第12回公判 被告人最終意見陳述(2)
3.大麻取締法の違憲について
私は大麻が無害だと主張しているのではありません。個人的に使う大麻の所持や栽培が、刑事罰に値するほど有害で危険なものなのかを問うています。水も酸素も、使い方によっては極めて危険で有害です。書証でも明らかにしたとおり、大麻にはアルコールやタバコと比べても大きな害はなく、むしろ世界的には医療的な使用が急速に広まっているのが現実です。
世界保健機関(WHO)においても大麻規制のあり方を再検討しようという動きが出ています。
ところが日本では、大麻取締法第4条で大麻を医療的に使うことを例外なしに禁止しているため、臨床研究すら出来ないのです。臨床研究すらできないのに、そして、私が行った情報開示請求や電話取材によると、厚生労働省も、「正しい薬物情報の普及」を目的として設立された天下り財団法人、麻薬・覚せい剤乱用防止センター(以下、「ダメセン」と略)も、大麻に関する海外の学術的な成果を全く認識していないのに、取締当局はただひたすら、大麻が危険なのは「公知の事実」で「ダメ。ゼッタイ。」だと、ナントカの一つ覚えのように、ダメセン教のマントラの如く唱え続けているのです。
私が大麻取締法で逮捕されるのは今回が2度目です。前回は2003年のことで、この時も私は、大麻取締法は憲法違反であると主張して最高裁まで争いました。同じ事件の流れで先に逮捕されていた桂川さんの裁判では、大麻の有害性を主張する検察官に対し、控訴審で弁護側がその根拠を求めたところ、検察は、いくつかの警察内部の資料に加え、厚生労働省の外郭団体であるダメセンの「ダメ。ゼッタイ。」ホームページから、大麻の項目を印刷して法廷に提出しました。これも証書として提出したとおりです。
大麻そのものについての医学的・薬学的な研究は、海外では、その後も大きな進展を見せており、大麻特有の成分である104種類あるといわれるカンナビノイドの働きも解明が進んでいます。大麻についての医学的・薬学的な研究については、そのほんの一部を複数の書証で明らかにしたとおりです。
ところが、わが愛すべき日本では、まことに残念ながら、まことに腹立たしいことながら、正しい薬物情報を国民に伝えるべき天下り財団法人ダメセンが、全く根拠のない大麻についての誤った情報を、「ダメ。ゼッタイ。」として幼いころから教育の場で国民に刷り込み、世界的には大麻はアサ科の1年草ですが、我が国の公的薬物情報サイト、ダメセンのホームページでは、未だにクワ科のままなのです。
私は前回の逮捕以来、もう10年以上、このような誤りに満ちた情報を修正するように、天下り財団法人ダメセンの責任者たちや、監督責任のある厚生労働省に、直接電話で要請したり、要望書を提出したり、情報公開請求を行ったり、できる限りのことをしてきました。
近年では、合法的な国や地域で大麻を楽しんで来る日本人旅行者も多く、そのようなツアーが営利事業化されてもおり、あるいは現地に行かずともインターネットで海外の現実を簡単に知ることができる今日、いったい誰がどうして「大麻はクワ科の1年草です」「クサイと感じる人もいます」と、誤りや捏造を教え続ける厚労省とダメセンを信用できるでしょうか。裁判長、本当にこれでいいのでしょうか?
