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Taku博士の薬物政策論稿 > ハームリダクション政策
1-2. ハームリダクション政策の理念(5)
ハームリダクション政策 : 投稿者 : 白坂@THC主宰 投稿日時: 2007-09-25

このような薬物使用に対する道徳的是非を括弧に入れ、具体的な問題の改善に向けた現実的アプローチを志向するハームリダクションの考えは、プラグマティズムの思想から大きな影響を受けていることが表明されている。

プラグマティズムは、ある行為が善であるか悪であるか、正しいか間違っているかの判断は、抽象的価値体系や思想、一般道徳にその判断規準を求めない。
初期のプラグマティズムの代表的存在であったウイリアム・ジェームズを引用すれば、プラグマティズムでは、「抽象的概念や不十分なものを退け、言葉の上だけの解釈、まちがった先天的推論、固定した原理、閉じられた体系、いかにももっともらしい絶対者や根源などには一顧をも与えない」、「諸君はこれら一つ一つの言葉の実際的な掛け値のない価値を明示して、それを諸君の経験の流れの中に入れて、実際に活用してみなければならない」、と主張する[8]。

このようにプラグマティズムとは、ある行為実践のもととなる道徳、価値観、理念、イデオロギーを絶対化せず、その行為の実践が、現実社会あるいは人間の経験的生活にもたらす実際の効果と帰結からその行為実践を評価、判断しようとする姿勢であり、これがハームリダクション政策の基本理念として援用されている。

このようなプラグマティズムの考えに基づき、ハームリダクション政策では、道徳的理想主義者が目指す「ドラッグフリー社会の実現」という理念とそこから帰結する実践から距離を置き、多数の非合法麻薬の使用者が事実存在し彼らの存在が今後も継続するという現実認識に立ち、彼らが非合法麻薬を使用することによって現在生じている使用者と社会への有害性の削減へ向けた具体的実践を提唱するのである。

ここで我々が誤解してはならないのは、ハームリダクションが非合法麻薬の使用を奨励しているわけではないという点である。
ハームリダクションの支持者にとっても非合法麻薬の使用は望ましい事ではない。しかしそれが現実に行われ当面無くなる可能性がない以上、非合法麻薬の使用によって個人と社会が被る有害性を最小限に留めることが選択されているだけである。

しかしハームリダクションの主張と実践はしばしば強硬な反対に遭う。例えば、彼らの実践の一つである注射針の無償交換プログラムは、既に科学的データによって反証されているにもかかわらず、これが麻薬の使用者を増加させる結果を招くとして反対されてきた。
反対者にとっては、このプログラムがHIVや肝炎の感染率を低下させ、中毒者の健康だけでなく社会全体の公衆衛生を向上させることを可能にするという事実よりも、非合法麻薬の使用がいかなる条件であれ継続されることに対する拒否の態度を貫くことと、このプログラムによって自分達が信ずる理念が傷つけられることへの拒否の感情が優先される。

こうした理念優先型の実践の帰結が、刑務所での麻薬事犯の収容率の増加とコストの増加、中毒者のHIV感染率の高止まり、生産国でのドラッグウオーによる様々な弊害を生みだしたとしても、これらは社会と麻薬中毒者が甘んじるべき正当な代償として価値的に容認される。

対照的にハームリダクション政策の支持者は、道徳や理念が本来人間にとって何のために存在しているのかという問題意識に基づき、問題改善に向けての現実的アプローチが禁止政策の理念には欠落しているとしてこれを批判するのである。

このような対立点は、近年日本で進められている犯罪への厳罰化による威嚇効果を巡っての議論とも類似している。
犯罪学者の浜井浩一氏は、「犯罪対策の効果に対する科学的エビデンス、コスト分析を含め、より安価で副作用の少ない代替案などの検討」を行う「エビデンス(科学的根拠)に基づく犯罪対策」と、「まず刑法の重罰化によって国民に規範の何たるかを示す」という刑法改正における法務大臣の発言に見られるような、「(刑罰)信仰に基づく犯罪対策」とを分類し、後者の政策によって日本が今後アメリカ同様の大量拘禁の時代を迎える可能性を憂慮している[9] 。

このように理念信仰型政策と現実的な問題改善型政策との対立は、麻薬問題に限らず他の様々な社会問題においても同様にみることができる[10]。

-------
[8] W. ジェイムズ著、桝田啓三郎訳『プラグマティズム』、岩波文庫、1957年、43頁、45頁。
[9] 浜井浩一著「『治安悪化』と刑事政策の転換」、『世界』2005年3月号、岩波書店、112頁。
[10] 例えば、この麻薬問題に対する理念優先型の禁止政策とプラグマティックなハームリダクションの基本的姿勢の違いは、未成年者の性交渉への社会的対応にもみられる。未成年者のセックスに関する世論と実践は、婚前交渉の完全否定から、行きずりのセックスの許容まで幅広い。不特定多数のパートナーとのセックスや仮に特定のパートナーとのセックスであっても、セックスに対する不充分な知識はHIVや性病への感染、望まれない妊娠などのリスクが伴う。このリスクを軽減させるための方法として、教育現場での性交渉の実践的教育やコンドームの配付などが考えられるが、いわゆる純潔教育を支持する立場の人々からは寝ている子を起こすことになりかねない不適切な対応として強く反対される。このように、道徳的理念や理想を追及する禁止的政策と、ハームリダクションの対立は他の様々な社会的場面でみることができる。

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