違法捜査により大麻取締法で検挙されたTの告発
昨年の夏、ドレッドTさんは夏祭りの会場に車で向う途中、交通検問を受け、違法な車内捜索をされ、大麻所持が発覚して逮捕された。
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成田賢一さん(医療目的主張)裁判記事リスト
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ナイジェリア人の男に巧妙に騙され、大麻の運び屋にされてしまった祐美さんの裁判で、司法は無実の祐美さんに懲役5年罰金100万円という信じ難い判決を言い渡した。冤罪は司法による犯罪である。
姉のさゆりさんは弁護士から上告棄却の知らせを受け、夜通し泣いたそうだ。このような事件に巻き込まれることがなければ、祐美さんは内定していた企業に就職し、子どもの頃からの夢を実現し、社会人としての一歩を踏み出しているはずだった。家族の落胆と悲しみは察するに余りある。
祐美さんを騙したナイジェリア人は、未だに様子を探るかのようなメールを姉に送ってきている。大麻を簡単に手に入れることができるアムステルダムからのメールだという。祐美さんと同じように騙されて運び屋をやらされている日本人がいるのかもしれない。
最高裁による上告棄却決定で、ひとまず裁判は終わってしまった。だが、祐美さんの姉も、妹も、諦めてはいない。まだ詳しくは書けないが、全くの無実の罪で長期の実刑判決を受けてしまった大切な家族を救うため、新たな取り組みの準備を始めている。
先に警察庁は、取り調べの適正化を図るため、取調室に覗き窓を設置して、取り調べを担当するのとは別の部署による監視などを行う方針を示した。まるでどこかの風俗店だ。拉致監禁組織Aチームが、同じ拉致監禁組織Bチームを見張るというだけのことでしかない。
この国の刑事裁判に、希望などない。希望は、理不尽で不条理な取り調べや司法を問い、大切な家族を救おうとする姉たちの思いのなかにこそある。
私たちTHCも、出来る限りの助力を続けるつもりだ。
希望は、警察にも裁判所にもない。希望は、予めあるのではない。それは私たち自身が創り出すことによってこそ生まれるのである。だから、私たちに希望はある。
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まだ棄却決定の通知は手元にありませんが、祐美さんの上告が棄却されたと、姉から連絡がありました。
弁護士や本人の控訴趣意書や上告趣意書を読み、一縷の希望を抱いてきましたが、甘かったのだと痛感しています。
裁判所は、いったいなんのためにあるのでしょう。
多くのマスコミに電話やメールで取材を要請してもきましたが、取り上げてくれるところはありませんでした。朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞、報道ステーション、スーパーJチャンネル、スーパーモーニング、ニュース23、報道特集、週刊新潮、週刊現代、サンデー毎日、週刊金曜日、江川紹子さん。
控訴審から弁護を担当した高野弁護士たちのミランダの会にフォーラムがあり、下記を投稿しましたが、エラーになってしまうので、ここに書き留めておきます。
「司法への絶望」
ある大麻密輸の事件で、濡れ衣を着せられた若い女性が、まともな審理もなく、懲役5年という長期の実刑を科せられた。地裁も、高裁も、まともな審理をせず、最高裁もそれを追認した。
http://asayake.jp/modules/report/index.php?storytopic=21
この国の刑事裁判に希望はあるだろうか。
冤罪で、貴重な人生の若い時期を失うことになるその女性には、絶望しかないのではないだろうか。
裁判を懸命に支えてきた姉は、一審からいったいどれほどの労力と、悲しみと、弁護士費用を負担してきたことだろう。
私は、今、テロリストの気分が少しだけ分かるような気がする。
刑事裁判は、最初から、被疑者に圧倒的に不利だ。警察や検察は、国家権力を背負って、いくらでもコストを投入し、被疑者を有罪に追い込む。財力もない一般の国民には最初から勝ち目はない。
私は、検察庁に対峙する公的機関として、弁護庁が必要だと思う。
ただ騙されただけの者が、刑務所にぶち込まれる。
こんなことがあっていいのだろうか。
この国の刑事裁判に、今のところ希望などない。
希望したいことがあるだけだ。
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2008年1月9日
最高裁判所第一小法廷 御中
平成19年(あ)第2225号
大麻取締法違反・関税法違反被告事件
被告人 木村祐美
弁護人 高野 隆
上告趣意書
本件について、弁護人の上告趣意は次のとおりである。
第1 原審裁判所は公判開始前に控訴棄却判決書を作成した
原審裁判所は、公判が開始される前に、あらかじめ控訴棄却を内容とする判決書を作成し、公判期日に同判決書に基づいて控訴棄却判決を宣告した。このやりかたは控訴審における判決手続を定めた刑事訴訟法の規定を無視するものであって、憲法31条に違反する。のみならず、被告人の公平な裁判所による裁判を受ける権利を侵害するものであって、憲法37条1項に違反する。
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祐美さんの控訴審判決文です。長いので簡単に言うと、「祐美さんの言ってることは信用できないし、利用されていたのかもしれないけど、惚れた男のために大麻の密輸を手伝うこともあるかもしれないから、有罪にする」という内容です。
控訴審の初めての期日に、即日棄却。本当に祐美さんが嘘をついているのかどうか、審理もせずに。祐美さんが缶詰の中身を知っていた証拠は何もないのだ。疑わしきは実刑。懲役5年。控訴審の初日にこのような判決を言い渡すとは、裁判官池田修・吉井隆平・兒島光夫は、初めから審理などする気がなかったということだ。こんな裁判に何の意味があるだろう。もし、裁判員制度がこのような事案にも適用されて、祐美さんの言葉を普通の市民が聞き、確認すれば、こんなデタラメで滅茶苦茶な棄却の仕方はあり得なかったのではないだろうか。
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前略
安曇野はもう雪が降っているのですね。朝夕はひときわ冷え込む頃となって参りました。
白坂さん、お変わりなくお過ごしですか?
