多発性硬化症

レズリー・ギブソン

イギリス、女性


●多発性硬化症の発病

しびれてピリピリする痛みが続くようになり始めたのは1984年の秋のことでした。次の年の2月、私は姉と一緒に美容室を開くつもりで貸店舗と契約を交わし、政府の許可を受けるために審査会場を訪れました。話が終わって会場を出ようとしたとき、退屈だったこともあって眠くなって自分の体の力が抜けていくような感じがしました。腕も足も全く動かなくなっていました。

姉とわたしは当惑しましたが、最初はコメディみたいで笑ってしまいました。ですが、次第に何か悪いことが起こっていることに気づきました。姉が私をかかえて壁に寄りかからせてタクシーを呼びにいったのですが、体の右側を支えてくれるものが何もなく私は壁からずり落ちるように倒れて込んでしまいました。

家へ帰ると、母と父は大変心配して電話で救急車を呼んで病院に連れて行かれました。結局、6週間も入院することになってしまいました。病院ではいろいろな検査を繰り返したあとで、最後には腰椎穿刺という検査を受けました。脊髄の端から6番めの椎骨に針を入れ、脊髄を通して脳随から出てくる体液を取り出し、多発性硬化症(MS)かどうか調べられました。

これが最終的な結論でした。一回目の検査はカーライルの病院で受けましたが、数週間後にはニューカッスルの病院でも確かめました。美容院は続けていましたが、しばしば体の何かが停止するみたいになりました。それはだんだん悪くなって、また襲ってくるのです。例えば、左目の視野がしだいに狭くなり、光がピンポイントになって見えなくなったりするのですが、しばらくするとゆっくりと元に戻るのです。

私の多発性硬化症は半身に偏っています。何年も前に聞いたのですが、医学の専門家は多発性硬化症という病気を大変むずかしいと言っていました。私が診断を受けたときには、典型的な多発性硬化症では40才以上で患ることはなく、40までにならなければそれ以降もかからないとのことでした。1985年の時点ではそれが正しかったのでしょうが、今では70才台でそう診断される人もいることも知っています。

多発性硬化症と診断されても人それぞれでみんな違っていて、いろいろなタイプがあるのです。私が教わったところでは、一過性の良性型、長期に持続進行して悪化する一次性進行型、弱い症状が寛解と再発を繰り返しながらだんだん悪くなっていく二次性進行型、その他、の4つのタイプに分けられるのだそうです。

でも、私の場合はどれなのかよくわかりません。いずれにしても、最後にはお医者さんに何かを決めてもらえば少しは気が楽になります。ですが、多発性硬化症だといわれても、本当のところはお医者さんでもどんな病気で、次に何が起こるなのかよくわからないのです。実際、多発性硬化症であると告げられるだけで、それ以外は何も話してもらえません。どう扱ったらいいのか全く見当がつかないのです。

お医者さんたちは私にとてもネガティブにしか対応してくれませんでした。「もう再び歩けるようにはならないでしょう。たぶん美容院の仕事ももうできないでしょう。今できることもやがてできなくなるでしょうし、どんどん悪くなってその他のこともできなくなります。」 お医者さんも希望が持てるようなことは何も言えないのです。あまりにも落胆させられて気が滅入り、それがまたいっそう体の状態を悪くしてしまうのです。

お医者さんには、「10時までには寝なさい、熱いお風呂にははいらないように、お酒やタバコはだめです、バターも食べてはいけません、マーガリンにしなさい」 と言われれましたが、これが最良のアドバイスというわけです。私は、このべからずリストと状態が悪くなっていくだけという宣告を持って病院からもどりましたが、ポジティブなものは何もありませんでした。最初の2、3年間はお医者さんが言っていたとおりで、ますます悪くなっていきました。


●マークとの出会い

そんなときにマークに会って、カナビスを吸うようになりました。そして止まったのです。こんな感じになったことはそれまでありませんでした。私はとても明るくなって状態が改善しました。病院には自分の2本の足で行きました。ワインのボトルと花束を持って。「見てください。お医者さんの言ったようにはなっていませんよ!」

