現在の司法のあり方・仕組みでは、無実の者を有罪にしてしまう冤罪は必然的に起きる。取調室という密室で、暴力的・恫喝的な刑事たちに恐怖して、やってもいないことについての自白を取られる。
認めてしまったほうが早く終わるという現実もある。
高藤さんは、裁判で裁判官に言えば分かってもらえると信じていたそうだ。ヤクザ者に騙されて、何も知らずに茶箱に隠された大麻を持ち込もうとした。それで懲役3年6月の実刑。
現場を知らない検事たちが、でっちあげの供述調書を鵜呑みにし、事件を裁判にかける。起訴した以上、できるだけ重い罪にするのが検察の商売だ。元防衛事務次官の某とか、イメルダ夫人とか、芋づるの政治家などに対しては、厳しくガンガンやってもらいたいが、一般市民が容疑者の刑事事件は、検事は刑事の取り調べを見張るべきだ。何をするか分からないようなのが多いのは検察も知っているはずである。
職質で引っ掛けられて、少量の大麻所持などで逮捕された場合などは、割と穏やかな対応をしてくれる刑事も多いようだ。寄せられる情報にも、刑事は大麻など逮捕するほどの話ではないことを知っていて、でも法律だからな、などと言い訳がましいことを言ったのが何人もいる。
私を取り調べた近畿麻薬の取締官たちもみんな紳士的だった。少なくとも、取調室で怒鳴り散らしていたのはマトリではなく、私だった。
だが、粗暴で、暴れるようにして調書を作ろうとする刑事も多いらしい。大麻とは関係ないが、ただ街を歩いていて性犯罪者にされてしまった人の話など読むと、その悲惨さと悔しさには言葉もないが、暴力的な刑事のゴリ押しが冤罪を作っていることがよく分かる
「冤罪」被害者が語る裁判と体験談
取り調べでの刑事の態度が暴力的ではなくても、作為的に誘導されて答えただけの返事が、自白として書かれ、言ったことにされてしまう。祐美さんもそうだった。冤罪のストーリーは取調室で作られる。
供述の任意性を高めるために、今は供述調書の最後のページだけにしている被疑者の署名と指印を、全てのページにするとか。密室の取調室に覗き窓を付けるとか。警察はどうにかして取り調べの実態がバレないように、馬鹿馬鹿しいにも程がある対策を講じようとしているが、VTRを撮れば良いだけの話である。見られてはマズイような取り調べを行っているから撮らせないとしか思えない。いったいそこで何が行われているのか。何か恥ずかしいことでもしているのか。
司法改革は、まず絶対に冤罪を生まないシステムの構築こそが最優先だと思う。
裁判員制度は、国民が取り調べや裁判をチェックする機能でなければ意味がない。
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産経新聞のニュースサイトを「大麻」で検索すると、今も1番は「大麻の種を簡単に買えるのは問題だから規制しよう」という提灯記事だが、過去記事リストに、デンバー市の住民投票で大麻非優先化条例案が通った話を載せている。
この報はカナビス・スタディハウスにNORMLの記事が翻訳されていて、産経より短い記事なのに詳しく知ることができる。出典へのリンクもとても参考になる。
デンバー市、住民投票でカナビス非優先化条例案が通過
2007年11月8日 - アメリカ・コロラド州デンバー発
嗜好、医療、産業を含めて、アメリカで大麻政策の見直しを求める動きはデンバー市に限ったことではないようだ。
アイダホ州ハイリー市で実施された住民投票でも、デンバーと同様の非優先化条例が 認められている。その他、ハイリー市では、医療カナビスの合法使用を認める条例案と産業用ヘンプの栽培を認める条例案の 2つの発議 も承認されている。これら3つの条例の詳細については、住民の監査を受けた委員会で決めることになっている。
産経の記事は面白い。
米国で大麻“合法化”の波紋 デンバーでは住民投票で可決
このニュースを紹介してくれるのは嬉しい。でも、合法化の波紋?何が波紋しているのだろう。冒頭部分。
西海岸を中心とした米国都市部で、少量のマリフアナ所持を実質合法化する動きがじわじわ広がっている。
「じわじわ」ってなんだよ。何か汚染が広がるような表現に聞こえるのだが。
むろん、大麻の販売や栽培は、今回の条例が施行されても違法のまま。
「むろん」かよ。
「大麻は無害とは言わないが、暴力や事故に直結するアルコールよりよほど安全」というのが、トバートさんの主張だが、これまで少数派、異端としてとらえられることが普通だった考えが半数を超える支持を集めたことに、「時代が変わりつつある証拠だ」と、驚きを隠さない。
驚きを隠さない?ホント?この条例案が住民投票で過半数を得たのは2005年に続いて2回目。トバートさんは別に今さら「驚きを隠さない」というより、驚いてないだろ?写真のトバートさん、微笑んでるし。
この記事を日本に伝えようと思った松尾理也記者の公平さと、しかしそれを産経で伝えなければならないが故の、記者の苦渋の表現だろうか。