東京拘置所もすっかり冬らしくなってきました。
長い間、御無沙汰しております。先日は控訴審に際して電報を頂きまして有難うございます。にも拘らず御礼の手紙すら差し上げず大変失礼致しました。そして、更に励ましの御手紙を拝受致しました。白坂さんが相変わらず御多忙でいらっしゃることは姉から常々伺っておりました。お気遣いして頂きまして、重ねて有難うございます。
控訴審が終わった日から何度も手紙を書こうとしたのですが、どうしても書く気になれませんでした。
何と書けば良いのか分かりません。
白坂さんの御便りを拝読致しまして、改めて悲しくなりました。
同時に、まだ裁判は終わっていない、まだ諦められないという思いで苦しくなりました。
審議が開始されたと思ったら控訴棄却と告げられてしまいました。
控訴に対しては、自分の裁判であることは言うまでもありませんが、それだけではなく、今まで支えてくれた皆の気持ちに報いるためにも、重ねて無実を闘う人の前例になりたいと思い臨みました。
故に、切実に痛感しますのは皆から応援してきて貰ったのに、またしても、高裁でも、無実を晴らせなかったという悔しさです。
白坂さんの電報にあったように私も希望を持っておりました。正直な所、千葉の判決よりもショックでした。高裁の裁判官の知識と経験、そしてコモン・センスを信頼していました。
自分の趣意書、皆や弁護士の文書から築き上げた自信もありました。
白坂さん、可能性の糸に縋って希望を積み上げ、毎日を繋いでいくのは容易ではありませんが、そうして築き上げた期待を壊すのはとても簡単なことですね。
福岡で無罪を闘っていた方々の御無念は本当に胸にぐっさりと突き刺さっています。
本当に、どんな言葉も慰めにならないと思います。
知らずに運び屋とされてしまった己の浅はかさ、己の愚かさへの代償が、この長期に渡る拘留生活です。人生の一部を失うことで罪を償い、犯罪者として疑われてしまう恐怖を毎日味わいながら暮らしています。これこそが罰だと私は思います。十二分に、罰は受けてきたと思うのです。
それでも更に、無実なのに刑務所に行き、出てもこれから一生、犯罪者というレッテルが貼られてしまうのが正義・公正な判決とは決して納得できません。
私達の無実は誰にも奪えません。
誰にも変えられません。
それが事実だからです。
無実であることが自分には分かるから、悲しみ、苦しみ、もどかしく思います。
やりきれません。
どんな事にも、どんな出来事にも意味があると思います(そう思わなきゃ、ここではやっていけません)。
白坂さん、本当に御手紙有難うございました。
マスコミへのメールも、電話も、心から感謝しています。
長い間変わらず、私にも、姉にも、励ましてくださって、有難うございます。
自分でも、できる限りのことをしていきます。
どんどん寒くなっていきます。
何卒御自愛下さいませ。
草々
白坂和彦様
2007年11月29日
木村祐美
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二 今回の事件について
2005年11月に初めて渡欧して以来、私は彼の携帯電話の仕事を手伝うようになり、携帯電話の仕入れの代金としてスルガ銀行から(ウェスタンユニオンという国際送金ができる銀行と提携していたのです)、チャールズの友達の住んでいるアムステルダムへと送金したりして、すっかり彼のビジネス=携帯電話の仕入れの手助けをすることに慣れていきました。
そうして、2006年7月、私は彼とアムステルダムで会い、現地でお土産として持っていってほしいと頼まれて日本へ缶詰を持っていきました。しかし、中身が大麻であるとは一切知りませんでした。
上述してきた通り、私はチャールズと交際してきて、彼を信じきっていました。彼が何か法を破る行為をする人とは、一度も思ったこともありませんでした。
また、氏名不詳者らと共謀したという点についてはチャールズの名前もレイの名前も伝えています。隠そうとしていません。私の知る限りの事実を述べてきました。
今回の事件の真相を知ってもらうためにチャールズからどうか話を聞いて欲しいと思っています。私の姉である木村さゆりがチャールズとやりとりしてきたメールからも彼が何か知っているのは明白なのです。両者のやりとりしたメールをぜひ見ていただきたいのです。チャールズを証人として呼んでいただきたいです。
何卒、ご検討を宜しくお願いいたします。
長文となってしまい申し訳ありませんでした。読んで頂いて、誠に有難う御座いました。
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3.ベルギー・オランダへの行程、経緯
一、1回目の渡欧 2005年11月
私はその後すっかり携帯電話のビジネスについて忘れていました。ところが2005年11月に二人で会っていたときでした。彼が突然、
「実は今、すごく困っているんだ」と言ってきました。「どうしたの?」と尋ねると、
「前に一緒に中国へ行ったときに私が買った携帯電話があったでしょう?あのときのは1・2カ月後には全て壊れてしまった。あの店の中国人は悪い製品だと知ってて売りつけたんだ。ただ、私としては、ああいう携帯電話のビジネスをもう一度やりたいと思っていたんだ。それでどこか中国じゃないところから買おうと思って探していた。ヨーロッパが良いなと思っていたらベルギーの会社を見つけた。
ヨーロッパの会社なら中国の商品みたいに粗悪品じゃない。人としても、中国人はすぐに騙そうとするから信用できない。ヨーロッパの人なら仕事の相手として申し分ない」