マークとは1986年にカーライルのナイトクラブで知合いました。ダンスフロアー越しに彼を見つけて、付き合い始めたのです。そのころの私は少しパーティ・アニマルで、ちょっとパンキーで、いつもお酒を飲んでいました。飲んでいると少しの間だけ自分が多発性硬化症であることを忘れることができたからです。そんな私でしたから、彼はとても無理だろうなと思いました。でも彼を見ながら、22才になった自分と正面から向き合い、冷静になって、自分を客観的に見つめて、これからどのように生きていくのか真剣に考えようと決心しました。

多発性硬化症と診断されたときに家で両親と暮らしていたのは幸運でした。最高のサポートをしてもらうことができました。他の人に世話してもらうのとは全然違います。母は、私が少しでもよくなるのであれば地球ですら動かしてくれるほどでした。このことは、親なら誰れでも同じです。親には子供を愛する以外に選択肢はないのです。パートナーなら 「うんざりだ。もう別れる」 ということもできますが、親にはそうした余地もありません。

診断を受けてからいろいろな感情を体験しましたが、最後には一種の死別の感情に襲われました。以前のレズリーはもう今の自分とは違うので、それまでのレズリーに別れを告げなければなりません。私の人生の中に再びレズリーが登場することはないのです。こうした死別のプロセスを通じて20代前半と別れを告げ、またレズリーになるのです。多発性硬化症になってから現在では17年か18年も経ちますが、発病前と同じ時間を生きてきたことになります。それを思うととても奇妙な感じがします。

マークと一緒に暮らすようになってから、ちょくちょくカナビスを吸うようになりましたが、しばらくすると自分の症状が以前ほど悪くないことに気づきました。夜の震えや引きつけが大幅に減って、二人ともよく眠れるようになりました。カナビスを吸っていない夜などにはしばしば強いけいれんが起こり、マークを蹴飛ばしてベッドから落としてしまいました。

私たちは、ますます、カナビスが多発性硬化症の耐えがたい症状を和らげてくれているのだと確信するようになって、代替医薬品としてのカナビスを使えないかどうか調べはじめました。しかし、1987年に病状が一気に再発してしまいました。右半身の50%が麻痺し、左半身は感覚傷害で恒常的なしびれや痛みに襲われ、まともな会話ができなくなりました。右目も見えなくなってしまいました。

でも完全に何もできなくなってしまうようなことはなく、少なくともカナビスを吸うことはできました。3週間ほどすると目がじょじょに回復し、会話もできるようになりました。次の6週間で体も少しずつ動かせるようになりました。その間もカナビスを吸っていましたが、まちがいなくカナビスが気持ちを奮いたたせてくれました。


●逮捕

マークは以前にアパートに住んでいたときに4グラム程のハシシを持っていて逮捕されたことがありますが、1989年の2月にはもっと多量に持っていて捕まりました。当時私たちはペナインズという何も起こらないような地方にあるガーリギルという小さな眠たくなるような村で暮らしていました。捕まったのは私と一緒にカーライルに行っていた時でした。マークは留置場に入れられ、私は自宅の捜索のために警察に連れていかれました。

家までの道は平らなのですが曲がりくねっていて、警察の運転手は角にくる度にわざと衝突させるような乱暴な運転をして、とても恐い思いをさせられました。家に着くと、彼らは家中をひっくりかえしてめちゃめちゃにして探しまわりましたが、めぼしいものは何も見付かりませんでした。やっと見つけた証拠は、暖炉にたまたま落ちていたカナビスの小さな吸殻だけでした。家で使っていたという確実な証拠はそれだけでした。

この経験では本当に恐ろしい思いをしました。警察は私たちに危害を加える使命を持っているように感じました。警察だけでなく、近所の人たちも私たちを犯罪人として扱うようになりました。マークはダーハムの留置場に送られました。私は保釈されましたが、村の人たちからは家に火をつけると脅されました。私たちをヒッピーとみなして、病の女でも焼き殺す権利があるとでも思っていたに違いありません。私はカーライルの姉のところに避難しました。