むろん、大麻合法化の主張は現在でも一般化しているとはいえない。
根拠は?説明抜きで、また「むろん」。「どんだけ~」だよ。
トバートさんは、「同種の条例はすべてリベラルな都市部で成立していることを考えれば、リベラル陣営の復権、伸長と共通する背景があるのは明らか」とした上で、さらに「保守派の中にも、個人の自由を最大限に尊重すべきだとの立場から賛同にまわる人も増えつつある」と、支持の広がりを指摘している。
なるほど。「大麻”合法化”の波紋」って、保守層にも支持が広がっていることを「波紋」と表現したわけですね。
どうしても大麻を社会問題にしたいらしい産経にしては、苦渋を滲ませながらもまあ何とか公平さを保ってまあ書けていると思います。よく書けました。さらに努力して頑張りましょう。○
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二 今回の事件について
2005年11月に初めて渡欧して以来、私は彼の携帯電話の仕事を手伝うようになり、携帯電話の仕入れの代金としてスルガ銀行から(ウェスタンユニオンという国際送金ができる銀行と提携していたのです)、チャールズの友達の住んでいるアムステルダムへと送金したりして、すっかり彼のビジネス=携帯電話の仕入れの手助けをすることに慣れていきました。
そうして、2006年7月、私は彼とアムステルダムで会い、現地でお土産として持っていってほしいと頼まれて日本へ缶詰を持っていきました。しかし、中身が大麻であるとは一切知りませんでした。
上述してきた通り、私はチャールズと交際してきて、彼を信じきっていました。彼が何か法を破る行為をする人とは、一度も思ったこともありませんでした。
また、氏名不詳者らと共謀したという点についてはチャールズの名前もレイの名前も伝えています。隠そうとしていません。私の知る限りの事実を述べてきました。
今回の事件の真相を知ってもらうためにチャールズからどうか話を聞いて欲しいと思っています。私の姉である木村さゆりがチャールズとやりとりしてきたメールからも彼が何か知っているのは明白なのです。両者のやりとりしたメールをぜひ見ていただきたいのです。チャールズを証人として呼んでいただきたいです。
何卒、ご検討を宜しくお願いいたします。
長文となってしまい申し訳ありませんでした。読んで頂いて、誠に有難う御座いました。
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3.ベルギー・オランダへの行程、経緯
一、1回目の渡欧 2005年11月
私はその後すっかり携帯電話のビジネスについて忘れていました。ところが2005年11月に二人で会っていたときでした。彼が突然、
「実は今、すごく困っているんだ」と言ってきました。「どうしたの?」と尋ねると、
「前に一緒に中国へ行ったときに私が買った携帯電話があったでしょう?あのときのは1・2カ月後には全て壊れてしまった。あの店の中国人は悪い製品だと知ってて売りつけたんだ。ただ、私としては、ああいう携帯電話のビジネスをもう一度やりたいと思っていたんだ。それでどこか中国じゃないところから買おうと思って探していた。ヨーロッパが良いなと思っていたらベルギーの会社を見つけた。
ヨーロッパの会社なら中国の商品みたいに粗悪品じゃない。人としても、中国人はすぐに騙そうとするから信用できない。ヨーロッパの人なら仕事の相手として申し分ない」
「そして、その発注を、実を言うとすでにベルギーの会社にしているんだ。その携帯電話はもうとっくに、いつでも日本に送れるよう荷造りも済んでいるから、取りに行かなきゃいけないんだけど・・・私はニューヨークの父親の具合が悪くて、会いに行くために休暇をたくさん取ってしまったから、もう取れないんだ。私の代わりにベルギーまで携帯電話を取りに行ってくれるように友達にも知り合いにも、皆に頼んだのだけれど誰も行くことができないというんだ。誰も助けてくれない。私の友達は困っている時には私は助けてあげるのに、私が困っている時は皆助けてくれはしない。どうしたらよいか分からない。」
などと言ってきました。さらに、彼が
「1日も早く行かないと荷物は既に準備できているし、その荷物を今はずっと倉庫に置いてもらっている。このままだと保管料も多く支払わなければならない。ただ行って帰ってくるだけなんだ・・・」
と訴えてきたのです。
当時、2005年11月、私は大学4年生でゼミと1・2コマの講義があっただけでした。時間的に行けないわけでもなく、悩んでいる、困った、どうしよう・・・と訴える彼に代わって私が行くことになりました。彼と二人で面と向かって話をされました。断ることなどできませんでした。
それまで海外に一人で行ったこともなく、一人で行かなければならないなんて怖いという気持ち、不安でいっぱいでした。