「そして、その発注を、実を言うとすでにベルギーの会社にしているんだ。その携帯電話はもうとっくに、いつでも日本に送れるよう荷造りも済んでいるから、取りに行かなきゃいけないんだけど・・・私はニューヨークの父親の具合が悪くて、会いに行くために休暇をたくさん取ってしまったから、もう取れないんだ。私の代わりにベルギーまで携帯電話を取りに行ってくれるように友達にも知り合いにも、皆に頼んだのだけれど誰も行くことができないというんだ。誰も助けてくれない。私の友達は困っている時には私は助けてあげるのに、私が困っている時は皆助けてくれはしない。どうしたらよいか分からない。」
などと言ってきました。さらに、彼が
「1日も早く行かないと荷物は既に準備できているし、その荷物を今はずっと倉庫に置いてもらっている。このままだと保管料も多く支払わなければならない。ただ行って帰ってくるだけなんだ・・・」
と訴えてきたのです。
当時、2005年11月、私は大学4年生でゼミと1・2コマの講義があっただけでした。時間的に行けないわけでもなく、悩んでいる、困った、どうしよう・・・と訴える彼に代わって私が行くことになりました。彼と二人で面と向かって話をされました。断ることなどできませんでした。
それまで海外に一人で行ったこともなく、一人で行かなければならないなんて怖いという気持ち、不安でいっぱいでした。
「行って、帰ってくるだけで携帯電話の荷物に関しては私の友達が手続きしてくれるから、君は何もすることないんだ」
という彼の言葉に対しても果たして自分が彼の携帯の輸入を手助けできるか、ほとんど何も分からない状態でした。けれど彼が中国で購入した携帯電話を売るような、同じようなビジネスをやりたいというならば、外国人として日本に来て働いている真面目な人だからこそ彼の困窮している姿を見ると、応援したい、協力できればと思いました。
この1回目の時彼は携帯電話ビジネスについて
・彼はこのビジネスをアムステルダムにいる友達といっしょに始める。
・携帯電話をオーダーするのはベルギーにある会社である。その会社はインターネットで調た。
・自分が働いているPREXTONという会社はベルギーに本社がある。その出張に行ったときにネットで調べた携帯電話の会社を見に行ったことがあって、その会社の人とも話して気に入ったのでそこで取引しようと思った。
・チャールズの友達がベルギーにある携帯電話の会社とのやりとりを担当している。
・荷物を運ぶのに郵送では携帯電話だから壊れてしまったりするかもしれない。誰かが直接飛行機で行って預託荷物として運んだ方が安心できる。
・輸入してきた携帯電話は自分の知り合い、友達にまとめて売る。ベルギーに注文する前に各自がどれくらい買ってくれるか聞いてから携帯電話をオーダーする。だから輸入したらすぐ売れるし在庫として残ってしまうことも無い、良いビジネスだ。
・運送料も重さも量もあるから海外郵送で運ぶと結構料金もかかる。一人が往復する航空券やホテルの費用とを合わせた分よりもかかるものだ。
・旅行代理店を通じて航空券を買えば正規の代理店とは異なり格安で帰る。
そして、どうして私が旅行者としてオランダに行かなければならないのかについては
・ベルギーまで行ってくれるならばついでに友達に会ってほしい。その友達はアムステルダムにいる。彼に書類を渡してほしい。
・アムステルダムの友達にも航空券を渡してほしい。それをもとに友達がベルギーの会社に連絡して携帯電話の荷物をあなたが帰るとき、ベルギーの会社があなたの荷物としてオーストリア航空に預ける。
という、携帯電話の輸入のためにオランダのアムステルダムにいる友達に会うようにとの理由からでした。
また、携帯の荷物をオーストリア航空に預ける際にはその会社の人がブリュッセル空港まで来てチェックインしてくれる。会社の人は、事前にチャールズの荷物である携帯電話を私の名義で預けるということができる。個人でするのではなく企業間で手続きをするから預託荷物として預けることができる。全ては前もって説明を航空会社にしてあるから可能なのだ。
そのため私は向うの空港から日本へ出発する際に自分で彼の携帯電話の荷物を預ける必要がない。日本に到着すると私と一緒に運ばれてきた携帯電話は千葉にある保管所までチャールズが引き取りに行くと聞いていました。チャールズはそこで私の利用した航空券が控えて照会して、関税の支払いをしたり、荷物の検査をする。一連の手続きが終わったら携帯電話を受け取る。私が帰国したら彼はすでに荷物保管所に彼の友達と車で行くから、手続き後、受け取った荷物を車で運ぶ。
との説明でした。
ベルギー、オランダへと行くことが決まるとチケットをすぐに手配することになりました。チャールズにベルギーに行ってくれと頼まれた日、彼は「1日も早くいってほしい、毎日保管料がかかるんだ」と言うのでなるべく早い日程で行くことになっていたのです。
そこでチャールズが普段海外へ行く際に毎回チケットの手配をしている旅行代理店で私の航空券を購入するように言われたので、いつもチャールズの予約の担当してくれている難波さんという女性職員に会いに行きました。その会社はマップ・ツアーという名前で、横浜駅西口から約五分くらいの距離に横浜営業所がありました。その際には、私一人では現地で滞在するホテルもみつけられないので、航空券予約する際にいっしょにホテルも予約してもらいました。そして、チャールズから携帯電話の話を聞いて2・3日後にはベルギーへと向かいました。