4.問われているのは何か
世界的に見れば、どう考えたって、逆立ちしたって、日本の大麻取締法は異常であり、とても先進国の施政とは思えぬ悪法であると私は確信しています。数々の書証で明らかにしたように、「ダメ。ゼッタイ。」の大麻情報こそがダメなのであり、大麻取締法はとっくに時代錯誤の遺物ですが、権限と予算と組織の自己増殖を図る官僚機構はそれを認めず、憲法を無視する絶対君主のような総理大臣のもと、山積する諸問題に追われる国会は大麻取締法問題を正面から取り上げる余裕も契機もなく、官僚機構と癒着した記者クラブ大メディアは海外の現実に目を閉ざし、国内に向けては口を閉ざして権力に加担し、司法は大麻取締法の違憲を主張する累次の裁判で昭和60年という前時代の判例に固執し続け、日本の大麻を巡る状況は、欧米や中南米と比べて大きく遅れを取っています。
今回の逮捕を受けて、私は、再び法廷の場で大麻取締法の違憲を主張するため、10年前の桂川裁判で検察が法廷に提出したダメセンのホームページを書証として提出しました。
ところが、検察官は、その採用に同意せず、それでは現時点における大麻の有害性の程度を示す科学的根拠を示すようにとした弁護人の求釈明も退けられました。
いったい、なんという不公正、不公平な話でしょうか。私と弁護人は「大麻の有害性の程度」を争点とする旨、当初から明示しているにも関わらず、検察は、こちらが請求した書証や証人について悉く不同意とし、さらには、検察自身が大麻有害論の根拠としてかつて法廷に出した資料さえも採用を拒否したのです。これは検察が実質的な審理を拒否しているに等しいし、検察による証拠隠しと同じです。
下世話な話で大変に恐縮ですが、逮捕された直後に私は2名の弁護士を私選し、公判前整理手続が始まった直後に1名を解任し、1名に退任され、後任として横浜弁護士会の現在の弁護人にお願いし、桂川さんの裁判でも当初の国選弁護人を私選に切り替えてからは、私や仲間たちがコストを負担しましたから、私と仲間たちは、有志から頂いた寄付を含め、これまですでに二つの裁判で500万円近いお金を投入しています。まったく我ながら全身の力が抜けるような、馬鹿馬鹿しいような、腹立たしいような、すさまじくもったいなく、泣きたいような気分ですが、より良い日本社会をと思えばこそ、私たちはやっているのです。
取締当局はいくらでも税金を投入し、手間も暇もカネもかけて捜査や公判を維持できるのでしょうが、被告席に立たされた一国民が納得のいく裁判を実現しようと思えば、莫大な費用がかかるのです。それなのに、検察は法律の建前のうしろに隠れ、「事件と関係ないから不同意」を連発し、そのくせ、大麻は癌にどう効くのですか? などと被告人を小馬鹿にしたような質問を発するのです。
現実問題として、ごめんなさいもう大麻には近づきませんし大麻の友達とも付き合いません、とか言って頭を下げてベロを出していれば国選の弁護人で済むし、裁判もさっさと終わるし、量刑も軽く済むのです。それが合理的な態度というものでしょう。法律がおかしいなどと主張すると、一度目の逮捕のときに一審の裁判長が判決で私に告げたように、「被告人は捜査公判を通じて大麻取締法の非合理性を主張するなどその態度はよくなく」と、罪を重くする理由とされてしまうのです。
裁判の仕組みそのものが極めて非民主的で不公平だと私は思います。
事件の被害者の人権は守られないのに、加害者の人権ばかりが守られている、といった論評を目にすることがあり、被害者と加害者という対比ではその通りなのかもしれませんが、裁判に際しては、検察と被告人が公判に投入できるリソースの非対象性こそ考慮されなければならないだろうと、私はこの裁判を通じて改めて実感しています。
いったい、この裁判で問われているのはなんでしょうか。
もちろん、私が罪に問われているのですが、私は大麻取締法を問うています。検察官と裁判官に問うています。
どのような社会を望むのか。結局のところ、最後に問われるのは個人であり、ひとりひとり、個人がどう振る舞うか、そのことが問われるのではないでしょうか。そして、それは私のような馬の骨よりも、社会を管理する立場にあるエリート層にいる者たち、検察官や裁判官といった立場にある者たちこそ、ではないでしょうか。
歴史的に見れば、この裁判で問われているのは日本の司法であり、三権分立であり、民主主義だと思います。また、日本が自主的に、三権分立的に、民主的に、大麻取締法問題について軌道修正できるかどうか、司法に与えられた最後のチャンスだろうとも私は思っています。こんな割に合わない裁判を今後いったい誰がやるでしょうか。
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