「行って、帰ってくるだけで携帯電話の荷物に関しては私の友達が手続きしてくれるから、君は何もすることないんだ」
という彼の言葉に対しても果たして自分が彼の携帯の輸入を手助けできるか、ほとんど何も分からない状態でした。けれど彼が中国で購入した携帯電話を売るような、同じようなビジネスをやりたいというならば、外国人として日本に来て働いている真面目な人だからこそ彼の困窮している姿を見ると、応援したい、協力できればと思いました。
この1回目の時彼は携帯電話ビジネスについて
・彼はこのビジネスをアムステルダムにいる友達といっしょに始める。
・携帯電話をオーダーするのはベルギーにある会社である。その会社はインターネットで調た。
・自分が働いているPREXTONという会社はベルギーに本社がある。その出張に行ったときにネットで調べた携帯電話の会社を見に行ったことがあって、その会社の人とも話して気に入ったのでそこで取引しようと思った。
・チャールズの友達がベルギーにある携帯電話の会社とのやりとりを担当している。
・荷物を運ぶのに郵送では携帯電話だから壊れてしまったりするかもしれない。誰かが直接飛行機で行って預託荷物として運んだ方が安心できる。
・輸入してきた携帯電話は自分の知り合い、友達にまとめて売る。ベルギーに注文する前に各自がどれくらい買ってくれるか聞いてから携帯電話をオーダーする。だから輸入したらすぐ売れるし在庫として残ってしまうことも無い、良いビジネスだ。
・運送料も重さも量もあるから海外郵送で運ぶと結構料金もかかる。一人が往復する航空券やホテルの費用とを合わせた分よりもかかるものだ。
・旅行代理店を通じて航空券を買えば正規の代理店とは異なり格安で帰る。
そして、どうして私が旅行者としてオランダに行かなければならないのかについては
・ベルギーまで行ってくれるならばついでに友達に会ってほしい。その友達はアムステルダムにいる。彼に書類を渡してほしい。
・アムステルダムの友達にも航空券を渡してほしい。それをもとに友達がベルギーの会社に連絡して携帯電話の荷物をあなたが帰るとき、ベルギーの会社があなたの荷物としてオーストリア航空に預ける。
という、携帯電話の輸入のためにオランダのアムステルダムにいる友達に会うようにとの理由からでした。
また、携帯の荷物をオーストリア航空に預ける際にはその会社の人がブリュッセル空港まで来てチェックインしてくれる。会社の人は、事前にチャールズの荷物である携帯電話を私の名義で預けるということができる。個人でするのではなく企業間で手続きをするから預託荷物として預けることができる。全ては前もって説明を航空会社にしてあるから可能なのだ。
そのため私は向うの空港から日本へ出発する際に自分で彼の携帯電話の荷物を預ける必要がない。日本に到着すると私と一緒に運ばれてきた携帯電話は千葉にある保管所までチャールズが引き取りに行くと聞いていました。チャールズはそこで私の利用した航空券が控えて照会して、関税の支払いをしたり、荷物の検査をする。一連の手続きが終わったら携帯電話を受け取る。私が帰国したら彼はすでに荷物保管所に彼の友達と車で行くから、手続き後、受け取った荷物を車で運ぶ。
との説明でした。
ベルギー、オランダへと行くことが決まるとチケットをすぐに手配することになりました。チャールズにベルギーに行ってくれと頼まれた日、彼は「1日も早くいってほしい、毎日保管料がかかるんだ」と言うのでなるべく早い日程で行くことになっていたのです。
そこでチャールズが普段海外へ行く際に毎回チケットの手配をしている旅行代理店で私の航空券を購入するように言われたので、いつもチャールズの予約の担当してくれている難波さんという女性職員に会いに行きました。その会社はマップ・ツアーという名前で、横浜駅西口から約五分くらいの距離に横浜営業所がありました。その際には、私一人では現地で滞在するホテルもみつけられないので、航空券予約する際にいっしょにホテルも予約してもらいました。そして、チャールズから携帯電話の話を聞いて2・3日後にはベルギーへと向かいました。
航空券を予約する際に起きたことも、チャールズを信じてしまうようになってしまった理由の一つでした。まず、出発するチケットがあって、ベルギーに翌日に行けるかどうかを調べてと言われ、旅行代理店に問い合わせてみると、翌日出発のチケットはないのだと言われました。早くても2・3日後の日程から先でしか予約できないとの反応でした。費用は10万円前後くらいだったと思います。次に直接、航空会社へ問い合わせてみるよう、チャールズに言われました。万一、空席があればそれを使おうという話でした。オーストラリア航空、エアフランスなどに電話をして尋ねると、「席はあるが値段は50万円くらい」しました。電話をかけたのは私でした。それを彼に言うと、