航空券を予約する際に起きたことも、チャールズを信じてしまうようになってしまった理由の一つでした。まず、出発するチケットがあって、ベルギーに翌日に行けるかどうかを調べてと言われ、旅行代理店に問い合わせてみると、翌日出発のチケットはないのだと言われました。早くても2・3日後の日程から先でしか予約できないとの反応でした。費用は10万円前後くらいだったと思います。次に直接、航空会社へ問い合わせてみるよう、チャールズに言われました。万一、空席があればそれを使おうという話でした。オーストラリア航空、エアフランスなどに電話をして尋ねると、「席はあるが値段は50万円くらい」しました。電話をかけたのは私でした。それを彼に言うと、
「ほらね、正規の航空運賃だと、こんなに費用がかかるんだ。もし普通に航空郵便で送るとそれくらいお金を払わなければならない。日本人は輸入する際、貨物の代金として正規の料金だから旅行代理店を通して航空券を購入すれば10万円前後で済む。人が一人行って持ってくれば2分の1くらいの料金で経費は足りるんだ」
と、私が旅行者として行く意義を説明されました。こうした経緯からチケットは航空会社を通して翌日の便で予約するのではなく、旅行代理店の難波さんを通して値段の安い航空券を買うことになったのです。
チケットを買うと、すぐにベルギーへと行きました。とにかく、彼の話を聞いて応援したいという気持ちしかありませんでした。
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四、初めての海外旅行と携帯電話の購入
就職活動の合間である2005年2月の時でした。チャールズが
「君は今まで海外に行ったことがないんだよね」
「洋服とか靴が安く買えるから2泊3日の短い日程で中国が韓国へ行こうと思う」
「私が連れていってあげるよ」
「中国の杭州には友達もいるんだ。彼は中国語が話せるんだ」
と話をしてきました。
私はそれまでパスポートを作ったことがなく、海外旅行に行ったことがないことを彼は知っていたのです。チャールズがその時、なぜ休みを取ることができたのかというと、同年夏ごろに米軍での仕事を辞めて一般企業に勤め始めだからです。チャールズは
「イラク戦争の人事に関わる仕事は精神的にとっても苦痛であり、これ以上やりたくない」
「自分は黒人だからこれ以上は昇格できない。仕事を辞めて、新しい仕事を探そうとずっと思ってきた。タイミングは今が良いと思う」
「自分の父親の具合がとても悪い。父親はニューヨークにいるから、このまま仕事を続けると休みをもらうこともできないので父親へ会いに行くことができない。ニューヨークにいる弟や妹たちも一度戻ってきて欲しいと言っているので、休暇を取れる一般企業で働きたい」
などの理由を話していました。私が聞いたときには彼が思うようにするのが一番よいのだろうと思っただけで話しに納得していました。
上述した事情から、チャールズは夏ごろアメリカへ渡り、しばらくして帰ってきたあとに”PREXTON(プレクストン)”という会社に、2004年秋ごろから勤めるようになったそうで、その会社は
「PCのシステムプログラミングをしている会社であり、自社開発したソフト販売している」
「自分はその会社でシステムエンジニアとして働いている」
とのことでした。その会社を選んだ理由は、先述した
「父親に会いに行きやすいように、休暇を取れる企業を探していた。企業へ行って面会で相談したら休みをくれると言われた」ことや「滞在ビザも、会社で労働用のビザを申請してくれるという確約ができたから」
と聞きました。
また、彼は同時に、自分のパスポートをアメリカから両親が保有していたナイジェリア国籍に移したのだそうです。米軍に勤めるのをやめるなら色々なしがらみもあるから、どうせなら国籍の変えたいのだと言っていました。私は、国籍や軍に関する知識をほとんど持っていませんでしたので、そういうものか、と思っただけでした。そして、チャールズは「いつかナイジェリアに住みたい。自分のルーツである国だからナイジェリアで家を持ちたい」のだと言っていました。だから、私にとって、ナイジェリアの国籍に彼が変えると言っても不自然なことには感じられませんでした。
また、チャールズはPREXTONで働く間に上で杭州行った際に洋服・靴といった、アパレルが格安で買い物できると知ったからまた行ってみようと思っていたのだ、と行き先を決めた理由を話していました。
この旅行することが確実になり、彼に促されたので私のパスポート作りました。
以上の状況下、チャールズと私は中国へ旅行に行きました。チケットやホテルの手配等は彼に任せきりで、文字どおり右も左もわからなかった私は彼について、杭州へと行きました。現地に到着すると彼が出張で行った時、杭州で知り合ったという友達が同行してくれることになっており、中国語が話せない私たちに代わって買い物や料理店など、行く先々で通訳をしてくれました。そして私たちは地元のお店で洋服やバッグなどを大量に買いました。このとき、チャールズは
「友達からジーンズや靴を買ってきてほしいと頼まれていた」ことや「安く買ったものを多少高くして他人に売ろうと思った」らしく、たくさん買い込んでいました。その後、チャールズが「携帯電話を買いたい」と言い、その友人とチャールズと私で携帯電話の店に行きました。そこで、チャールズと友人は店員と交渉しながら20個購入することにしたようで、一個一個携帯が本当に使えるのかを確かめながら決めていました。メーカーはニキアだったと思います。チャールズによると購入した携帯電話を知り合い、友達に売るとのことでした。これらの電話はプリペイド式の携帯電話でその番号にチャージするといくらでも使い続けることができるそうで他国でも使えるのだと説明されました。
