「ここ数日、久保田さんの旦那さん、病院に来ていないな。」
毎日面会に来ていた良介が数日間来ないことを、長島医師は気にしていた。医局で書類を書いていると、電話が鳴った。
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留置された翌日、良介は弁護士が来ていると連絡を受け、面会をすることになった。良介は弁護士をまだ頼んでいないのに、と疑問を持つ。昨日聞いた当番弁護士というやつだろうか。とにかく、自分の状況を相談できる相手が出来そうな事にほっとする。
面会室に、30代後半の壮健な男がいた。弁護士との面会の場合は、警察官の立ち会いがなくてもよいらしく、警察官は出て行った。
「弁護士の渡辺と言います。よろしくお願いします。」
「久保田です。私、弁護士を頼んだ覚えはないのですが、当番弁護士の方ですか?」
「いえ、私は当番弁護士ではありません。実は、上田さんから連絡がありましてね。あなたの事情も聞きました。困っているだろうと思いましてね。力になれればと、こちらに伺ったというわけです。」
「そうですか。誰も相談できる相手がおらず、参っていたところだったんです。ありがとうございます。」
良介は、素直に渡辺弁護士と上田に感謝した。こういうのを地獄に仏というのだろう。
「では、時間がないのでさっそく話を始めましょうか。上田さんに聞いたのですが、あなた、奥さんの病気のために大麻を所持したということでいいんですね。自分では使ったことはないと。」
「・・・ええ。そうです。妻は癌で、激しい痛みがありました。通常の痛み止めは効果がなく、大麻が効くという話を聞き、使いました。実際に大麻はとても効果がありました。」
「なるほど、分かりました。それで弁護についてですが、最初に契約についてお話しなければなりません。逮捕されて送検されると弁護士をつけることができます。私は、私選弁護士ということになりますね。それで、かかる料金ですが、まず契約金が30万円です。そして、執行猶予になればその報酬を、30万円いただきます。最初にお金の話をするのは心苦しいけど、こちらも仕事ですから伝えないといけないんです。」
「お金は貯金があるので大丈夫です。他に心当たりもないし、渡辺さんはこういうケースになれてらっしゃるんでしょう?」
「そうですね。経験は多いです。」
「それじゃあ、私の弁護をお願いします。」
「妻が使ったとなると、罪が妻にも及んでしまいますよね。」
これは、良介が一番気になっていることだ。
「これは、微妙なところですね。まず、本人が大麻と知っていて使ったかどうか。知らなければ、罪に問うのは難しいでしょう。知っていたとしたら、これは難しいのですが、大麻取締法では医療目的で施用を受けることが禁止されています。しかし、事情が事情ですからね。裁判官がどう判断するかになるでしょうね。」
「よかった・・・。妻には、大麻だと知らせていません。」
良介は少しほっとした。
「それで、取り調べではどのようにしゃべったのですか?」
「それが、妻のことを話すとまずいかと思い、自分で吸うために購入したと話してしまいました。」
「それは、ちょっとまずいなあ。まあ、その状況ならしょうがないですけどね。それで、今後どうしていきましょうか?ひとつは、自分で吸うために購入したということにして裁判を終わらせる。反省した態度を示せば、初犯だし執行猶予になるでしょう。もうひとつは、医療目的であったことを正直に話す。検察には、供述を覆すことになり悪い印象を与えることになるので、裁判は大変になるかもしれない。でも、情状酌量の余地があるから無罪の可能性もある。今まで、自分が使わず、人に医療目的で使うためだけで所持して捕まったというケースはないんですよ。だから、裁判所がどう判断するかは分からないところがあります。ただ、これは実際に本当のことで嘘をつくわけではないし、あなたの名誉も守られる可能性がある。」
「どっちがいいのか。正直なところわかりません。でも、自分が悪いことをしたとはどうしても思えないのです。なんで裁判になるのか、まだ、自分の立場を受け入れられないんです。」
「そうですか。私としては、これは重大な人権侵害だと思っています。問題の提起の為にも、医療目的であることを主張して闘ってみたい気がします。久保田さん次第ですが。」
「先生、結構熱いですね。留置場で同室の人は、罪を認めて早めに裁判を終わらせたいという弁護士が多いと聞いていたのですが。」
「ははは。私は、とにかく正義と真実を大事にしたいと思ってるんですよ。仲間からはちょっと青臭い奴と言われますけどね。」
渡辺弁護士は笑いながら言った。良介は、この先生は信用できそうだと思う。
「もう少し考えさせてください。ひとつ、お願いがあります。妻の病院に行って、妻の主治医とお話ししてもらえませんでしょうか。妻の様子を聞いてきていただきたいのと、妻にこのことを伝えたくないので、僕が急な海外出張で行けなくなったことにしておいて貰えないか、と頼んでいただけませんか。」
「わかりました。私はあなたの味方です。あなたのいいようにしますから安心してください。」
(編集部注)良介が私選した弁護士は、自分で使うのではなく、人が医療目的で使うための大麻を所持していたケースを知らないようだが、現実には、そのようなケースが過去にあったようだ。病の父親に使わせる目的で、繁華街で外国人から大麻を買い、張り込み中の刑事に職質され逮捕に至った例だ。この例では、もちろん尿検査の反応も出ず、不起訴になったと当事者から聞いたことがある。
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「医療大麻を推進する会」の上田は事務所で仕事をしていた。そこに電話がかかってきた。
「もしもし。上田ですが。」
「上田さんですか?佐藤ですけど、ソーマ君が捕まったんですよ。上田さんに連絡してくれって頼まれて電話しました。」
「何?いつ?」
上田はしかめ面で答える。
「×日に自宅に踏み込まれたらしいです。ソーマ君栽培してたでしょ。通販で種買ったらしいんだけど、そこから足がついたみたいですよ。」
「最近、種を売ってる業者から捕まることが多いねえ。で、他に誰か捕まったりしてないの?」
「それが、たまたま一緒にいた人が捕まっちゃったらしいんですよ。そうそう。上田さん会ったことある人ですよ、多分。奥さんが癌とか言ってた。」
「ああ、久保田さんか。困ったことになったな。でソーマ君は何か言ってた?」
「そうですね。何か、弁護士を紹介してほしいとか言ってましたけど。」
電話を切って、上田は名刺を探し始めた。
「あった、あった。」
上田は名刺に書いてある番号に電話をした。
「もしもし、渡辺先生?あの節はいろいろお世話になりました。ええ。ちょっと相談したいことがあるんですけど。そうです、ちょっとトラブルがあって。お会いできますか?ありがとうございます。じゃあ、そちらに伺います。」
上田は、弁護士事務所を訪ねた。事務所には30代後半の壮健な感じのする男がいた。
「先生、お久しぶりです。前回の裁判の時はお世話になりました。」
