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本稿では、アメリカ国内でのニクソン政権以後のドラッグウオーの歴史と現状とその社会的効果をみてきた。

このおよそ30年間に渡り莫大な予算が費やされ、数多くの政府機関とその他の民間組織が関わり内外の無数の人々に影響を与えたこの国家プロジェクトのすべてを本稿で言及することはもとより不可能である。

しかし本稿で言及した範囲において、アメリカのドラッグウオーが非合法ドラッグの供給と需要の撲滅という目標においても、さらにその目標が拠って立つところの国民の生活、健康、人権の保護という点においても成功を収めているとは言いがたいことは確かであろう。

むしろドラッグウオーは莫大なコストをかけこの問題の解決へ向けての効果的な道筋を示すどころか、内外の多くの人々の人権、健康、平和を脅かしていることは本稿で指摘した通りである。

筆者はこうした結果がもたらされた要因を、ドラッグ問題を需要と供給の法規制によるコントロールによって対処できる事柄と考える問題の単純化にあると考える。

本稿では言及できなかったが、供給に関していえば、コロンビアが直面しているコーヒーの値段の暴落と政治的内戦状態、ゴールデントライアングルと呼ばれるビルマ・シャン州での近隣諸国の思惑によって長年続いている軍閥支配など、ほとんどの供給側アクターにはそれぞれドラッグマネーに頼らざるをえない政治・経済状況が存在する。

これらの問題を無視した供給対策は、非合法麻薬のブラックマーケットでの価格上昇、質の低下による健康被害、使用者の二次的犯罪の誘発を引き起こすだけである。

また、需要側においては、非合法麻薬の使用者を合理的判断力のない人間、犯罪者としてラベリングし社会的に排除するのではなく、彼らがいかなる要因、また論理で非合法麻薬を使用しているのかを分析し、彼らの健康と人権に配慮した科学的かつ合理的な政策的議論が行われることが望ましい。

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クラック問題と並び、80年代に麻薬問題と密接に結びついて社会問題となったのは、ヘロイン使用者の注射針の共有によるHIV感染の広がりである。

HIV感染はいわゆる4Hクラブと呼ばれる社会集団 (Homosexual, Heroin abusers, Haitian entrants, Hemophiliacs) に多くみられ、流行当初からヘロインユーザーの間に感染者は多かった。

アメリカでHIV感染のため治療を受けに来たヘロインユーザーの割合は、1981年に3%だったのが1984年には17%へと上昇している[56]。

ちなみに、同じ時期HIV感染の増加が問題化していたオランダでは、1984年には処方箋なしでの注射針の購入の許可と、政府財源による注射針の無料交換制度が実施されている。

こうした措置には、注射針の所持を禁止してもヘロインユーザーは結局注射針を使い回すことになり、禁止政策が事実上HIV感染を悪化させているという客観的な事実認識が背景にあった。

しかしアメリカでは注射針の交換に対して政府から激しい反対意見が相次ぎ、1988年に注射針の交換に政府として資金を出すことを禁止する法案が逆に通過した。

アメリカ政府が主張したのは、注射針の交換プログラムはヘロイン使用の増加につながるという論理で、注射針の交換が効果的でかつヘロインの使用を増加させないということを保険社会福祉省が宣言するまでこの方針を維持する態度をとった。

しかしその後、数多くの政府機関による公式の調査により、注射針交換がHIV感染予防に効果的でかつヘロインの使用増加にはつながらないことが証明されたにもかかわらず、クリントン政権、その後のジョージ・W・ブッシュ政権下においても政府としての資金援助は禁止されたままである[57]。

こうした政府の対応には麻薬使用者への嫌悪感が見え隠れする。

1987年に事実調査のためにHIV感染が特にひどかったニューヨークを訪れた健康相のサー・ノーマン・ファウラーは、「多くのホモセクシャルのコミュニティは、中流階級で教育もあり、間違いなく死にたいとは思っていなかった。一方、静脈注射を行うドラッグユーザー達は、彼ら自身の将来に対してより無関心であった」と述べ、ドラッグを使用するものは最初から生きることに関心がなく、死んでも仕方がない存在であるという見方を公言している[58]。

また麻薬の使用によるHIVの感染者数は、白人よりも黒人が圧倒的に多い。

これは麻薬の使用者数が黒人の方が多いということではなく、一般に警察によって職務質問される割合が黒人の方が圧倒的に高いことに関係している。

警察に職務質問される割合が高いことによって、手元に自分専用の注射針を所持するリスクが高まり、彼らは自分で注射針を所持することを避け、他のユーザーと注射針の共有を選択するからである[59]。

近年アメリカではHIV感染者の死亡数は医療の進歩により減少しているが、注射針を原因とするHIV感染数自体は一向に減少していない。

94年から2000年にかけてCDC (Centers for Disease Control and Prevention) が25州で行った調査によれば、注射針によってHIVに感染した麻薬使用者(DIU)は、HIV感染者数全体の25%を占めており、その内訳は黒人65%、白人23%、ヒスパニック10%と黒人が圧倒的に多く、また彼らとの性交渉を通じてHIVに感染する二次被害も深刻である[60]。

ちなみに他の西洋先進国、ヨーロッパ、オーストラリアなどではDIUがHIV感染者全体に占める割合は10%程度にとどまっている[61]。

しかしこうした政府の対応とは対照的に、草の根レベルでの注射針の交換はアメリカでも既に行われている。

また行政レベルでも1987年には全米で最初にオレゴン州で、1989年にはウイスコンシン州でそれぞれparaphernalia law(薬品使用に関連する道具を規制する法)が緩和され、処方箋なしに注射針を所持することが許可されている。

90年代に入ると、1992年にコネチカット州、1993年にはメイン州でそれぞれ処方法が緩和され、10本以下であれば処方箋なしに注射針を購入できるようになるなど、各州が独自の判断でこの問題に対処している。

コネチカット州ニューヘーブン市で1990年から始まった注射針交換プログラムでは、バンで市内を周り中毒者に注射針を配り、その際警官が集まったドラッグユーザーを逮捕しないことが約束された。

このプログラムでは、古い注射針との一対一の交換を原則とし注射器に番号を登録し、中毒者は匿名でサービスを受けることができる。

プログラム開始の数ヶ月後、配付した10本のうち2本の注射針が交換によって回収され、うち68%がHIVに感染していることが確認された。

2年後には10本のうち7本が回収されるようになり感染率は44%にまで低下し、さらに利用者の6人に1人が離脱プログラムを受けるようになっている。

一方、新しい注射針がもらえることでヘロイン中毒者の数が増えることもなかった[62]。

このニューヘーブンでの成功を受け、ニューヨークやワシントンでも同様のパイロットプログラムが開始された。

2000年の段階で注射針交換のプログラムは35州、106都市で行われておりその数は152に上っているが、うち州や地方政府の財源によるものは未だ半分以下の62にすぎない[63]。

ドラッグユーザーのHIV感染を減少させるには、注射針の所持の合法化、処方箋なしでの購入の許可、注射針交換のための資金の充実の三つが基本的要件であるが、これらの対応は未だ充分になされていないのが現状である。

