被告人本人による上告趣意書(9) 大麻取締法による人権侵害

投稿日時 2004-06-29 | カテゴリ: 白坂裁判

■ tatharaのケース/20代/女/ 凍りついた法律による別世界の存在

 ある年の秋の始め 朝6時に玄関のブザーが鳴り、「下の階の者ですが」と若い女性の声で起された。
うちの集合住宅は皆顔見知りで、下の人の声ではないので、娘さんが来てるのかな?こんな早朝に何ごとかと思い、「どうしたのですか」となんの警戒もなしにドアを開けてしまった。すると外には7~8人の見た事もない男性が立っていた。先頭の人が、私が閉めないようにドアを手で押さえたのを見て、ようやく尋常ではない事態であることを察知した。

「××××さん(私の名前)だね?」
「そうですが、何か」
「◯◯警察だが、あんたに大麻取締法違反の容疑がでてるから、部屋の中を調べさせてくれるか?」
と捜査令状を見せられた。起き抜けだったこともあり、頭が大混乱して
「ちょっと着替えさせて下さい」
と部屋に入ろうとしたら
「そのままでいいから動かないで」
と玄関に立たされたまま全員が入ってきた。さっきの声の主である若い女性捜査官に衣服検査をされ、そのあと検査用に尿も採取された。その間に他の捜査官達は部屋中を探し始め、あえなく一人の捜査官が「ありました」とベランダで栽培中の大麻を発見した。
「なんで捜査に来たと思う?」
と聞かれ、全く解らず黙っていたら、
「誰かに譲っただろ?」
といわれ、
「マズイ・・これは誘導尋問に違いない」
と感じ、まだトボけていたら
「△△知ってるだろ?こいつに譲ったろ?」
と捜査官のほうから切り出したので
「はい・・」
と正直に答えた。
「終わった・・」
と心底絶望し、喉がカラカラになった。

「何時何分、大麻草発見」
と復唱したり、私に大麻を指差すポーズをさせた写真を撮ったりして、
「この他にはもうないのか」
と聞かれたので
「あります」
と収穫していた分を出すとまた同じくその場で指差し写真、証拠品(栽培に使用した肥料、園芸用具などと、吸煙に使用したパイプ、ネット、ライターなど)もすべて指差し写真を撮り、押収品目録にサインし
「多分長くなるから、冬服を持って行ったほうがいいよ」
とアドバイスなどを受けた。
「電話を2件、友人と会社に掛けさせて下さい」
と捜査員に頼むと
「逮捕の様子などは話すな」
と事前に注意されたので、友人には
「大麻で逮捕されてしまった。捜査員がたくさん来ている。今から◯◯警察に連行されます」
としか伝えられず、詳しいことは何も話すことができなかった。
友人は非常に驚き動揺していたが、それを押さえて緊張しているのが伝わってきた。制限された私の数少ない言葉から、捜査の状況や私の心の中を、一生懸命読み取ろうとしていたのだと思う。署に連行されるにあたって衣類や洗面具諸々を準備させられた。捜査の間中、一人の年輩の捜査員が
「いい歳して結婚もせずにこんなことして・・嘆かわしい・・」
としきりにため息をつきながら何度も呟いていた。
「じゃあ、◯時◯分、××××、大麻取締法違反の罪で、逮捕するからな」
と逮捕状を出され、玄関を出る時に手錠と腰縄を掛けられた。建物を出る時、何人かの通行人が見ていた。こうして私は逮捕され、その先2ヶ月半の勾留生活が始まったのだった。
1box車に乗せられ管轄の警察まで向かう途中、空が恐ろしいくらい青かった事をよく覚えている。本来ならちょうどその日から、引き抜きされたクライアント会社で働く筈であった。ますます絶望的になってしまった。
私が逮捕された前日のお昼頃、知人の△△さんが逮捕されており、その後取り調べでわかったのだが、△△さんには以前から警察の内偵調査が入っていて、何日も前から張っていたということだった。
もちろんそんなことは知る由もなく、私は軽い気持ちで自家製大麻を彼に譲渡してしまった。調べで△△さんはずっと「そこらで売人から買った」と言い張っていたそうだが
「お前、これは見るからに自家栽培じゃないか。これの指紋とったらすぐわかるんだぞ」
という言葉に
「もうこれ以上隠しようがない」
と判断して、正直に私の名前を吐いたということである。
話しによると、通常ならば家宅捜査令状(裁判所の許可)は警察が申請してから48時間かかるらしいが、事件によっては最短で8時間というのがあり、私の場合それが採用されたもよう。
営利目的で栽培している組織の恐れがあると判断されたのではないかと思う。だから大勢で来てみてさぞガッカリしたことだろう。プランターに数本だったので。
警察署に到着し、指紋掌紋と写真を撮られ、最初の取り調べ。出身地や履歴、家族構成などが主で、私は緊張によりその間3回ほどトイレに立った。もちろん婦警さんが腰縄をもってドアの外に立っている状態での用足し。
留置場では、まず更衣室のような場所で入院患者のような服に着替えさせられ、身体の特徴(入墨や手術痕など)を調べる。「担当さん」という総称で呼ばれる留置係の婦警さんが、持ってきた衣類などをこと細かくチェックし、ひとつひとつリストにしていく。[長袖丸首Tシャツ、緑色、おもてに黒で『HAPPY』とプリント、タグに『UNIQLO』と記載]といった具合。それを見ていて、あぁ、お役所なんだなと感じた。
夕方それらが終わり、いよいよ留置房に入れられる。担当さんから
「これから、××××は◯◯番と数字で呼ぶからな。同室の人のことも番号で呼ぶように。」
と告げられ、ここでは名前もないのだと思うと悲しくてならなかった。初めて入った留置房は、ビックリするくらい壁が白くて、蛍光灯がさんさんと眩しく、6帖の畳敷き(ビニール製)に頑丈な格子戸だった。中にある和式トイレはドアと壁で仕切られてはいるものの、ガラス窓があり担当さんから上半身は見える仕組みになっていた。
何をしていいのかわからず、支給されたアクリル毛布にくるまって横になった。夜中も監視のため蛍光灯は1本だけ点灯したままで、私は普段電気を全て消し真っ暗にして眠るので異常に眩しく感じた。
次の日、初めて裁判所と検察庁に行く事になり、なぜ裁判所に行くんだろう、もう裁かれるのだろうかと不安になっていた。私は逮捕自体が初めてのことで、流れが全く把握できなかった。
「弁護士は国選にするか私選にするか」
「何のことか解らないのですが」
「裁判は弁護士をたてないとできません」
「わからないので後日答えます」
「あなたが逮捕され現在◯◯警察に身柄を拘束されていることを誰かに知らせますか」
「誰にも知らせないで下さい」
「・・・普通は親族に通知するのですが」
「知られたくありません」
私は長くても2~3週間で釈放されると思い込んでいた。まだ、まさか自分がこの先長期勾留されるとは信じられなかったのだ。だからその間、家族には内緒にしておこうと思ったのである。しかし押し問答の末、裁判所側の説得により母に知らせる事になった。私は家族だけは悲しませたくなかったが、そういうわけにはいかなかった。この決断をした時が、逮捕された瞬間より百倍つらかった。留置所に戻って、逮捕されて初めて泣いた。そして母に手紙を書いた。