私自身は世の中のことについて、そして国外における携帯電話事情をまったく知らないし、彼は外国人であるから他国の状況について、私なんかよりもよく知っているのだという意識が彼に対して強かったのです。彼の発言・説明に対して、「そういうものなのか」と疑うことなく信じていました。実際その場で、彼が携帯電話に通話できるか試し、できていたので、彼の説明をなお一層真実だと思っていました。
日本への帰国の際にはスーツケースで預託荷物として持ち帰りました。空港に到着し、検査台に並ぶと、検査台の職員にスーツケースを開けるよう指示され、中身を全て検査されました。
後日、「持ってきた携帯電話は全て売れた」と、彼は喜んでいました。この仕事に関する話は出ないまま、しばらく時間が経過しました。
次に携帯電話に関する話が出たのは2005年8月ごろだったと思います。
「中国の携帯電話を買ってもらった人たちから壊れてしまったと苦情言われた。きっと中国で購入したから品質がよくなかったのだろう。全て売り切れたから、再び中国へ行ってまた購入しようと思っていたけれど、もう買うのはやめる。良いビジネスだと思ったのに」
と言っていました。私が聞いたのはこれだけでした。
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三、就職活動と内定、寮長としての務め
チャールズと付き合うようになって半年以上が過ぎた大学3年の冬になると就職活動を始めるようになりました。当時から、貿易や輸出入業、物流関係の業界に関心が高かったのでそれに関連した企業に総合職として就けるようにと思っていました。
もちろんチャールズは私の学科・コースも知っていましたし、私の夢・希望する職業も知っていました。互いの夢、将来について話し合うこともしょっちゅうでしたし、彼も「私も輸出入業・貿易に興味がある」という風に言っていました。
彼の生い立ちについては、「アメリカのニューヨークで育った、高校卒業後、大学はイギリスで卒業した。専攻は経済学である」との話でした。私が卒業論文のテーマで悩んでいて、彼は何について書いたのか聞いたところ、「アフリカにおける石油戦争と経済への影響について」だった、また「成績が非常に良かったので、卒業式でこの論文をスピーチした。その時に米軍の関係者にスカウトの形で誘われて仕事に就いたんだ」と聞きました。私は彼のことを、頭の良い、そして仕事熱心な人物であると見ていました。時事についても詳しく、日本語も理解していた彼を私は知的だと尊敬していました。したがって彼とは経済についても、仕事・就職活動についても話題にしていました。後に、2005年5月になると、物流関係の企業で内定をもらうことができました。目指していた業界での総合職の仕事でした。その会社では、総合職の社員は皆男性だけでした。人事の担当の方に面接で熱意を認めていただいた結果の、唯一の女性社員となる予定でした
また、同時期2004年11月ごろから寮では、寮長を務めるようになりました。寮は協同生活なので寮長は、寮と大学の間で調整役となったり、寮の管理、寮生にかかわること全般をまとめる係です。そうした一連の活動を通じて、秩序を保つためには規則を守ることがどれほど重要か、人の迷惑になることは決してしてはならないこと、皆がそれを念頭に生活していくことがいかに必要であるかを強く思いました。
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二、チャールズとの交際に関して
彼とは映画を見に行ったり、買い物に行ったり食事をしたりしました。アフリカンレストランにも毎週のように行きました。からの友達にも数多く会いました。アメリカ出身の人もいたし、アフリカ出身の人もいて、様々でした。皆、服装・言葉遣いも爽やかな印象を受けることが多かったです。また、チャールズからは「旅行が大好き。趣味は旅行」と聞いていたので、色々な地域・各国に友達がいると常々聞いていました。そのため、後々になって中国やヨーロッパに行った際、彼の友達を紹介されても何の違和感も覚えず、すんなりと受け入れてしまいました。
何よりも私が彼を人として信頼していた原因は、彼が敬虔なクリスチャンであったことにあります。私に対して接するとき、チャールズはいつも「クリスチャンだから・・・」という風に説明をしていました。
たとえば、「月曜から土曜日までは一生懸命働くけれど、絶対に日曜は働かない。クリスチャンだから」と言ったり「自分はクリスチャンだから決して離婚はしたくないし、しない」と語っていました。彼と会ったとき、彼は初対面の私に「私は今まで結婚したことはない」と言っていたことをよく覚えています。
そうしたことから、週末になると、一緒に行ける日は二人で教会に通いました。クリスチャンではない私でさえも、教会は神聖な場所であり、その場において偽りの言動を彼が行うなんて、全く考えられません。一緒に教会に通うという行為は、お互いを真剣な交際相手として捉えられる、と一般的にクリスチャンとしては考えられていますし、私もまた、その気持ちが彼にある、そういう意思表示と見なしていました。実際チャールズ自身が、私にそう話していました。彼は「君は私にとって妻のような存在だ」「君は私の妻だ」という口調でした。
彼が私に彼の友達を紹介していたように私も彼に私の友達を会わせていました。私の友達はどのように私が彼と付き合っていたか、それほど深く彼自身を、彼の言葉を信頼していたかを知っています。チャールズは私の友人といっしょに食事に行ったり、、私の友人と私、彼の3人で友人の誕生日祝いを一緒にしたりするほどに親しく交際してもらっていました。