「ほらね、正規の航空運賃だと、こんなに費用がかかるんだ。もし普通に航空郵便で送るとそれくらいお金を払わなければならない。日本人は輸入する際、貨物の代金として正規の料金だから旅行代理店を通して航空券を購入すれば10万円前後で済む。人が一人行って持ってくれば2分の1くらいの料金で経費は足りるんだ」
と、私が旅行者として行く意義を説明されました。こうした経緯からチケットは航空会社を通して翌日の便で予約するのではなく、旅行代理店の難波さんを通して値段の安い航空券を買うことになったのです。
チケットを買うと、すぐにベルギーへと行きました。とにかく、彼の話を聞いて応援したいという気持ちしかありませんでした。
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四、初めての海外旅行と携帯電話の購入
就職活動の合間である2005年2月の時でした。チャールズが
「君は今まで海外に行ったことがないんだよね」
「洋服とか靴が安く買えるから2泊3日の短い日程で中国が韓国へ行こうと思う」
「私が連れていってあげるよ」
「中国の杭州には友達もいるんだ。彼は中国語が話せるんだ」
と話をしてきました。
私はそれまでパスポートを作ったことがなく、海外旅行に行ったことがないことを彼は知っていたのです。チャールズがその時、なぜ休みを取ることができたのかというと、同年夏ごろに米軍での仕事を辞めて一般企業に勤め始めだからです。チャールズは
「イラク戦争の人事に関わる仕事は精神的にとっても苦痛であり、これ以上やりたくない」
「自分は黒人だからこれ以上は昇格できない。仕事を辞めて、新しい仕事を探そうとずっと思ってきた。タイミングは今が良いと思う」
「自分の父親の具合がとても悪い。父親はニューヨークにいるから、このまま仕事を続けると休みをもらうこともできないので父親へ会いに行くことができない。ニューヨークにいる弟や妹たちも一度戻ってきて欲しいと言っているので、休暇を取れる一般企業で働きたい」
などの理由を話していました。私が聞いたときには彼が思うようにするのが一番よいのだろうと思っただけで話しに納得していました。
上述した事情から、チャールズは夏ごろアメリカへ渡り、しばらくして帰ってきたあとに”PREXTON(プレクストン)”という会社に、2004年秋ごろから勤めるようになったそうで、その会社は
「PCのシステムプログラミングをしている会社であり、自社開発したソフト販売している」
「自分はその会社でシステムエンジニアとして働いている」
とのことでした。その会社を選んだ理由は、先述した
「父親に会いに行きやすいように、休暇を取れる企業を探していた。企業へ行って面会で相談したら休みをくれると言われた」ことや「滞在ビザも、会社で労働用のビザを申請してくれるという確約ができたから」
と聞きました。
また、彼は同時に、自分のパスポートをアメリカから両親が保有していたナイジェリア国籍に移したのだそうです。米軍に勤めるのをやめるなら色々なしがらみもあるから、どうせなら国籍の変えたいのだと言っていました。私は、国籍や軍に関する知識をほとんど持っていませんでしたので、そういうものか、と思っただけでした。そして、チャールズは「いつかナイジェリアに住みたい。自分のルーツである国だからナイジェリアで家を持ちたい」のだと言っていました。だから、私にとって、ナイジェリアの国籍に彼が変えると言っても不自然なことには感じられませんでした。
また、チャールズはPREXTONで働く間に上で杭州行った際に洋服・靴といった、アパレルが格安で買い物できると知ったからまた行ってみようと思っていたのだ、と行き先を決めた理由を話していました。
この旅行することが確実になり、彼に促されたので私のパスポート作りました。
以上の状況下、チャールズと私は中国へ旅行に行きました。チケットやホテルの手配等は彼に任せきりで、文字どおり右も左もわからなかった私は彼について、杭州へと行きました。現地に到着すると彼が出張で行った時、杭州で知り合ったという友達が同行してくれることになっており、中国語が話せない私たちに代わって買い物や料理店など、行く先々で通訳をしてくれました。そして私たちは地元のお店で洋服やバッグなどを大量に買いました。このとき、チャールズは
「友達からジーンズや靴を買ってきてほしいと頼まれていた」ことや「安く買ったものを多少高くして他人に売ろうと思った」らしく、たくさん買い込んでいました。その後、チャールズが「携帯電話を買いたい」と言い、その友人とチャールズと私で携帯電話の店に行きました。そこで、チャールズと友人は店員と交渉しながら20個購入することにしたようで、一個一個携帯が本当に使えるのかを確かめながら決めていました。メーカーはニキアだったと思います。チャールズによると購入した携帯電話を知り合い、友達に売るとのことでした。これらの電話はプリペイド式の携帯電話でその番号にチャージするといくらでも使い続けることができるそうで他国でも使えるのだと説明されました。