上田が挨拶した。
「いえいえ。結果が良くて良かったですね。で、今回は何でしょう?」
「それがですね、うちに出入りしてる若いのが、大麻所持で捕まってしまったんですよ。そいつは普通に、普通っていうのもなんだけどね、自分で吸うために栽培していて捕まったんですよ。ただ、その時一緒に捕まった人がいて。」
「はあ。その人に何か問題が?」
「それが、僕んとこに一回来たことがあって。奥さんが癌で、大麻を医療目的で使いたいっていうんでね。それが、あまりに真剣だったもんだから、うちの若いのを紹介というかね、連絡先を教えたんですよ。そしたら、今回捕まったってことで。まあ、僕も責任の一端があるかなと。」
「医療目的ですか。大麻って医療目的で使えるんですか?」
「ええ、漢方では昔から使われてきてますよ。今注目されてるのはエイズや末期がんの治療ですね。慢性の痛みや食欲増加にいいということで、欧米の大手製薬会社も研究してますよ。日本では大麻取締法で医療目的の使用は禁止されとるけども。ひどい人権侵害ですよ!」
「そうですか。それでその彼は純粋に医療目的なんですかね?」
「多分ね。あれは嘘をついている感じじゃなかったな。それで、先生、ちょっとその彼の相談に乗ってもらえないですか?」
「うーん、何だかややこしそうだな。まあ、上田さんに頼まれるとね。やだって言っても聞かないでしょう?」
「先生、ありがとう。よろしくお願いしますよ。」
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麻薬取締官事務所には留置場がないため、良介は近くの警察に移され留置場に入れられた。留置場は、8畳ほどの大きさで、部屋には何もない。窓には頑丈そうな金網が張ってある。部屋には5人収容されていた。
良介は部屋の人に挨拶をして、中に入った。留置場ということで、凶悪な人が同室だったらどうしようかと心配していたが、そのようなことはなく、みな気さくに話しかけてきた。同じ境遇で相憐れむというところもあるのだろうし、何より、娯楽がなく人と話すことが唯一の楽しみであるようだ。
同室者は、2人が外国人で3人が日本人であった。2人の外国人は、東南アジアから出稼ぎで、不法労働ということで逮捕になったらしい。日本人は、1人は傷害事件、1人は覚醒剤所持で逮捕されたらしい。もう1人は老人だが、どうも1人暮しで認知症になってしまい、周囲を徘徊し、女性にわいせつ行為をはたらこうとしたという理由で逮捕されたようだった。
覚せい剤所持で逮捕された男は、ちょうど良介と年も近く、同じ薬物犯ということで、良く話しかけてきた。
「あんた、大麻で捕まったんだってな。俺もやったことあるけど、あれは悪いものとは思えなかったね。シャブに比べりゃあ酒みたいなもんだよな。」
「はあ・・・。」
良介は、気のない感じで返事をした。
「あんた、でも、やりそうにみえないけどね。真面目なサラリーマンって感じじゃん?どうしてやるようになったの?」
「・・・。」
良介は、話しかけながら、感情が抑制できなくなってくるのを感じた。「急に逮捕され、取り調べを受け、そして今は留置場にいる。自分は妻の病気を良くしたかっただけなのに、ひどい状況になってしまっている。これからどうなってしまうのかも分からない。そして、妻は今どうしているのか。大麻がなくなって。痛みはきっと強くなっているに違いない。今の自分の状況をどう伝えるべきなのかも分からない。何故こんな目に逢わなければならないのだ。」良介は俯き、悲しみと怒りで背中を震わせる。男が良介の肩を叩く。
「おいおい、大丈夫か?まあ、急なことで無理もねえよなあ。俺も最初はつらかったぜ。今はだいぶ落ち着いてきたけどな。」
「すみません。急に色々あったもんで。もう大丈夫です。」
その後、男の逮捕の経緯や取り調べなどについて聞いた。薬物犯なので参考になるだろうということだった。
男は、1週間前に覚せい剤所持で現行犯逮捕された。警察で取り調べを受けて、送検されたばかりだ。これから検察で取り調べを行う予定で、留置場で待機させられている。
「今は、待ちぼうけさ。いつ検察に呼ばれるか分からないし。弁護士も付けたんだが、これがひどい弁護士でねえ。」
「弁護士?そういえば取締官が弁護士をつけられると言っていましたが、具体的にはどうするんですか?」
「当番弁護士ってのがいるんだよ。要は、警察で営業してる連中だと思うよ。当番で俺たちの弁護してくれる奴が決まってるってわけ。でも、選べないし、選べたとしても、どいつがいいのか分んねえからなあ。まあ、警察が紹介してきたのを頼むしかねえわな。それで俺の弁護士はひどくてよ。弁護士なのに取調官みてえな感じで。しかも薬物関係はあまり専門ではないとか言いやがって。とにかく正直に全部言って罪を素直に認めろ、しか言わねえ。言い逃れて向こうの心証を悪くすんなってのよ。まあ、証拠もあるし言い逃れようがねえから、とっとと罪を認めて早く裁判終わらせてえのは分かるけどよ。でも、俺の罪を軽くするためにどうすりゃいいのかもっと考えてくれてもいいよな。あれじゃ裁判官や検察とグルだぜ。誰か知ってる弁護士がいりゃあ、そっちに頼んだ方がいいぜ。」
注)当番弁護士制度について。男は「警察から紹介される」といっているが、正しくは日本弁護士連合会による制度である。逮捕された人が当番弁護士によって1回無料でアドバイスを受けることができる制度。警察に当番弁護士を呼んでほしいと伝えると弁護士会に依頼してもらえる。その後の弁護も依頼できる。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/legal_aid/on-duty_lawyer/index.html
「そうですか。」
良介は、もちろん知っている弁護士などいない。しかし、まずは誰でもいいから相談できる人、外の世界と連絡を取ってくれる人が欲しい、と思った。
9時に消灯になり、良介は布団に横になった。なんとなく考え事をしていると、なんだか隣の布団が騒がしい。
「俺はもう帰るよ。もうこの船も港に着いただろう。」
認知症の老人が騒いでいる。
「開けろ、開けろ!」
扉を叩いている。
「どうしました?」
良介が聞くと、
「母ちゃんか、今から帰るぞ!」
と、すっかり興奮状態になっている。ここがどこなのか、自分が話しているのが誰なのか、全く分からなくなっているようだ。
留置場の担当の警察がやってきて、
「爺さん、またかよ。困ったなあ。ここは留置場で、あんたまだ帰れないから。言っても分んねえだろうなあ。しょうがねえなあ。ああ、あんた、悪いけど爺さんの面倒みてくれないか。」
「え、私がですか?」
結局良介は老人の面倒を見ることになり、ほとんど眠ることができなかった。「ああ、何てことになってしまったのだ。」良介はあまりに疲れ果てて、自分のひどい状況が逆に笑えてきた。
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良介とソーマは麻薬取締官事務所に連れて行かれた。その後、2人は別の部屋に連れて行かれ、それぞれ取り調べを受けることとなった。