 親子の縁を切られても仕方のない事をしてしまいました。
ただ、人様の者を盗んだり、人を傷つけたりということはしていないので安心して下さい。お体に気を 付けて、さようなら、お元気で。

 と、まるで遺書めいた手紙を出した。
事件の詳しい事は家族でも話してはいけない決まりになっているので、何で、どういういきさつで逮捕されたのかがわからず、その間家族や友人たちは大変心配していた。
留置生活は、全てが時間割通りである。7時起床、布団の片付け、洗面、歯磨き、部屋の掃除、8時朝食、〈この間に『運動』という名の喫煙タイムがある。収容部屋からコンクリート囲いの裏庭に出て一度に2本立て続けに吸って終わりだが、一日のうちこの時間だけ外気に触れられ、金網越しの空を仰げるので、喫煙者でなくてもみんなで出て、ボーッとしていた〉
12時昼食、6時夕食、8時半頃布団敷き、歯磨き、なぜかお茶、そして9時消灯、就寝。でも時計はないので前述のスケジュール以外の時間帯は「今だいたい10時半くらいかな」などと予測するだけ。この留置場の食事は、3食とも異常に白飯の量が多く、おかずも油ものばかりでいつも残していた。気分的にも食べたくなかった。
風呂は週2回で、うち1回はシャワーのみ。時間も決められていて約15分間。とにかく頭がカユくて、いつも掻きむしっていた。
留置での初めての取り調べに現れたのは私の事件の担当刑事だというA刑事と、見習いの警察学校生のB君だった。
最初に、いきなり世間話や趣味の話をしたりするので驚いていた。和やかムードでかなり打ち解けてきた頃、実にフレンドリーに
「大麻ってのは、吸ったらどうなるんだい?」
と聞いてきたので
「ゆったり楽しい気分になり、ちょっとしたことが可笑しかったり、音楽が良く聞こえたり、食べ物が美味しく感じたり、色彩が鮮やかに見えたりします。最後は眠くなります」
と細かく表現してしまった。すると早速
「しょっちゅう仲間とやってるんだろ。そうじゃなかったらそんな具体的な表現はできないはずだ」
と指摘され、青ざめた。グルグルと目眩がしてきて、
「いいえ、一人でやってそう感じました」
と苦しみつつ答えると、
「みんなそう言うんだよ。いいか、俺の取り調べで今後、嘘の証言したら承知せんぞ」
と冷たく脅され、頭ががんがんしていた。こんな取り調べがこの先続くのかと思うと、これからは気を引き締めて取り調べに臨もうと決意した。その日の午後、電話をした友人が初めて接見に来てくれた。
普通、大麻で逮捕されると接見禁止が付くのだが、私は何故か逮捕から3日目にはこうして接見が認められた。
憶測だが、共犯者が既に逮捕されていて、その他に繋がる者が特に該当しなかったからかなと思った。友人は伝達事項や必要な物等をメモして帰って行った。メモを持つ手が大きく震えていた。その時の友人の心境を思うと本当に申し訳なかったという思いでいっぱいである。友人には今も心から感謝している。
「捜査の際おまえんちの本棚を調べたが『マリファナ・ハイ』などの大麻関連の書籍などが1冊もなかったが、大麻栽培の知識は誰から教わったのか」
との質問もあった。幸い、私は暗室も、照明も、ヒーターも何も使わず、成長を横へ広げることもせず、ただ窓からの日光でまっすぐ伸ばしていっていたので、
「ハーブを育てるのとおなじ要領で発芽させ、栽培した。まったくの自己流であり、大麻栽培の専門的な知識はない。栽培中も秘密にしていて誰一人知らなかった」
と主張した。その後日の調べで、共犯者と私とを繋ぐ友人の名前が上がって
「こいつもやってるんだろ」
と言われ、心臓が止まりそうになり
「この人はまったく関係ないです。やってるわけがない、第一私の逮捕を心底驚いていたし」
と声を荒げて主張した。私は自分の顔が真っ赤になるのを感じ、心臓が激しく脈打つのを生まれて初めて自覚し、恐くて手が震えた。刑事に悟られないよう膝の上で握り締めていた。刑事は、
「大麻をすると、さらに大きな快楽を求めてそのうち覚醒剤に手を出す奴がいるんだ。一発打ったら廃人だよ。覚醒剤は金がかかる。クスリ欲しさに傷害事件を起したり大きな事件につながるんだ」
「留置はつらいだろ?そんな辛い思いをお前の友達にさせたくないから名前をいわないのはわかってる。でもな、そうさせたくないのだったら今の時点でその友達に目を覚まさせ、反省させるのがいちばんいい方法だと思わんか?友達が覚醒剤に手を出したらいやだろ?まだ今なら救えるんだ、友達。」
と、とにかく大麻と覚醒剤を直結させたり、交友関係を調べられる際に仕方なく友人の名を出すと、全員疑惑の対象に挙がり、心情に訴えかけては繋がりのある人間を芋づるに挙げようとしているのが感じられた。そのうち
「誰でも良いからお前が知っている限りの大麻関連者の名前を置いて行ってくれよ、そしたらお前も楽になるしそいつも救えるから」
という流れに移り、私の事件なのに誰かを謳えというのはおかしいと感じ、納得できない私は結局最後まで誰ひとりチクらなかった。このような調べが、逮捕から連日のように行われた。刑事は調べの度にパソコンで調書を作成し、その場で読み上げて私に聞かせ、異存がなければサインと指紋を捺印した。
調書は、私が言ってもいない台詞や心境の脚色がしてあり、どこまで「それは違う」と言っていいのかわからず、「だいたい合っているな」と思ったら承認捺印していた。常に調べでは気を張り詰めていて、終わって女子房に戻った時には毎回グッタリしていた。
実際、調べ中に誰かを警察にチクると刑が軽くなるのは本当のようだ。
ある時の検事調べで順番を待つあいだ同室になった、他の管轄からつれてこられた、暴走・傷害・公務執行妨害・覚醒剤反応の出た勾留20日目の20歳の子がいた。他の暴走グループの子の名前を数人出したところ、なんとその場で不起訴・釈放になったのである。そんなことがまかり通るのかと心底驚き、しばらく怒りが治まらなかった。彼女は
「あんたもウタッたら(チクッたら)いいんだよ」
と勧めてきて、複雑な思いであった。
検事調べとは、ある程度の刑事調べが終わると行われるもので、刑事調べと同じ内容を検察庁が行う。供述に間違いがないかを確認しているのだった。検察官は鉄仮面のような無表情な人で、この人は普段もこんなに冷たい表情なのだろうかとぼんやり思いながらも毎回緊張していた。
そんな中、9日目に突然釈放された。わけが解らず出ると担当刑事が立っていて、特に説明もなく、服を着替え、荷物を全て持って刑事に連れられ、手錠腰縄なしで外に出た。