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[56]Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 377.
[57]公的機関による注射針の交換プログラムがドラッグの使用の増加につながらないことを実証した研究報告は、National Commission on AIDS (1991) “The Twin Epidemics of Substance Use and HIV”. General Accounting Office (1993) “Needle Exchange Programs: Research Suggests Promise as an AIDS Prevention Strategy”. Institute of Medicine of the National Academy of Science (2000) “No Time to Lose: Getting More from HIV Prevention” など多数ある。
[58]Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. pp. 378-379.
[59] Bluthenthal, Ricky N, Lorvick, Jennifer, Kral, Alex H, Erringer, Elizabeth A and Kral, James G “Collateral Damage in the War on Drugs: HIV Risk Behaviors Among Injection Drug Users”, International Journal of Drug Policy, vol. 10, 1999, pp. 25-38.
[60] U.S. Department of Health and Human Services. Center for Disease Control and Prevention (CDC) (July11, 2003) HIV Diagnoses Among Injection-Drug Users in States With HIV Surveillance -- 25 States, 1994-2000, Morbidity and Mortality Weekly Report, [http://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/mm5227a2.htm].
[61]United Nations Programme on HIV/AIDS (UNAIDS) and World Health Organization (WHO), AIDS Epidemic Update December 2003, p.30.
[62]Baum, Dan (1996) op. cit. pp. 315-316.
[63]Day, Dawn, Health Emergency 2003: The Spread of Drug-Related AIDS and Hepatitis C Among African Americans and Latinos, Harm Reduction Coalition, p.7.

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1986年に設立されたSentencing Project (マイノリティへの刑罰に代わる代替的処分や人種差別問題を扱うNGO)は、黒人の多くが大学ではなく刑務所に入れられているとして、若者達を社会復帰させるための治療プログラムの充実と社会的サポートの必要性を訴え、一部のマスコミもドラッグウオーとマイノリティに対する抑圧との関係を報じ始めるようになった。

地方弁護士協会や全国カウンティ協会などの政治的影響力のある団体からも人種差別の疑いの濃いドラッグウオーを中止し、治療を中心とするプログラムへの移行が議会へ働きかけられるようになった。

また1991年にミネソタ州ラッセルでは、5人の黒人クラック事犯に対する裁判の中で、連邦法と同じくクラックにのみ厳しいミネソタ州の州法に対して、コカインパウダーとクラックとを区別することに何ら合理的根拠がないと述べ、クラック法の適用を却下するという判決が出ている。

法廷ではクラックで摘発されるのは黒人が圧倒的に多いことにも言及され、1988年にクラックの所持で摘発されたのは96.8%が黒人であるのに対し、パウダーコカインで摘発されたのは79.6%が白人であることが取り上げられ、クラック法は平等な保護の権利を受ける憲法の規定に違反しているとの指摘が州の裁判所から提出された[53]。

こうしたクラックと人種差別的取締りとの関係への批判は社会的にも注目されるようになったが、この問題はその後もほとんど変化していない。

1998年に行われた調査では、過去1年間にクラックもしくはコカインを使用した人口は白人が321万1,000人、黒人は78万7,000人と推計されており、マスコミや映画を通じたイメージに反し、絶対人口数から考えれば当たり前のことではあるが、白人の方が圧倒的にこのドラッグの使用者数は多い[54]。

これに対し1999年の司法省の統計によれば、白人と黒人の麻薬事犯による刑務所の推定収容人数の割合は、ノンヒスパニックの白人が20%であるのに対し、ノンヒスパニックの黒人が58%とほぼ3倍高くなっている[55]。

この数値は、ドラッグウオーによる取締りが大都市を中心に、また特に貧困層の多く住む地域に集中していることと関係している。

都市のスラムでは単純に人口比でマイノリティが多いだけでなく、貧困によってドラッグの使用者と売人が集中している。

またこうした地域では、ドラッグの密売がストリートで見知らぬ者同士で行われているため警察が取締りを容易に行える。

これに対し白人の場合、一般的に労働者階級であれ中流階級であれドラッグの売買は個人宅、バー、クラブなどの屋内で特定の仲間同士で行われる為、捜査にコストと時間がかかり成功率も低い。

こうして黒人がその使用者数の低い割合にもかかわらず、白人に比べ逮捕されるリスクが極端に高くなっているのである。

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[53]Baum, Dan (1996) op. cit. p. 323.
[54]U.S. Department of Health and Human Services. Substance Abuse and Mental Health Services Administration (SAMHSA) (August 1999) National Household Survey on Drug Use, Population Estimates 1998, [http://www.oas.samhsa.gov/nhsda/Pe1998/TOC.htm].
[55]U.S. Department of Justice, Bureau of Justice Statistics (August 2001) Prisoners 2001, NCJ 188207, [http://www.ojp.usdoj.gov/bjs/abstract/p00.htm].

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このクラックベビー現象が起きた社会的背景には、当時の貧困層への医療サービスの低下が原因として考えられる。

1981年にOmnibus Budget Reconciliation Actが制定されると、メディケード(Medicaid: 65歳未満の貧しい人々が受けられる医療補助)のサービスを受ける資格が厳しくなり、同時に国はこれに支出する予算をカットした。

これ以後、医療サービスを受けられなくなった母親が数多く現われた。またクラックユーザーの母親は、マスコミの報道によって社会的にスティグマ化されていたため、医療機関を訪れても充分な治療を提供されるどころか、医師と患者の守秘義務が無視され医師によって警察に通報されることが多かった。

チャスノフらの研究によれば、フロリダ州のパイネラス郡のクリニックや民間の産婦人科に訪れた妊婦のうち、白人、黒人ともに15%が妊娠中にドラッグを等しく使用していた。

しかし黒人の妊婦は白人に比べて10倍多く当局に通報されており、収入別では、所得が年間12,000ドル以下の最貧困層の方が、収入が25,000ドル以上の妊婦に比べて7倍多く警察に通報されていた[50]。

貧しい黒人であるというプロファイルにあてはまる場合、彼女達が受け取るのは社会的サポートではなく刑務所に送られ子供を取り上げられるという措置であった。

また妊婦は麻薬中毒の治療プログラムからも嫌われる存在であった。

1989年のニューヨークでは、施設の67%がメディケードを受けている妊婦の受け入れを拒否し、特にクラック中毒の妊婦の場合87%の施設が拒否していた[51]。

その一方で、1986年から1996年の間に女性のドラッグ事犯による刑務所の収容人数は2,370人から27,300人へとほぼ10倍に増加し、1990年に刑務所にいた女性のうち25%の女性が妊娠していたか、もしくは刑務所で出産している[52]。

マスコミによってもたらされた悪しき母親というイメージと、不十分な更生プログラム、厳しい罰則によって、彼女達は二重、三重に社会的に周辺化されていったのであった。

やがてこうしたドラッグウオーが招いた人種差別的な取締りに対して国内から批判がわきあがった。

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[50]Chasnoff, IJ, et al. “The Prevalence Of Illicit-Drug Or Alcohol Use During Pregnancy And Discrepancies In Mandatory Reporting In Pinellas County, Florida”. New England Journal of Medicine 1990; 322, pp. 1202-1206.
[51]Baum, Dan (1996) op. cit. p. 269.
[52]Amnesty International, Women in Prison A Fact Sheet.