結局、カーライルの刑事裁判所で検察の要求どおり、個人使用のために不特定量のカナビスを所持していたとして有罪を宣告されました。判決では、吸殻の見つかった家の中でいずれかの時点でカナビスを吸ったと認定されました。たった一つの吸殻を理由に、マークは罰金100ポンドと法廷費用の支払いを科せられ、執行猶予と2年間の条件付免責を言い渡されました。私は2年間の執行猶予。多発性硬化症の症状緩和のためにカナビスを使ったという酌量の求めに対して、裁判官は 「このことでは彼女を非難できない」 と述べ、条件付免責が認められました。


●結婚と子供の養育

次の年に私はマークと結婚し、3才になる幼女の里親になりました。その子とは今も一緒に暮らしていてもう16才になります。結婚した当時はカナビスの使用歴が子供のソーシャル・サービスを受ける障害になることはありませんでしたが、それ以降は他の親では問題とされるようになりました。そのために、違法なカナビスを使っていることを他人に知られないように、子供に友達を家に連れてこないように注意するようになりました。

こうした状況に置かれたこともあって、私はカナビスを使用する権利を求めて運動を開始する決心をしました。幼い子供に権利とは何か、何が悪いことなのか、そしてカナビスを使っているために家に連れてきてはいけない人もいることを教えなければなりません。子供を育てる上で普通とは別の観点に立つ必要に迫られますが、基本的には悪いことをしているとも教えなければならず、「自分だけは手に余る」 と思いました。

現在では、医薬品としてのカナビスのことが知られるようになって状況は少し良くなりました。こんなこともありました。私のおいが小学校のドラッグ教育のクラスで、カナビス・スモーカーがどんなふうにカナビスを巻いてジョイントを作るのかビデオを見せられたとき、「おばさんもやっているよ」 と言ってしまったのです。子供ですから何でも言ってしまうのはしかたないことです。

姉が子供をむかえに学校にいったとき、先生はそのことを尋ねてきたのです。中に入って詳しく聞くと、「ルイズが今日のドラッグの授業で、おばさんがジョイントを持っているといったものですから」 と教えてくれました。姉は、私が多発性硬化症でその緩和のために使っていると説明したところ、先生はバツがわるそうに、「そうでしたか。それならいいんです」 と答えたそうです。

トレイシーとはもう12年も一緒に活動しています。何年にもわたってわれわれのカナビス使用について議会や多くの報道機関に働きかけてきました。ですが、そのことでソーシャル・サービスと問題になったことはありません。サービス側も娘の養育にあたってなんら支障になることはないと言ってくれました。

1989年に最初に逮捕されたときには娘と暮らしていましたが、「子供と同居する命令」を申請したときは、ソーシャル・サービスは本当によく支援してくれました。ソーシャルワーカーを選んで来てもらって会ったとき、一緒にがんばりましょうと言ってくれました。カナビスのことを話すと、「心配しないで。何も問題ないわ。みんな育てているわよ」

ソーシャル・サービスの人たちとは何の問題も起こしたことはありませんが、意地悪な人がカナビスのことを問題にすることもあります。私も危険な犬を所有している男性とトラブルになったことがあります。私のネコをいじめるので 「危険な犬を訴えるわよ」 と言ったところ 「じゃあ、こっちはカナビスを吸っていることを訴えてやる」 と言い返されました。こうしたことは初めてではありません。お前の悪人だという噂を広めてやる、というようなことを言われたこともあります。カナビスを吸っていることを理由に陥れようとする輩に対して私は何もできません。

確かに毎日、法を犯していますが、私は犯罪者ではありませんし、犯罪者と係わりたくもありません。中には親切で信用できるドラッグ・ディーラーもいますが、恐ろしい人たちもいます。もし医薬品としてカナビスを使う必要がないなら、ドラッグ・ディーラーとは顔も合わせたくありません。普通ではありませんから。


