オランダのハームリダクション政策の中でも、各国から賛否両論含めて最も注目を集めているのはマリファナ及びハッシュ(大麻樹脂)の所持と販売の非犯罪化であろう。
この制度は、上述した70年代から広まりつつあったヘロインを代表とするハードドラッグと、ソフトドラッグ(カナビス)との法的区別を明確に設け、ソフトドラッグユーザーをハードドラッグのマーケットから分離させヘロインに接触する機会を減らし、ヘロインの使用者数を増加させないことを目的としている。
このカナビスの非犯罪化という考えは、60年代の若者のカウンターカルチャー的な体制批判の中から生まれた考え方というだけではなく、オランダでは実のところ社会科学者らによって早い段階から提唱されていた政策であった。
1968年の社会心理学者のコーエンによる最初の非合法麻薬に関する実証的研究Drugs, Druggebruikers en Drugsceneや、1971年の犯罪学者フルスマンによる学際的なワーキンググループの研究の中で、既にカナビスの非犯罪化が提唱されている 。[8]
行政レベルでは1968年にバーン・コミッティーとして知られる麻薬調査委員会が発足し、それまで医療、医薬、司法の専門家のみで構成されていた麻薬問題の公式な専門家集団に、当時の文化・娯楽・社会福祉省(CRM)が加わり、CRMによって社会科学、行動科学の専門家が加えられ問題の学際的研究が進められている。
1972年には麻薬調査委員会による通称バーン報告書と呼ばれる調査結果がまとめられ、その中でカナビスの非犯罪化が慎重にではあるが初めて公式に提唱されている 。[9]
この一連の調査に基づく非犯罪化政策の提唱には、麻薬にはそれぞれ異なった危険性があり、ハードドラッグとソフトドラッグの区別をつけずに使用者を一様に一つのカテゴリーに包摂し犯罪化することは、ソフトドラッグの使用者を結果的にハードドラッグのマーケットに依存、接近させ、かえってハードドラッグの使用を助長させてしまうという調査結果がその根拠となっている。
この委員会からの指摘を受けて、1976年にはカナビスの非犯罪化が制度化され、30グラムまでの所持が最高でも1ヶ月の禁固刑へと減刑されることになった。
しかしここで誤解してはならないのは、オランダでもカナビスの所持と販売は現在でも法的に禁止されている(合法化されていない)という点である。
ただしこの罪を犯しているものが、犯罪者化されることはほとんどない。
この一見矛盾した制度には、オランダの法システムの基本的特徴である便宜主義の原理(expediency principle)が働いている 。[10]
この原理は、犯罪化しうる行為の起訴、告発に対して、職権者が裁判所の許可なくこれを差し控えることを認めるものである。
この原理の適用には通常二種類あり、まず消極的適用(negative application)では、何らかの犯罪化しうる行為が発見された際に、この行為を実際に犯罪化するかしないかは、見逃すに足るだけの相当の理由がある時にのみ個々の場合に応じて判断され実行される。つまり個々のケースにおいて、ある特別な条件がない限りは法を執行するという法の適用制度であり、このタイプの便宜主義は日本を含め多くの国で採用されている。
これに対して便宜主義の原理の積極的適用(positive application)では、ある行為を禁止する法律の存在自体が、その行為を実際に犯罪化するかどうかの判断の決定的根拠とはみなされない。この適用制度では、法の執行とは公共の利益に従属するものと考えられ、公共の利益という優先事項からみて、法の執行が不適切であるならばこれは行うべきではないと判断される。
オランダ型の積極的適用では、消極的適用のような個々のケースにおける判断は行われず、一律に法執行の停止が認められている。
消極的適用では、ある条件が存在すれば犯罪化しないという判断が行われるが、積極的適用では逆にある条件が存在すればそれは犯罪化されるという逆の考え方に立つ。
この積極的便宜主義の原理がオランダのカナビスの非犯罪化には適用されているのである。このオランダのカナビスに対する積極的便宜主義の適用には明確なガイドラインが設けられており、麻薬事犯に対しては「麻薬事犯の捜査と起訴に関するガイドライン」が設けられ、捜査や拘留を行うかどうかの基準となっている。カナビスの国際的輸入、輸出という違反行為に対しては、警察による捜査、身柄の確保、裁判までの拘留が要求される一方で、30グラムまでのカナビスの所持という違反行為に対しては、捜査なし、身柄の確保なし、裁判前の拘留なし、という規定が設けられている 。[11]
こうしたオランダ独自の法執行システムによって、カナビスの非犯罪化という制度は法的にその実施が可能となっているのである。
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[8] Korf, Dirk J. (1995) op.cit., p.44.
[9] Ibid., p.45.
[10] Ibid., p.58.
[11] Ibid., p.60.
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