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これに対し政府はクラックに対する罰則を極端に重くするという対抗策をとった。

末端の密売人や初犯でさえ懲役は10年6ヶ月となっており、これは強姦事犯よりも約6割重い刑で、殺人よりわずか2割弱しか軽くない懲役の長さである。

1986年のレーガン時代に施行されたAnti-Drug Abuse Actによって、5グラムのクラックの所有に対する懲役は5年であり、これは同じコカインであるパウダーコカインの100倍の刑罰の重さである。

同じ懲役をコカインパウダーで課せられるためには、単純に500グラムのコカインを所持していなければならない計算となる。

またおよそ5年(51ヶ月以上63ヶ月未満)の懲役が課される量のクラックの末端価格が460ドルであるのに対し、同じ懲役刑が課されるパウダーコカインの量の末端価格は42,800ドルであった[44]。

同じ成分でありクラックの原料であるパウダーコカインとクラックとの間の大きな罰則の違いは、人種差別的な法の適用を生み出した。

92年から93年の間に行われた調査では、88.3%のクラックの密売による被告が黒人であるのに対し白人の被告はわずか4.3%であった。

その一方パウダーコカインの密売による被告は、黒人が27.4%であるのに対し白人は32%である[45]。

1986年以前の黒人のドラッグ事犯の被告数全体に占める割合は11%白人よりも高い程度であったが、Anti Drug Actの制定以後は49%と大幅に増加している[46]。

このようにレーガン、ブッシュ、ベネット体制の国内でのドラッグウオーは、結果として大量の人種的マイノリティを刑務所送りにする結果を招いた。

またクラックは注射を媒体とするドラッグを嫌う女性の間で特に流行したドラッグである。

強度のハイが日々の困窮した生活からの解離を促すため、多くの貧しい黒人女性がクラック中毒になっていった。

そして彼女達の中から、売春ではなくセックスとクラックとを直接交換するいわゆるcrack whoreが多数現れた。

彼女達はクラックユーザーが集まるクラックハウスで、クラックを譲り受けるため男性のクラックユーザーに性行為を提供するだけでなく、彼女達を目当てにクラックハウスに集まるクラックユーザーではない男性とも性行為を行った。

彼らノンクラックユーザーの男性達はクラックハウスでのセックスをcheap sexと呼び、オーラルセックスで3ドルから5ドル、膣性交で5ドルから10ドルといった極めて低い値段で買春を行っていた[47]。

またクラックはアメリカ社会にクラックベビーという新たな恐怖も生みだした。

これはクラックを使用した母親から生まれた赤ん坊が回復不可能な身体的ダメージを受けたまま生まれてくるという話で、全米でマスコミがセンセーショナルにとりあげた。

この問題を有名にしたのは、シカゴの医師、アイラ・チャスノフが1985年に出したレポートである。この中で、チャスノフは23人のクラックコカインを使用していた母親の新生児がそうでない母親の新生児と比べ、元気がなく不活発であるという結果を報告している[48]。

マスコミはこの調査結果にとびつき、テレビや新聞、雑誌がクラックベビーの話題を一斉に報道した。

しかしその後の調査の結果、妊娠中のコカインの使用が子宮内の赤ん坊に与える影響は実際にはごくわずかで、クラックベビーとして騒がれた赤ん坊の症状はクラックそれ自体によるものではなく、むしろ母親の栄養不足、飲酒、喫煙によるものであったことがチャスノフ自身やその他の医師らの研究によって明らかとなった[49]。

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[44]U.S. Sentencing Commission (February 1995) Special Report to Congress: Cocaine and Federal Sentencing Policy [http://www.ussc.gov/crack/exec.htm], p. 173.
[45]Ibid., p. 161.
[46] Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 356.
[47]Sterk, Claire E (1999) Fast Lives: Women Who Use Crack Cocaine, Philadelphia, Temple University Press, pp. 72-73.
[48]Chasnoff IJ, Bruns, WJ, Schnoll WJ, Burns KA. “Cocaine Use in Pregnancy”, New England Journal of Medicine 1985; 313, pp. 666-669.
[49]Chasnoff IJ, et al. “Cocaine/Polydrug Use in Pregnancy: Two-year follow-up”, Pediatrics, 89; 1992, pp. 284-289.

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レーガン・ブッシュ政権下の80年代に、最もアメリカで社会的に問題となったドラッグはクラックである。

クラックは日本ではあまりなじみがないので、まずクラックの歴史とアメリカ社会でこのドラッグが広まった背景をみておく。

1980年代初頭にコロンビアからマイアミへのコカインの密輸ルートが確立すると、ペルーやボリビアでのコカ葉の作付け面積が増加し、コカインのアメリカへの密輸量が増加した。

上述したように、供給の増加により1981年には1オンスの純粋コカインの取引上の値段が120ドルであったのが、88年には50ドルと半分以下に値崩れしていた[39]。

こうした安価な原料コカインから開発されたのがクラックコカインであった。

クラックの起源は1974年のカリフォルニアといわれており、塩酸コカインを浸した水溶液にアンモニアとエーテルを溶かして作られる吸引可能な結晶型コカイン(freebase)がその原形である。

フリーベースは当初ハリウッドなどで一部のコカインマニアの間で流行したが、その工程が複雑で加工途中での引火事故が発生する危険性が高かったため、単に塩酸コカインを重曹と水に溶かして熱することでパイプでの吸引が可能な方法が普及した[40]。

これがクラックの始まりであり、吸引のため加熱する際にカタッ(clack)と音がすることからこの名がついたといわれている。

クラックはパウダーコカインに比べ単価が非常に安く、一回の値段が5ドルから10ドル程度である。

またフリーベース程ではないが効果が強烈で、その為精神的依存性が強い。

またパウダーコカインが使用量にもよるが30分から1時間は効果が持続するのに対し、クラックは一回の吸引で約15分程度しか効果が持続しないため、使用者が繰り返し吸引する傾向が強い。

値段の安さとそのインテンシブなハイにより、ヘロイン中毒者の多くもクラックの使用を開始し、クラックはロサンゼルスのサウスセントラル、マイアミのオーバータウン、ニューヨークのハーレムやワシントンハイツなどの都市部の貧困層の間で流行し、80年代中頃までには純粋なヘロイン中毒者の数は減少し、クラックがいわゆるゲットードラッグのメインストリームとなっていった[41]。

クラックはパウダーコカインと異なり、当時末端のディーラーはそのほとんどが黒人かヒスパニック系のマイノリティであった。

これはマイノリティを中心に構成された常用者のマーケットと、パウダーコカインから簡単に作ることができる商品であったことが影響しており、まともな仕事や教育を受けられない貧困層の若者にとって大きなビジネスチャンスを与えることになった。

ワシントンDCではクラックを密売することで一時間に30ドルを稼ぐことができたが、これは貧困層の大人の黒人が就くことのできる合法的な仕事で一時間に得られる当時の賃金の4倍以上であった[42]。

その結果、クラックの密売を始めるいくつものマイノリティのギャング集団が結成され、クラック密売の利益で彼らは武装し、マーケットを巡る抗争が80年代後半から頻繁に発生している。[43]

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[39]Courtwright, David T, “ The Rise and Fall and Rise of Cocaine in the United States”, in Goodman, Jordan, Lovejoy, Paul E and Sherratt, Andrew (eds.) (1995) Consuming Habits: Drugs in Hirstory and Anthropology, London and New York; Routledge, p.217.
[40]黒人の人気コメディアンでハリウッドスターであったリチャード・プライヤーが起こした引火事故は特に有名である。
[41]Ibid., p. 218.
[42]Ibid., p. 218.
[43]例えばマイアミを拠点とし、シカゴ、ニューヨークなど多くの都市で勢力を誇ったジャマイカ人組織、Shower Posseが有名である。文字通り、敵に対して銃弾をシャワーのように浴びせるのでこの名前がついた。

