1978年はアメリカの麻薬政策にとって大きな転換点を迎えた年である。
この年にボーンに対し、偽の名前で精神安定剤の処方を書いたこと、彼自身がコカインをパーティで使用していたというスキャンダルが起き、カーター政権は麻薬問題の最高顧問であったボーンを失うと同時に、ドラッグに対しこれまで通りの寛容路線を進むことが政治的に難しくなった[25]。
さらにこの年を境目として、マリファナの常用が危険であると考える高校の最上級生の数は上昇し、1978年に35%に過ぎなかった割合が、その後1985年までには70%に上昇し、実際の使用者数もこの年を境に80年代にかけて減少していく[26]。
この変化の背景にはスキャンダルだけではなく、マリファナ使用とその使用者に対する反対運動の盛り上がりがあった。
この世論の変化をリードしたのは地域の父兄グループであった。
彼らは子供のドラッグの使用が与える悪影響を家族の立場から問題化し、麻薬(narcotics)だけでなく、アルコールによっても社会と家族のメンバーが危険にさらされているという主張を展開した。
アトランタでは1977年にマーシャ・マナットという主婦が、子供達のパーティがドラッグパーティになっていることを憂い、地域の親を組織化し様々な麻薬専門家のところに相談に行った。
当時は寛容的意見が主流であり彼女の意見に同調しない専門家が多い中、彼女達の意見に耳を傾けたのが当時NIDAの責任者であった医師のロバート・デュポンであった。
NIDAの協力のもと、彼女らはParents, Peers and Potという小冊子を百万部以上を配りマリファナの使用を抑制する啓蒙運動を始めた。
デュポンは、当初マリファナの所持の非犯罪化を支持する意見の持ち主であったが、彼曰く、「両親の力がわたしのマリファナに対する考えを変え」、マリファナの非犯罪化に厳しく反対するようになった[27]。
マナットらは1978年に反ドラッグの父兄組織、PRIDE (Parent Resources Institute on Drug Education)を設立し、その2年後には反麻薬運動を行う父兄団体を総括する全米組織、NFP(National Federation of Parents for Drug-Free Youth)を組織化し運動を盛り上げた。
ここで我々が注目すべき点は、こうしたマリファナに対する否定的世論は、マリファナの危険性に関する新たな科学的発見ではなく、アルコールを含め麻薬が社会に許容されることの影響を問題化した道徳的アントレプレニュールらによる社会運動によって生みだされた点であり、その点でかつての禁酒法の成立と類似した現象といえるであろう。
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[25]Musto, David F (1987) op. cit. p. 268-269.
[26] Ibid., p. 270.
[27]Ibid., p. 271.
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1977年に大統領に就任した民主党のジミー・カーターもドラッグに対してはフォード同様の寛容政策をとった。カーターがドラッグ問題の顧問としたのは先のボーン医師で、大統領の側近としてこの問題の全権を握った。
まずカーター政権は少量のマリファナの所持を非犯罪化し1オンスまでの所持を少量とみなす方針をとった。フォード政権と同様に罰金を中心とした罰則規定をとり、刑務所での留置などの服役刑が科されることはなかった。
しかし完全な合法化は1961年にアメリカも調印した国際麻薬統制条約である単一条約(Single Convention on Narcotic Drugs)違反になるので、マリファナ所持に関する処罰は各州の裁量に任せるという方針をとった。
1977年にカーターは議会で、「ドラッグの所持に対する刑罰は、ドラッグそれ自体の使用よりも個人により大きなダメージを与える」と述べ、マリファナの個人使用目的での所持に関して罰則をゆるめる意見を各州の行政機関に向けて発している[22]。
このカーター政権の麻薬政策の柱は、非合法麻薬すべての禁止ではなく危険性の高いドラッグに対してのみ国民に注意を喚起させることであった。ボーンが特に危険視したのは1977年に2,000人の死者を出していたバルビツレートで、これに厳しい規制をかけつつ、またトルコ産に代わってアメリカに流入していたメキシコ産のヘロインに対しても、経済援助と引き換えにメキシコ政府に除草剤の散布によるケシ畑の殲滅作戦に協力させこれに対処した[23]。
ここでボーンとカーターを思わぬところで悩ませたのは、メキシコ政府が1975年の後半からマリファナ用の除草剤として使用したパラコートであった。
パラコートは人間の食道、内臓に潰瘍を生じさせる毒性の高い物質で、これを散布されたマリファナの流入がNORMLによって大々的に喧伝され社会問題化された。
アメリカ政府はもともとメキシコから流入するヘロイン対策として、メキシコ国内のケシ畑に枯葉剤を散布させるためヘリコプターを供与していた。しかしアメリカ政府の意図に反しマリファナの撲滅にむしろ主眼をおいていたメキシコ政府は、ケシ畑に対して2-4-Dという除草剤を散布する一方、アメリカから供与された装備で大量のパラコートをマリファナ畑に散布していた。
NIDA (National Institute of Drug Abuse) はすぐにNORMLの指摘を受け、メキシコから流入するマリファナの危険性を報告し、保健教育福祉省も78年3月に、「強度に汚染されたマリファナタバコを一日3-5本づつ数ヶ月に渡って使用した場合、回復不可能な肺へのダメージを引き起こす」という報告を新聞紙上で発表しNORMLの要求に答えた[24]。
また1978年5月にはチャールズ・パーシー上院議員が、Foreign Assistance Actを見直し、パラコートの使用などの生産地でのドラッグ撲滅プログラムの抑制を検討する考えがあると発表した。
しかし政府のこうした協力的対応にもかかわらず、NORMLのリーダー、キース・ストロープは執拗にこの問題でカーター政権を批判しつづけ、あくまでもメキシコ政府にパラコートの散布を中止させるよう政府に求めた。
しかしこの問題はもとよりメキシコ政府が起こした問題であり、また本来非合法なマリファナの安全問題は政府がこれ以上取り扱うべき事柄ではなかった。
政府のPR活動によって多くのマリファナ使用者はこの問題に対する注意を充分に喚起され問題は実質的に終息していたにもかかわらず、ストロープは執拗にカーターとボーンを批判し続けた。
カーター政権時はこうした行過ぎたNORMLの運動とそれに対する政府の受け身の対応に象徴されるように、アメリカの歴史上ドラッグにもっとも寛容な時代のピークを迎えていたといえる。
一方で行き過ぎた解放運動と寛容政策は、未成年や子供への悪影響などこれまでの寛容政策の中で忘れられていた問題を世論の中に生みだすことになる。
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[22]Musto, David F (1987) op. cit. p. 267.
[23] ヘロインの使用は80年代に入ってから再び増加するが、この増加はカーター政権と無関係ではない。79年にカーター政権がアフガニスタンでソビエトに抵抗していたムジャヒディンゲリラに武器の援助を開始したことで、この地域でアヘン生産を行い軍事資金にしていたゲリラの活動を活発化させた。結果、アフガン産のアヘンがパキスタンなど隣国でヘロインへと大量に精製されるようになり、80年にはアメリカで消費されるヘロインのおよそ6割がアフガン産アヘンから作られたものとなっていたDavenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 345.
[24] Baum, Dan (1996) op. cit. p. 107.