私自身は世の中のことについて、そして国外における携帯電話事情をまったく知らないし、彼は外国人であるから他国の状況について、私なんかよりもよく知っているのだという意識が彼に対して強かったのです。彼の発言・説明に対して、「そういうものなのか」と疑うことなく信じていました。実際その場で、彼が携帯電話に通話できるか試し、できていたので、彼の説明をなお一層真実だと思っていました。
日本への帰国の際にはスーツケースで預託荷物として持ち帰りました。空港に到着し、検査台に並ぶと、検査台の職員にスーツケースを開けるよう指示され、中身を全て検査されました。
後日、「持ってきた携帯電話は全て売れた」と、彼は喜んでいました。この仕事に関する話は出ないまま、しばらく時間が経過しました。
次に携帯電話に関する話が出たのは2005年8月ごろだったと思います。
「中国の携帯電話を買ってもらった人たちから壊れてしまったと苦情言われた。きっと中国で購入したから品質がよくなかったのだろう。全て売り切れたから、再び中国へ行ってまた購入しようと思っていたけれど、もう買うのはやめる。良いビジネスだと思ったのに」
と言っていました。私が聞いたのはこれだけでした。
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三、就職活動と内定、寮長としての務め
チャールズと付き合うようになって半年以上が過ぎた大学3年の冬になると就職活動を始めるようになりました。当時から、貿易や輸出入業、物流関係の業界に関心が高かったのでそれに関連した企業に総合職として就けるようにと思っていました。
もちろんチャールズは私の学科・コースも知っていましたし、私の夢・希望する職業も知っていました。互いの夢、将来について話し合うこともしょっちゅうでしたし、彼も「私も輸出入業・貿易に興味がある」という風に言っていました。
彼の生い立ちについては、「アメリカのニューヨークで育った、高校卒業後、大学はイギリスで卒業した。専攻は経済学である」との話でした。私が卒業論文のテーマで悩んでいて、彼は何について書いたのか聞いたところ、「アフリカにおける石油戦争と経済への影響について」だった、また「成績が非常に良かったので、卒業式でこの論文をスピーチした。その時に米軍の関係者にスカウトの形で誘われて仕事に就いたんだ」と聞きました。私は彼のことを、頭の良い、そして仕事熱心な人物であると見ていました。時事についても詳しく、日本語も理解していた彼を私は知的だと尊敬していました。したがって彼とは経済についても、仕事・就職活動についても話題にしていました。後に、2005年5月になると、物流関係の企業で内定をもらうことができました。目指していた業界での総合職の仕事でした。その会社では、総合職の社員は皆男性だけでした。人事の担当の方に面接で熱意を認めていただいた結果の、唯一の女性社員となる予定でした
また、同時期2004年11月ごろから寮では、寮長を務めるようになりました。寮は協同生活なので寮長は、寮と大学の間で調整役となったり、寮の管理、寮生にかかわること全般をまとめる係です。そうした一連の活動を通じて、秩序を保つためには規則を守ることがどれほど重要か、人の迷惑になることは決してしてはならないこと、皆がそれを念頭に生活していくことがいかに必要であるかを強く思いました。
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二、チャールズとの交際に関して
彼とは映画を見に行ったり、買い物に行ったり食事をしたりしました。アフリカンレストランにも毎週のように行きました。からの友達にも数多く会いました。アメリカ出身の人もいたし、アフリカ出身の人もいて、様々でした。皆、服装・言葉遣いも爽やかな印象を受けることが多かったです。また、チャールズからは「旅行が大好き。趣味は旅行」と聞いていたので、色々な地域・各国に友達がいると常々聞いていました。そのため、後々になって中国やヨーロッパに行った際、彼の友達を紹介されても何の違和感も覚えず、すんなりと受け入れてしまいました。
何よりも私が彼を人として信頼していた原因は、彼が敬虔なクリスチャンであったことにあります。私に対して接するとき、チャールズはいつも「クリスチャンだから・・・」という風に説明をしていました。
たとえば、「月曜から土曜日までは一生懸命働くけれど、絶対に日曜は働かない。クリスチャンだから」と言ったり「自分はクリスチャンだから決して離婚はしたくないし、しない」と語っていました。彼と会ったとき、彼は初対面の私に「私は今まで結婚したことはない」と言っていたことをよく覚えています。