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こうした厳しい取締りは次のジョージ・ブッシュ政権にそのまま引き継がれ、彼の就任翌年の1989年には新たに22億ドルの予算がドラッグウオーに追加され、うち7割の予算が国内外での取り締りに使われている[33]。

加えて同じ年に制定されたNational Defense Authorisation Actによって国防省がドラッグ問題を取り扱う中心省庁になり、冷戦終結後間も無いこの時期ドラッグ関係の予算の多くがDEAと国務省の他、国防省やCIAにも流れていった。

これらの予算の大半は、次回の部で詳述するように、ドラッグの生産国であるペルー、コロンビア、ボリビアを中心とした南米各国で、ドラッグ対策としての軍事指導、訓練、武器援助のため使われ、そこで人権、環境問題に関わる深刻な問題を引き起こすことになる。

ブッシュ政権下でのドラッグウオーで興味深いのは、ブッシュ政権の反麻薬キャンペーンとそれを積極的に報道したマスコミとの関係である。

1988年11月の選挙後まもない頃、ブッシュ政権の最優先課題として世論がトップにあげていたのは財政赤字問題(34%)であり、麻薬問題に対してはわずかな関心(3%)しか集まっていなかった。

しかしブッシュ政権の反麻薬キャンペーンがマスコミで連日取り上げられるようになると、1989年9月の調査では、世論の43%が麻薬問題が政権にとって最優先課題と考えるようになり、財政問題は全く改善されていないにも関わらずわずか6%にまで落ち込んだ。

同じ現象はニューヨークで特に顕著で、1987年6月の登録選挙民に対する調査では、税金問題が15%で政治課題のトップを占め麻薬問題は5%にすぎなかったが、1989年9月には税金問題は8%、麻薬問題は46%と完全に国民の関心は逆転していた。

チョムスキーはこの世論の急激な変化を取り上げ、「現実世界は全く変化していないが、イメージは権力の都合を反映して、イデオロギー機関を通じて伝染し変化した」と述べているが、当時の麻薬問題への大衆の関心と政府予算は、多分にこうした世論操作によって作り上げられ正当化された側面が指摘できる[34]。

こうして世論の支持を獲得したドラッグウオーの国内での中心的役割を担っていたのは、1988年に設立されたOffice of National Drug Control Policy (ONDCP) と教育省からここに赴任したウイリアム・ベネットであった。

ベネットは国内でのドラッグウオーを遂行するにあたって、「単純な事実としてドラッグの使用は間違っている。道徳的議論こそが結局のところ、もっとも説得力のある議論である」と主張し、ドラッグは健康にとって危険であるから禁止すべきであるという従来の説明から、ドラッグを道徳的問題として捉える方針をとった[35]。

ドラッグが健康問題であるうちは中毒者は病気ということになり中毒者に対する治療が期待されるだけでなく、非合法ドラッグとアルコール、ニコチンなど合法ドラッグとの間での健康上の影響の比較という政策上の難題が浮上する[36]。

また特に社会的に問題となるような中毒症状や健康障害を示さないマリファナやコカインのウイークエンドユーザーに対して厳しい禁止政策を訴える根拠が見当たらなくなる。

これに対しドラッグを道徳的問題として扱い非合法ドラッグの使用を道徳的悪と定義すればこれらの問題は一挙に解消される。

ベネットは非合法ドラッグの使用を「道徳の、価値の、人間性の、我々お互いの関係性の、そして神との関係を全滅させることである」と述べ、ベネット独自の道徳的判断によりアルコールやニコチンなどの合法麻薬を除いた非合法ドラッグの使用に限って、これは公式に道徳的悪として定義されることになった[37]。

以後、非道徳的行為を行うもの、すなわち非合法ドラッグを使用する者は、宗教的、道徳的、政治的権威を危機にさらす者達であるとみなし、使用者を徹底的に社会から駆逐する方針が打ち出された。

この結果、1980年から1994年までのレーガン・ブッシュ時代を通じて、アメリカの刑務所の収容人数はおよそ3倍に増加し、特にブッシュ政権時代の89年から93年までの間は人口比でアメリカは世界で最も高い刑務所の収監率を示すことになった[38]。

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[33]Ibid., p.359.
[34]本段落の数値は、Chomsky, Noam (1992) Deterring Democracy, London; Vintage Books, p.120.
[35]Baum, Dan (1996) op. cit. p. 264.
[36]1989年には喫煙を原因とした死亡者数が395,000人、飲酒による死亡者数が23,000人と見積もられており、またこれとは別に22,400人が飲酒運転で死亡している。一方、コカインによる死亡者数は3,618人、ヘロインなどのアヘン系物質が2,743人、マリファナの死亡者数はゼロであった。Ibid., pp. 264-265.
[37]Ibid., p. 266.
[38]Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 357.

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1983年のコカインの押収量は6トン、マリファナは850トンだったが、1985年にはコカインが25トン、マリファナが750トンとコカインの押収量がこの時期劇的に増加し、同様にDEAによる推計では1981年にはアメリカ人はおよそ36トンから66トンのコカインを消費していたが、その推計量は84年には61トンから84トンへと増加している。

供給過多によりコカインの卸価格も80年代初頭のキロ60,000ドル程度から、1985年には値が40%下落し、1980年代の終わり頃にはキロ15,000ドルと約4分の1にまで下がっている。

また1977年には18歳から25歳までの若者で前の年にコカインを使用したものの割合は1割程度と推定されていたのが、1985年には約3分の1へと増加した[31]。

要約すれば、タスクフォース開始後からアメリカ市場に大量の安価なコカインが出回り使用者を増加させていたことになる。

この現象の背景には密輸の完全な取締りが不可能であるという事柄以外にいくつかの要因が指摘できる。

まず、上述したようなドラッグユーザーと学者の間での、コカインはさほど危険ではないという認識がその後の需要に与えた影響、また今後詳述するコロンビア、ペルーなど南米のコカイン生産国の当時の政治、経済状況の混乱がコカ栽培に与えた影響も無視できない。

しかしアメリカ国内の麻薬政策に限定していえば、これはマリファナをコカインと同様の危険なドラッグとして同じ厳しい罰則規定を科した法的要因が大きいと考えられる。

当時のフロリダ州の法律では、マリファナとコカインの密輸に対する罰則が同じであったため、密輸業者が同じリスクを負うのならば、運びやすく利益が大きいコカインを密輸しようと考えるのは当然の結果であるといえる。

しかし、レーガン政権はさらなる取締りの強化でこれに対抗し、1984年にはComprehensive Crime Control Actを制定し司法省財産没収基金(Justice Department's Assets Forfeiture Fund : AFF)を創設した。これはドラッグ関連の犯罪によって没収した財産を供託する基金であり、情報源への報償金、刑務所の設立資金、また取締りの資金として連邦政府が使用するだけでなく、地方の法執行機関、警察にもこの基金の一部が還元されるシステムであった。

そのため地方警察による取締りは活発化し基金は著しく増加し、1985年には2,700万ドルであった基金は、1991年には6億4,400万ドルにまで膨れ上がっていた。

しかし1991年の調査によれば、財産を没収された市民のうち80%は刑事告発されていないにもかかわらず、93年には司法省だけで6億ドルを越える価値の押収財産が蓄積され、国民の財産権の侵害との批判もあがっている[32]。

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[31]本段落の数値はすべてIbid., p.353.
[32] Ibid., pp. 358-359. このシステムは2000年にクリントン政権下で改革された。