私が友人に彼との付き合いに関して相談することもしばしばでした。私とチャールズは喧嘩することも時々ありました。いずれも些細なことが原因でした。愚痴をきいてもらう一方で、彼の性格や人物性、仕事や国籍といった、個人的なことについても話していました。
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2.大学生時代の出来事に関して
一、チャールズ・ンナディ・チュクメワカとの出会い、そして付き合うに至る経緯
ラファエルが去り数カ月が経過した同年12月ごろ、友達に誘われてBというクラブに行きました。どうしても心にとりついて離れない虚しさをごまかしたい、気を逸らそうという弱い心の状態だったと、今は思います。男性とお付き合いするということに対して、右も左もわからない、無知な自分は、当時のやるせない気持ちや悲しみと、どのように折り合いをつけたらよいのか分かりませんでした。徐々に自暴自棄になっていた頃でした。本当に幼稚で浅慮な考え方をしていました。
その日は、12月5日だったと思います。化粧室に行った女友達を待っているときにンナディチャールズ・チュクメワカという男性に声をかけられました。チャールズが今回の事件に関係ある人物で、彼こそが、私に平成18年7月アムステルダムに行こうと言ってきた人であり、現地で私に今回の事件の缶詰を渡したのです。
彼と知りあった日、また外で食事でもしないかと言われたとき、私にとって彼は英語を話す練習相手になってくれるなら、友達として会えば良いだろうくらいに考えていました。あくまでも音楽を聴きに、そしてストレス発散、英語を話すためというのが元々の目的で、それだけでした。それゆえ、彼に話しかけられた時点で自分にはアメリカ人の彼氏がいること、そして彼は米軍に勤めていることなども話していました。私の説明に彼は納得して、その上で友達になってほしいと言ってきたので、何度か食事をしたりお茶を一緒に飲んだりするようになりました。チャールズは私に、
「自分(チャールズ自身のことです)は米軍の基地で働いている。オフィサーだ。」「国籍はアメリカだ」
などと話していました。最初の頃、二人で会話する際は英語を両方使っていました。彼の英語は流暢で、アクセントに訛りも感じられなかったので、彼の言葉を疑う理由も糸口も、私には思いあたりませんでした。私はチャールズの自己紹介を額面通りに受け取っていました。
そもそも、今回の事件によってチャールズに関する情報を弁護士さんから聞かされるまで嘘をつかれていたことも、全く知らなかったです。自己紹介で嘘を言う人がいるなんて、想像したこともありませんでした。
私はチャールズにありのままを伝えていました。ラファエルは平成16年の4月にもう一度日本に来ることが分かっていたので、そのことも、チャールズに話していました。チャールズは友人でしかありませんでした。しかしながら4月が近づくにつれてチャールズが
「自分は仕事上軍で働く人の個人データを見ることができる」
「ラファエルも情報ももちろん見られる」
と言ってきました。チャールズは私に米軍で人事担当の仕事をしていると話していました。ゆえに、仕事の性質上、米軍関係者の情報は、目を通せる立場にあるのだと言っていました。彼は平日だけでなく、土曜にも働くと言っていたり、コンピューターにとても詳しいのだと話したり、仕事で常にパソコンの画面を見ているからとても目が疲れる・・・といったふうに、自分の仕事のことを頻繁に口に出していたのです。仕事の過酷さや上司の愚痴をこぼしたり、とにかくチャールズの仕事は私たちの間でよく話題に上りました。加えて、チャールズの知り合いや友達にもアフリカンレストランやバーで会い、彼らもまた、米軍で働いていると紹介されたことも度々ありました。
以上のように見聞きしてきたので、私は彼の言葉、仕事に対する説明も事実であると認識していました。そして同時期、
「ラファエルは結婚している。離婚したというのは嘘だ。彼は今でも奥さんといっしょに住んでいる。君には隠している。騙されているのに気付かないなんて・・・」
と言い始めたのです。ラファエルが以前結婚していた、今はすでに離婚している、と、ラファエル本人。ラファエルの友達の口から聞いていました。だから、チャールズが言い続けることを激しく否定しました。そんなはずは無いと思っていたし、ラファエルを信じていました。
4月が来て、ラファエルが来日しました。やはり彼を非常に好きな自分に気付き、離婚しているというラファエルの言葉が真実なのだろうと思いました。しかし、2・3週間もすると、またしてもアメリカへ戻っていきました。1回目の別れよりもさらに苦しくせつないものでした。1回目の時は、次に再び会えることが分かっていて、その上でのしばしの遠距離でしかなかったのですが、2回目の際は今度会える日がいつなのか全く見当が付かずに分かれる状態でした。また一人の日々が始まり、精神的に不安定になりだし、孤独を感じ悲嘆にくれました。馬鹿らしく聞こえるのは百も承知ですが、私にとってラファエルは心から大切に思っていた人でした。悩むほど泥沼に陥り、心が寸々(ずたずた)になり、捨て鉢になっていきました。こんな離れた状態は自分には耐えられない、ラファエルにとってもこの状態はどうなのだろう・・・と、手におえない負の感情と、空間的な距離にどうやって対処したら良いのかと、陰気な自分が嫌でたまらず、今後どうしていくか、気持ち・態度をはっきりさせるべきなのだと思っていくようになりました。