歩道に出たところで「大麻草栽培・所持容疑」で再逮捕された。しかも通行人の非常に多い場所で。
写真を撮られ、一人の刑事はその場で手錠を取り出し私の手に掛けようとしたが、さすがにもう一人の刑事が「車の中でしろ」と指示を出した。
たぶんそうだろうとは思っていたけれど、まさかこんな公衆の面前で・・・と大ショックだった。後でその写真を調書の中で見たが、たとえようのない悲しい顔をした私が写っていた。
その後別の管轄の留置所に移され、前の所とのギャップに驚いた。担当さんは全員男性で、部屋はとにかく薄汚なくて臭くて狭く、電気も薄暗く、壁には手でインク汚れが擦り付けてあり、支給されたボロボロのアクリル毛布には髪の毛が大量にこびり着いており、男の収容者の大声がひっきりなしに轟き、しばらく声を殺して大泣きした。本当に惨めだと感じた。
しばらくして調べに出ていたらしい同室の女性が戻ってきたようで自己紹介などをした。こちらでは番号で呼ぶことはせず普通に名前で呼んでもいいようで、管轄によって色々違いがある事を知った。まずこちらはビックリするくらい食事が貧相であった。ごく少量の黄色い御飯(玄米などではなく、単純に黄ばんでいて、しかもクサイ!)と、居酒屋の突出しのようなおかず1・2品とか、酢飯のみ・おかずナシとか、悲惨だった。
汁ものもなく常に飢餓状態で、情けない事に私はいつも食べ物のことばかり考えていた。飢餓状態というのは本当に辛いもので、時間の流れが非常に遅く感じられる。こんな食事なのに、だいたいその時間になると「まだかな」と思ってしまう自分がほんとうにイヤでたまらなかった。
前の留置ではベビーローションやリップクリームは購入できたが、こちらではそういったものは、化粧品に当たるものとみなされ使用は認められず、私は乾燥肌なので非常に辛かった。唇が割れて血が出たら、ようやくオロナインを塗ることのみが許される。朝食に出る給食用マーガリンをこっそりトイレに隠して、それを唇に塗ってしのいでいた。「前の留置所に戻りたい」と毎日思っていた。
この留置所は女子房は一室のみで、仕切り板で見えない配慮はしているものの、実は形だけで、取り調べや運動の時間に姿を見られていて、彼等に「××チャンかわいいね、顔見たよ」と壁越しに言われたり、同じ留置所内や他の留置所の男子から「文通しませんか」という手紙が次々届き恐ろしくなった。
フルネームも、罪名もバレていた。中でも他の留置所から「新聞で君の事件を読みました」という手紙が届いた時は絶句した(房内で新聞は読めるのだが、当留置所に収容されている者の事件の報道記事部分は切り取られて読むことが許されない)。
新聞報道があったのをこんな形で知ったが、中には適当なことを書いて、返事が来る確立を高くする者もいるらしいので、本当に報道されたは定かではない。
仕切り板のあいだから、角度によってはある男子房からなんと女子房内はおろか、トイレが見えるので、その男子房内からこっちをモロに見ている男の姿に常にビクビクして過ごさなければならず、私はいつも男子から見えないであろう位置の壁にへばりついて耳を塞いでいた。
男子は留置所内で毎日大声で他の房の人に話し掛けていた。
低俗な話、所属する組関係の話、覚醒剤の話、自分の事件の判決の予想話、飯が最悪だという怒り、喧嘩も絶えず勃発し、騒がしい事このうえなかった。
留置所内での会話は証拠にならないので、みんなビックリするような事実を普通に話していた。覚醒剤を買うなら俺んとこで買えとか、実は余罪があってバレないように気をつけているとか、担当さんがいてもお構いなしである。
覚醒剤中毒者も数回収容され、幻覚に悩まされ夜通し一人でブツブツ喋ったり叫んだり暴れたり、それを聞いてて、私は「あーほんとに覚醒剤って最低だな!」とつくづく思った。
大麻と覚醒剤を一括りに薬物指定とする警察の方々には、もっと真剣に勉強してもらいたいと心から願う。
収容されている人たちは本当に単純明解で、喜怒哀楽がマンガみたいにハッキリしていた。でも時々真剣な話もしていた。
「俺、今回のは実刑確実だから最低でも7年食らうんだよ」
「あんまり落ち込むなよ、7年なんかすぐだから」
「家族が心配、ガキも小学生になっちまうし」
「頑張れよ!」「元気出せよー!」
といった具合に、ここの留置ではみんな励まし合って日々のつらさに耐えていた。私に対しても
「大麻なんかすぐ出れるよ。しかし気の毒だなぁ、そんな屁みたいなものでこんなとこ入れられて」
「絶対に弁当持ち(執行猶予のこと)で帰れるから元気出せよ!」
と大勢で私の事件は楽勝だと励ましてくれた。この時ばかりは本当に心強く思い、彼等の開けっぴろげで解りやすい性格に感謝した。一度、親の話になり、「階段から母親を突き落とした」と自慢げに話をした人に対して、他の人たちが「お前は鬼だ」「最低だ」「親を粗末にするな」と非難の声が留置所内にこだました。留置所内で道徳的なディスカッションをしているなんて誰も考えてないであろう、でも私はそのやりとりに素直に感心していた。
しかしやはり逮捕され留置所に入れられる人間というのは、再逮捕を繰り返しては人生の大半を留置・拘置・刑務所で過ごしているような、性格も攻撃的でしかも幼稚だったりまともな話ができない人が多いそうで、私のような、一見してどこにでもいそうな普通の人間は少ないらしい。
担当さんはそういう荒くれ者の面倒を見てきてるので、「××さん、あいつらが話し掛けてきても相手にしたらダメだよ」といつも念押しされた。最初は担当さんも厳しいのかと思っていたけれど、留置生活の中で話をできるのは同室の人か担当さんくらいしかいないわけで、後にも書くが精神面で助けられた事もかなりあった。
もちろん皆がみんな手厚いわけではない。病院ではないから、実際病気になっても最低限の看護しか認められない。私は逮捕されてから釈放までの間、生理が止まったままで、粗末な食事により中枢神経に支障をきたしていた。
留置内で重病を患い、明らかに緊急入院すべき状態の人が数時間放置される悲惨な場面もこの目で見た。
その他、担当さんではない事務員のような女性が私の身体検査や室内点検をする際に、まるで汚物を触るような手つきとオーバーな嫌悪の表情や発言をすることもあった。同じ女性であり同じ人間なのに、犯罪者というだけでゴキブリのような扱いしか受けられないのか・・と心底やりきれなくなった。
後日友人にそのことを手紙に書いた。しかし「そこに入っている以上は仕方ないから・・」という返事だった。冷静に考えると確かにそうだなと思い、以後はそういう扱いに耐えることにした。惨めだった。