●認知の拡大

私たちは1994年にもカンブリア警察に逮捕されたのですが、その頃にはカナビスの医療問題についてもだいぶ知られるようになっていました。マークはフルタイムで働いていましたが、私たちはキャンペーンを続けていました。もっとも静かに手紙を書くといった程度でしたが。金曜日の夕食の準備のためにじゃがいもをむいていると、一人の男がやってきて令状を差し出して自分が警察官であると言って家に入ってきました。家宅捜査でした。彼は、家にカナビスがあるなら出しなさいというので、私は、どうせ見付かってしまうので、手近にあったモロッコ産のロッキー・ハシシを手渡しました。マークも別の塊を出すと、「これで全部?」 と尋ねるので 「そうです」 と答えました。しかし、一時的に椅子の上に置いておいた15グラム程のウイードも見付かってしまいました。

彼は小声で、家を引っかき回したくはないのだがと言うので、 私が持っていた赤紙に包まれたブラック・ハシシも出しました。「これで私も逮捕するんでしょ?」 でも、何やら言いながら彼はそうしなかったのです。マークは無理矢理逮捕されましたが、私を逮捕しようとしませんでした。帰り際には、暖炉の上にハシシのかけらまで置いていきました。私は医療カナビスについてずっと運動してきたので、彼らも世間をこれ以上刺激したくなかったのだと思います。

結局、マークはカナビスの所持と栽培で裁判にかけられましたが、彼は罪を一切認めず、判事に、カナビスは妻のために用意したものだと主張しました。判決にあたっては謝罪することを拒み、私の弁護士を通じて、これからも妻のためにカナビスを用意すると裁判官に伝えました。判決は罰金100ポンドと法廷費用の負担でした。でも、以前に比べれば軽いもので、たぶん裁判官も彼の誠実さを評価したのだと思います。

刑事裁判所は次から次ぎへと事件に追われていて、逮捕されても裁判までは何ヶ月も待たなければなりません。これにはまいってしまいます。ストレスが多いだけではなく生き地獄のようです。特に多発性硬化症患者にとっては、裁判の行われる日はその度に試練です。私たちのように裁判所から遠いところに住んでいる場合は、裁判に開かれる9時半までに着くのが何より大変です。

朝ベッドから起きて寝ぼけた自分を覚まし、準備を整えて、何かを食べ、そして裁判所まで1時間以上も移動しなければなりませんが、そのためには7時半には起きる必要があります。普通の人にはそれほどたいしたことではなくても、多発性硬化症患者が7時半に起きるのは大変です。裁判所に行って帰ってくるのは一日仕事です。私は疲れ果て、世話をするマークも仕事を休まなければならず、姉の生活もめちゃくちゃになってしまいます。


●マスコミの支援と医療カナビス・ネットワークの拡大

こうした家宅捜査の結果、私たちの決意はますます強固なものになっていきました。私はカナビスの医療効果について声を大きくするようになり、テレビ番組にも出演しました。そこでカナビス治療アライアンス(ACT)のクラーク・ホッジと知合い、親友になりました。テレビ番組のすぐ後でコリン・ペーズリーにも会いました。彼は、ヘロイン中毒から立ち直ってからカーライルの市長までをつとめた人で、市のドラッグ・ユーザーのハーム・リダクション(害削減)のために活動しています。彼が、多発性硬化症患者の自助グループを立ち上げることを提案してくれました。

1995年に「カナビスでの治療支援グループ」 (Therapeutic Help from Cannabis (THC))が誕生し、他の慈善団体と協同でカーライルに事務所を開きました。最も多かったのは 「どこに行ったらカナビスが手にはいりますか?」 という質問と 「カナビスが手にはいったのですが、どのように使えばいいのでしょうか?」 という問い合わせでした。私たちは情報をパックして患者たちに送りアイディアを伝え合いました。この活動の最も重要な点は、患者たちの間にネットワークが形成され始めたことでした。

他の医療カナビスグループも連絡をしてくれて支援してくれました。その中でも最も有名なグループはコリン・デビスの医療マリファナ共同組合 (Medical Marijuana Co-operative (MMCO)) でした。彼は、現在、医療ユーザーにカナビスを供給した罪で服役中です。最近短期間の懲役刑を言い渡されたフリー・メディカル・マリファナ・ファンデーション (Free Rob Cannabis of the Free Medical Marihuana Foundation (FMMF)) のロブも連絡をくれました。彼らから得た詳細な情報も患者たちに回しました。これはには今でも違法とされている行為も含まれていました。犯罪幇助や、とくにカナビスの供給に関する情報の提供はもっと重い共謀罪とみなされる可能性もありました。