一旦無理かもしれないと思い始めると歯止めがかからなくなり、別れるべきだという彼の言葉が正しいのだと思い込んでいきました。その時、近くにいたチャールズの「君の彼氏はまだ結婚している」という主張を信じていた私は、最終的にラファエルに別れたいと伝えました。それほどまでにチャールズを信用していた理由の一つに、チャールズがラファエルの名前を知っていたことが挙げられます。
と言うのも、前述した通り、私はチャールズに「彼氏がいます」と初対面の際伝えていましたが、「ラファエル」という名前を教えたことは絶対ありませんでした。そのため、会話の途中で
「彼氏の名前はラファエルだろう?」いる
と、チャールズの口から名前が出たとき、とても大きな衝撃を受けました。私のこの時の驚きは言葉では言い表せません。
「どうして知ってるの?」
と聞くと、
「前にも言った通り、私は軍で働いている人の個人情報が見られる立場にあるんだ」
と答えたので、その発言自体や自信満々の態度にさらに一層納得してしまいました。
その後しばらくすると、チャールズから何度も付き合ってほしいと話をされて、結局チャールズと付き合うことに決めました。
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三、寮での生活
量は学部・学科こそ異なれど、同じ大学の先輩・後輩合わせて30名が定員であり、自治寮として規則を自分たちで積み上げてきたので、皆が寮生であるという自覚を持ち、行動し、互いを尊重し合い、規律を順守することによって秩序が保たれていました。
門限があり、女子寮なので家族とはいえ、男性は一切入ることができず、月に1回は寮生会議が行われていました。その際、門限を破った者、規則に従わなかった者は罰を受けることになりました。集団で生活する以上は規律を守ることは当たり前という意識を持っていましたし、それを破れば、罰せられるのも納得でした。ルールが存在するのも意味があるからであって、ルールは基本的な事項として認識していました。一人の行為で皆にどれほどの迷惑をかけることになるかも痛切に学びました。
寮生は全国各地から集まり、親元から離れて暮らすことから月日が経つにつれて私にとっては家族同然の存在となり、とりわけ親しい寮生とは、何でも話せる、とても親しい仲間となりました。その中で、寮生の先輩の一人がダンス部に所属しておりました。定期的に横浜にあるBRIDCE(ブリッジ)やLOGOS(ロゴス) というクラブでダンスのイベント行ったり、その後の人がDJをしていました。それで、先輩が誘ってくれたのがきっかけとなって、寮生の数名と一緒に行きました。高校までずっと勉強一辺倒で生きてきた私にとって、遊びといったら読書をしたり、映画を見たりするくらいでした。お酒も二十歳になるまで飲んだことはありませんし、煙草に至っては、今に至るまで、1回たりとも吸ったことすらありません。
高校時代は、3年間、土日は模試で学校に通うことも多く、長期の休みに入っても、友達と学校にほぼ毎日通って、勉強するのか日々の日課でした。
そんな中で、大学の寮に入ったことで、クラブに行く経験を初めてしたのが、2年生の8月ごろだったと思います。もともと音楽を聴くのは大好きでした。特にR&Bが好きで、普段から聞いていました。高校の時の英語の先生を非常に尊敬しており、その先生の影響を待って、語学という、異なる文化を持つ人とさえも意思疎通を図れるツールである英語を、他の科目よりも重要視していた私にとって、洋楽は生きた英語の勉強にもなりますので尚更魅力的でした。
重ねて、過酷な受難の歴史を歩んできた黒人史に、自分の母親の故郷である沖縄の親戚や人々を合わせて見ていたことから、非常に興味を惹かれました。独学だけでなく、大学でもアフリカの経済史を学んだり、アメリカ文化史として黒人史を講義でとりました。これらの背景からも、自分の好みを大音量、友達や先輩といった気の置けない人々と聴くことのできる空間は、私にとって心地良い、安全な場所でした。怖いという印象はなく、同じ大学の学生ばかりがいる状況だったのです。
扨(さて)、平成15年9月ごろのことです。非常に個人的な話で恐縮ですが、横浜にあるバーで、ラファエル・オテロという男性と知り合い、デートを何度かし、交際するようになりました。彼が初めておつきあいした男性でした。彼はアメリカ、カリフォルニア在住で、来日したのは米軍の仕事の主張としてでした。そのため、2・3週間滞在すると帰国しなければなりませんでした。普段はワイン会社で働くサラリーマンであり、休日に時々、副業として米軍で働いていました。とても仕事熱心な人で、毎日勤勉に働き、努力を惜しまない人でした。私は彼の心の底から尊敬していました。心が豊かな人で、広い心を持つ彼と一緒に居られると、私も暖かい気持ちになれました。また、彼は前向きで、私は彼の影響で、スペイン語や英語を学ぶようになり、彼に釣り合いの女性となれるように、勉強にも身が入り、私に良い刺激を与えてくれる、努力することの大切さを教えてくれた人でもありました。彼が日本にいる間、厚木にある基地に入り一緒に食事をしたり、横浜を彼と彼の友達を案内したり、抹茶や日本食を食べに行ったりして過ごしました。とても充実した、素晴らしい日々でした。その為尚更、彼がアメリカへ帰国してしまって以来、一緒に過ごせたあの頃の思い出が素敵で輝いていた分、激しい空虚感・孤独・寂しさが募っていきました。彼とは毎日必ずメールでやりとりをし、連絡をとり続けることで、気持ちをつなぎ、気を紛らわせるものの、あくまで一時的なものでしかなく、焦心は消えず精神的に不安定になっていきました。月日が経つにつれて、一体次に会うまでどれだけこんな苦しみを味わって行かなければならないのか、という先が見えない感覚に捉われていきました。