取調室は狭く、机といすがあるだけの殺風景な部屋だった。机の上には、ノート型コンピューターとプリンターが置いてある。取り調べを行うのは2人の麻薬取締官で、1人はベテランで40代後半位の男、もう1人は若い20代後半位の男だ。2人とも逮捕の時のような緊張感は漂わせてはおらず、どちらかといえば紳士的な感じである。
「どうも。私は岡村と言います。彼は部下の鈴木です。これからあなたのことをいろいろと聞かせてもらうよ。あなたは初犯だし、少量の所持だけだから、正直に答えてもらえば、罪はそれほど重くはならないよ。だから正直に話してくれよ。」
ベテランが自己紹介し、取り調べが始まった。岡村が主に取り調べを行い、鈴木がコンピューターで供述書を作成する係のようだった。
「あなた、名前は?」
「久保田良介です。」
「相馬とはどのような関係?」
「どういう関係といわれても、あまりよく知らないのですが。」
「知らないと言われてもね。家に一緒にいたでしょう?彼から大麻を買ったんだね?」
良介はしばらく黙っている。しかし、現物を調べられている以上言い逃れはできない。
「はい。彼から大麻を買いました。」
「で、久保田さん、買ったのは今回が初めてかな?」
「いえ、今回で2回目です。」
「大麻は自分で使ったんだね?使い方は、喫煙かい?」
「そうです。タバコに混ぜて喫煙しました。」
部下がコンピューターで供述書を作り、その場で印刷する。
「私、久保田良介、は○月×日、東京都渋谷区○○相馬正のアパートで大麻草2gを所持した。大麻草は乾燥させ、透明なビニール袋に入れていた。大麻草は、自分で使用する目的で相馬正から金5000円で購入した。相馬正から初めて大麻を購入したのは×月△日であり、今回は2回目の購入で、大麻を購入する目的で相馬の自宅を訪れた。・・・」
良介はその紙に署名と人差指で捺印させられる。その供述書を見ていると、自分が法律を犯した犯罪者なのだということを実感させられて、良介はひどく気分が落ち込んでしまった。
話がひと段落したところで、岡村が世間話でもするように話しかける。
「あなた、すごく真面目そうだし、大麻に縁がなさそうにみえるけどな。どうして大麻をやろうと思ったんだい?」
「いや、それは・・・。」
良介は言葉に詰まる。
「ところで、久保田さん、家族はいるの?連絡しようか?」
岡村が尋ねる。
「はい。妻がいます。でも病気で入院中です。心配させたくないので連絡はしないでください。」
「久保田さん。奥さんが具合悪いのに何やってるの?」
岡村が若干あきれた様子で言う。
「・・・はい。妻が入院してさみしさでつい手を出してしまいました。」
良介は動揺した様子で答えた。良介は妻に罪が及ぶのを恐れ、とっさに嘘をついた。
「いろいろと大変なんだろうけどねえ。こんなものに手を出しちゃダメだよ。まあ、奥さんには連絡しないでおくよ。でも、いずれ伝えてあげた方かいいよ。」
「お願いします。」
「じゃあ今日はこれで終わりだ。久保田さん、しばらく留置所にいてもらうよ。」
取り調べの最後に良介は尿検査をされた。尿検査の結果は当然陰性である。ようやく取り調べが終わり、良介は身も心も疲れ果ててしまった。何も考えることが出来ない。
取り調べの後、麻薬取締官二人が喫煙所で話している。
「岡さん、あいつ尿検査陰性でしたね。陽性だと思ったのに。」
「そうだな、なんか、引っかかるな。あいつ何か隠してないか?とりあえず送検になるな。」
岡村は良介の送検を決めた。
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シーン11 逮捕
手持ちの大麻がなくなってしまい、良介はソーマに電話をした。
「もしもし、ソーマさん?」
「おー、クボタさん。奥さんどうだった?」
「ええ、それが良く効いて。」
「ああ、それは良かった。俺も気になってたんだよ。」
「ところでもう無くなりそうなんですが、お会いできませんか?」
「いいよ。今日は家にいて暇だから、何ならうちに来るといい。」
良介は、ソーマの家を訪ねた。ソーマはワンルームマンションで一人暮らしをしている。
「クボタさん。どうぞ。入ってよ。」
「お邪魔します。」
男の一人暮らしにしては綺麗にしてある。インテリアは凝っていて、民族調の置物などが置いてある。
「奥さん、ガンジャが効いたんだって?俺も自分が譲ったものが病気の人に役立つことなんて初めてだから、なんだか嬉しくてね。」
「本当にありがとうございます。痛みが取れて、食欲も出てきて、退院の話まで出たところです。」
「マジで?よかったよ。じゃあ、忘れちゃうと困るから、まず渡しとくよ。奥さんの特効薬。」
ソーマは、透明な袋に入った乾燥した大麻を良介に渡した。
「ありがとうございます。助かります。」
そういって、良介は大麻を自分のカバンに入れた。
「クボタさんだから教えるけど、実はあれ、俺が栽培したものなんだよ。」
そう言って、ソーマは良介を部屋の押入れの前に案内した。
「ジャーン。この中でかわいいやつが育ってるのよ。」
ソーマは嬉しそうに良介に説明した。
と、その時、ドアのチャイムがなった。
「誰だ?こんな時間に。」
ソーマがドアを開けると、男達が7、8人立っていた。スーツの者が数人いて、残りは動きやすそうな服装をしている。殺気立った雰囲気だ。
「どちらさんでしょうか?」
「相馬 正か。我々は麻薬取締部だ。大麻取締法違反容疑で家宅捜索する。」
その中の一人が、ドアの隙間に足を入れて、閉められないようにし、言った。そして、捜査令状を相馬に見せ、男達は部屋に押し寄せるように入ってきた。部屋中を調べ始め、あらゆる引き出しを空け、その様子をカメラで撮影している。
「おい、お前ら、勝手に何してんだよ!ふざけんな!」
ソーマは青ざめて叫ぶ。良介は何が起こったのか分からず呆然と立ち尽くす。麻薬取締官の一人が部屋の押し入れを開けた。
「ありました。」
何人かが押し入れに集まる。
「押し入れを改造し栽培していたようです。本数は、えっと、いち、にい、さん・・・。18本です。」
「なるほど。写真を撮っといて。その後、抜いて調べる。」
男達は話し合っている。
家宅捜索の間、良介は取調べを受けた。
「あんた、名前は?」
「久保田良介です。」
「久保田さんね。相馬とはどういう関係?」
「知人です。今日はたまたま遊びに来ていました。」
「そうか。あんたも一応調べさせてもらう。いいね。」
そういって、麻薬取締官は良介を調べ始めた。良助は突然のことで、驚きと恐怖の為に麻薬取締官に素直に従う。麻薬取締官は良介のカバンを開けて、大麻の入った袋を発見した。
「これは何だ?」
良介は黙っている。
「まあいい。後でまとめて調べるからな。」
ソーマと良介と麻薬取締官は、リビングの机の前に集まった。体格のいい男が、ソーマと良助のそばに立つ。逃げたり抵抗したりした場合の為だろう。机の上には、刈り取られたばかりの大麻と、乾燥した大麻が並べられている。中には、間違えたのだろう、緑茶まで並べられている。
「これは大麻だね?」