新聞の記事には、地元版でも全国版でもたびたび取り上げ続けられました。1997年には、インデペンデント日曜版がカナビスの合法化キャンペーンを開始し、1998年春にはロンドンでマリファナ・マーチも始まりました。こうして、すべてがうまく回転し始めました。


●政治状況の変化

医療カナビス・ユーザーへの供給に問われたしていたコリン・デビスが裁判(1回目)で無罪になった1ヶ月後の1999年8月末、5年前のマークを逮捕した同じ警察官にふたたび家宅捜査を受けました。その時はこちらも喧嘩腰で彼も威圧的でしたが、今回は静かに招き入れ、部下のやることにも何も抵抗しませんでした。前回は、マークが連行されるときに、私のために少しカナビスを残しておいてほしいと彼に頼んで無碍にされたのですが、今回は、そのような裁量の狭い意地悪なところを部下に見せるわけにもいかなかったこともあって対応が違っていました。部下は20才前の若者で、捜索するのもおどおどしていて徹底していませんでした。

捜査はそれまで経験したことのないようなもので、とてもリラックスしたものでした。罪になっても、贅沢な生活を禁止する 「加害者厚生法」 (Rehabilitation of Offenders Act)で記録される程度だろうなどと冗談も出たほどでした。捜査は手心を加えた穏やかなもので、マークがカナビスを渡しても逮捕しようともしませんでした。この前の時は、私には少しカナビスを返してくれましたが、マークは逮捕されました。でも今回は様子が違っていました。

今回は女性警官が加わっていなかったので最初から私は逮捕される危険はありませんでした。彼らは、私が罪に問われるかどうかを聞きに、次の月曜日にカーライルの警察署に来るように言いましたが、月曜日は休日ですがと聞くと、「じゃあ、火曜の10時に」 といった調子でした。彼らが帰ったあとで、私たちはジョイントを巻いていました。何かとても奇妙な感じでしたが、政治状況が変わってきたことを実感しました。警察官も通報があったから動いているようで、栽培現場を探しているわけではないと話していました。それにしても、カナビスの医療効果を示す証拠がこれだけ出てきているのに、何故、今だ、私のような多発性硬化症患者に対して罪を問おうしているのかわかりません。


●上院科学技術委員会の勧告

1998年9月、上院科学技術委員会の報告書をいただきました。その中では、多発性硬化症に対するカナビスの研究が継続中の間は、患者を起訴すべきではないと勧告しています。私はこれを読んで、裁判では医療の必要性を盾に無罪を主張することにしました。裁判は2000年の9月に刑事裁判所で行われましたが、4日間の及ぶ疲労困憊の審理の末に陪審たちは全員一致で無罪の票決をしてくれました。証言には専門家の立場からカナビス治療アライアンス(ACT)のクラレ・ホッジに初めて加わってもらったほかにも、ドラッグ取引の監視団体である独立ドラッグ監視ユニット(Independent Drug Monitoring Unit (IDMU))のマチュー・アーサにも出廷してもらいました。

裁判の結果がマスコミで伝わると、お祝いや問い合わせの手紙が殺到し、たくさんの人が援助を求めて家を訪ねてきてくれました。そのころにはカーライルの事務所が使えなくなっていたので、家でカナビスでの治療支援グループ(THC)の活動を継続し、多発性硬化症支援を明確にするためにTHC4MSという名前に変えて、カナビスの医療効果の知識を共有しながら援助を続けました。

裁判の準備をしている時期に、弁護のための情報や支援を求めてカナビス合法化アライアンス (Legalise Cannabis Alliance) にも加わりました。現在では、マークも今後いずれの総選挙にもアライアンスの候補者として立候補することを宣言しています。2001年の選挙ではデビッド・マックリーン(保守党)に対抗して出馬し、地域全体で2%、地元では7%の得票を獲得しました。