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二、大学での生活
大学に入るうえで、親には一切頼らず全て自分で賄うことは前提条件でありました。貧しい経済事情にもかかわらず、私に高校まで卒業させてくれた両親に恩返しできるよう、また、私よりも年下の妹・弟がお金がないせいで学校に行けないことがないようにと、絶対に国公立の大学に入るつもりで決めていました。
色々な大学について調べていくうちに、実家の栃木に近く、休暇時に行き来のできる関東で、大学寮があり、その寮に卒業までの4年間住ませてもらえる大学が条件として絞られていきました。加えて、将来働くうえで役立つ、経済・経営といった実地の学問を学べるところとして、横浜市立大学は、まさに私の希望する条件にぴったり合っていました。
そうして高校3年時の実験の結果、合格することができ、寮も審査の結果、入寮を許可されて無事大学へと通へる下地ができました。学費・住居の面から考慮して、長年心の中で温めてきた夢が、このとき一つ叶いました。1日も早く、両親を楽にしてあげたいと、この時さらに強く願うと共に、少しでも社会貢献できる大人になりたいと思いました。
こうして、平成14年4月から横浜市立大学商学部経営学科に通い始めました。大学では、二つの奨学金を授与・貸与されていました。一つは、日本育英基金の無利子の控訴を貸与され、もう一つは城南信用金庫という五反田に本店のある金融機関に設立された小原白梅育英基金であり、奨学生として返済不要の奨学金を4年間、卒業まで授与せていただきました。
当基金は、私設の機関として設立され、日本では有数の育英機関として名前を知られており、厳しい選考がありました。応募資格は高校時の平均成績が5点満点の中で4.5以上といった、成績の最低基準があり、所属大学は一流大学として指名された大学に在籍する学生に限るという厳格な規定と審査がありました。ゆえに、奨学生となった者は東京大学や一橋大学などの将来を有望視された学生たちであり、基金の理念として掲げられた日本や世界に貢献する志を抱いた苦学生でした。
私が経営学科を選択したのは就職活動する際に活かせるためにという、将来を見据えての決定でした。経営者として起業して、社会貢献をしたいと思ったからであり、女性の活躍できる企業・組織づくりに少しでも参加したいという夢と、アメリカの実業家・慈善家であるロックフェラーやビル・ゲイツなどに代表される経営者たちのようになりたいという目標があったからでありました。加えて、グローバルな視野で学びたいという思いから、コースもインターナショナルビジネスコースに進路を決めました。
2年の後期になると、ゼミを選択することになりました。2年の前期から講義でマーケティングを受講したことが契機となって、マーケティングに関心が高まり、より深く、広く知りたいと思いました。経営学科の中でマーケティングのゼミは一つしかなく、1・2を争う人気がありました。ゼミ志望の用紙を提出し選考・面接で、ゼミ生として入ることを許可してもらい、高い倍率からゼミ生となることができることとなりました。
ゼミでは、消費者心理学、ブランド論を中心としたマーケティング全般について学習しました。3年生時には神奈川県の主催する産学連携プログラムの一環で懸賞論文に参加しました。この論文は県内の企業と大学が合同で行う形式をとっており、企業の課題・問題、例えば、新規事業提案や業務改善に対して学生側からの提言をするものでした。半年以上かけて、もう一人のゼミ生と論文を作成することになり、リサーチのために一般の人に向けてアンケートを実施し、分析にかけたり、実際にさまざまな場所へ赴いて情報収集を行い、完成したものをもとにパワーポイントを作って、企業の方の前でプレゼンテーションを行い、応募の結果、優秀賞を受賞しました。この年、ゼミの成績も優をもらいました。
また、大学生活の中で、1年生時は空手のサークルに入りました。2年生時以降は寮生活に慣れるに伴って、寮が日常の中でさらに大きな比重を占めるようになり、加えてゼミが開始したので、寮とゼミが第一優先になりました。学校のある時期は文字どおりゼミ一色となる状態でした。長期休暇に入ると、合宿を行い、連日徹夜でケーススタディを行ったりし、分析を行い、ディベートをし、プレゼンテーションのためのパワーポイントを作ったりする熱心なゼミでした。私もゼミ生も皆積極的にゼミ活動に参加していました。
そして、生活費のために、アルバイトをしました。それは同時に社会勉強でもありました。将来の仕事に活かすために幅広い職業を経験したいと思っていたので、ガソリンスタンドでの営業巡りをしたり、リゾートホテルでのフレンチレストランのウェイトレス、日本料理店のウェイトレス、百貨店の配送に関するクレーム処理、スーパーマーケットの中でのお中元・お歳暮、催事担当、テレマーケティング会社での受発信オペレーター、塾講師等として働きました。
同時に、通っている大学の女子寮である”萌生寮”も生活のなかで家族のような役割を果たすようになってきました。寮生が私に与えた影響も大きく、先輩は姉のような存在でした。
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