 しばらくして両親が初めて接見に来てくれた。
接見室のドアを開けると、アクリル板の向こう側に両親が着席していて、それを見て、正直このまま死んでしまいたい心境であった。事件のいきさつをそこで初めて明かした。私は両親に対して始終敬語だった。普通に話せなかった。母は「(お前を)信じていたのに・・・!」と突っ伏して嗚咽しながら大泣きした。年老いた小さな母が号泣する姿はとても辛くて見れなかった。普段無口な父が静かに口を開き
「弁護士はどうするつもりなんだ?」
と聞いてきた。
「これ以上ふたりに迷惑はかけたくないので国選にします」
としか言えなかった。私選にすると、裁判で有利な方向へ導いてくれたり、何といっても保釈(仮釈放)が可能であるというメリットがある。しかし裁判が終わるまで、費用が数十万~300万円ほどかかるのである。
それに対して国選を選ぶということは、保釈なしで裁判までずっと留置所と拘置所にいるということを意味する。両親をこんなふうに悲しませ、こんなところにまで来させた事を考えると、私はこのままここで不自由な生活を送る制裁を受け反省してしかるべきだと判断した。
泣かないつもりだったのだが、父があんまり私の目をまっすぐ見るので「これまで父とこんなに向き合って話した事はなかったな・・」と気付いた瞬間、急に目が熱くなり涙が溢れてきて、うつむいたまま両親に「ごめんなさい」と謝った。涙が後から後からボロボロこぼれ落ちた。色々な思いが交錯し混乱した。
こんな純朴な家族を悲しませるとは何という親不孝者だろうと自分自身が憎らしい思いで一杯になった。