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1978年から盛り上がりをみせた反ドラッグの世論は、1981年の大統領選挙で共和党のレーガンを押し上げ、彼の大統領就任により麻薬政策は非寛容政策へと大きく転回していく。

特にナンシー・レーガンは有名なJust Say Noのスローガンのもと、アンチドラッグキャンペーンの道徳的アントレプレニュールとして、ドラッグへの徹底的な非寛容を訴えた。

彼女は寛容政策が持っていた根本要因論を否定し、「我々一人一人は、どこであれ、いつであれ、誰に寄ってであれ、ドラッグの使用に対して非寛容である責任を負う。我々はこの国にドラッグの使用に対して非寛容な雰囲気をつくりあげなければならない」という主張を展開した[28]。

レーガン自身も、「我々はこの国に入ってくるドラッグの流れを止めるため、子供達、とりわけ就学年齢の若者に真実を教えるため、麻薬を取り巻く間違った魅力を取り除くため、そしてマリファナのようなドラッグを正確にあるがままに規定する、すなわちそれが危険であると規定するために、すべての力を動員せねばならない」と述べ、先の父兄運動の主張に沿ったマリファナを危険なドラッグとみなす方針をとった[29]。

そしてこの問題に関する政権内のもっとも重要なポストであるAlcohol, Drug Abuse and Mental Health Administrationの長官に、フロリダ州の小児医師であり父兄運動の熱心なメンバーであったイアン・マクドナルド医師を任命し、カーター政権とは対照的に徹底したアンチ・ドラッグキャンペーンを展開した。

レーガン政権の麻薬政策は、売人と使用者に対する法的処罰に対する予算の増加と、一方での治療や使用者を取り巻く社会調査に対する予算の削減によって特徴づけることができる。

レーガンはまず1982年2月に麻薬密輸の玄関となっていたマイアミに南フロリダタスクフォースを立ち上げ、副大統領のジョージ・ブッシュを指揮官として密輸入の海上での取り締まりを強化した。

その後これをモデルに、さらに12のOCDETF (Organized Crime Drug Enforcement Task Force) の配置を10月に発表する。

タスクフォースが立ち上がった最初の年には、ドラッグ関係の起訴が南フロリダでは64%増加し、約1,900万ドルの現金や財産が押収された[30]。

しかしこの作戦はアメリカに新たなドラッグトレンドを生みだすことになる。

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[28]Ibid., p. 273.
[29]Ronald Regan Presidential Library (June 24, 1982) Remarks on Signing Executive Order 12368, Concerning Federal Drug Abuse Policy Functions, [http://www.reagan.utexas.edu/].
[30]Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 352.

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1978年はアメリカの麻薬政策にとって大きな転換点を迎えた年である。

この年にボーンに対し、偽の名前で精神安定剤の処方を書いたこと、彼自身がコカインをパーティで使用していたというスキャンダルが起き、カーター政権は麻薬問題の最高顧問であったボーンを失うと同時に、ドラッグに対しこれまで通りの寛容路線を進むことが政治的に難しくなった[25]。

さらにこの年を境目として、マリファナの常用が危険であると考える高校の最上級生の数は上昇し、1978年に35%に過ぎなかった割合が、その後1985年までには70%に上昇し、実際の使用者数もこの年を境に80年代にかけて減少していく[26]。

この変化の背景にはスキャンダルだけではなく、マリファナ使用とその使用者に対する反対運動の盛り上がりがあった。

この世論の変化をリードしたのは地域の父兄グループであった。
彼らは子供のドラッグの使用が与える悪影響を家族の立場から問題化し、麻薬(narcotics)だけでなく、アルコールによっても社会と家族のメンバーが危険にさらされているという主張を展開した。

アトランタでは1977年にマーシャ・マナットという主婦が、子供達のパーティがドラッグパーティになっていることを憂い、地域の親を組織化し様々な麻薬専門家のところに相談に行った。

当時は寛容的意見が主流であり彼女の意見に同調しない専門家が多い中、彼女達の意見に耳を傾けたのが当時NIDAの責任者であった医師のロバート・デュポンであった。

NIDAの協力のもと、彼女らはParents, Peers and Potという小冊子を百万部以上を配りマリファナの使用を抑制する啓蒙運動を始めた。

デュポンは、当初マリファナの所持の非犯罪化を支持する意見の持ち主であったが、彼曰く、「両親の力がわたしのマリファナに対する考えを変え」、マリファナの非犯罪化に厳しく反対するようになった[27]。

マナットらは1978年に反ドラッグの父兄組織、PRIDE (Parent Resources Institute on Drug Education)を設立し、その2年後には反麻薬運動を行う父兄団体を総括する全米組織、NFP(National Federation of Parents for Drug-Free Youth)を組織化し運動を盛り上げた。

ここで我々が注目すべき点は、こうしたマリファナに対する否定的世論は、マリファナの危険性に関する新たな科学的発見ではなく、アルコールを含め麻薬が社会に許容されることの影響を問題化した道徳的アントレプレニュールらによる社会運動によって生みだされた点であり、その点でかつての禁酒法の成立と類似した現象といえるであろう。

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[25]Musto, David F (1987) op. cit. p. 268-269.
[26] Ibid., p. 270.
[27]Ibid., p. 271.

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1977年に大統領に就任した民主党のジミー・カーターもドラッグに対してはフォード同様の寛容政策をとった。カーターがドラッグ問題の顧問としたのは先のボーン医師で、大統領の側近としてこの問題の全権を握った。

まずカーター政権は少量のマリファナの所持を非犯罪化し1オンスまでの所持を少量とみなす方針をとった。フォード政権と同様に罰金を中心とした罰則規定をとり、刑務所での留置などの服役刑が科されることはなかった。

しかし完全な合法化は1961年にアメリカも調印した国際麻薬統制条約である単一条約(Single Convention on Narcotic Drugs)違反になるので、マリファナ所持に関する処罰は各州の裁量に任せるという方針をとった。

1977年にカーターは議会で、「ドラッグの所持に対する刑罰は、ドラッグそれ自体の使用よりも個人により大きなダメージを与える」と述べ、マリファナの個人使用目的での所持に関して罰則をゆるめる意見を各州の行政機関に向けて発している[22]。

このカーター政権の麻薬政策の柱は、非合法麻薬すべての禁止ではなく危険性の高いドラッグに対してのみ国民に注意を喚起させることであった。ボーンが特に危険視したのは1977年に2,000人の死者を出していたバルビツレートで、これに厳しい規制をかけつつ、またトルコ産に代わってアメリカに流入していたメキシコ産のヘロインに対しても、経済援助と引き換えにメキシコ政府に除草剤の散布によるケシ畑の殲滅作戦に協力させこれに対処した[23]。

ここでボーンとカーターを思わぬところで悩ませたのは、メキシコ政府が1975年の後半からマリファナ用の除草剤として使用したパラコートであった。
パラコートは人間の食道、内臓に潰瘍を生じさせる毒性の高い物質で、これを散布されたマリファナの流入がNORMLによって大々的に喧伝され社会問題化された。

アメリカ政府はもともとメキシコから流入するヘロイン対策として、メキシコ国内のケシ畑に枯葉剤を散布させるためヘリコプターを供与していた。しかしアメリカ政府の意図に反しマリファナの撲滅にむしろ主眼をおいていたメキシコ政府は、ケシ畑に対して2-4-Dという除草剤を散布する一方、アメリカから供与された装備で大量のパラコートをマリファナ畑に散布していた。