麻薬取締官が、集められた大麻を二人に見せて尋ねる。
「何すかね?俺は見覚えがないけど。あ、これは緑茶っすかね?」
ソーマはしらばっくれる。
「そうか。これから検査試薬で調べるからな。調べるところを確認しとけよ。後から不正をしたと言われない為の確認だから。」
麻薬取締官は頑丈そうなアタッシュケースから検査試薬を取り出し、大麻を試薬に入れた。検査試薬は赤い色に変わった。
「どうだ?確認してくれ。赤い色になると陽性、これが色見本だ。どうだ?同じ色だろう?」
「そうっすか?微妙に違う色に見えるけど。」
ソーマは何とか言い逃れようとする。
「おいおい、ふざけたこというなよ。これはあくまで見本。まったく同じにはならんよ。とにかくこれは陽性だ。」
麻薬取締官は時計を確認し、言った。
「20時18分、現行犯逮捕。」
彼らの儀式らしい。
そして、
「ふたりにはこれからうちの事務所に来ていただく。そこでいろいろとお話を伺いましょう。」
と言い、麻薬取締官は二人を拘束した。そして、一団は車に乗り込んだ。
(つづく)
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シーン10 ひと時の幸せ
その後、良介は毎晩例の薬を持ってきた。それを眠る前に使い、痛みから解放され、ゆっくり眠ることができた。抗がん剤の吐き気にも効果があるようで、食事もとれるようになった。早苗は、食事が自分の生活にとってとても大事だったことを実感する。最初の頃は頭がふらふらすることもあったが、だんだん量を覚えてきて、気にならなくなった。
長島医師は良助が病室に大麻を持ち込んで早苗に使っていることを知っていた。そして、大麻の効果をこっそり観察していた。早苗には大麻がとても合っているようだ。副作用は目立ったものがない。「本当は自分で大麻を患者に処方したい。大麻の効果をもっと間近で見たい。しかし、これは日本では使用できない大麻なのだ。積極的に関わると、病院の職はおろか医師免許すら危うい。一人の患者の幸せと、自分の医者人生と、どちらが大切なのだ。」長島医師は結局黙って見ていることを選んだ。
早苗の治療は順調に進んだ。ある日二人は長島医師に呼ばれた。
「久保田さん、抗がん剤が効いて癌は小さくなっています。」
「そうですか。何だか先生から初めていい話を聞いた気がするな。良かったな、早苗。」
「痛みもいいみたいだし、そろそろ外泊でもしてみますか?」
「本当?うれしい。もう家に帰れないんじゃないかと思ってた。」
早苗は素直に喜んでいる。
「いやいや。久保田さん。外泊で問題がなければ、退院して外来で治療もできますよ。」
さっそく早苗は外泊をした。痛みが和らぎ、車いすに移るのもスムーズだ。やはり自分の家は病院とは違い、気持ちが落ち着く。良介はひとりでも掃除をしていてくれたようだ。
「天気もいいし、ちょっと外に出ようか?」
二人で近くを散歩する。よく晴れた日で、風が心地よい。
「何だか、恥ずかしいわ。」
「そんなことないだろ?」
「良介、本当にありがとう。」
「早苗こそ、治療を頑張ってくれてありがとう。家に帰ってきてくれてありがとう。」
夜は久しぶりに二人で食事をする。早苗は本当は自分でキッチンに立ちたかったけれど、さすがに疲れてしまって、出前を取った。でも、病院の単調な食事に比べれば、とても美味しい。辛い闘病生活の中、二人は生きていることの幸せを感じる。
「何だか幸せだと怖いのよね。あとから悪いことが起こりそうで。」
「何言ってるんだよ。」
(つづく)
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シーン9 大麻使用
良介は病院に早足で向かった。「法律が何だろうと、僕には早苗の幸せが一番大事なのだ。もし捕まるとしても、僕だけだ。」強い決意を胸にして。
病院に着くと良介は廊下で長島医師を捕まえた。
「先生。大麻を手に入れました。これから妻に使おうと思います。」
「えっ。久保田さん、本当に?」
長島医師は狼狽した。
「これしか方法はないと思って。」
「ちょっと待ってください。困ったな。確かに私が久保田さんにお話ししたことなんだけど。法的にまずいんだよな。許可はできないよ。」
「先生には迷惑をかけません。私が勝手にやることですから。先生は知らん顔していただければいいです。」
「ちょっと、久保田さん。まって、、」
良介は早苗の病室に入って行った。
「早苗、具合はどうだい?」
「うん。痛みはあるけど、気持ちは落ち着いているみたい。この間はごめんね。」
「いいんだ。気にしないで。僕が悪かったんだよ。ところで、いい薬が手に入ったんだ。知り合いからもらった。漢方薬みたいなものらしいけど、試してみてよ。」
「そうなの?」
早苗は、効くとは期待していなかったが、良介が自分のために薬を持ってきてくれたことをうれしく思った。
「タバコみたいに熱して吸うんだ。専用の機械もある。こうやって薬を詰めてスイッチを入れて、それからここから吸うんだ。」
良介は、機械に大麻を入れてスイッチを入れた。
「何か怖いな。むせないかな。」
「大丈夫。ちょっとくらくらするかも知れないからちょっとずつ吸って。」
早苗は恐る恐る大麻を吸った。数口吸ったところで、良介が止めた。
「まずはこの位にしておこう。どうだい?」
数分して、早苗は全身がジーンとして、皮膚感覚が鈍ってくるのを感じる。そういえば足の痛みも和らいでいる。
「効いてきたみたい。」
抗がん剤の吐き気もおさまっている。
「何だかお腹も減ってきたみたい。食べる物ある?」
「それは良かった。クッキーがあるよ。」
「おいしい。久しぶりにおいしいものを食べた気がする。」
良介は、驚いた。久しぶりに早苗が笑っている。まさか本当に大麻が効くとは。
「元気になったみたい。痛みも大分いいわ。足がほぐれた感じがする。ちょっと気分がいつもと違うけど、悪い感じじゃないみたい。この薬なんていうの?」
「名前は聞き忘れちゃったよ。今度聞いておく。」
苦痛から解放された早苗をみて、良介は涙ぐむ。
「よかった。本当によかった。」
早苗はその後いつの間にか寝てしまった。病気になる前の元気だったころの夢を見た。自分の足でどこまでも歩いていける、不安も絶望もなかったあの頃の夢。久しぶりにぐっすりと休むことが出来た。
翌日、早苗の気分は明るかった。食欲もあるし、気力も戻ってきたように感じる。長島医師が部屋に入ってきた。
「久保田さん、どうですか?」
「先生。今日は気分がいいみたい。痛みも和らいでいます。食欲もあって。」
「そうですか。それは良かった。」
早苗は良介の持ってきた薬のことは伝えなかった。病院の薬以外で良くなったことをつたえるのが悪いような気がしたからだ。
「次の抗がん剤治療はいつでしたっけ。早く良くなって退院したい。」
気持ちが前向きになっている早苗に長島は驚き、嬉しく思う。
「大麻が効いたのだろうか。しかし、これは良いことなのか。」長島医師は複雑な心境だ。
(つづく)
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!注意!