 逮捕から21日目、最初の譲渡の罪で起訴された。これで正式に犯罪者である。前科一犯となった。しかし、栽培・所持の件についてはさらに取り調べが行われ、49日目に追起訴となり、一気に前科三犯となった。
栽培していた大麻草は鑑識にまわされ、茎や根などの不要な部分も換算され、総量が数十グラムを越えていた。もうこのあたりにくると諦めの境地に入っていて、それに対して「根や茎は外してくれ」と主張する元気は残っていなかった。
吸引についてはなぜか起訴されなかったのが未だに謎である。
追起訴も終わり、もう調べ自体は終了したので後は拘置所に送られるのを待つのみの身となった。1日中留置場を出ない日も増えてきて、とにかく何もする事が無いうえ男子房は相変わらずうるさい事このうえないのでノイローゼ一歩手前になってきた。
刑事も良く分かっていて、調べと称して担当刑事以外の年輩の刑事が取調室に出してくれることもあった。実際もう書類は出来上がっているので、世間話などをするのである。
「あんたはこんなところに来るような人間じゃないんだから、もう二度と来たらダメだぞ」
と注意されたり。取調室の窓からは外の世界が見え、太陽や青空や木々や鳥を見て、吹き込む風を感じて、私は何度か泣いた。この時ほど自由であることの尊さを思ったことはなかった。涙を流す私を見て、年老いた刑事は静かに席を立って一人にしてくれた。

普段は辛いことがあっても、極力おもてに出さない性格なのだが、この生活の中では堪えきれずに泣くことが本当に多く、しかしそれを友達たちになるべく感じさせないように、接見や手紙では努めて明るく振る舞った。でないと外の世界にいるみんなに申し訳なくてそうする以外なかった。私の事件のことは少しの間でも忘れてもらいたかったのだった。

 留置生活中に、悲しいできごとがあった。友人が亡くなってしまった。手紙でその事を知り、しばらく呆然とし、そのあと号泣した。正直言うとこの時まで、
「なぜ大麻ごときで私なんかが逮捕されなければならなかったのか」
と警察の体制を恨む気持ちばかりが強かったが、
「友達に最期のお別れすらできなかった・・バカな事をした、大麻なんか育てるんじゃなかった」
とお通夜にも葬儀にさえも行けない我が身を心から呪った。