そうしたことから、週末になると、一緒に行ける日は二人で教会に通いました。クリスチャンではない私でさえも、教会は神聖な場所であり、その場において偽りの言動を彼が行うなんて、全く考えられません。一緒に教会に通うという行為は、お互いを真剣な交際相手として捉えられる、と一般的にクリスチャンとしては考えられていますし、私もまた、その気持ちが彼にある、そういう意思表示と見なしていました。実際チャールズ自身が、私にそう話していました。彼は「君は私にとって妻のような存在だ」「君は私の妻だ」という口調でした。
彼が私に彼の友達を紹介していたように私も彼に私の友達を会わせていました。私の友達はどのように私が彼と付き合っていたか、それほど深く彼自身を、彼の言葉を信頼していたかを知っています。チャールズは私の友人といっしょに食事に行ったり、、私の友人と私、彼の3人で友人の誕生日祝いを一緒にしたりするほどに親しく交際してもらっていました。
私が友人に彼との付き合いに関して相談することもしばしばでした。私とチャールズは喧嘩することも時々ありました。いずれも些細なことが原因でした。愚痴をきいてもらう一方で、彼の性格や人物性、仕事や国籍といった、個人的なことについても話していました。
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2.大学生時代の出来事に関して
一、チャールズ・ンナディ・チュクメワカとの出会い、そして付き合うに至る経緯
ラファエルが去り数カ月が経過した同年12月ごろ、友達に誘われてBというクラブに行きました。どうしても心にとりついて離れない虚しさをごまかしたい、気を逸らそうという弱い心の状態だったと、今は思います。男性とお付き合いするということに対して、右も左もわからない、無知な自分は、当時のやるせない気持ちや悲しみと、どのように折り合いをつけたらよいのか分かりませんでした。徐々に自暴自棄になっていた頃でした。本当に幼稚で浅慮な考え方をしていました。
その日は、12月5日だったと思います。化粧室に行った女友達を待っているときにンナディチャールズ・チュクメワカという男性に声をかけられました。チャールズが今回の事件に関係ある人物で、彼こそが、私に平成18年7月アムステルダムに行こうと言ってきた人であり、現地で私に今回の事件の缶詰を渡したのです。
彼と知りあった日、また外で食事でもしないかと言われたとき、私にとって彼は英語を話す練習相手になってくれるなら、友達として会えば良いだろうくらいに考えていました。あくまでも音楽を聴きに、そしてストレス発散、英語を話すためというのが元々の目的で、それだけでした。それゆえ、彼に話しかけられた時点で自分にはアメリカ人の彼氏がいること、そして彼は米軍に勤めていることなども話していました。私の説明に彼は納得して、その上で友達になってほしいと言ってきたので、何度か食事をしたりお茶を一緒に飲んだりするようになりました。チャールズは私に、
「自分(チャールズ自身のことです)は米軍の基地で働いている。オフィサーだ。」「国籍はアメリカだ」
などと話していました。最初の頃、二人で会話する際は英語を両方使っていました。彼の英語は流暢で、アクセントに訛りも感じられなかったので、彼の言葉を疑う理由も糸口も、私には思いあたりませんでした。私はチャールズの自己紹介を額面通りに受け取っていました。
そもそも、今回の事件によってチャールズに関する情報を弁護士さんから聞かされるまで嘘をつかれていたことも、全く知らなかったです。自己紹介で嘘を言う人がいるなんて、想像したこともありませんでした。
私はチャールズにありのままを伝えていました。ラファエルは平成16年の4月にもう一度日本に来ることが分かっていたので、そのことも、チャールズに話していました。チャールズは友人でしかありませんでした。しかしながら4月が近づくにつれてチャールズが
「自分は仕事上軍で働く人の個人データを見ることができる」
「ラファエルも情報ももちろん見られる」
と言ってきました。チャールズは私に米軍で人事担当の仕事をしていると話していました。ゆえに、仕事の性質上、米軍関係者の情報は、目を通せる立場にあるのだと言っていました。彼は平日だけでなく、土曜にも働くと言っていたり、コンピューターにとても詳しいのだと話したり、仕事で常にパソコンの画面を見ているからとても目が疲れる・・・といったふうに、自分の仕事のことを頻繁に口に出していたのです。仕事の過酷さや上司の愚痴をこぼしたり、とにかくチャールズの仕事は私たちの間でよく話題に上りました。加えて、チャールズの知り合いや友達にもアフリカンレストランやバーで会い、彼らもまた、米軍で働いていると紹介されたことも度々ありました。
以上のように見聞きしてきたので、私は彼の言葉、仕事に対する説明も事実であると認識していました。そして同時期、
「ラファエルは結婚している。離婚したというのは嘘だ。彼は今でも奥さんといっしょに住んでいる。君には隠している。騙されているのに気付かないなんて・・・」