これはあくまでフィクションです。大麻の入手について書いてありますが、これは作者の創作で、実際にこのようなことはありません。さらに、大麻の所持・入手を勧めるものではありません。
シーン8 大麻入手
良助は自宅でコンピュータの前にいる。インターネットの検索エンジンに「医療大麻」と打ち込み、検索をクリックした。「医療大麻を推進する会」というサイトが出てきた。そこにアクセスする。
そこには、医療大麻に関する事がいろいろと書いてあった。どのような病気に効くのか、医療大麻の裁判など。日本でも医療大麻を使えるようにするべきだ、ということを主張している。
ページを見ると、早苗の痛みには確かに大麻が効きそうである。副作用は重いものはないようだし、早苗の病状を考えれば副作用よりもまず症状を取ってあげることが重要に思える。しかし、大麻取締法では大麻の医薬利用を禁止していることが書いてある。大麻取締法。この法律を良介は今まで気にしたこともなかった。
ページの最後に、メールアドレスが書いてある。良介は、メールを送った。
「突然のメールをすみません。相談にのっていただけませんでしょうか。妻が癌で、背骨に転移しています。そのために激しい痛みがあり、モルヒネなどの痛み止めが効きません。抗がん剤の副作用もあって、日に日に衰弱していっているようです。何とか痛みだけでも取ってあげたいと思っています。お返事ください。」
翌日、返事が来た。
「メール拝見しました。一度お会いしてお話ししたほうがよさそうですね。都合のよい日を教えてください。」
良介はすぐに返事を書き、医療大麻運動家と会うことになった。
レストランで待ち合わせをした。ゆったりとした自然食レストランだ。良介が席で待っていると、50代位の男性がやってきた。良介はもっと怖い感じの人を想像していたが、気さくで温厚な感じだ。
「はじめまして。上田と言います。」
上田は良介に名刺を渡した。「医療大麻を推進する会 上田 創一」と書いてある。
「久保田です。突然すみません。相談に乗っていただけて、感謝しています。」
「いいよ、いいよ。ああいうホームページを公表している以上、相談には乗らなきゃいけないと思ってるから。結構大変だけどね。」
上田は明るく笑った。言葉に関西のイントネーションがある。
「それで、奥さんの病気はどうなの?」
「メールにも書いたのですが、癌が背骨の神経を傷つけて、ひどい痛みがあるようなんです。モルヒネや通常の痛み止めはあまり効かなくて、医者もお手上げのようです。」
「それで大麻はどうか、というわけね。」
「そうです。医者が日本では使えないけど、海外では使われていると言っていました。」
「アメリカのカリフォルニアなんかは使えるよね。医療大麻のクラブハウスがあって、そこで吸ったりしていたよ。痛みにはいいみたいだね。エイズの患者とか、神経の難病の患者が吸ってたよ。」
「日本では難しいですか?」
「大麻取締法、第4条ってのがあって、医薬利用が禁止されてるんだよ。困ったもんだね。研究まで禁止していて。医者も言わないんだよね。弱腰なのか知らないのか。」
「何とかなりませんか?」
「僕は売人じゃないからね。はいどうぞ、ってわけにはいかない。吸う機械なら売ってあげるよ。これはベポライザーっていう新商品だけど、煙が出ないから病人でも大丈夫だろう。」
その後、上田は良介に電話番号を渡した。
「ここに連絡してみなよ。」
上田と別れたあと、良介はもらった番号に電話をかけた。
「もしもし。誰?」
後ろで大きな音楽が鳴っている。
「上田さんから聞いたんですけど。久保田と言います。」
「上田さんから?ああ、さっき連絡があったよ。クボタさんでしょ。俺、ソーマっていうんだ。」
「今から会えますか?」
「いいけど。じゃあ、渋谷のアナンダマイドっていうクラブに来てよ。そこでぶりってるから。」
「ぶりってるってなんですか?」
「野暮なこと聞くなよ。じゃあ、きるよ。」
渋谷の奥にそのクラブはあった。地下に続く薄暗い階段から、単調な重低音が響いている。階段を下りて扉を開けると、大音響でレゲエが流れてきた。良介はいかにも場違いな客だ。良介は店員に聞く。
「ソーマさんっています?」
「ソーマなら奥のカウンターにいるよ。」
奥に進むと、ドレッドヘアーの若い男性がグラスを傾けている。
「ソーマさんですか?」
「そうだけど。クボタさん?へー、この店にスーツ着てる人が来るのって珍しいよ。クールだね。」
ソーマはいぶかしげな眼で良介を見た。
「確かにあまりこういうところには来ないですね。上田さんにソーマさんと連絡するように言われたんですが。」
「ガンジャが欲しいんだって?上田さんの紹介だから大丈夫だと思うけど、クボタさん、そういうのやりそうにないね。」
「私がやりたいんじゃないですよ。」
良介は妻のことを話した。
ソーマは突然涙ぐみ、良介の手を取った。
「俺のばーちゃんも癌だったんだ。最後は痛みが強くてね。吸わせてやりたかった。後悔してるんだ。あんたには愛がある。信用した。売るよ。」
(つづく)
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シーン7 医療大麻
長島医師は医局で一人悩んでいた。
「早苗の痛みが何とかならないものか。」
その時、携帯電話が鳴った。
「長島、元気か?」
「田中か?久しぶりだな。」
「ちょうど先週アメリカ留学から帰ってきてな。来月から病院に復帰だよ。」
田中は長島の大学の同級生で麻酔科医だ。アメリカ留学に行っていた。
「いろいろと積もる話もあるし、飲みにでも行かないか?」
「ちょっと仕事で困っていて、乗り気じゃないんだけどな。」
「そういう時こそ飲まないと。だろ?」
「そうかな?」
長島と田中が飲み屋で話している。
「どうだった?留学は?」
「まあ、いろいろと大変だったよ。勉強にはなったけどな。アメリカもいいところと悪いところがあるね。やっぱり、飲み屋は日本のほうがいいな。ところで暗い顔してるな。仕事大変なの?」
「そうなんだ。お前麻酔科だったよな。相談していいかな。困っている患者がいて。マンマ(乳がん)のステージ4でケモ(抗がん剤治療)をやってるんだけど、腰椎メタで脊損があって、痛みがコントロールできないんだよ。」
「ニューロパシックペイン(神経障害性疼痛)か?モルヒネは効かないからな。抗痙攣剤は使ったのか?」
「使ったさ。少しは効くんだけどな。突発痛が出るとお手上げだよ。何かないかな。」