 嗚咽しながら泣いていたら、担当さんの一人が通り掛かり、すごく心配して慰めてくれた。この担当さんは日頃から実に良くしてくれた方で、私が拘置所に移ってからも、このことをすごく気にしていて、拘置所にいる私宛てに長い手紙を頂いた。
「君の人生はまだやり直しがきくから、諦めずに頑張って下さい」
という内容だった。それを読んでまた泣いてしまった。頼れる人がいないこの状況では、警察官である担当さんですら自分にとっての心の支えになってしまうのである。

 私は国選弁護人を選択したため、とうに起訴されているにもかかわらず、なかなか弁護人が接見に現れず、「もしかしたら裁判の前日ごろに決まるんでは」という不安でいっぱいだった。拘置所に移される数日前にやっとCさんという国選弁護人が接見に来て下さり、私は裁判にあたって不安で胸がいっぱいであることを切々と訴え、裁判はどういう心構えでいるべきなのかを聞きまくった。Cさんはひとつひとつに的確に答えて頂き、裁判でのあらかたの質問や進行も教えてくれた。

 逮捕から57日目、拘置所に移管される日が来た。担当さんに感謝の気持ちを述べ、護送車に乗せられた。

 すでに季節は冬の始めになっていて、足早に道行く人々のコート姿や、冷たく澄み切った青空と、木々の散りかかった紅葉とのコントラストがとても印象的だった。

 ほどなく拘置所に到着し、気を付けの姿勢で大声で名前と罪名などを告げ、また指紋、写真を撮られ、女子房のある棟に向かった。

 またそこでも所持品の検査、身体検査、その際の身体検査は留置の時とは違い、いきなり全裸にされ脚を開いて立たされ、そのまま天橋立をみる格好をさせられ、肛門や性器に何か隠していないかを覗き込んで検査され、大きなショックを受けた。

 そして、赤ちゃん用のようなちいさな浴用桶に押し込められ、監視されながら身体を洗わされ、衣服の検品が終わるまで確定囚人用の服に着替えさせられ、2帖ほどの独房に移された頃には精神的に参ってしまい、しばらく身体の震えが止まらなかった。そのまま2日間独房で過ごし、3日目にようやく5~6人の雑居房に移されホッとした。

 雑居房では、殺人や放火などの罪で入れられている人たちが同室だった。
罪名だけ聞くと、どんな荒くれ者かと思われるかもしれないが、そこが拘置所だということを忘れてしまうくらい普通に明るい人たちだった。

 しかし「私は初犯だけど、殺人だからムショ行きは確実なの」という話をされると、いやおうなしに暗くて悲しい雰囲気が部屋中に流れたりした。
拘置所は留置所と違い、刑務所の管轄下にあるので、刑務官が担当さんの役目をしているのだが、大変厳しい口調なので、いつも怒られている気分だった。
実際、通路を通る際に別の雑居房の人に小さく手を振ったところ
「お前! 何してるんだ!! バカか! 独房入れるぞ!!」
と激しく怒られたこともあった。確かにバカなことをした。
拘置所では、就寝時間以外は寝転んではダメで、かといって立って部屋の中をウロウロしてもダメ、暖房も無いのだが毛布をかぶってもダメで、自分の定位置を決められていて他の人の位置に座ってもダメなのである。

 することがなくて、みんな手紙を書くことに没頭していた。私は家族と友人宛てばかりだったが、驚いたことに、拘置所や留置所の男子と文通している人もいた。
しかも赤・青鉛筆と黒マジックだけで、ものすごい綿密なイラストを描いていたり。これは結構みんなしていることらしく、味気ない白封筒や便箋を少しでも華やかに見せる涙ぐましい努力だった。

 

 なんと文通がきっかけで結婚する人たちもいるそうで、ある意味すごい世界だなと感心した。

 

 食事は留置よりずっとましだった。麦飯だが量も多くて、なによりも温かい食事を食べられるのが有り難かった。留置は3食とも冷や飯のうえ、量が少ないせいもあり食べ終わっても身体の芯から冷えきっていた。

 

 ここは、もう調べもなくただ裁判をこなし判決を待つための機関であり、交通の便も悪いうえ、接見の時間もたったの5分間なので、家族や友達には「もう接見には来なくていいよ」と伝えた。

 だからこの数週間は完全に世の中から完全に隔離されてしまったような気分だった。「私はもう普通の生活はできないかもしれない」という恐怖感と孤独感が日に日に強まり、しかしこの生活に段々慣れてゆく自分がまた恐ろしくもあり、精神的なバランスを保てなくなってきていた。

 なぜか、拘置所では毎晩必ず夢を見た。しかも起きてからもその内容を正確に鮮明に覚えていて、夢の内容はほとんどが旅をしている自分だった。多分、ここから出て遠くに行きたい、自由になりたいという願望充足だったのだろうと思う。

 逮捕から62日目、いよいよ第1回目の公判(裁判)が行われた。◯◯地方裁判所の第◯号法廷へ、手錠・腰縄で刑務官に連れられて入った。テレビのニュースなどで見たことのある、裁判官、書記、弁護人、傍聴席などのあの光景だった。