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ニクソン政権が1974年に終わると、同じ共和党のフォードが大統領に就任した。しかし彼はニクソンとは麻薬政策に対する考え方が異なっており、ドラッグの使用は既に広く社会に普及しており、これを完全に消滅させることは現実的に不可能であるとの認識を持っていた。
1975年9月に、1969年からのニクソンによるドラッグ政策のレビューとしてDomestic Council Drug Abuse Task Forceによる麻薬中毒白書(White Paper on Drug Abuse)が出版された。そこでは、「麻薬中毒の完全な排除はあり得ないが、しかし政府の行動はこの問題を抑制し、負の影響を抑えることはできる」との政府の基本的立場が示されている[16]。
また「すべてのドラッグは一様に危険なものではなく、すべてのドラッグの使用は一様に有害ではない」との見解を同じ白書の中で示し、種々のドラッグの持つ危険性を再度ランク付けし、「供給と需要の削減の両者において優先させなければならないドラッグは、より大きな固有の危険性を保持している以下のドラッグ、すなわちヘロイン、アンフェタミン--特に静脈注射で使用される場合--と混合バルビツレートである」との方針を打ちだした。
また翌1976年のFederal Drug Strategyでは、ヘロイン中毒に言及して、ジョンソン時代の根本原因論が再び取り上げられ「貧困、失業、疎外、あるいは機会の不足」がヘロイン中毒発生の根本的要因であるとの見解が示された[17]。
このフォード政権時に発表された白書で注目すべき点は、ここにマリファナとコカインに関する言及がみあたらないことである。
これはつい5年前に議会でマリファナ及びドラッグ中毒に関する委員会が設けられ、マリファナに最も高い取締りの優先順位をつけていたことを考えれば大きな変化といえる。この変化の背景にはこの二つのドラッグに対する社会的表象の変化が多分に影響していると考えられる。
マリファナが危険なドラッグであるという認識は、ニクソン時代の厳しい禁止政策に関わらず70年代を通じて衰退している。
1975年にはまだ43%の高校生がマリファナを危険と考えていたが、1978年には35%へと落ち込みその数は減少の一途を辿った。
同時にマリファナの使用者も増え、1978年のピーク時には24%の高校生が過去30日間にマリファナを使用したと回答している[18]。
州単位では法改正も行われ、70年にワシントンの弁護士キース・ストロープによって創設されたマリファナ解放を目指す非営利団体NORML (National Organization for the Reform of Marijuana Laws)のロビー活動によって、既にニクソン政権末期の1973年には全米で最初にオレゴン州でマリファナ所持の非犯罪化が行われ、その後アラスカ、カリフォルニア、コロラド、メーンなど11の州が70年代に同様の政策を採用し、マリファナ所持の非犯罪化もしくは逮捕に代わる民事制裁金による刑罰へと移行している。
74年には雑誌High Timesも創刊され、吸引器具の販売も含めマリファナに関連した経済活動も活発化した。
このように、少なくとも70年代中頃までには、マリファナの喫煙はもはや極端な社会的逸脱行為とはみなされず、むしろ一つのサブカルチャーとしての地位をアメリカでは確立していたといえる。
一方のコカインも、70年代中頃までにはこのドラッグを20世紀初頭の頃のように危険視する意見は稀となっていた。
後にカーター政権下でドラッグ問題の責任者となる当時の著名なドラッグの専門家であったピーター・ボーン医師は、1974年にコカインについて次のように語っている。
「コカイン、最近その使用が広がっているこのドラッグは、おそらく非合法ドラッグの中でもっとも良性のものである。極端な場合、マリファナと同様にコカインは合法化することも可能であろう。約15分という短い効果と、身体的中毒性の欠如、そして激しい楽しさ。コカインは、昨年すべての社会経済的レベルで増大する支持を獲得している」[19]。
この現在からみれば行過ぎともとれる当時のコカインの肯定的評価の背景には、コカインが経験した1920年代から60年代にかけての長い薬物としての歴史的断絶を考慮する必要がある。
前章でふれたように1910年代後半からの厳しい取締りによって、コカインの非医療目的での使用がアメリカでは激減し、一方医療界でもノボカインなどの新たな代替化学物質の発明によりコカインが医療目的で使用されることはほとんど無くなっていた。
1930年代にはコカインは西洋社会ではほとんどみかけなくなり、この時代にコカインを積極的に製造していたのは日本統治下の台湾ぐらいであった[20]。
その結果、この薬物をあえて研究しようという者がいなくなり、コカインに対する薬学的調査や研究文献はこの時代全く現れていない。
歴史学者のポール・グーテンバーグが指摘するように、70年代のコカインに対する肯定的認識と使用の拡大の背景には、コカインの持つ潜在的な危険性に対する当時の絶対的な知識不足があり、これがこのドラッグの娯楽的使用と政府の寛容政策を助長させたと考えられる[21]。
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[16]Domestic Council Drug Abuse Task Force, White Paper, pp.97-98. cited in Musto, David F (1987) op. cit. p. 264.
[17]Baum, Dan (1996) op. cit. pp. 86-87.
[18]Musto, David F (1987) op. cit. p. 264.
[19]Ibid., p. 265.
[20]日本の製薬会社の台湾でのコカイン製造に関しては、星新一『人民は弱し官吏は強し』、角川書店、1978年、に詳しい。
[21]Gootenberg, Paul (ed.) (1999) Cocaine: Global Histories, London and New York, Routledge, pp. 3-4.
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こうした供給対策と並んで、ニクソン政権は国内での需要対策として麻薬使用者に対する取り締りの強化を柱に据え、1969年にBureau of Narcotics and Dangerous Drugs (BNDD)を創設し、ドラッグ事犯の取り締りに向けられる予算を、1970年の4,300万ドルから1974年には2億9,200万ドルへと大幅に増加させた[13]。
ここで取り締りの手段として新たに採用されたのが1970年に連邦法で認められたno-knock条項で、これは非合法ドラッグ所持の疑いのある家に警察が押し入る際にノックをせずにドアを蹴破ることを許可した条項である。
また1972年にニクソンは、当時税関長であったマイルズ・アンブローズをトップとするOffice of Drug Abuse and Law Enforcement (ODALE) を創設し、麻薬取締りの専門機関として密売人への手入れを強化した。
翌年、BNDDはODALEと合併し、現在アメリカの内外での非合法麻薬取締りの中心機関であるDrug Enforcement Administration (DEA)へと統合された。DEAは73年には7,490万ドルの予算が配分されているが、そのわずか2年後には1億4,090万ドルへとおよそ2倍に予算が増額され、人員も74年には4,000人規模となり名実ともにアメリカの麻薬取締りの中心機関となった[14]。
ところで、ニクソン政権はこのような取締りの強化を図る一方で、需要対策としてメタドンによるヘロイン中毒者の治療も促進している。
メタドンとは第二次世界大戦中にアヘンの供給が断たれたドイツで開発された合成アヘンで、モルヒネに代わる兵士の鎮痛剤として使用され、当初はヒットラーの名前にちなんでAdolphineと名付けられていた。
アメリカでは新陳代謝の専門医であるビンセント・ドールと精神科医で薬物中毒の専門家であったマリー・ニスワンダーによって1964年からニューヨークでヘロイン中毒者への代替物質として使用されている。
このメタドン治療促進の背景には、60年代からの社会改革運動の流れの中、個人的選択の自由として、ドラッグの使用を他人や国が干渉すべきではないというリベラル派の意見の盛り上がりがあった。
政府は中毒者に対する強行な政策を政治的にとることができず、かといって20世紀初頭のようなヘロインそのものを使用したメインテナンス治療を支持することもできなかった。
その点メタドンプログラムは、メタドンの配付により中毒者によるヘロイン入手のための犯罪が防止されるという効果と、中毒者がヘロインからメタドンの使用へと切り替えることで中毒者に社会復帰への選択の余地を与えるという点でリベラル派を納得させるものであった。
また注射針の使用を抑制できるので、肝炎、マラリアなどの感染症を予防する効果も期待された。
ニクソンは、1972年にSpecial Action Office for Drug Abuse Prevention(SAODAP)を大統領事務局に創設し、メタドン治療に詳しいジェローム・ヤッフェ医師を中心にメタドン治療プログラムを推進し、1973年までには全米で80,000人のヘロイン中毒者がメタドン治療を受けるまでに発展し一定の成果をあげていた[15]。
以上ニクソン政権は、その予算及び人的資源の規模から名実ともにアメリカで本格的なドラッグウオーを開始した最初の政権であった。しかし彼の在職中、アメリカ社会で非合法麻薬の使用が著しく抑制されることはなく、上述したようにヘロインやマリファナの国内外での取締りの強化は、アンフェタミンやLSD、またコカインなどの他のドラッグの流行を国内に生みだす一方で、新たな密輸ルートと密輸手段の発生を生みだしている。
このニクソンの失敗を受けアメリカ政府は以後70年代を通じて、ドラッグの取締りそれ自体に疑問を持つようになる。
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[13]Musto, David F (1987) op. cit. p. 257.