と言い始めたのです。ラファエルが以前結婚していた、今はすでに離婚している、と、ラファエル本人。ラファエルの友達の口から聞いていました。だから、チャールズが言い続けることを激しく否定しました。そんなはずは無いと思っていたし、ラファエルを信じていました。
4月が来て、ラファエルが来日しました。やはり彼を非常に好きな自分に気付き、離婚しているというラファエルの言葉が真実なのだろうと思いました。しかし、2・3週間もすると、またしてもアメリカへ戻っていきました。1回目の別れよりもさらに苦しくせつないものでした。1回目の時は、次に再び会えることが分かっていて、その上でのしばしの遠距離でしかなかったのですが、2回目の際は今度会える日がいつなのか全く見当が付かずに分かれる状態でした。また一人の日々が始まり、精神的に不安定になりだし、孤独を感じ悲嘆にくれました。馬鹿らしく聞こえるのは百も承知ですが、私にとってラファエルは心から大切に思っていた人でした。悩むほど泥沼に陥り、心が寸々(ずたずた)になり、捨て鉢になっていきました。こんな離れた状態は自分には耐えられない、ラファエルにとってもこの状態はどうなのだろう・・・と、手におえない負の感情と、空間的な距離にどうやって対処したら良いのかと、陰気な自分が嫌でたまらず、今後どうしていくか、気持ち・態度をはっきりさせるべきなのだと思っていくようになりました。
一旦無理かもしれないと思い始めると歯止めがかからなくなり、別れるべきだという彼の言葉が正しいのだと思い込んでいきました。その時、近くにいたチャールズの「君の彼氏はまだ結婚している」という主張を信じていた私は、最終的にラファエルに別れたいと伝えました。それほどまでにチャールズを信用していた理由の一つに、チャールズがラファエルの名前を知っていたことが挙げられます。
と言うのも、前述した通り、私はチャールズに「彼氏がいます」と初対面の際伝えていましたが、「ラファエル」という名前を教えたことは絶対ありませんでした。そのため、会話の途中で
「彼氏の名前はラファエルだろう?」いる
と、チャールズの口から名前が出たとき、とても大きな衝撃を受けました。私のこの時の驚きは言葉では言い表せません。
「どうして知ってるの?」
と聞くと、
「前にも言った通り、私は軍で働いている人の個人情報が見られる立場にあるんだ」
と答えたので、その発言自体や自信満々の態度にさらに一層納得してしまいました。
その後しばらくすると、チャールズから何度も付き合ってほしいと話をされて、結局チャールズと付き合うことに決めました。
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三、寮での生活
量は学部・学科こそ異なれど、同じ大学の先輩・後輩合わせて30名が定員であり、自治寮として規則を自分たちで積み上げてきたので、皆が寮生であるという自覚を持ち、行動し、互いを尊重し合い、規律を順守することによって秩序が保たれていました。
門限があり、女子寮なので家族とはいえ、男性は一切入ることができず、月に1回は寮生会議が行われていました。その際、門限を破った者、規則に従わなかった者は罰を受けることになりました。集団で生活する以上は規律を守ることは当たり前という意識を持っていましたし、それを破れば、罰せられるのも納得でした。ルールが存在するのも意味があるからであって、ルールは基本的な事項として認識していました。一人の行為で皆にどれほどの迷惑をかけることになるかも痛切に学びました。
寮生は全国各地から集まり、親元から離れて暮らすことから月日が経つにつれて私にとっては家族同然の存在となり、とりわけ親しい寮生とは、何でも話せる、とても親しい仲間となりました。その中で、寮生の先輩の一人がダンス部に所属しておりました。定期的に横浜にあるBRIDCE(ブリッジ)やLOGOS(ロゴス) というクラブでダンスのイベント行ったり、その後の人がDJをしていました。それで、先輩が誘ってくれたのがきっかけとなって、寮生の数名と一緒に行きました。高校までずっと勉強一辺倒で生きてきた私にとって、遊びといったら読書をしたり、映画を見たりするくらいでした。お酒も二十歳になるまで飲んだことはありませんし、煙草に至っては、今に至るまで、1回たりとも吸ったことすらありません。
高校時代は、3年間、土日は模試で学校に通うことも多く、長期の休みに入っても、友達と学校にほぼ毎日通って、勉強するのか日々の日課でした。
そんな中で、大学の寮に入ったことで、クラブに行く経験を初めてしたのが、2年生の8月ごろだったと思います。もともと音楽を聴くのは大好きでした。特にR&Bが好きで、普段から聞いていました。高校の時の英語の先生を非常に尊敬しており、その先生の影響を待って、語学という、異なる文化を持つ人とさえも意思疎通を図れるツールである英語を、他の科目よりも重要視していた私にとって、洋楽は生きた英語の勉強にもなりますので尚更魅力的でした。