●カナビス・チョコレート

以前から何年にもわたりオークニーに住むビズ・アイボルとも連絡を取り合ってきました。彼女は多発性硬化症患者でカナビスのキャンペーナーでもありますが、カナビスをチョコレートにして他の患者にも無料で配布するという運動をやっていました。私たちはカナビスをチョコレートにするというアイディアが気に入り、支援を求めました。

われわれのTHCグループでも、供給先が急遽途絶えたというような緊急事態の多発性硬化症患者に対してカナビスを小包にして送ることを始めていましたが、カナビスに余裕があった時や、栽培者や友達に頼んで貰ったり時などはビズに送りチョコレートにしてもらいました。私たちはこのカナビス入りチョコレートのことをカナビズ (Canna-Biz) と呼んでいます。その当時、私たちも僅かながらカナビス・チョコレートを作って、地元の喫煙を好まない患者たちに提供することも始めていました。

不幸なことに、ビズは北部警察の家宅捜査を受けてしまいました。これを書いている時点では、ビズは、イギリス中の医療ユーザーにカナビスを提供したことで10件の罪状に問われています。多発性硬化症はストレスと密接に関連した病気です。ビズは体調を壊し、チョコレートを用意することができなくなってしまいました。

それでもビズは、患者のために高品質のカナビスの供給源を探す支援を熱心に続けていました。ビズのチョコレートは多発性硬化症患者に目覚しい効果があるので、生産が中断すると、THCグループには同じようなチョコレートを求める患者からの問い合わせがどんどん増えていきました。現在ではおよそ30人の患者に定期的にチョコレートを配布していますが、その数は着実に増えています。

リクエストは遠くアメリカやデンマークからも寄せられました。スイスからのものには医師の処方箋も添えられていました。そうした保証のあるものについては提供を続けています。このサービスは無料ですが、受け取る方からは少額の寄付や郵送用の切手などが寄せられ、主にそれで運営しています。その他にもカナビスの新聞やインターネットに呼びかけて寄付やカナビスも送ってもらっています。

しかし、われわれだけでは、チョコレートを求めるすべての人に提供することは無理なので、自分で供給源を探して自給自足することを提案しています。しかし、どうやって信頼できるディーラーを見つければいいのでしょうか? 当然のことながら、電話のイエローページで探せるわけではありません。


●違法カナビスを奨めなければならない医者

2001年11月28日にBBCで 「カナビスを薬局で」 という番組が放送されると、私たちのところにどこでカナビスを入手できるか知りたいという多発性硬化症患者たちからの質問が殺到しました。その結果、THC4MSのレギュラー配布者はすぐに100人を越えてしまいました。

今では、多くのお医者さんが患者にカナビスを試してみたらと奨めています。スミスさんも奨められた一人で、「何故カナビスを試して見ないのですか? 害になることはありませんよ」 と言われましたが、手に入れることができないと説明すると、「ティーンエイジャーの子供がいるのですから、たぶん見つけてくれますよ」 という答えが返ってきたそうです。スミスさんが私たちに話してくれたところによると、以前に息子さんがヘロインで警察のやっかいになりドラッグに近づけたくなかったのだそうです。息子さんには絶対に頼めなかったので、私たちのことを知って大変安堵されたようです。

でも、お医者さんが患者に違法ドラッグを探すように奨めなければならない私たちの社会とはいったい何んなのでしょうか?