[14] DEAの予算と人員の推移はDEAホームページ(http://www.usdoj.gov/dea)DEA Stuffing and Budgetを参照。
[15]Carnwath, Tom and Smith, Ian (2002) Heroin Century, New York and London; Routledge, pp. 173-174.
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政権獲得後、ニクソンがターゲットにしたドラッグはマリファナとヘロインであり、その戦略はこれ以後のアメリカ型ドラッグウオーの基本的アプローチとなる供給のカットと需要の縮小の二本柱によって構成されている[6]。
まず供給に関して問題となったのは、トルコからのヘロインとメキシコからのマリファナであった。
当時政府は国内の8割のヘロインがトルコで生産されたアヘンから精製されていると見積もっており、ニクソンは二国間の関係を悪化させることなくこの問題に対処するため、まずトルコ政府に対して経済援助の停止をちらつかせケシ栽培をやめるよう説得する一方で、その代価としてのさらなる経済援助を約束した。
トルコ政府はこれに従ったため、トルコでのアヘン栽培は大幅に減少し、フレンチコネクションの名で有名だった50年代の主なヘロイン密輸ルートであったマルセイユ経由の密輸ルートは解体することになる。
これによって、72年から73年にかけてアメリカでのヘロインの使用は一時的に減少した[7]。
しかしトルコからの減少分はメキシコ、アフガニスタン、パキスタン、またゴールデントライアングル産のアヘンによってすぐに補填され、トルコ国内でも75年にはケシの国内での非合法な栽培が始まりヘロイン問題がこれによって根本的に決着することはなかった。
またヘロインの供給量が一時的に減少した際には、アンフェタミンやバルビツレートなどの他のドラッグの代替的使用が国内で増加するという現象が起きている[8]。
一方マリファナの主な供給国であったメキシコ政府は、マリファナの問題はアメリカ国内の需要に最たる要因があると考え、当初アメリカに対して協力的な姿勢を示さなかった。これに対しニクソン政権は1969年9月にOperation Interceptを発表し、2,500マイルにわたるメキシコ-アメリカ間の国境を封鎖し、3週間で418,161人と105,563台の車両を捜索するという大掛かりな手段に打って出た[9]。
すぐに国境が混乱した為、メキシコ政府は仕方なくアメリカとの協力を約束し封鎖は20日間で解かれ、メキシコ産のマリファナのアメリカへの流入量は減少した。
しかしアメリカ国内のメキシコ産マリファナの流通の減少は、国内で70年代初頭からマリファナ愛好家による手軽なシンセミーリャ(Sinsemilla:種をつけない品種)の栽培をさかんにし、国内でのマリファナ栽培の定着に一役を買った[10]。
またメキシコ産のマリファナの減少はコロンビアでのマリファナ栽培をさかんにし、マリファナで儲けたコロンビアの密輸業者は新たにコロンビア産のコカインもアメリカ国内に運び込むようになった。またマリファナの供給量が一時的に減少した結果、多くのマリファナ喫煙者が代替ドラッグとして、LSDやヘロインなどより危険な麻薬の使用を開始している[11]。
さらに取り締りの強化によってマリファナの個人レベルでの密輸が難しくなったため、プロの犯罪組織がこれに積極的に関わり、密輸手段も空輸などのより大掛かりなものへと移行していった。
結局のところOperation Interceptは、ドラッグを供給するある特定の国への対応だけでは、国内に需要が存在する限り、他の供給源と他のドラッグにビジネスチャンスとマーケットを移動させることを証明する結果となった。
また、これと類似した現象は、当時ベトナムに駐留していたアメリカ軍兵士の間でも起きている。ベトナムでは軍が国内と同様、21歳未満の兵士にはアルコールの販売を禁止していたため、多くのアメリカ兵(平均年齢19歳)はアルコールを手に入れることができなかった。
戦場というストレスの多い場所で飲酒を行えない多くの新兵は代わりにマリファナの使用を開始した。しかしマリファナの供給も1968年に軍が厳しく取り締まったため、多くの兵士がアジアで手に入り易かったゴールデントライアングル産の高品質のヘロインへと使用を切り替えた。
その結果、全体の25%の兵士がアルコールやマリファナよりも危険性の高いヘロインを使用するという状況を生み出している[12] 。
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[6]彼が大統領に就任した1969年にアメリカで最も普及していたドラッグは、アルコールとニコチンを別にすればアンフェタミンであった。アンフェタミンは当時合法的に医師によって処方されており、1958年の段階ですでに年間35億錠製造されており、70年には100億錠にまで生産量は増大し、come alive, feel goodといった広告キャッチコピーによって広く全米で販売されていた。その使用者は、ダイエット薬として使用していた白人の婦人達、長時間不眠で働く工場労働者、病院の夜勤スタッフ、テスト前の学生などその使用者層も用途も多岐に渡っていた。50年代からすでにアンフェタミンの危険性は医学ジャーナルの中で指摘されていたが、ニクソンはアンフェタミン、メセドリンといった覚醒剤の使用を政治的問題として積極的に取り上げることはなかった。その後、アメリカで最初の本格的なドラッグの危険性のランク付けを行った1970年のControlled Substance Actでは、マリファナとヘロインが最も厳しい罰則規定をもつスケジュール1にカテゴリー化されていたのに対し、アンフェタミンはスケジュール3に留まっている。アンフェタミンは1971年に生産量に制限が加えられるまで実質的に野放しとなっていた。Joseph, Miriam (2000) Agenda Speed, London; Carlton Books, p. 29. Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 339.
[7]Musto, David F (1987) op. cit. p. 257.
[8]Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 342.
[9]Ibid., p. 339.
[10]King, Jason (2001) The Cannabible, Berkeley and Tronto; Ten Speed Press, p.3.
[11]Baum, Dan (1996) op. cit. p. 24.
[12]Musto, David F (1987) op. cit. p. 258.
