編集部注:この原稿は、インドネシア・バリ島の刑務所に収監されている日本人、マナリ亭 茶楽助(まなりてい ちゃらすけ・仮名)さんの寄稿です。同氏が収監されているクロボカン刑務所から写真添付で送信されたものです。どうもこの刑務所は日本社会より「自由」です。あたしゃ住みたくないけど。
第3回 クロボカンジェイル暴動見聞録
25日
夜間、雨は降らないでくれた。そういえば普段は一日に四度(7時、13時、17時半、20時半)ある点呼(ここではアペルと呼ばれている)は暴動の翌日から昨日までの3日間無かったのだが昨日の夕方18時に一度だけあった。
暴動後の刑務所内風景
今朝はアペルは、あったのかどうかは知らない。俺は隣のブロックAの庭で寝ていたのだ。普段ならアペルはとても重要で人数が確実に確認できるまで続くのだが今は囚人もプリズンガードもかなりアバウトになっている。
ブロックBの庭。暑いので外で寝る人達。
食糧も水もまだ売っていない。しかし外からの差し入れは受け取れるようになった。外に家族や知人がいる者は食糧、水を受け取る事ができるが俺の様に家族も知人もいない者は何も無い。
普段なら金で買うのだが今は何も買えない。所内にいくつかあるキャンティーンもストックは底をついたようだ。煙草も売ってない。
しかし俺はマダ良い方。領事館から水と非常食をいただいている。
何も入手できない者たちはどうするか?(1)誰かに分けて貰う (2)盗む (3)我慢する、の選択肢しかない。
俺がビニール袋を持ち歩いていると知人や知人未満の亡者達が「袋の中身は何だ?水か?食糧か?分けてくれ!・・・ダメ?このケチ!!」と理不尽な云われようだ。しかしそこそこ仲の良い知人に水を分けてくれと言われて無下に断る事もできない。逆の立場である事だってあり得るのだ。
まるでどこかの公園のような刑務所内の庭
ここでの事はたった数日で済んだが、もしこの状態が何週間、何ヶ月と続くとしたら…人は暴徒になり得るだろう。戦中戦後はこんな状態だったに違いない。南京大虐殺は、最初、日本軍は中国人に食糧を分けていたが、どんどん減っていき自分達の分にも足りなくなるので配給を止めた。すると中国人は賊、暴徒と化しそれを迎え撃った事件であった、と、ある資料で読んだ事があるが今はその時の日本軍の気持ちも理解するのに難しくない。
夜はまた気の合った者達と水を分け合いギターを弾いてジャンベを叩きヘタウマコーラスで空きっ腹の事をなんとか忘れて眠くなるまで過ごす。
今日も外で寝るとしよう。
コレもブロックBの庭。暴動の翌朝、やはり暑いので外で寝るイラン人。
もう1回つづく
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