NIDA (National Institute of Drug Abuse) はすぐにNORMLの指摘を受け、メキシコから流入するマリファナの危険性を報告し、保健教育福祉省も78年3月に、「強度に汚染されたマリファナタバコを一日3-5本づつ数ヶ月に渡って使用した場合、回復不可能な肺へのダメージを引き起こす」という報告を新聞紙上で発表しNORMLの要求に答えた[24]。

また1978年5月にはチャールズ・パーシー上院議員が、Foreign Assistance Actを見直し、パラコートの使用などの生産地でのドラッグ撲滅プログラムの抑制を検討する考えがあると発表した。

しかし政府のこうした協力的対応にもかかわらず、NORMLのリーダー、キース・ストロープは執拗にこの問題でカーター政権を批判しつづけ、あくまでもメキシコ政府にパラコートの散布を中止させるよう政府に求めた。

しかしこの問題はもとよりメキシコ政府が起こした問題であり、また本来非合法なマリファナの安全問題は政府がこれ以上取り扱うべき事柄ではなかった。
政府のPR活動によって多くのマリファナ使用者はこの問題に対する注意を充分に喚起され問題は実質的に終息していたにもかかわらず、ストロープは執拗にカーターとボーンを批判し続けた。

カーター政権時はこうした行過ぎたNORMLの運動とそれに対する政府の受け身の対応に象徴されるように、アメリカの歴史上ドラッグにもっとも寛容な時代のピークを迎えていたといえる。

一方で行き過ぎた解放運動と寛容政策は、未成年や子供への悪影響などこれまでの寛容政策の中で忘れられていた問題を世論の中に生みだすことになる。

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[22]Musto, David F (1987) op. cit. p. 267.
[23] ヘロインの使用は80年代に入ってから再び増加するが、この増加はカーター政権と無関係ではない。79年にカーター政権がアフガニスタンでソビエトに抵抗していたムジャヒディンゲリラに武器の援助を開始したことで、この地域でアヘン生産を行い軍事資金にしていたゲリラの活動を活発化させた。結果、アフガン産のアヘンがパキスタンなど隣国でヘロインへと大量に精製されるようになり、80年にはアメリカで消費されるヘロインのおよそ6割がアフガン産アヘンから作られたものとなっていたDavenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 345.
[24] Baum, Dan (1996) op. cit. p. 107.

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ニクソン政権が1974年に終わると、同じ共和党のフォードが大統領に就任した。しかし彼はニクソンとは麻薬政策に対する考え方が異なっており、ドラッグの使用は既に広く社会に普及しており、これを完全に消滅させることは現実的に不可能であるとの認識を持っていた。

1975年9月に、1969年からのニクソンによるドラッグ政策のレビューとしてDomestic Council Drug Abuse Task Forceによる麻薬中毒白書(White Paper on Drug Abuse)が出版された。そこでは、「麻薬中毒の完全な排除はあり得ないが、しかし政府の行動はこの問題を抑制し、負の影響を抑えることはできる」との政府の基本的立場が示されている[16]。

また「すべてのドラッグは一様に危険なものではなく、すべてのドラッグの使用は一様に有害ではない」との見解を同じ白書の中で示し、種々のドラッグの持つ危険性を再度ランク付けし、「供給と需要の削減の両者において優先させなければならないドラッグは、より大きな固有の危険性を保持している以下のドラッグ、すなわちヘロイン、アンフェタミン--特に静脈注射で使用される場合--と混合バルビツレートである」との方針を打ちだした。

また翌1976年のFederal Drug Strategyでは、ヘロイン中毒に言及して、ジョンソン時代の根本原因論が再び取り上げられ「貧困、失業、疎外、あるいは機会の不足」がヘロイン中毒発生の根本的要因であるとの見解が示された[17]。

このフォード政権時に発表された白書で注目すべき点は、ここにマリファナとコカインに関する言及がみあたらないことである。

これはつい5年前に議会でマリファナ及びドラッグ中毒に関する委員会が設けられ、マリファナに最も高い取締りの優先順位をつけていたことを考えれば大きな変化といえる。この変化の背景にはこの二つのドラッグに対する社会的表象の変化が多分に影響していると考えられる。

マリファナが危険なドラッグであるという認識は、ニクソン時代の厳しい禁止政策に関わらず70年代を通じて衰退している。
1975年にはまだ43%の高校生がマリファナを危険と考えていたが、1978年には35%へと落ち込みその数は減少の一途を辿った。
同時にマリファナの使用者も増え、1978年のピーク時には24%の高校生が過去30日間にマリファナを使用したと回答している[18]。

州単位では法改正も行われ、70年にワシントンの弁護士キース・ストロープによって創設されたマリファナ解放を目指す非営利団体NORML (National Organization for the Reform of Marijuana Laws)のロビー活動によって、既にニクソン政権末期の1973年には全米で最初にオレゴン州でマリファナ所持の非犯罪化が行われ、その後アラスカ、カリフォルニア、コロラド、メーンなど11の州が70年代に同様の政策を採用し、マリファナ所持の非犯罪化もしくは逮捕に代わる民事制裁金による刑罰へと移行している。

74年には雑誌High Timesも創刊され、吸引器具の販売も含めマリファナに関連した経済活動も活発化した。

このように、少なくとも70年代中頃までには、マリファナの喫煙はもはや極端な社会的逸脱行為とはみなされず、むしろ一つのサブカルチャーとしての地位をアメリカでは確立していたといえる。

一方のコカインも、70年代中頃までにはこのドラッグを20世紀初頭の頃のように危険視する意見は稀となっていた。

後にカーター政権下でドラッグ問題の責任者となる当時の著名なドラッグの専門家であったピーター・ボーン医師は、1974年にコカインについて次のように語っている。

「コカイン、最近その使用が広がっているこのドラッグは、おそらく非合法ドラッグの中でもっとも良性のものである。極端な場合、マリファナと同様にコカインは合法化することも可能であろう。約15分という短い効果と、身体的中毒性の欠如、そして激しい楽しさ。コカインは、昨年すべての社会経済的レベルで増大する支持を獲得している」[19]。

この現在からみれば行過ぎともとれる当時のコカインの肯定的評価の背景には、コカインが経験した1920年代から60年代にかけての長い薬物としての歴史的断絶を考慮する必要がある。

前章でふれたように1910年代後半からの厳しい取締りによって、コカインの非医療目的での使用がアメリカでは激減し、一方医療界でもノボカインなどの新たな代替化学物質の発明によりコカインが医療目的で使用されることはほとんど無くなっていた。

1930年代にはコカインは西洋社会ではほとんどみかけなくなり、この時代にコカインを積極的に製造していたのは日本統治下の台湾ぐらいであった[20]。

その結果、この薬物をあえて研究しようという者がいなくなり、コカインに対する薬学的調査や研究文献はこの時代全く現れていない。

歴史学者のポール・グーテンバーグが指摘するように、70年代のコカインに対する肯定的認識と使用の拡大の背景には、コカインの持つ潜在的な危険性に対する当時の絶対的な知識不足があり、これがこのドラッグの娯楽的使用と政府の寛容政策を助長させたと考えられる[21]。

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[16]Domestic Council Drug Abuse Task Force, White Paper, pp.97-98. cited in Musto, David F (1987) op. cit. p. 264.
[17]Baum, Dan (1996) op. cit. pp. 86-87.
[18]Musto, David F (1987) op. cit. p. 264.
[19]Ibid., p. 265.
[20]日本の製薬会社の台湾でのコカイン製造に関しては、星新一『人民は弱し官吏は強し』、角川書店、1978年、に詳しい。
[21]Gootenberg, Paul (ed.) (1999) Cocaine: Global Histories, London and New York, Routledge, pp. 3-4.