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アメリカでドラッグウオー(War on Drugs) という言葉が実際に使われ一つの政治課題として取り上げられたのは1968年の大統領選のキャンペーンからである。
周知のように、60年代のアメリカでは既成の価値観に対する反発から生まれた若者文化、カウンターカルチャーがいくつも誕生し、都市部の中産階級の10代や20代の若者の間で、それまで下層階級のドラッグであったマリファナや新たなLSDなどのドラッグの使用が流行していた[2]。
マリファナの使用者は1965年から70年にかけての5年間で18,000人から188,000人へとおよそ10倍に増加し、1971年には少なくとも2,400万人の11歳以上の若者が一度はマリファナを試したことがあると推計されており、またヘロインの静脈注射によって肝炎に感染した者の数も66年から71年にかけて約10倍に増え、70年代初頭までにヘロイン使用者はおよそ50万人にまで増加している[3] 。
1914年のハリソン法の制定以後第一次、第二次世界大戦の影響でドラッグの使用が沈静化していた時代は終わりを告げ、60年代はドラッグがアメリカ社会を急激に席巻し始めた時代であった。
このころ議会共和党は、下院司法委員会のメンバーであったドン・サンタレーリを中心に、1968年の大統領選でどのような独自の政治的争点を持つかを模索していた。
当時、民主党のジョンソン政権はベトナム戦争で共産主義と戦っていたため反共政策を訴えても民主党との明確な相違点とはならないばかりか、世論は戦争遂行に対してほぼ二分されており、反戦の主張も撤退の主張のどちらも明確にはし難い状況にあった。
一方、内政の中心課題である経済は戦争景気で好調であり、インフレ率、失業率は共に低かった。こうした中、サンタレーリが明確な政治課題として着目したのは犯罪の増加であった。
当時多くの白人の間では60年代に頻発した黒人による暴動、デモ、また貧困を原因とした犯罪による治安の悪化、また若者の間でのドラッグ使用の流行に対する不安感が増大していた。
この問題にはジョンソン政権も当時の司法長官であったニコラス・カッツエンバックを中心に、法執行と裁判に関する委員会(Commission on Law Enforcement and the Administration of Justice)を1965年に立ち上げ、犯罪に関する調査と対応を検討させている。
2年後の1967年にまとめられた報告では、「貧困と不十分な住居、失業を撲滅する為の戦争こそが、犯罪撲滅への戦争である」、「医療、精神医学、家族カウンセリングサービスが犯罪に対抗するためのサービスである。より重要なことは、アメリカの都市部のスラムの生活を向上させるすべての努力が犯罪に対する努力である」と結論し、犯罪者の取り締りよりもむしろ犯罪を発生させる社会環境の改善を主張している [4]。
また非合法ドラッグの使用に対する法の適用についても、「これらの法の適用はしばしば、民衆の中の貧困層やサブカルチャー集団に対する差別へとつながる」とし、あくまでも「貧困それ自体が犯罪を生む」というリベラルな立場にたち、麻薬問題も麻薬を使用する社会的条件の改善によって対処しようという姿勢を打ち出していた。
こうした民主党の根本原因 (root causes) 論に対し、共和党のサンタレーリは、これでは犯罪を犯した個人は悪くなくすべて社会が悪いことになってしまうと反論し、カッツエンバックの報告とは対照的に、犯罪は法を犯す人々の個人的資質の問題であるとの主張を展開した。
彼は、犯罪者に対する厳しい法的措置を盛り込んだ法案の作成を開始しこの問題に対する民主党との違いを強調し、麻薬の使用も、これは快楽を求める犯罪的な堕落した行為であるとし、これを厳しく取締る主張をすることが最良の選挙戦略であると判断した。
これに従って、ニクソンはリーダーズ・ダイジェスト誌上で、「国は犯罪の根本原因を探すことをやめ、代わりに警察官の数を増やすことに金を使うべきである。アメリカの犯罪に対するアプローチは犯罪は素早く確実に処分することである」と述べ、取り締りの強化によって麻薬問題に対処する方針を打ち出した[5]。
彼はニューヨークの犯罪の半分は麻薬中毒者によるものであると犯罪とドラッグを積極的に結びつけ、ドラッグをアメリカで最大の社会問題であると宣伝し、これを処置するための厳しい措置をとることを宣言し大統領選に勝利した。
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[2] 60年代に若者の間でドラッグの使用が広まった社会的背景として、若者の人口比率の上昇、無制限な個人的満足を奨励する価値観の広がり、マスメディアの影響などが指摘されている。Courtwright, David T (2001) Forces of habit: Drugs and the Making of the Modern World, Cambridge, Massachusetts, and London; Harvard University Press, pp. 44-45.[3] Musto, David F (1987) The American Disease: Origins of Narcotic Control, Expand Edition, New York and Oxford; Oxford University Press, p. 254.
[4] Baum, Dan (1996) Smoke and Mirrors: The War on Drugs and the Politics of Failure, Boston, New York, London; Little, Brown and Company, p. 5.
[5] Ibid., p. 7.
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本論は、アメリカ合衆国のニクソン政権から始まる20世紀後半の麻薬政策についての小史的記述であるが、その大半はこの時代から現代に至るまでアメリカで継続されているドラッグウオー政策についての記述である。
ドラッグウオーの基本的特徴は、ドラッグ使用の広がりを内外での罰則的取締りによって規制するアプローチであり、その目的の遂行には警察力だけでなく軍事力も行使するというものであり、ハームリダクション論や合法化論の対極に位置する麻薬政策である。
ドラッグウオーが過熱し始めたレーガン政権時の1981年には、アメリカ政府は内外で合わせて10億6,500万ドルをドラッグウオーに費やし、この予算はクリントン政権時の1999年には170億7,000万ドルにまで増加している。
超大国アメリカのこの政策が現在の国連の麻薬政策を決定しており、日本の麻薬政策に多大な影響を与えている。
ちなみに、現在の日本の「ダメ絶対ダメ」政策は、80年代の麻薬政策のアントレプレニュールであったナンシー・レーガンの「Just Say No 」(とにかくノーと言え)政策と同じスローガン内容である。
一方、この麻薬政策が継続されるにつれ、非合法麻薬の使用者はピーク時の70年代後半からは減少したものの、1999年にアメリカ国内におよそ1,480万人おり、12歳から17歳までの若者の10.9%が過去30日間の間に何らかの非合法麻薬を使用していると推計されている [1]。
本論では、この効果が不確かなアメリカのドラッグウオーの歴史とその社会的影響を示し、この麻薬政策の持つ問題点を明らかにし、今後の麻薬政策に関する議論の参照とすることを目的とする。
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[1] Davenport-Hines, Richard (2001) The Pursuit of Oblivion: A Global History of Narcotics 1500-2000, London; Weidenfeld & Nicolson, p. 8.