ヒポクラテスの誓いによれば、 お医者さんは患者に対して最善の治療をアドバイスする義務があることになっています。何故多くの患者がカナビスを奨められるのでしょうか? それは、お医者さんが最善の治療法について知っているからです。当然のことながら、お医者さんは何年も訓練を受けてやっとなれるものです。それでも、多発性硬化症の患者に対しては違法なカナビスを探すように言うしかできないのです。お医者さんも専門家として、さぞ屈辱的で気恥かしいことだと思います。

お医者さんは、「カナビス・チョコレートを作っている人たちがいるから問い合わせてみれば」 と言います。でも私は、髪のカットの仕方や髪型について3年間の訓練を受けただけのヘアドレッサーに過ぎません。夫のマークにしても高層ビルや橋などの危険な場所でのクリーニングの専門家で、私たちは医者ではありません。医学の訓練を受けたこともありません。でも、私たちは、多発性硬化症の人たちに対して、病状をコントロールして進行を遅くする効果のあるたった一つの薬を提供しているのです。

こんなことも、お医者さんたちを恥入らせているに違いありません。私が医者なら、恥ずかしく思います。お医者さんたちは多発性硬化症の患者を救うことができないばかりか、できることといえば、私たちのような無資格の活動家かブラックマーケットに患者を仕向けることしかないのです。悲劇というほかはありません。


●西洋医薬の限界

私たちはチョコレートを配布するのにあたって、患者さんには、食べる量を自分の状態に合わせて決めるように伝えていますが、こうした方法に対して医学関係者の方々は好意的な見方をしてくれています。ですが、患者さんはどうでしょうか。普通はある純粋な合成成分を一定に調合した錠剤が良く効くと思っています。

カナビス医薬品を開発しているGW製薬の中国人のワング博士は、二人として同じ患者はいないし、ある人に効いたからといって別の人に効くとは限らない、とおっしゃっていました。カナビスの場合は、ホネオパシーのようにほんの僅かしか必要のない人もいれば、もっと多く必要な人もいるのです。

カナビスは西洋で言う意味の医薬品とは違っています。簡単に言ってしまえば「薬草」(herbal medicine)なのです。これは、カナビスの治療効果のある特定の成分を分離した医薬品ではありません。全体で薬草として効くのです。普通、製薬会社は成分を抽出・精製して服用量を標準化し、誰にでも効くことを保証できる錠剤を作ろうとしますが、私は結局、これがいままでの医薬品の考え方の欠点だとも思っています。カナビスではそのようには決してできないと思います。

ワング博士も、漢方薬がどのように効くのか説明して、カナビスは薬理学者よりも漢方医に扱わせたほうが良いと言っていました。例えば、花粉症の薬をみれば、しばしばハーブがミックスされています。しかし、たくさんの種類のハーブを混ぜすぎたり、調合の仕方を間違えると効かなくなってしまうのだそうです。カナビスの場合も、メスの花全体と植物全体をうまく組み合わせて使わないと十分な治療効果が得られません。

もし、植物からTHCやCBDなどの成分を抽出しても、それは植物の一部に過ぎず全体を欠いています。カナビスの場合は、食物の一部を捨てることなく全部を食べるのと同じで、そこに含まれている全ての成分を取り入れることで最も体に効いてくるのです。全体であって一部ではありません。


●自分に合ったやり方を自分で決める

カナビスを治療薬として使おうとする時に問題になるのが、お医者さんに診てもらう時と同じような期待をしてしまうことです。お医者さんに処方箋を書いてもらって薬局へ行って、一通りの処方薬をもらえばそれで直ると思ってしまいがちですが、でも実際に効くかどうかはわかりません。病気は一人一人微妙に違うのです。悪く言えば、一つの薬をみんなに処方しても効かない人もいるので、西洋医薬品の場合はその分だけ値段も高くなってしまうのではと思ってしまいます。

カナビスの場合は、そうしたやり方を変えて、人はそれぞれ自分の健康の責任を持って、たとえ高い専門性を備えたお医者さんであっても任せっきりにせず、自分の薬をコントロールしながら自分自身の効きかたを確かめながら使ったほうが良いのです。このことは多くの人にも話してきました。

「毎週チョコレートをお届けしますが、ご自分でカナビスを手にいれて、どのようにして摂取するかをご自分で決めたらいかがですか? チョコレートがいいのか、ヨーグルトがいいのか、あるいはもっと別の方法がいいのかもしれません。自分の健康や運命は、自分でコントロールするのが一番です。私たちは週に1本のチョコレートを差し上げることしかできません。もし、それ以上のことをお望みでしたら、御自分で挑戦してみて下さい。」