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こうした供給対策と並んで、ニクソン政権は国内での需要対策として麻薬使用者に対する取り締りの強化を柱に据え、1969年にBureau of Narcotics and Dangerous Drugs (BNDD)を創設し、ドラッグ事犯の取り締りに向けられる予算を、1970年の4,300万ドルから1974年には2億9,200万ドルへと大幅に増加させた[13]。

ここで取り締りの手段として新たに採用されたのが1970年に連邦法で認められたno-knock条項で、これは非合法ドラッグ所持の疑いのある家に警察が押し入る際にノックをせずにドアを蹴破ることを許可した条項である。

また1972年にニクソンは、当時税関長であったマイルズ・アンブローズをトップとするOffice of Drug Abuse and Law Enforcement (ODALE) を創設し、麻薬取締りの専門機関として密売人への手入れを強化した。

翌年、BNDDはODALEと合併し、現在アメリカの内外での非合法麻薬取締りの中心機関であるDrug Enforcement Administration (DEA)へと統合された。DEAは73年には7,490万ドルの予算が配分されているが、そのわずか2年後には1億4,090万ドルへとおよそ2倍に予算が増額され、人員も74年には4,000人規模となり名実ともにアメリカの麻薬取締りの中心機関となった[14]。

ところで、ニクソン政権はこのような取締りの強化を図る一方で、需要対策としてメタドンによるヘロイン中毒者の治療も促進している。
メタドンとは第二次世界大戦中にアヘンの供給が断たれたドイツで開発された合成アヘンで、モルヒネに代わる兵士の鎮痛剤として使用され、当初はヒットラーの名前にちなんでAdolphineと名付けられていた。

アメリカでは新陳代謝の専門医であるビンセント・ドールと精神科医で薬物中毒の専門家であったマリー・ニスワンダーによって1964年からニューヨークでヘロイン中毒者への代替物質として使用されている。

このメタドン治療促進の背景には、60年代からの社会改革運動の流れの中、個人的選択の自由として、ドラッグの使用を他人や国が干渉すべきではないというリベラル派の意見の盛り上がりがあった。

政府は中毒者に対する強行な政策を政治的にとることができず、かといって20世紀初頭のようなヘロインそのものを使用したメインテナンス治療を支持することもできなかった。

その点メタドンプログラムは、メタドンの配付により中毒者によるヘロイン入手のための犯罪が防止されるという効果と、中毒者がヘロインからメタドンの使用へと切り替えることで中毒者に社会復帰への選択の余地を与えるという点でリベラル派を納得させるものであった。

また注射針の使用を抑制できるので、肝炎、マラリアなどの感染症を予防する効果も期待された。

ニクソンは、1972年にSpecial Action Office for Drug Abuse Prevention(SAODAP)を大統領事務局に創設し、メタドン治療に詳しいジェローム・ヤッフェ医師を中心にメタドン治療プログラムを推進し、1973年までには全米で80,000人のヘロイン中毒者がメタドン治療を受けるまでに発展し一定の成果をあげていた[15]。

以上ニクソン政権は、その予算及び人的資源の規模から名実ともにアメリカで本格的なドラッグウオーを開始した最初の政権であった。しかし彼の在職中、アメリカ社会で非合法麻薬の使用が著しく抑制されることはなく、上述したようにヘロインやマリファナの国内外での取締りの強化は、アンフェタミンやLSD、またコカインなどの他のドラッグの流行を国内に生みだす一方で、新たな密輸ルートと密輸手段の発生を生みだしている。

このニクソンの失敗を受けアメリカ政府は以後70年代を通じて、ドラッグの取締りそれ自体に疑問を持つようになる。

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[13]Musto, David F (1987) op. cit. p. 257.
[14] DEAの予算と人員の推移はDEAホームページ(http://www.usdoj.gov/dea)DEA Stuffing and Budgetを参照。
[15]Carnwath, Tom and Smith, Ian (2002) Heroin Century, New York and London; Routledge, pp. 173-174.

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政権獲得後、ニクソンがターゲットにしたドラッグはマリファナとヘロインであり、その戦略はこれ以後のアメリカ型ドラッグウオーの基本的アプローチとなる供給のカットと需要の縮小の二本柱によって構成されている[6]。

まず供給に関して問題となったのは、トルコからのヘロインとメキシコからのマリファナであった。
当時政府は国内の8割のヘロインがトルコで生産されたアヘンから精製されていると見積もっており、ニクソンは二国間の関係を悪化させることなくこの問題に対処するため、まずトルコ政府に対して経済援助の停止をちらつかせケシ栽培をやめるよう説得する一方で、その代価としてのさらなる経済援助を約束した。

トルコ政府はこれに従ったため、トルコでのアヘン栽培は大幅に減少し、フレンチコネクションの名で有名だった50年代の主なヘロイン密輸ルートであったマルセイユ経由の密輸ルートは解体することになる。

これによって、72年から73年にかけてアメリカでのヘロインの使用は一時的に減少した[7]。
しかしトルコからの減少分はメキシコ、アフガニスタン、パキスタン、またゴールデントライアングル産のアヘンによってすぐに補填され、トルコ国内でも75年にはケシの国内での非合法な栽培が始まりヘロイン問題がこれによって根本的に決着することはなかった。

またヘロインの供給量が一時的に減少した際には、アンフェタミンやバルビツレートなどの他のドラッグの代替的使用が国内で増加するという現象が起きている[8]。

一方マリファナの主な供給国であったメキシコ政府は、マリファナの問題はアメリカ国内の需要に最たる要因があると考え、当初アメリカに対して協力的な姿勢を示さなかった。これに対しニクソン政権は1969年9月にOperation Interceptを発表し、2,500マイルにわたるメキシコ-アメリカ間の国境を封鎖し、3週間で418,161人と105,563台の車両を捜索するという大掛かりな手段に打って出た[9]。

すぐに国境が混乱した為、メキシコ政府は仕方なくアメリカとの協力を約束し封鎖は20日間で解かれ、メキシコ産のマリファナのアメリカへの流入量は減少した。

しかしアメリカ国内のメキシコ産マリファナの流通の減少は、国内で70年代初頭からマリファナ愛好家による手軽なシンセミーリャ(Sinsemilla:種をつけない品種)の栽培をさかんにし、国内でのマリファナ栽培の定着に一役を買った[10]。

またメキシコ産のマリファナの減少はコロンビアでのマリファナ栽培をさかんにし、マリファナで儲けたコロンビアの密輸業者は新たにコロンビア産のコカインもアメリカ国内に運び込むようになった。またマリファナの供給量が一時的に減少した結果、多くのマリファナ喫煙者が代替ドラッグとして、LSDやヘロインなどより危険な麻薬の使用を開始している[11]。

さらに取り締りの強化によってマリファナの個人レベルでの密輸が難しくなったため、プロの犯罪組織がこれに積極的に関わり、密輸手段も空輸などのより大掛かりなものへと移行していった。

結局のところOperation Interceptは、ドラッグを供給するある特定の国への対応だけでは、国内に需要が存在する限り、他の供給源と他のドラッグにビジネスチャンスとマーケットを移動させることを証明する結果となった。