「うーん。無いこともない。というか、留学先でやっていた研究テーマがまさにそれだったよ。でも日本じゃ無理かもな。」
「何だよそれ。もったいつけるなよ。」
「いいけど勧めるわけじゃないからな。そこん所注意してくれよ。カンナビノイドだよ。」
「カンナビノイドって?まさか。」
「そう。大麻だよ。医療大麻。向こうじゃTHC(大麻の有効成分)の内服薬も出ているよ。臨床研究もやってる。MS(多発性硬化症)とか、脊損とか、ニューロパシックペインにいいようだ。でも日本じゃ法的に無理だろう?医師免許剥奪覚悟でやるか?」
「そうか。うーん。」
「まさか、やるつもりか?」
「うーん。」
長島は考え込んでしまう。
良介と長島医師が面談している。
「先生、早苗の痛みは何とかならないんですか。僕は見ているだけで辛くなってしまう。」
「正直に言うと、私も悩んでいます。医者がこういう風に言うとご家族はさらに不安になるでしょうね。すみません。」
「先生に謝られても。」
「無いこともない。無いこともないんですが、大きな問題がある。」
長島医師は独り言のようにつぶやく。
「先生、何ですかそれは?」
長島医師は姿勢を急に正し、良介を見つめた。
「いいですか?久保田さん。これから、一つの可能性を話します。ですが、日本では難しい。アメリカや欧米では可能だけど、日本ではできない治療がある。医薬品の法律や承認は国ごとに違っているからです。わかりますか?」
「わかるような、わからないような。日本では使えないけれど、海外では使える薬ということですか?」
「そうです。さらに、久保田さんが聞いたらちょっとびっくりするかもしれない薬です。いいですか?それは大麻です。」
「大麻ですか?あの、麻薬の?」
「そう。医療大麻です。大麻の成分が、奥様のタイプの痛みに効果があるという研究結果があります。」
「副作用とか、中毒になるとか、大丈夫なんですか?」
「モルヒネに比べれば、依存は問題にならないでしょう。副作用は、ひどいものは少ないようです。でも、日本で使うには法的にまずいんですよ。」
「そうですか。他にないんですか?」
「あとは、鎮静剤でボーっとしてもらうか。でも、ずっと寝てしまう感じで、お話なんかは難しくなりますね。」
「そうですか。」
「まあ、もうちょっと、考えましょう。」
良介は思い詰めたような顔で部屋を後にした。長島医師は複雑な顔で良介を見送った。
(つづく)
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シーン6 苛立ち
抗がん剤の治療が始まった。吐き気止めの点滴をまず行う。そのあとで看護師が抗がん剤のボトルに取り換えた。ぽたぽた落ちる点滴を見ながら、すっかり病人になっちゃったな、と早苗は悲しく思う。
抗がん剤の点滴の後、軽い吐き気が続き、早苗は食欲がわかない。食事が運ばれてきても匂いが不快に感じ、すぐに下げてもらう。全身が疲れてしまい、気力もなくなってきた。
痛みは相変わらず続き、モルヒネが飲み薬から点滴になった。モルヒネ以外にもいろいろな薬を試したが、痛みは結局80%位にしかならなかった。抗がん剤のため食欲もなくなり、痛みが続くことで、早苗は身も心も疲労してきた。本来明るい性格だが、さすがに苛立ちを隠せなくなってきていた。
長島医師は困っていた。どうも早苗の痛みは痛み止めの効きにくいタイプのようだ。神経が障害されておこる痛みはモルヒネが効かないことがある。癌の痛みの治療はモルヒネが中心であり、他の薬は補助的なものである。モルヒネが効かない痛みは、治療が難しい。
良介が夕方面会に来た。
「具合はどうだい?」
「どうもこうもないわ。食欲もないし、痛くて夜もゆっくり眠れないし。何だか落ち込んできた。もう、治療も止めて、死んでしまったほうが楽かも。」
「何を言ってるんだ。先生も看護婦さんも頑張って治療してくれているんだから、早苗も頑張らなきゃ。」
突然早苗の表情が変わった。
「何よ!あなたは私の苦しみが分からないくせに!頑張れって、いったいこれ以上何を頑張ればいいの?こんなに痛くて、こんなに辛くて。これ以上私が何をできるの!」
「ごめん。君の気持ちも分からずに。」
その時、早苗が突然苦しみだす。
「痛い、痛い、、足と背中が、、、。」
早苗は苦痛の表情を浮かべ、冷や汗をかいている。
良介はナースコールを押した。
「すみません、妻が突然苦しみだして、すぐに来てください。」
長島医師と看護師が部屋に入ってきた。
「どうしました?」
早苗が振り絞るような声で答える。
「急に電気が流れるように痛みが出て、、。いたた、痛い。」
「何をしていて痛みが強くなったのですか?」
「私としゃべっていて、ちょっと口論になって、そしたら急に痛くなったようです。」
良介が答えた。
「そうですか。旦那さん、ちょっといいですか?」
良介と長島医師は廊下に出た。
「早苗さんの痛みは痛み止めが効きにくいようです。興奮して、強い痛み発作が出たのでしょう。」
「先生、どうすれば。」
「今は痛みを取るのが難しそうなのと、興奮しているようなので、鎮静剤を使って眠ってもらったほうがいいでしょう。ゆっくり眠って休息をとったほうがよさそうです。久保田さんは今とても疲れているようだし。よろしいですか。」
鎮静剤を使い、早苗は静かになり、やがて眠ってしまった。眠っている時も眉間に皺をよせ、痛みは夢も中でも続いているようだ。良介は混乱していた。これからどうすればいいのか、自分に何ができるのか。しかし、無力感を感じるばかりだった。
(つづく)
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シーン5 乳癌の告知
放射線治療をしながら、いろいろと検査をした。
「こんなに検査するんだ。こういうのって検査漬けっていうのかな。」
早苗は思う。
長島医師がナースステーションで検査の画像を見ている。山のようなフィルムをあわただしく確認しながら、独り言を言っている。
「うーん。結構メタ(転移)しているな。若いのに・・・。肺に肝臓に、骨か。原発巣(初発の大本の部位)は、マンマ(乳房)か?バイオプシー(生検:癌の組織を取る検査)しないとな。」
長島医師が早苗の病室に入ってきた。
「久保田さん。検査の結果が大体出ました。詳しくはまたお話しするけど、どうもお乳のところに病気がありそうなんですよ。針で取って調べたいと思います。」
「お乳ですか?そういえばしこりのようなものがあります。痛くもないし、あまり気にしていなかったんだけど。」
