えた。
リネット達は、Marin Allianceという医療大麻活動団体を作り、国の様々な所で請願者を増やし、大麻合法化活動を更に拡大していく。彼女は、活動を代表してメディアに現れるようになった。そして、医療目的の大麻使用により患者が逮捕されるのを恐れ、医療目的の大麻使用による犯罪者に手を施す法律の可決まで成功した。
ちなみに、現在も彼女はMarin Alliance(http://cbcmarin.com/index.php)のオーナーであり、ディレクターである。大きな達成の後、彼女はカリフォルニアで、非合法的な売買、犯罪に関わることなく、警察の管理の下、大麻を扱う使用許可を手にした。
すべてはクリントンが、6つのカリフォルニアの大麻クラブを告訴するまでは順調だった。クリントンは、医療大麻は不正行為だと申し立てた。リネットは12年間で何回も裁判所に引っ張り出された。これは、彼女を引っ張り出すことで、活動に参加させないという意図的な行為であった。
彼女は12年間の政府の人間により監視され、そのため、外出もせずに、人には家まで来てもらっていたので、体重が増えてしまった。しかし、彼女は活動を積極的に見せる為、容姿をきれいにすることに気づき、健康的になる努力をした。
ブッシュ政府管理下の際は、合法化活動はとても困難だったが、ブッシュ政権が終わるまで大麻クラブを守り続けた。彼女の大麻許可証は、大麻は医療目的の為に合法するべきものの証明であり、マリファナ・ピース(大麻の平和)の未来を象徴するものである。
彼女は、リバタリアン党員として副知事に立候補し、2006年、リベタリアン党員の前でスピーチを繰り返した。主な話の内容は、不法移民問題と医療大麻に関するもので、次のように主張している。もし麻がメキシコより簡易的に届けられれば、それをカリフォルニアで加工できるため、より世の中の情勢が良くなる。
彼女、そしてこの大麻問題を巡り、他の党の間でも様々な議論があった。彼女は南カリフォルニア地方のたくさんの地を訪問し、15,000ドル集めたが、選挙運動をするには遠く及ばない額だった。彼女が夕焼けの光を浴びている時、色々なことを思い出し始め、近所の住人は昔から知り合いだということふとに気付いた。突然、何かの拍子に忘れていた全てを思い出した。彼女は音楽の才や技能に目覚め、多大な量の記憶を取り戻した。作詩を再び始めてまもなく、なぜ大麻合法化活動を始めたのか正確に思い出した。それは、ジョン・ベルーシの死であり、もし、大麻使用が認められていれば、ジョンの麻薬過剰摂取を防げたに違いない切実に思い返した。
彼女は、大麻取締法によって酷い目にあった人々の為に戦う熱狂的な活動家になっていった。再度、政界に挑戦し、他の活動も始動させた。様々な考えが浮かび、それらを為すことを待ちきれなかった。そして、彼女はそれを実行、全て勝利し、大きな成功を収めた。
彼女は、全ての活動がいつか実を結び、無罪の収監者が最終的に解放され、必要な薬としての大麻を使用できると信じている。勿論、大麻の価格は下がり、更に供給が円滑になっていくが、それが、良いこととも悪いこととも考えられるという。
マリファナ・ピースは勝利を飾り、より良き未来のため、アメリカ合衆国を変革していくのである。
翻訳byみつ
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