 しかし何故だか意識がボンヤリとしてきて「これは私の裁判なんだ、しっかりしなくては」と気持ちを引き締めることに努力した。緊張するというよりも、まるで夢の中のような感覚がずっと続いていた。

 まず、私の事件の発端となった共犯者の件を検事側が説明、その時初めて共犯者が10日間勾留で起訴猶予で釈放されていることを知った。私はてっきりその人も起訴されていて、保釈で出たのだとばかり思っていたので、こんな惨めな裁きを受けている人が私の周囲には私以外に誰もいないのだと思うと、心から安心した。

 そして私の逮捕劇の写真や書類をドッサリ提示され、私が大麻栽培・研究の免許を持っていないことを証明する英文の証明書類や、刑法の抜粋、調書などを読み上げ、私が栽培した大麻草の原物や鑑定書を見せられ、間違いがないかを訊ねられた。
素直に「間違いありません」と言うほかなかった。
「何故大麻を使用してはいけないのか」という質問に対しては
「労働意欲の喪失・さらに悪質な覚醒剤等の薬物を使用するきっかけになるから」
という弁護士のアドバイスに基づいた返答をしました。弁護側から「好奇心からの栽培で、営利目的ではない、本人も大変反省している」との弁明、そして両親から裁判官宛ての手紙の提出があった。私は、自分の言葉を述べる際、亡くなった友人のことを思い出して辛くなり、また泣いてしまった。
「本当にバカなことをしたと大変反省しています」
と心に浮かんだ正直な思いを述べた。その時は本当にそう思った。罪状認否が終わり、最後に
「見つからなかったらいいだろうという姑息な考えを持っているという見解により、求刑2年を申し立てる」
という検察側の要求で、第1回目の裁判は終わった。

 それから約2週間後、逮捕から76日目、第2回目の公判。この間、私は拘置所で同室の人から聞いた「最近は、大麻の初犯でも実刑食らうことあるらしいよ」という言葉と「量も数十グラムと割と多かったし、もしかしたら実刑かもしれない」という言い知れない不安に押しつぶされそうになっていた。自分が懲役を食らっている姿を想像しては眠れなくなり、1本だけ煌々とともった蛍光灯を見つめたまま朝になることもあった。

 2回目の公判は、いきなり「判決」だった。これで家に帰れるか、懲役に行くかが決まる。ちょうど私の前は50歳くらいの男の人の判決で、私は手錠・腰縄の状態で後ろの席で見ていた。
「では、被告人、前へ。・・・◯◯◯◯、□□□□の罪により、実刑・懲役7年、執行猶予なしを申し渡す」

 と彼の刑が確定した。それを聞き、目の前が真っ暗になっていった。他人の判決なのに「私も、もしかしたら・・・」と、ひとごととは思えなかった。

 いよいよ私の公判が始まった。前回の陳述などに間違いがないかの確認をし、すぐに「では、被告人、前へ」となり、もう何も考えられないくらい胸が高鳴っていた。1回目の時とは違い、心臓が張り裂けそうなくらい緊張していた。確定囚となり、服役している自分の姿がリアルによぎり、頭がしびれてきたとき---
「××××、大麻取締法違反の罪により、実刑・懲役1年6ヶ月」
---頭を殴られたような感覚が・・・しかしすぐ後に
「---ただし執行猶予3年付きを申し渡す」
と付け加えられた。時間にしてたったの4~5分のあっけない公判だった。しかし私はその瞬間、心の中で声にならない叫びをあげた。弁護人のCさんに深々とお辞儀をし、手錠も腰縄もなしで刑務官と法廷を出た。

 「自由」という2文字が頭を駆け巡り、家族や友人の顔が沢山浮かび、急に心地よい脱力感に見舞われた。
拘置所に荷物を引き揚げに向かう車の中からみた海や山の景色は、判決が出る前と後とで何一つ変わらないが、確実に私の中では『手を伸ばせば触れられる自然』に変わっていた。こうして、2ヶ月半に渡る私の勾留生活は幕を閉じた。季節はすっかり冬になっていた。

 出られてから、まず両親に電話をした。母は「よかったね・・」と言ってくれたが、緊張により声がうわずっていることに気付き、両親を深く傷つけてしまっていることを悟った。バスに乗り、電車に乗り、一人で自分の街まで戻った。

 街はすっかりクリスマスムードで、はじめは嬉しかったが、しばらくするとすべてが偽物の世界に思えた。何故そう感じたのかはその時はわからなかった。友人に会い、釈放を喜び、私は心配と迷惑をかけたことの謝罪をした。しかし、まだ頭の中は釈放の嬉しさでいっぱいで、まともな謝罪の言葉を伝えられなかった。本当は一人ずつ抱き締めたかった。

 拘留中にくれた沢山の手紙は、今はまだ読み返す勇気はない。だけど、手紙が届く度に「まだ私にはこうやって心配してくれる友達が外の世界にいるのだ、だから頑張ろう、耐えなければ」と本当に助けられた。

 決まっていた栄転も逮捕によって流れたので、かろうじて見つかった雑用のアルバイトで生計を立てるという苦しい日々を送る現実が待っていた。年齢の関係もあり、再就職はこの御時世では本当に厳しい。