「そうですか。ちゃんと麻酔して痛くないようにやります。これは、治療にかかわる大事な検査だからね。」
「わかりました。お任せします。」
注射針よりも太い針で乳房のしこりを一部切り取った。麻酔の注射が少し痛かったが、足の痛みに比べればどうということもなかった。数日後、検査の結果が出た。やはり、乳癌だった。
放射線治療が終了した。放射線が当たっていた部分は日焼けしたように色が黒くなった。検査を行い、骨の転移腫瘍は小さくなり、神経の圧迫も取れていた。痛みも軽くなったが、足の痺れるような痛みは残り、麻痺したままだ。モルヒネも効いているのかよく分からない。病院にいる緊張が薄れるにつれて、一向に取れない痛みに早苗は苛立ちを感じ始めた。
良介は長島医師に呼ばれた。早苗の病状と今後の治療についての説明だという。車いすに何とか移った早苗と面談室に入ると、長島医師と担当の看護師が座っていた。
「どうぞ、久保田さん。わざわざお呼び立てして申し訳ありません。どうぞおかけください。」
しばらく沈黙があり、長島医師が話し始めた。
「いろいろとわかったことがあります。今後の治療についてもお話します。まず、久保田さんの病気は、乳癌のようです。」
「乳癌ですか・・・、骨の腫瘍ではなかったのですか?」
納得いかない様子で良介が尋ねる。早苗は表情を失い、呆然としている。
「ええ、骨に転移しているのですが、元々は乳癌のようです。」
「そうですか。やはり癌だったのですね。」
早苗はいろいろな感情があふれ出て、かえって感情が無いような声で言った。
「驚かれたでしょうね。ショックだと思います。でも、癌といっても昔と違って治療がないわけではないんですよ。転移していると手術は難しいので、抗がん剤やホルモン剤を使います。まったく消してしまうことは難しいけど、良く効く薬も出てきました。希望を失わずに治療していきましょう。」
「わかりました。でも、私が一番辛いのは足の痛みです。これは治療でよくなるのですか?」
長島医師は、それは、私も悩んでいるところだ、と思う。
「痛みは、神経が傷ついて出ているものだと思います。乳がんの治療では良くならないかもしれない。時間がたてば良くなるかもしれないし、残ってしまうかもしれません。今はまず、痛み止めの使い方を工夫していくことにします。」
夫婦は病室に戻った。二人はしばらく言葉を失っていた。まず早苗が口を開く。
「やっぱり癌だったのね。治らないのかな。」
「そんな弱気なこと言うなよ。先生もいい薬があるって言っていただろう?とにかく治療を頑張るだけだよ。」
「そうね。ごめんね、心配掛けて。」
「また、言ってる。いいんだよ。早苗は今は自分のことだけ考えていれば。僕は君の夫なんだから。」
「ありがとう。」
早苗は、抑えていた感情があふれ出て、涙を流す。良介も心の中で涙を流す。
(つづく)
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シーン4 放射線治療
面談室で、良介と長島医師が話をしている。
「奥様のことで整形外科医とも話し合ったのですが、手術は難しいようです。」
「そうですか。どうすればよいのでしょうか。」
「まずは安静ですね。腰はコルセットで固定します。そして、腫瘍が原因ですから、その治療が必要です。放射線治療をすぐに行った方がいいでしょう。」
「妻にはどういえば。」
「そうですね。癌と聞くとショックを受けるでしょうね。でも、放射線治療をやるからには、告知したほうがいいですよ。少しずつ話していきますがいいですか?」
「分かりました。お任せします。」
早苗の病室に良介と長島医師が戻ってきた。
「久保田さん、ちょっとお話があるのですが。」
「何か悪い話ですか?」
この人は、勘のいい人のようだ。と長島医師は思った。
「病気と治療の話です。久保田さん、背骨が潰れてしまっていて、それが痛みや麻痺の原因みたいです。どうして、骨が折れてしまったのか、これが大事なことなのですが・・・。MRIをみるとどうも背骨の中に何か出来ているようです。」
「何か?悪いものですか?」
「うーん。でき物というか腫瘍というか、悪性かどうかはこれから調べていきますが、悪いものかもしれません。とにかく、早く治療した方が良いのは確かです。骨の腫瘍に放射線治療をやろうと思います。」
「私、死んでしまうんですか?」
「いえいえ、久保田さん、今は急なことだし、痛みも強いから、弱気になっているんですよ。とにかく治療しましょう。」
「分かりました。とにかく、痛みだけは取ってください。」
「痛み止めの治療も同時に行いますよ。モルヒネなども必要があれば使いますね。」
放射線治療が開始になった。治療は驚くほどあっけない。放射線を当てる位置を決めたら、機械の下に横になり、5分程したら終わってしまう。放射線は早苗の体を通り抜けていったのだろうが、熱さも痛みも無い。これを毎日、数週間続けることになる。
痛み止めの治療も始まった。消炎鎮痛剤とモルヒネの錠剤である。モルヒネを飲んだ後、早苗は眠気と軽い吐き気を感じた。しかし、陶酔してしまうようなことは無い。早苗は麻薬と聞いていたので、恐ろしいものを想像していたが、痛み止めで使う量ではそういう作用は無いようだった。
数日後、背中の痛みが軽くなってきた。痛み止めと放射線が効いてきたのだろう。しかし、両足のしびれるような痛みには効果がないようだった。相変わらず両足には感覚が無く、動かすことも出来ない。そして、長い時間正座をした後のようなジンジンと痺れるような痛みが常にある。
夕方に早苗の部屋に良介が来た。
「どうだい?落ち着いてきたかい?」
「うん。何とか。でも、まだ足が自分のものじゃないみたい。」
「きっと時間がかかるんだろう。あせらずやっていこう。」
「ごめんね、心配かけちゃって。仕事も早く切り上げたんでしょ?」
「・・・いいんだよ。それより、今は何とか病気をよくする事を考えようよ。」
その後、2人は他愛も無い話しをした。早苗は明るく普段どおりに振舞った。良介に心配をかけたくない、頑張って病気に勝たなくてはならない、と自分に言い聞かせていた。良介も笑顔で話しをした。良介は自分で早苗の病気の事を調べて、早苗の状態があまり良くないことを理解していた。しかし、早苗に暗い顔を見せると心配させてしまうかもしれないと考えていた。2人は、不安の中、お互いに明るく話をした。そして、お互いが無理に明るく話していることに気付いていた。2人は暗い話をかき消すように、面会時間が終わるまで話をした。