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先に「ハームリダクションの国家レベルでの実践 ─オランダモデル」として薬物政策博士X氏の論稿を掲載しましたが、今回はオランダの取り組みとは正反対の方向性を持つアメリカの政策について寄稿して頂きました。同氏の意図としては、「これによって、現行の政策の問題点や、それに変わるリベラルな政策の実現のために知っておくべき事柄が浮かび上がるのではないかと思います」とのこと。
日本の行政に多大な影響を持つアメリカの薬物政策について学び、どのような薬物施策が望ましいのかを探る手がかりになればと思います。
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ハームリダクション政策では、麻薬中毒者を社会的に再統合するため、彼らの存在の社会的ノーマライゼーションが目標として掲げられている。
そこには、非合法麻薬の使用に限らず、売春婦、ホモセクシャル、精神障害者に対するレイベリングという社会的問題が、もとより社会がある特定の集団を周辺化していることから生じた問題であるという認識と、彼らの行為に対するメインストリームの価値規準に基づく道徳的判断を括弧に入れた、一定の異質性、逸脱性を受け入れる寛容性が必要とされる。
ゆえに本稿で取り上げたカナビスの非犯罪化政策も、それがヘロイン中毒者のみを分離してカテゴリー化し社会的に周辺化するのであれば、本来の政策的理念を本質的に見失った処置と言わざるを得ない。
カナビスの非犯罪化は、オランダモデルにみられるようなハードドラッグの使用者に対する多様なサービスの提供と同時進行されることによって、その本来の政策的意図が達成されるものと筆者は考える。
麻薬問題に関するハームリダクション政策の実践にとって大きな障害となるのは、麻薬の使用全般に対して多くの人々が自然に持っている道徳的嫌悪感ではなく、むしろある道徳的規準からみて異質とみなされる他者に対する否定と排除の論理であると考える。
ゆえに麻薬問題におけるハームリダクション政策が社会に根づくためには、その政策的効果から見たプラグマティックな動機だけでなく、その前提としてマイノリティ、社会的弱者、外国人文化、サブカルチャーを包摂した社会統合を可能とするような、他者理解を志向した一定の道徳的、倫理的寛容性が要求されると考えられる。
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この出来事で我々の関心を引くのは、なぜアメリカ政府はオランダの麻薬政策に対して、すぐに分かるような作為的な統計や根拠のないセンセーショナルな発言までしてこれを攻撃せねばならないのかという点である。
オランダ政府はこれまで、自国の麻薬政策を他国でも導入するように何らかの働きかけを行ったことは一度もないし、アメリカ政府の禁止政策を公式に批判したこともない。
上述したように、オランダはヘロインの中毒者数の減少や、IDU(注射針による薬物の使用者)のHIVへの感染率の低下(1996年のオランダのIDUがHIVの感染者全体に占める割合は10%であり、これはヨーロッパ平均の39%、アメリカの50%とも比べて著しく低い水準にある)など、独自の麻薬政策によって麻薬問題に対して一定の成果をあげてきた。[33]
こうした成果は、本来同じく麻薬問題に取り組むアメリカ政府にとっても歓迎されてしかるべき成果のはずである。
しかしアメリカ政府はこれとは全く逆の態度を取り続けてきた。このアメリカ政府の態度を、筆者は非合法麻薬問題の改善に向けての合理的態度というよりは、むしろ麻薬問題に対する態度を政治的にイデオロギー化した結果生じたもの考える。
アメリカ政府は非合法麻薬の使用をいかなる形であれこれを非道徳的行為と定義し、「止めよ、さもなくば罰する」という論理でこれに対処してきた。
もともと麻薬問題における実務経験も専門的知識もない元軍人のマキャフリーがONDCPの長官に任命されたのも、クリントン政権後期に議会で共和党が多数を占めたことにより、麻薬問題にタフな姿勢を国民に示すための政治的配慮による所が大きい。
ここには、ハームリダクションが重視する中毒者の生活と生存に関する人権の尊重や、麻薬問題を改善するためのオールタナティブな手法への実証的、科学的議論は排除され、既に第1章でふれたように、非合法麻薬の存在そのものを消滅させるという道徳的命題が先行している。
結果、その麻薬政策は、非合法麻薬が全く存在しない社会(drug-free society)が理念的目標に掲げられ、使用者には完全なアブスティナンス(使用停止)を要求し、政策的有効性よりは道徳的理念に対する一切妥協のない政治的主張の実践そのものに価値の中心がシフトしているように思われる。
ドラッグウオーに批判的なアメリカ人社会学者のレイルマンが指摘するように、「いかなる統計も、またいかなる経験的に有効性が認められる発見も、完全な解決の到来という幻影を却下することはありえない」という、アメリカの麻薬政策が持つイデオロギー的性格が、この一連のオランダの麻薬政策に対するアメリカ政府の嫌悪感の基礎にあるように思える 。[34]
歴史的にアメリカの麻薬問題は、階層的社会の中での人種差別、貧困の存在と常に密接な結びつきを持ってきた。
20世紀初頭の中国人のアヘン喫煙、黒人のコカイン、70年代の都市ゲットーでのヘロイン、その後の黒人のクラックなど、麻薬問題は常にマイノリティと貧困層の周囲に広がっており、アメリカ政府による麻薬問題に対する罰則的手法は、彼ら社会的弱者をさらに社会的に周辺化してきたという事実がある。
そしてこの背後には、メインストリーム文化の担い手である社会的マジョリティの外国人や異文化の流入と浸透に対する恐怖心が働いており、それは第1部で紹介したような20世紀初頭の反麻薬運動のディスクールに共通して存在していた、ドラッグの使用と結びつけられて表象されていた中国人や黒人による白人女性へのレイプ、ないし異種混交への白人男性の恐怖に典型的に現れていると思われる。
また包摂型社会と排除型社会の対比を論じる犯罪社会学者のジョック・ヤングは、逸脱者の排除をよりマクロな社会構造に要因を求めながら、これをヨーロッパ社会も含めた大きな社会動向と捉えている。
彼によれば60年代、70年代に興隆した包摂型社会においては、差異や問題性は修正されるものと捉えられ、逸脱者も我々と同じ存在(just like us)であるか、あるいは我々の中にあるものが欠けているだけ(lacking in us)の存在とみなす差異を極小化するディスコースが一般的であった。
それに対して排除型社会である現代社会では、差異は至高の価値として承認され誇張される。
この差異を強調するディスコースは、彼によれば生物学的また文化的な本質主義(essentialism)によって確定されており、個人に存在論的安心感を与える一方で、優越性の正当化、非受容の正当化、他者への非難や悪魔化を助長し、麻薬常習者などの逸脱者を排除する土壌を生みだしているとみなされている 。[35]
こうした傾向は、特にキリスト教右派や反イスラムの言説の台頭が著しい現代のアメリカ社会に顕著な傾向と思われる。
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[33] 括弧内の統計は、Majoor, Bart “Drug Policy in the Netherlands: Waiting for a Change”in Fish, Feggerson M. (ed.) (1998) How to Legalize Drugs, Northvale, New Jersey and London; Jason Aronson INC., p.150.
[34] Ibid., p.156.
[35] Young, Jock (1999) pp.102-105.
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アメリカ合衆国では、実のところオランダよりも早く1973年から78年にかけて、オレゴン州を皮切りに11の州でカナビスの少量の所持を非犯罪化する法律が成立している。
しかし、比較的麻薬に寛容であった70年代が終わり、80年代のレーガン政権以後内外でのドラッグウオーが本格化してからは、長年に渡ってアメリカ政府はオランダの麻薬政策に批判的態度を貫いてきた。
以来、様々な客観的根拠の乏しい非難や中傷をアメリカ政府はオランダに対して行ってきている。中でもクリントン政権時のONDCP(Office of National Drug Control Policy)長官であったバリー・マキャフリーのオランダ訪問に先だって行われた批判は有名である。
この一連の出来事は1998年の7月の始め、マキャフリーがホワイトハウスの麻薬政策の責任者としてオランダへの視察旅行を発表したところから始まる。
マキャフリーはオランダ訪問に先立ち、7月9日のCNNのインタビュー番組の中で、オランダの麻薬問題に対するアプローチを「全くの大失敗」(unmitigated disaster)と評し、「オランダの若者の間では麻薬中毒者の割合がこの間劇的に増加する傾向にあり、一方我々は減少している」と発言した。[27]
さらに彼はその4日後の13日には訪問先のストックホルムでの記者会見で、ソフトドラッグとハードドラッグを区別しない禁止政策を維持しているスウエーデンの麻薬政策を称賛したうえで、アメリカでは人口10万人に対して8.22件の殺人事件が発生しているの対し、オランダでは17.58件の殺人事件が発生し、さらに犯罪件数全体でも人口10万人に対しアメリカは5,278件であるが、オランダは 7,928件とおよそ40%以上もオランダの方が犯罪発生率が高いという統計を示し、「その原因はドラッグである」との発言を行った。[28]
ONDCPのスタッフがどのようなリソースからこの統計を持ちだし、オランダの殺人と犯罪の発生率と麻薬との因果関係を証明したのかは定かではないが、当然この発言に対してオランダの統計中央局(CBS)はその誤りをすぐに指摘した。
翌14日に発表されたオランダCBSによる統計によれば、マキャフリーが持ちだした1995年の実際のオランダでの殺人の発生率は、人口10万人に対し1.8人とアメリカのほぼ4分の1で、マキャフリーの統計は未遂を含めた数字であったことが明らかとなった。[29]
マキャフリーの発言に対しオランダ大使館が正式な抗議を行ったところ、ONDCP副長官のジム・マクドナーは15日のワシントンポスト紙上でこのCBSの統計に対し、「仮にそれは正しいとしよう。しかし依然としてオランダ社会はより暴力的で、殺人に対し適切な対応をしておらず、それは自慢するようなことではない」と述べ、事実上オランダの抗議を無視し一切謝罪することもなかった。[30]
このマキャフリーの一連の発言に対しオランダでは、保守的なキリスト教民主系の新聞Trouwでさえ、一面でマキャフリーの発言を「統計の乱用」と批判し、同じく自国の麻薬政策に批判的な保守系新聞、De Volkskrantもその社説の中で、アメリカは「既にドラッグウオーに敗戦」しており、マキャフリーの間違いだらけの申し立ては「禁止政策の破綻」を証明しているもので、アメリカの麻薬撲滅運動は既に「脱線してしまっている」という主張を掲載した。[31]
これと同様のアメリカの役人による発言は、NIDA(National Institute on Drug Abuse)の創設時の長官であったロバート・デュポンによる、フォンデルパーク(アムステルダムにある公園)のオランダ人の若者を、「カナビスでストーンしたゾンビ達」と評した発言や、また他のドラッグツァーリによる、「アムステルダムの通りは、ジャンキーにチップを渡しながらでなければ歩くことはできない」などの発言が有名である。[32]
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[27] Portland NORML News, July 15, 1998 [http://www.pdxnorml.org/980715.html].
