大麻取締法は産業政策として押し付けられた

投稿日時 2006-11-24 | カテゴリ: 白坂の雑記帳

大麻取締法は、昭和23年に性病予防法などと共に可決成立している。
当時の竹田儀一厚生大臣による法案の提出理由は次のようなものだった。(国会議事録検索システム参照

大麻草に含まれている樹脂等は麻藥と同樣な害毒をもつているので、從來は麻藥として取締つてまいつたのでありますが、大麻草を栽培している者は大体が農業に從事しているのでありまして、今回提出されています麻藥取締法案の取締の対象たる医師、歯科医師、藥剤師等は、職業の分野がはなはだしく異つています関係上、別個な法律を制定いたしまして、これが取締の完璧を期する所存であり、本法案を提出する理由と相なつております。

それまでに大麻が全く規制されていなかったわけではない。
昭和61年9月、丸井弁護士による厚生省麻薬課長証人尋問録が「地球維新 vol.2 カンナビ・バイブル/丸井英弘 中山康直 著(明窓出版 )」に掲載されており、それによると大麻取締法制定以前の規制は次のようであったと語られている。

弁護人「現行の大麻取締法ですが、途中で改正もあったようですが、これは昭和23年に制定されたものですね。」

証人「ええ、現行法は23年に制定されております。」

弁護人「それ以前は大麻規制はどのようになっていたんでしょうか。」

証人「これは私も文献的に調べる以外に手がないんでございますけれども、ずいぶん古いようでございまして、一番初めは大正14年に通称第二アヘン条約と言われます条約が出来まして、それで大麻の規制をしようという条約が出来ましたのを受けまして、昭和5年に当時の麻薬取締規則というものの中にこの大麻の規制が取り込まれたと。ですから昭和5年が一番初めということでございまして、それ以降昭和18年に薬事法という法律の中に法律が整備されまして取り込まれたというふうに文献は示しております。それ以降昭和20年になりましてポツダム省令で国内における大麻を含めまして、いっさい禁止の措置になったと。それでは産業上非常に困ってしまうということがありまして、昭和22年に大麻取締規則というものが出来たと。さらにその大麻取締規則が昭和23年に至って現行の大麻取締法というものに代えられたということでございます。」

(この証人尋問録は私も上告趣意書に引用させて頂いた。)

大麻取締法制定当時の様子は、法制局長官であった林修三氏の随筆「大麻取締法と法令整理」(「時の法令」財務省印刷局編 1965年4月 通号530号)でも紹介されている。このサイトでも「大麻取締法はなぜズサンか」として紹介したことがある。

大麻草といえば、わが国では戦前から麻繊維をとるために栽培されていたもので、これが麻薬の原料になるなどということは少なくとも一般には知られていなかったようである。したがって、終戦後、わが国が占領下に置かれている当時、占領軍当局の指示で、大麻の栽培を制限するための法律を作れといわれたときは、私どもは、正直のところ異様な感じを受けたのである。先方は、黒人の兵隊などが大麻から作った麻薬を好むので、ということであったが、私どもは、なにかのまちがいではないかとすら思ったものである。大麻の「麻」と麻薬の「麻」がたまたま同じ字なのでまちがえられたのかも知れないなどというじょうだんまで飛ばしていたのである。私たち素人がそう思ったばかりでなく、厚生省の当局者も、わが国の大麻は、従来から国際的に麻薬植物扱いされていたインド大麻とは毒性がちがうといって、その必要性にやや首をかしげていたようである。従前から大麻を栽培してきた農民は、もちろん大反対であった。
 しかし、占領中のことであるから、そういう疑問や反対がとおるわけもなく、まず、ポツダム命令として、「大麻取締規則」(昭和二二年 厚生省・農林省令第一号)が制定され、次いで、昭和二三年に、国会の議決を経た法律として大麻取締法が制定公布された。この法律によって、繊維または種子の採取を目的として大麻の栽培をする者、そういう大麻を使用する者は、いずれも、都道府県知事の免許を受けなければならないことになり、また、大麻から製造された薬品を施用することも、その施用を受けることも制限されることになった。

国会議事録によると、栽培農家に課されていた届出の手数料はそれまで30円だったが、この新法で大麻栽培者が60円、研究者が50円になったとある。手数料は100円でいいのではないかという議員の質問に、政府委員が次のように答弁している。

○政府委員(久下勝次君)
現在大麻栽培の許可をし得る範囲が、連合軍当局の指令によりまして、五千町歩が許されておるのでありますが、実際に栽培の許可をいたしました所はまだ三千八百町歩に足りないという実情で、これをできるだけ多く栽培して貰うというようなことから、農林当局におきましても、これを是非できるだけ安くして欲しいという、きつい御註文がございました。相手は零細な栽培地を持つ農家も含まれておりますので、この程度にいたしたのでございます。

政府は手数料をあまり上げず、大麻の栽培が増えるよう配慮したと答弁している。
ところが、大麻栽培を増産するには、問題は手数料だけではなく、その手続きの煩わしさにもあったことが議事録からは窺える。

○三木治朗君 大麻が繊維にまでなつてしまへば、これはもう何も麻藥の方に関係がなくなるんじやないかと、こう考えるのですが、ところが繊維も、数量までも一々届出ろというようになつておるように思われるのですが、今麻が日本で大体生産が足りないので、沢山麻を要求しておるのですが、この法律のために、麻を作ることを何んだか非常に面倒なような感じを一般が受けるんじやないか、栽培者が受けるのではないか、それでなくても麻はなかなか肥料が沢山要つて、栽培技術が相当むずかしいものである、このように聽いておるのでありますが、こういう法律のために、栽培することを避けるような結果になりはしないかということを憂えるのですが、その点如何なものでしようか。

○政府委員(久下勝次君) 私共も御指摘の点は心配をしないでもないのでございます。実は從前は、我が國においても大麻は殆んど自由に栽培されておつたのでありますが、併しながら終戰後関係方面の意向もありまして、実は大麻はその栽培を禁止すべきであるというところまで來たのでありますが、いろいろ事情をお話をいたしまして、大麻の栽培が漸く認められた。こういうようなことに相成つております。併しながらそのためには大麻から麻藥が取られ、そうして一般に使用されるというようなことを絶対に防ぐような措置を講ずべきであるというようなこともありますので、さような意味からこの法律案もできております。その意味におきましては絶対に不自由がないとは申せませんと思いますが、行政を運営する上におきましては、さような点をできるだけ排除して、できるだけ農民の生産意欲を向上するように努めております。

大麻は栽培禁止になるところだったが、「いろいろ事情をお話をいたしまして、大麻の栽培が漸く認められた」という。誰に?占領国に。
当時、日本の社会には、薬物としての大麻を規制しなければならない状況などなかった。
繊維になってしまえば麻薬として規制する意味などなく、その繊維としての麻が日本社会には足りない状況だった。それなのに、繊維となった麻の数量までもいちいち届けろという規制。これは薬物としての大麻を規制するという意味を超えて、占領国は産業としての大麻栽培そのものに規制をかけてきたということではないのか。
その後、大麻繊維が駆逐され、石油製品に入れ替わってきたことは、戦後史が証明している。
大麻取締法は、当時の日本の立場から言えば、大麻産業を守るため、他の薬物を規制する麻薬取締法から切り離して独立した法としたものであり、占領国アメリカの意図としては、そもそも薬物政策ではなく、産業政策だったのである。

大麻取締法が制定された国会議事録を資料として追加しました。

「大麻取締法国会議事録」






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