 人生設計は大きく変わってしまった。変わったと言えば、私自身の中にもそれが見受けらる。
流行に対し、興味がなくなった。テレビのバラエティ番組にも。万人を盛り上げようとする企画に何の興味もなくなっているのだ。
前述の釈放後すぐに街の賑わいを嘘っぽいと感じたのはそのためだと思う。しばらくして役所に行き、未払分の国民年金・国民健康保険料の免除申請、及び貧困のため裁判費用支払免除に必要な無所得証明書類の発行申請をしたところ、窓口で「理由を言わないと書類は発行できない」と言われ、仕方なく「警察に勾留されていた」と言うと明らかにジロジロ眺められ怒りが込み上げた。

 その目は、留置所で私を汚物扱いした署内の女性職員と同じ目だった。いたたまれなくなり、手続きを済ませると大急ぎで役所を後にした。
また、ふとした拍子に勾留の思い出が蘇ってきて冷や汗が吹き出したり、動悸が激しくなったり、テレビドラマなどで逮捕・勾留に関するシーンを見ると胸が締め付けられることがある。
今でも留置所・拘置所生活や、再々逮捕されたり、さらに脱走したり服役している悪夢にうなされ、真夜中に汗びっしょりで目が覚めて涙が出るようなこともある。

 毎晩のようにそんな夢を見ていた釈放後まもない頃は、人と会うのが恐くて、初対面の人はもちろんの事、仲の良い友人にさえ言葉がうまく出てこなくてどもったりして、そういう軽い言語障害が出ている自分を見られたくなくてますます引きこもった。

 こんなに良くしてくれた友人たちに一線を引かれている気持ちが大きくなってしまい、そう感じる自分も嫌になり、実はある晩突発的に、生まれて初めて自殺を試みた。  舌を思いきり噛んだ。が、口腔に血が広がり、途端に物凄く痛いことに気付き情けなくて号泣した。

「こんな自虐的なことをして何になる。誰が喜ぶ。私はこんなに気弱な人間ではなかったはずだ。これではいつまでたってもこのままだ」
と思い直し、そんなバカな行為を反省した。今は積極的に外に出かけることにしている。逮捕者の社会復帰には人の何倍もの努力がいるのだ。それを忘れてはならないのである。逮捕のつらい思い出は歳月が経つにつれ、少しは緩和されるだろう。

 しかしこの先、私の『逮捕者・前科三犯』という烙印が消えることは一生ない。これからも就職や結婚などの際に大なり小なりの障害にぶつかっていくのは明白だ。
平和を愛し、自然を愛し、すべてのいきものが幸せに暮らせる穏やかな世界を理想郷としている人間が、一転して犯罪者と呼ばれ、厳しすぎる社会的制裁を強いられるのが今の日本の現状なのだ。本当に残念で、かなしい。

 法律を犯すということは、人としてあるまじきことである。しかし、その法律の内容は果たして・・。
より良い日本になるのだろうか?
これからの世界を担う私たち若者が真剣に考えて行くべき問題ではないだろうか。大麻は私にとって、遠い存在となってしまった。遠いけれど、私の心を解放してくれたものとして、今も胸の奥に、あるのだ。狭かった視野を一気に広げ、自然に対し、生き物に対し、大きく言えば宇宙に対し敬意を払うことを教えてくれた。しかしその行く手には法律という大きな山が隆々とそびえ立っている。私はその山の大きさを忘れて無防備に栽培してしまった。失ったものは大きすぎる。

 大麻による逮捕者がこの先一人も出ないことを心から望んでいる。私の受けた制裁を、もう誰にも味わってほしくないのだ。」

-引用終わり-

 以上、3例を見たが、上記3名がいったい誰に、どのような加害を為し、どのような保護法益を侵害したというのか。いったい被害者は誰なのか。
大麻取締法違反事件には被害者がいない。被害者は、逮捕された本人と、それ以上にその家族である。

 他者や社会の保護法益を侵害した事実もなく、ただ大麻を愛好していたというだけで、平穏に暮らす者の生活を滅茶苦茶にし、自殺を思うまでに個人を追い詰める大麻取締法の執行実態こそが、国民の基本的人権を踏みにじる、国家権力による加害の実態である。

 基本的人権は「公共の福祉に反しない限り」最大限尊重されなければならない。とりわけ刑事罰、特に懲役刑は人の身体、行動の自由に対する重大な制約であり、人権保障の観点からして必要最小限のものでなければならないことは当然である。大麻取締法が憲法13条(幸福追求権)や31条(適正手続の保障)に適合するためには、その保護法益が具体的で明確であり、かつ法定刑も適正なものでなければならない。ところが、大麻取締法の保護法益はきめわて抽象的であり、しかも大麻はカフェイン程度の毒性しかないのだ。

 大麻取締法の罰則規定は、幸福追求権(憲法13条)を侵害し、その制約は必要最小限のものではなく、さらにその法定刑は過度に重いから、憲法31条(適正手続の保障)にも反し、違憲である。






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