[28] Reuters, 13 Jul 1998, “U.S. Drug Czar Bashes Dutch Policy on Eve of Visit, Monday”.
[29] Portland NORML News, op.cit.
[30] Reinarman, C. (1998) “Why Dutch Drug Policy Threatens the U.S.” (Published in Dutch), Het Parool, July 30.
[31] Ibid.
[32] Ibid.
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こうしたハードドラッグとソフトドラッグマーケットの分離、草の根レベルでの中毒者へのハームリダクションプログラムの提供によって、オランダでは1980年代の始めには20代中頃であったヘロイン中毒者の平均年齢は、現在ではおよそ40歳程度にまで上がっており、新たにヘロインの使用を開始する若者の数は大きく減少傾向にある。
人口1,000人あたりのハードドラッグ(ヘロイン、コカイン)の使用者数の割合は、オランダ2.5人、スウエーデン3人、フランス3.9人、イギリス5.6人、イタリア7.2人と、EU域内でも低い水準を保っている 。[21]
またアメリカとの比較では、12歳以上のヘロインの生涯使用経験の割合は、オランダが0.4%であるのに対し、アメリカは1.4%となっている 。[22]
カナビスの非犯罪化は、しばしば反対者からは先のカナビスはハードドラッグへの入り口となるゲートウエイドラッグであるという仮説によって批判されているが、少なくともオランダにはこの仮説はあてはまっていない。
またオランダではカナビスの使用者の割合もイギリス、フランスよりも低い数値を示しており、厳格な禁止政策を実施しているアメリカと比べ、2001年の統計によれば12歳以上で過去1ヶ月間にカナビスを使用した者の割合は、アメリカが5.4%であるのに対し、オランダは3.0%にとどまっている 。[23]
またカナビス使用者がオランダでも特に集中しているアムステルダムと、カナビスの積極的な禁止政策がとられているサンフランシスコとのカナビスの使用状況の比較調査によれば、一般的にカナビスのカウンター販売が行われているアムステルダムの方が、使用開始年齢、使用者数の割合、使用頻度などが顕著に高くなることが期待されるところであるが、両都市でのカナビスの平均使用開始年齢(AMS:16.95、SF: 16.43 )、過去3ヶ月間の使用状況(毎日AMS: 9%、SF: 5%、週に1度以上 AMS: 19%、SF: 15%、週に1度以下 AMS: 21%、SF: 34%、使用していない AMS: 50%、SF: 46%)にはほとんど差は認められなかった 。[24]
これは逆に言えば、サンフランシスコではカナビスの禁止政策がその需要と供給(入手可能性)にほとんど影響を与えていないことを証明する調査結果ともいえる。
またハードドラッグに関しては、両都市でのアヘン系麻薬の生涯使用経験と最近3ヶ月間の使用者数の割合は、アムステルダムがそれぞれ21.8%・0.5%であるのに対し、サンフランシスコは35.5%・2.7%、またクラックコカインでは、アムステルダムが3.7%・0.5%であるのに対し、サンフランシスコでは18.1%・1.1%と、使用麻薬のトレンドに両都市間での違いがあるとはいえ、禁止政策を実施しているサンフランシスコの方が高い数値を示している 。[25]
このように、少なくともオランダでは、他の国と比べてもカナビスの非犯罪化は反対者が危惧するようなカナビスの使用者の増加を招いておらず、またヘロイン使用の新規参入の防止にも一定の効果をもたらしているといえる。
こうした政策的有効性が統計調査によって証明された結果、当初はオランダの政策に批判的であったドイツやフランスとの間でも、オランダ型ハームリダクションの協同研究、ソーシャルワーカー間の交流など、オランダの麻薬政策に対する地方政府、草の根レベルでの理解が進んでいる。
以前フランスではジャック・シラクがオランダの麻薬政策を批判し、フランス政府が行った核実験よりもオランダの麻薬政策の方が危険だという批判を行ったが、オランダの麻薬政策に関する理解と麻薬問題に対する二国間の関係は近年徐々に改善されてきている 。[26]
またドイツでは、メタドン治療の普及と94年の憲法裁判所における麻薬の個人的使用に対する取締り緩和の決定により、現在オランダに類似したハームリダクション政策が実施されつつある。
しかしこのオランダの麻薬政策は、国際的な麻薬禁止レジームをリードしているアメリカ政府からは依然として厳しい批判を受け続けている状況にある。
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[21] Keizer, Bob(2001) The Netherlands' Drug Policy, Paper to be presented at the hearing of the Special Committee on illegal Drugs, Ottawa, November 19 2001, [http://www.parl.gc.ca/37/1/parlbus/commbus/senate/Com-e/ille-e/Presentation-e/keizer-e.htm].
[22] アメリカの数値は U.S. Department of Health and Human Services (HHS), Substance Abuse and Mental Health Services Administration (August 2002) National Household Survey on Drug Abuse: Volume I. Summary of National Findings, Washington, DC: HHS, p. 109, Table H.1. オランダの数値は Trimbos Institute (November 2002) "Report to the EMCDDA by the Reitox National Focal Point, The Netherlands Drug Situation 2002" Lisboa, Portugal; European Monitoring Centre for Drugs and Drug Addiction, p. 28, Table 2.1.
[23] Ibid.
[24] Reinarman, Craig., Cohen, Peter D.A., Kaal, Hendrien L. (May 2004) “The Limited Relevance of Drug Policy: Cannabis in Amsterdam and in San Francisco”, American Journal of Public Health Vol. 94, No. 5, pp.837-838.
[25] Ibid., p.840.
[26] Keizer , Bob(2001)op.cit.