(つづく)
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シーン3 入院
整形外科医が話し合っている。
「L1から3(第1~3腰椎)の骨メタ(骨転移)で、L1が圧迫骨折しています。脊髄も圧迫されています。下肢は対麻痺で、感覚障害と痛みもあります。」
「メタはかなり多発しているね。原発は?」
「まだ分かりません。入院して一通り検査しようと思いますが。」
「うーん。難しいねぇ。これだけ骨メタがあると、オペ(手術)もリスクが高いし。麻痺が出て間も無いから、今後の事を考えるとすぐに治療をした方がいいんだけどね。」
「ラディエーション(放射線治療)でしょうか?」
「俺もそう思うね。原発も分からないし、内科に入院を頼むかな。」
腫瘍内科医の長島治郎が救急室に呼ばれた。長島医師は38歳、中堅の医師である。
「あ、どうも先生。この方なんですけど。」
整形外科医がMRIのフィルムを示す。
「ええ。電話で聞きました。骨メタで脊損になっているんでしたね。オペは難しいですか?」
「そうですね。メタが広汎で、オペはリスクが高くて出来そうも無いな。ラディエーションがいいと思いますが。」
「そうですね。分かりました。こちらで診ていくことにします。」
「よろしくお願いします。」
早苗は救急室のベッドで横になっている。その側に、呆然と血の気の抜けた顔で良介が座っている。そこへ、長島医師が現れた。
「こんにちは。内科医の長島と言います。入院の主治医になりました。よろしくお願いします。救急室はあわただしくて落ち着かないでしょうから、まずは内科の病棟に移りましょう。後でゆっくりお話しますね。」
早苗は内科の病棟に移った。内科の病棟は、救急室の慌しさと違い、明るくゆっくりとしていた。個室に入院となった。良介は長島医師に呼ばれて出て行った。清潔だが何も無い部屋で、一人寝ていると白い壁が寂しさを掻き立てる。看護師がやってきて、痛み止めの坐薬を入れてくれた。少し痛みは軽くなったようだ。気持ちも少し落ち着いてきた。
「一体自分はどうしてしまったのだろう。夫の様子や医者の話し振りも何だか隠し事をしているようだ。」
不安が頭をもたげてくる。
「ひょっとして、とても悪い病気なのかもしれない。」
早苗の頬を一筋の涙が伝った。
(つづく)
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シーン2 救急受診
「久保田さん!!」
救急隊の声で目が覚めた。相変わらず背中から両足に電流が流れるような痛みが続いている。冷や汗は引いたようだ。洋服が汗にぬれて寒さを感じ、早苗は震えている。
「急に背中が痛くなって・・・。」
救急隊員は担架を持ってきて、早苗をそこに移した。体を動かされるたびに、息が止まるような痛みが走る。
「大丈夫です。これから病院に搬送しますから。」
「とにかく、この痛みを何とかして下さい。」
早苗は痛みの中、救急隊員に必死に言葉を搾り出した。
救急車はサイレンを鳴らして病院に向かう。救急車の中で、早苗は自分の足を動かそうと試みる。数センチ動かすのが精一杯で、自分の足ではないように感じる。自分に何が起こったのだろう。不安と痛みで、時間がとても長く感じられた。
救急車は、地域で最も大きな総合病院に到着した。救急車の扉が開くと、看護師と医者が待っていた。早苗はストレッチャーで病院の救急室に運ばれた。救急隊員と若い医師が話している。
「発症の状況はどうだったんでしょうか?」
「32歳、女性です。本日、午後4時10分頃、段差を降りた事をきっかけに、痛みと両下肢の麻痺が出現したようです。その後、短時間意識消失。到着後呼びかけのみで意識回復し、その後会話も出来ています。」
「バイタルは?」
「到着時血圧80、脈拍100、熱はありません。ショックだったようですが、救急車の中で自然に血圧100まで回復しました。既往は特に無いようです。」
「分かりました。ご苦労様です。」
早苗がベッドに横になっていると、あわただしく看護師が入ってきて、血圧や体温を測った。その後、医師が入ってきて、痛みについていろいろと話を聞き、その後、診察をはじめた。特に両足の感覚や動きについて入念に診察をした。その後、
「検査をするので、ちょっと待っていてください。」
と言って出て行った。
「背中の痛みと両足の対麻痺か。脊髄だな。レントゲンとMRIをやろう。」
検査の結果は、深刻なものだった。腰椎に腫瘍の固まりがいくつも多発していた。さらに腰椎の一つは潰れており、骨片が脊髄神経を圧迫している。腫瘍が骨を壊しながら大きくなり、弱くなった骨が潰れてしまったのだ。腫瘍で最も大きなものは、骨から脊髄神経の方に染み出しているように見える。
良介が病院に到着した。
「どうしたんだ?」
「急に背中が痛くなって、足が動かなくなったの。救急車を呼んでここに来て、今検査が終わったところ。」
「大丈夫かい?」
「分からない。まだ、背中と足がしびれるように痛むの。さっきよりはよくなってきているけど。」
早苗は良くなっているというが、良介にはとても辛そうに見える。
「せっかくの結婚記念日なのにごめんね。」
「早苗のせいじゃないよ。気にするな。とにかく病院にまかせよう。」
いったい何が起こったのか、良介は混乱していた。
「旦那さんですか?ちょっとお話が。」
良介は医師に呼ばれた。
「奥様は、痛みと足の痺れでこちらに見えられました。足を診察すると、麻痺、つまり動かなくなっていて、どうも背骨の神経がやられているようなんです。」
「えっ?何ですか、それは?そういえば、最近背中が痛いといっていたけど、でも、それ程強い痛みではないと言っていましたが。」
「そのようですね。今日、段差を降りたのをきっかけに急にひどくなったようです。それで、検査をしたのですが・・、ちょっと、悪い話をしなくてはなりません。」
「何でしょうか?」
「背骨が潰れて折れてしまっています。それが背中の神経を圧迫して、神経を障害しているようです。そのせいで、痛みと麻痺が出ている。そして、背骨に腫瘍、おそらく悪性の癌があり、どうもそれが骨折の原因のようです。」
「癌・・・。」
良介は絶句した。
「とにかく、入院ですね。」
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