また、これと類似した現象は、当時ベトナムに駐留していたアメリカ軍兵士の間でも起きている。ベトナムでは軍が国内と同様、21歳未満の兵士にはアルコールの販売を禁止していたため、多くのアメリカ兵(平均年齢19歳)はアルコールを手に入れることができなかった。

戦場というストレスの多い場所で飲酒を行えない多くの新兵は代わりにマリファナの使用を開始した。しかしマリファナの供給も1968年に軍が厳しく取り締まったため、多くの兵士がアジアで手に入り易かったゴールデントライアングル産の高品質のヘロインへと使用を切り替えた。
その結果、全体の25%の兵士がアルコールやマリファナよりも危険性の高いヘロインを使用するという状況を生み出している[12] 。

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[6]彼が大統領に就任した1969年にアメリカで最も普及していたドラッグは、アルコールとニコチンを別にすればアンフェタミンであった。アンフェタミンは当時合法的に医師によって処方されており、1958年の段階ですでに年間35億錠製造されており、70年には100億錠にまで生産量は増大し、come alive, feel goodといった広告キャッチコピーによって広く全米で販売されていた。その使用者は、ダイエット薬として使用していた白人の婦人達、長時間不眠で働く工場労働者、病院の夜勤スタッフ、テスト前の学生などその使用者層も用途も多岐に渡っていた。50年代からすでにアンフェタミンの危険性は医学ジャーナルの中で指摘されていたが、ニクソンはアンフェタミン、メセドリンといった覚醒剤の使用を政治的問題として積極的に取り上げることはなかった。その後、アメリカで最初の本格的なドラッグの危険性のランク付けを行った1970年のControlled Substance Actでは、マリファナとヘロインが最も厳しい罰則規定をもつスケジュール1にカテゴリー化されていたのに対し、アンフェタミンはスケジュール3に留まっている。アンフェタミンは1971年に生産量に制限が加えられるまで実質的に野放しとなっていた。Joseph, Miriam (2000) Agenda Speed, London; Carlton Books, p. 29. Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 339.
[7]Musto, David F (1987) op. cit. p. 257.
[8]Davenport-Hines, Richard (2001) op. cit. p. 342.
[9]Ibid., p. 339.
[10]King, Jason (2001) The Cannabible, Berkeley and Tronto; Ten Speed Press, p.3.
[11]Baum, Dan (1996) op. cit. p. 24.
[12]Musto, David F (1987) op. cit. p. 258.

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アメリカでドラッグウオー(War on Drugs) という言葉が実際に使われ一つの政治課題として取り上げられたのは1968年の大統領選のキャンペーンからである。

周知のように、60年代のアメリカでは既成の価値観に対する反発から生まれた若者文化、カウンターカルチャーがいくつも誕生し、都市部の中産階級の10代や20代の若者の間で、それまで下層階級のドラッグであったマリファナや新たなLSDなどのドラッグの使用が流行していた[2]。

マリファナの使用者は1965年から70年にかけての5年間で18,000人から188,000人へとおよそ10倍に増加し、1971年には少なくとも2,400万人の11歳以上の若者が一度はマリファナを試したことがあると推計されており、またヘロインの静脈注射によって肝炎に感染した者の数も66年から71年にかけて約10倍に増え、70年代初頭までにヘロイン使用者はおよそ50万人にまで増加している[3] 。

1914年のハリソン法の制定以後第一次、第二次世界大戦の影響でドラッグの使用が沈静化していた時代は終わりを告げ、60年代はドラッグがアメリカ社会を急激に席巻し始めた時代であった。

このころ議会共和党は、下院司法委員会のメンバーであったドン・サンタレーリを中心に、1968年の大統領選でどのような独自の政治的争点を持つかを模索していた。

当時、民主党のジョンソン政権はベトナム戦争で共産主義と戦っていたため反共政策を訴えても民主党との明確な相違点とはならないばかりか、世論は戦争遂行に対してほぼ二分されており、反戦の主張も撤退の主張のどちらも明確にはし難い状況にあった。

一方、内政の中心課題である経済は戦争景気で好調であり、インフレ率、失業率は共に低かった。こうした中、サンタレーリが明確な政治課題として着目したのは犯罪の増加であった。

当時多くの白人の間では60年代に頻発した黒人による暴動、デモ、また貧困を原因とした犯罪による治安の悪化、また若者の間でのドラッグ使用の流行に対する不安感が増大していた。

この問題にはジョンソン政権も当時の司法長官であったニコラス・カッツエンバックを中心に、法執行と裁判に関する委員会(Commission on Law Enforcement and the Administration of Justice)を1965年に立ち上げ、犯罪に関する調査と対応を検討させている。

2年後の1967年にまとめられた報告では、「貧困と不十分な住居、失業を撲滅する為の戦争こそが、犯罪撲滅への戦争である」、「医療、精神医学、家族カウンセリングサービスが犯罪に対抗するためのサービスである。より重要なことは、アメリカの都市部のスラムの生活を向上させるすべての努力が犯罪に対する努力である」と結論し、犯罪者の取り締りよりもむしろ犯罪を発生させる社会環境の改善を主張している [4]。

また非合法ドラッグの使用に対する法の適用についても、「これらの法の適用はしばしば、民衆の中の貧困層やサブカルチャー集団に対する差別へとつながる」とし、あくまでも「貧困それ自体が犯罪を生む」というリベラルな立場にたち、麻薬問題も麻薬を使用する社会的条件の改善によって対処しようという姿勢を打ち出していた。

こうした民主党の根本原因 (root causes) 論に対し、共和党のサンタレーリは、これでは犯罪を犯した個人は悪くなくすべて社会が悪いことになってしまうと反論し、カッツエンバックの報告とは対照的に、犯罪は法を犯す人々の個人的資質の問題であるとの主張を展開した。

彼は、犯罪者に対する厳しい法的措置を盛り込んだ法案の作成を開始しこの問題に対する民主党との違いを強調し、麻薬の使用も、これは快楽を求める犯罪的な堕落した行為であるとし、これを厳しく取締る主張をすることが最良の選挙戦略であると判断した。

これに従って、ニクソンはリーダーズ・ダイジェスト誌上で、「国は犯罪の根本原因を探すことをやめ、代わりに警察官の数を増やすことに金を使うべきである。アメリカの犯罪に対するアプローチは犯罪は素早く確実に処分することである」と述べ、取り締りの強化によって麻薬問題に対処する方針を打ち出した[5]。

彼はニューヨークの犯罪の半分は麻薬中毒者によるものであると犯罪とドラッグを積極的に結びつけ、ドラッグをアメリカで最大の社会問題であると宣伝し、これを処置するための厳しい措置をとることを宣言し大統領選に勝利した。

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[2] 60年代に若者の間でドラッグの使用が広まった社会的背景として、若者の人口比率の上昇、無制限な個人的満足を奨励する価値観の広がり、マスメディアの影響などが指摘されている。Courtwright, David T (2001) Forces of habit: Drugs and the Making of the Modern World, Cambridge, Massachusetts, and London; Harvard University Press, pp. 44-45.
[3] Musto, David F (1987) The American Disease: Origins of Narcotic Control, Expand Edition, New York and Oxford; Oxford University Press, p. 254.
[4] Baum, Dan (1996) Smoke and Mirrors: The War on Drugs and the Politics of Failure, Boston, New York, London; Little, Brown and Company, p. 5.
[5] Ibid., p. 7.

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