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ではカナビスの非犯罪化は実際にどのように実施され、またオランダの麻薬問題の改善にどのような効果をもたらしてきたのであろうか。
上述したようにカナビスの非犯罪化は、カナビスの使用者をハードドラッグのマーケットから引き離すことを目的として実施された。
カナビスが非犯罪化された70年代当初は、ストリートの密売人を排除するため、カナビスは国や地方公共団体が出資して作られたユースセンター(アムステルダムでは現在はクラブやコンサート会場として有名なMelkwegやParadisoなど)でハウスディーラーと呼ばれる人々によって販売されていた。
こうして警察がストリートの密売人への取締りを継続する一方で、販売状況を監督、統制できるハウスディーラーの販売が容認されたため、カナビスのブラックマーケットは徐々に縮小していく。
1979年には正式にハウスディーラーのカナビス及びハッシュの販売に関する4つのガイドラインが設けられ、後に加えられた1項目を含め、このガイドラインは後述するその後のコーヒーショップでのカナビス販売に対する5つの基本的な規制項目となり、現在でもカナビスの販売者にはその厳守が義務づけられている。
その内容は、宣伝の禁止(Affichering)、ハードドラッグの販売の禁止(Hard drugs)、騒音などの近隣への迷惑の禁止(Overlast)、未成年者(18歳未満)への販売と立ち入りの禁止(Jongeren)、卸売りが可能な量(500グラム)の在庫所有の禁止(Grote hoeveelheden)であり、これらの頭文字をとってAHOJ-Gクライテリアと呼ばれている 。[16]
その他基本的な禁止事項としては、1ヶ所での5グラム以上の販売の禁止、通信販売の禁止、アルコールを同時に販売することの禁止(一部アルコールを販売している店もあるが、現在当局は新たなアルコールの販売ライセンスをコーヒーショップには発行していない)などが義務づけられている 。[17]
またその他地方公共団体によっては誓約条項という形で、駐車場の設置の禁止、夜10時半までの閉店などの追加的規制が課せられている。
1980年代に入ると先のコーヒーショップと呼ばれるパブやカフェのようなスタイルの店でカナビスは販売されるようになった。当初、当局はコーヒーショップへの取締りを積極的に行ったが徐々に販売が容認されるようになり、やがて主にヘロイン中毒者が行っていたストリートでの密売・ユースセンターのハウスディーラー販売を圧倒し、カナビスの主要な小売り形態として定着していく。それとともにカナビスの使用者がヘロインの使用者と接触する機会は減少し、80年代の早い時期にソフトドラッグとハードドラッグのマーケットの分離はほぼ完成した 。[18]
またカナビスの非犯罪化によるマーケットの分離によって新規のヘロイン使用者数を抑える一方で、既にヘロインの使用を開始している者に対しては、Junkiebond(ロッテルダム)、Jellinekcentre(アムステルダム)、Main Foundation(アムステルダム)など、政府や市からの資金援助を受けた団体が、様々なハームリダクションプログラムを同じ80年代始め頃から実施してきた。それぞれの団体が、移動バスによるメタドンやコンドームの配付、注射針の無償交換、中毒者への健康相談、麻薬の使用に関する情報誌の配付などを行い、麻薬使用者が抱える問題の改善に取り組んでいる 。[19]
こうした逮捕、拘禁に代わるサービスの提供を通じ、支援者と中毒者とが接点を持ち、中毒者の抱える様々な問題の相談に乗り、フォーマル、インフォーマルなカウンセリングを通じて、最終的にアブスティナンス(使用の完全停止)を目指すプログラムが提供されている。アムステルダムでは、およそ60-80%の中毒者がこれらの支援プログラムを通じて支援団体と何らかの接触を持っており、彼らの活動が麻薬問題の改善に向けての不可欠な要素となっている 。[20]
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[16] Ibid., p.69.
[17] 留学先のアムステルダム大学での最初の大学での全体オリエンテーションの際にも、大学のプログラムマネージャーがカナビスとアルコールとは併用しないようすべての留学生に注意を行っていた。
[18] その後アムステルダムでは、コーヒーショップの数が急増し1990年にはその数は480軒にまで上った。しかしアメリカ、フランス、ドイツ、北欧諸国などからの要請を受け、1990年に税務署の他、公衆衛生、ライセンス許可、麻薬取締り、社会福祉などの関係部署の合同によるHit-Teamsをアムステルダム市が組織し、先のクライテリアに違反していたコーヒーショップを厳しく取締りその数を大幅に減少させた。筆者が留学していた2001年には市内で279軒のコーヒーショップが営業しており、現在その数はおよそ300軒弱程度で安定している。またその道徳的善し悪しは別として、現在コーヒーショップは社会福祉税の貴重な財源としてだけでなく、アムステルダムの重要な観光資源として経済的に大きな役割を果たしている。
[19] 筆者は2003年にヤリネック(Jellinekcentre)で勤務していた看護士にインタビューをしたが、2003年の選挙による政権交代以後、ヘロイン中毒者に対する警察の取締りが厳しくなる傾向がみられるようになり今後の活動に不安を持っていた。
[20] Marlatt, G.Alan (ed.) (1998) Harm Reduction: Pragmatic Strategies for Managing
High-Risk Behaviors, New York and London; The Guilford Press, p.35.
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こうした法適用の考え方の特殊性とは別に、オランダ人社会学者のコルフは、1976年のカナビスの非犯罪化の決定にはヘロイン中毒者の増加という問題以外に、カナビスの使用者それ自体の増加を背景にした、医療専門家の間でのカナビス使用者に対する認識論的レベルでの態度の変化が影響していることを指摘する 。[12]
上述したように、当初カナビスの使用者は被差別的な社会階層である「ニグロ」の習慣であった。そのころはカナビスの使用に対して医療専門家らは、現在でも日本の厚生労働省がカナビスの副作用として認定しているカナビス精神病や、意欲喪失シンドロームなどを誘発する危険な行為であり、ハードドラッグの使用への入り口となる危険な麻薬(いわゆるstepping-stoneあるいはgateway drug)として認識されていた。
しかし60年代以降、カナビスの使用者が中産階級化(enbourgeoisement)し、使用者の社会階層が「普通の若者」へと変化したことによって、カナビスの使用に対する認知的ノーマライゼーションが起きた。
20世紀初頭のアメリカで問題となった中国人のアヘン喫煙、黒人のコカイン、アイルランド人移民の飲酒と同様、ドラッグの使用やある特定集団の習慣に対する嫌悪感や道徳的反発は、それを実践している集団の社会的地位と密接に結びついており、使用者の社会階層が低ければ低いほど彼らに逸脱者としてのレイベリングが行われる傾向が強くなることがコートライトによって指摘されているように [13]、オランダではカナビスの使用者が中産階級化したことにより、その使用は病理学的行為からレクリエーショナルな行為へと社会的な認知変化が起き、カナビス使用者に対するスティグマ化が急速に影を潜めていった。
このような他の社会的価値規準とリンクした道徳的認知の変化という社会的条件があって初めて、オランダではカナビスの非犯罪化論が、荒唐無稽な言説から一定の社会的妥当性を持つ言説へと変化したのである。
またこれと関連して、コルフはカナビスの非犯罪化にあたって、これを支持する若者の社会運動が果たした影響をあげる。
社会学者のブルデューは権力あるいは支配構造の源泉として、経済資本、文化資本と社会資本の三つをあげているが、コルフはオランダ人社会学者のリッセンバーグ(Lissenberg, E)がこれに加えた道徳資本(moral capital)という概念に着目する 。[14]
多くの政策は、道徳的価値を決定する権力を付与された特定の集団によってその善し悪しが判断され、その判断を通じて制度化されたり実践される政策によって社会秩序は維持ないしは再生産されている。
麻薬行政においてこの道徳資本を握っているのは、医療や司法などの専門家集団であり、彼らにとって道徳的に「正しい」とされる麻薬政策が一般的に道徳的にも正しいものとして制度化される。
しかしオランダでは麻薬問題に対処する政策決定に際し、異なった道徳的価値を持つ若者やサブカルチャー集団など多様な社会集団が発する意見を尊重した。
60年代後半のアムステルダム市議会では、新しく結成された政党の若いメンバーが当選し、彼らはメインストリームの文化に抵抗し市庁舎内でハッシュを喫煙したり、また保険行政の担当大臣を母親に持つ当時の有名なカナビス非犯罪化論者であったコース・ツヴァルトが、毎週ラジオ番組の中でカナビスの価格と質を放送するなどの行動をとった。これらの若者を中心とした運動が社会的に弾圧されることなく容認されたことは、麻薬政策の転換を引き起こす新たな道徳的コンセンサスの形成に大きな役割を果たしたといえる 。[15]
このようにオランダでのカナビスの非犯罪化は、ヘロイン使用者の増加、カナビス使用者の社会層の変化、サブカルチャー運動に対する一定の理解と容認、またオランダ独自の法執行システムという多様な社会的条件が揃って初めて制度化したものである。
ゆえにこの制度を単純に社会的背景の異なる他の国や地域に適用しようという考えには一定の慎重さが必要である。
しかしながら90年代を通じて、スイス、ドイツ、スペイン、ベルギー、イタリアがオランダと同様のカナビスとハードドラッグを法的に明確に区別する方向性に麻薬政策をシフトさせ、2001年にはポルトガルがカナビスを完全に非犯罪化した。
また2004年1月にはイギリスがカナビスをクラスBドラッグからクラスCドラッグへとダウングレードさせ、単純所持は依然として非合法ではあるものの実質的にほとんど逮捕、起訴されることはなくなった。またヨーロッパ以外では、カナダとニュージーランドが2004年現在カナビスの非犯罪化を検討中という状況にある。
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[12] Ibid., pp.50-51.
[13] Courtwright, David T. “The Rise and Fall and Rise of Cocaine in the United States”in Goodman J., Lovejoy, P.E. Sherratt, A. (1995) Consuming Habits: Drug in History and Anthropology, New York and London; Routledge, p. 206.
[14]Korf, Dirk J. (1995) op.cit., p.51.
[15]しかしながらオランダ国民のすべてがカナビスの非犯罪化や喫煙に賛成していると考えるのは大きな誤解である。1970年から行われている世論調査では、一定して16歳以上の国民の3分の2がカナビスやハッシュの使用を厳しく罰するべきと考えており、この割合はドイツよりも高い。Ibid., p.52. 特に保守層が多い地方では、カナビスの喫煙に対して否定的見方が一般的である。にもかかわらずこうした政策が維持されているのは、筆者がオランダで何人かのオランダ人にインタビューした限り、この政策の持つ合理性と一定の効果が国民の間で認められているからと考えられる。
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オランダのハームリダクション政策の中でも、各国から賛否両論含めて最も注目を集めているのはマリファナ及びハッシュ(大麻樹脂)の所持と販売の非犯罪化であろう。
この制度は、上述した70年代から広まりつつあったヘロインを代表とするハードドラッグと、ソフトドラッグ(カナビス)との法的区別を明確に設け、ソフトドラッグユーザーをハードドラッグのマーケットから分離させヘロインに接触する機会を減らし、ヘロインの使用者数を増加させないことを目的としている。
このカナビスの非犯罪化という考えは、60年代の若者のカウンターカルチャー的な体制批判の中から生まれた考え方というだけではなく、オランダでは実のところ社会科学者らによって早い段階から提唱されていた政策であった。
1968年の社会心理学者のコーエンによる最初の非合法麻薬に関する実証的研究Drugs, Druggebruikers en Drugsceneや、1971年の犯罪学者フルスマンによる学際的なワーキンググループの研究の中で、既にカナビスの非犯罪化が提唱されている 。[8]
行政レベルでは1968年にバーン・コミッティーとして知られる麻薬調査委員会が発足し、それまで医療、医薬、司法の専門家のみで構成されていた麻薬問題の公式な専門家集団に、当時の文化・娯楽・社会福祉省(CRM)が加わり、CRMによって社会科学、行動科学の専門家が加えられ問題の学際的研究が進められている。
1972年には麻薬調査委員会による通称バーン報告書と呼ばれる調査結果がまとめられ、その中でカナビスの非犯罪化が慎重にではあるが初めて公式に提唱されている 。[9]
この一連の調査に基づく非犯罪化政策の提唱には、麻薬にはそれぞれ異なった危険性があり、ハードドラッグとソフトドラッグの区別をつけずに使用者を一様に一つのカテゴリーに包摂し犯罪化することは、ソフトドラッグの使用者を結果的にハードドラッグのマーケットに依存、接近させ、かえってハードドラッグの使用を助長させてしまうという調査結果がその根拠となっている。
この委員会からの指摘を受けて、1976年にはカナビスの非犯罪化が制度化され、30グラムまでの所持が最高でも1ヶ月の禁固刑へと減刑されることになった。
しかしここで誤解してはならないのは、オランダでもカナビスの所持と販売は現在でも法的に禁止されている(合法化されていない)という点である。
ただしこの罪を犯しているものが、犯罪者化されることはほとんどない。
この一見矛盾した制度には、オランダの法システムの基本的特徴である便宜主義の原理(expediency principle)が働いている 。[10]
この原理は、犯罪化しうる行為の起訴、告発に対して、職権者が裁判所の許可なくこれを差し控えることを認めるものである。
この原理の適用には通常二種類あり、まず消極的適用(negative application)では、何らかの犯罪化しうる行為が発見された際に、この行為を実際に犯罪化するかしないかは、見逃すに足るだけの相当の理由がある時にのみ個々の場合に応じて判断され実行される。つまり個々のケースにおいて、ある特別な条件がない限りは法を執行するという法の適用制度であり、このタイプの便宜主義は日本を含め多くの国で採用されている。
これに対して便宜主義の原理の積極的適用(positive application)では、ある行為を禁止する法律の存在自体が、その行為を実際に犯罪化するかどうかの判断の決定的根拠とはみなされない。この適用制度では、法の執行とは公共の利益に従属するものと考えられ、公共の利益という優先事項からみて、法の執行が不適切であるならばこれは行うべきではないと判断される。
オランダ型の積極的適用では、消極的適用のような個々のケースにおける判断は行われず、一律に法執行の停止が認められている。
消極的適用では、ある条件が存在すれば犯罪化しないという判断が行われるが、積極的適用では逆にある条件が存在すればそれは犯罪化されるという逆の考え方に立つ。
この積極的便宜主義の原理がオランダのカナビスの非犯罪化には適用されているのである。このオランダのカナビスに対する積極的便宜主義の適用には明確なガイドラインが設けられており、麻薬事犯に対しては「麻薬事犯の捜査と起訴に関するガイドライン」が設けられ、捜査や拘留を行うかどうかの基準となっている。カナビスの国際的輸入、輸出という違反行為に対しては、警察による捜査、身柄の確保、裁判までの拘留が要求される一方で、30グラムまでのカナビスの所持という違反行為に対しては、捜査なし、身柄の確保なし、裁判前の拘留なし、という規定が設けられている 。[11]
こうしたオランダ独自の法執行システムによって、カナビスの非犯罪化という制度は法的にその実施が可能となっているのである。
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[8] Korf, Dirk J. (1995) op.cit., p.44.
[9] Ibid., p.45.
[10] Ibid., p.58.
[11] Ibid., p.60.
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