重ねて、過酷な受難の歴史を歩んできた黒人史に、自分の母親の故郷である沖縄の親戚や人々を合わせて見ていたことから、非常に興味を惹かれました。独学だけでなく、大学でもアフリカの経済史を学んだり、アメリカ文化史として黒人史を講義でとりました。これらの背景からも、自分の好みを大音量、友達や先輩といった気の置けない人々と聴くことのできる空間は、私にとって心地良い、安全な場所でした。怖いという印象はなく、同じ大学の学生ばかりがいる状況だったのです。
扨(さて)、平成15年9月ごろのことです。非常に個人的な話で恐縮ですが、横浜にあるバーで、ラファエル・オテロという男性と知り合い、デートを何度かし、交際するようになりました。彼が初めておつきあいした男性でした。彼はアメリカ、カリフォルニア在住で、来日したのは米軍の仕事の主張としてでした。そのため、2・3週間滞在すると帰国しなければなりませんでした。普段はワイン会社で働くサラリーマンであり、休日に時々、副業として米軍で働いていました。とても仕事熱心な人で、毎日勤勉に働き、努力を惜しまない人でした。私は彼の心の底から尊敬していました。心が豊かな人で、広い心を持つ彼と一緒に居られると、私も暖かい気持ちになれました。また、彼は前向きで、私は彼の影響で、スペイン語や英語を学ぶようになり、彼に釣り合いの女性となれるように、勉強にも身が入り、私に良い刺激を与えてくれる、努力することの大切さを教えてくれた人でもありました。彼が日本にいる間、厚木にある基地に入り一緒に食事をしたり、横浜を彼と彼の友達を案内したり、抹茶や日本食を食べに行ったりして過ごしました。とても充実した、素晴らしい日々でした。その為尚更、彼がアメリカへ帰国してしまって以来、一緒に過ごせたあの頃の思い出が素敵で輝いていた分、激しい空虚感・孤独・寂しさが募っていきました。彼とは毎日必ずメールでやりとりをし、連絡をとり続けることで、気持ちをつなぎ、気を紛らわせるものの、あくまで一時的なものでしかなく、焦心は消えず精神的に不安定になっていきました。月日が経つにつれて、一体次に会うまでどれだけこんな苦しみを味わって行かなければならないのか、という先が見えない感覚に捉われていきました。
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二、大学での生活
大学に入るうえで、親には一切頼らず全て自分で賄うことは前提条件でありました。貧しい経済事情にもかかわらず、私に高校まで卒業させてくれた両親に恩返しできるよう、また、私よりも年下の妹・弟がお金がないせいで学校に行けないことがないようにと、絶対に国公立の大学に入るつもりで決めていました。
色々な大学について調べていくうちに、実家の栃木に近く、休暇時に行き来のできる関東で、大学寮があり、その寮に卒業までの4年間住ませてもらえる大学が条件として絞られていきました。加えて、将来働くうえで役立つ、経済・経営といった実地の学問を学べるところとして、横浜市立大学は、まさに私の希望する条件にぴったり合っていました。
そうして高校3年時の実験の結果、合格することができ、寮も審査の結果、入寮を許可されて無事大学へと通へる下地ができました。学費・住居の面から考慮して、長年心の中で温めてきた夢が、このとき一つ叶いました。1日も早く、両親を楽にしてあげたいと、この時さらに強く願うと共に、少しでも社会貢献できる大人になりたいと思いました。
こうして、平成14年4月から横浜市立大学商学部経営学科に通い始めました。大学では、二つの奨学金を授与・貸与されていました。一つは、日本育英基金の無利子の控訴を貸与され、もう一つは城南信用金庫という五反田に本店のある金融機関に設立された小原白梅育英基金であり、奨学生として返済不要の奨学金を4年間、卒業まで授与せていただきました。
当基金は、私設の機関として設立され、日本では有数の育英機関として名前を知られており、厳しい選考がありました。応募資格は高校時の平均成績が5点満点の中で4.5以上といった、成績の最低基準があり、所属大学は一流大学として指名された大学に在籍する学生に限るという厳格な規定と審査がありました。ゆえに、奨学生となった者は東京大学や一橋大学などの将来を有望視された学生たちであり、基金の理念として掲げられた日本や世界に貢献する志を抱いた苦学生でした。
私が経営学科を選択したのは就職活動する際に活かせるためにという、将来を見据えての決定でした。経営者として起業して、社会貢献をしたいと思ったからであり、女性の活躍できる企業・組織づくりに少しでも参加したいという夢と、アメリカの実業家・慈善家であるロックフェラーやビル・ゲイツなどに代表される経営者たちのようになりたいという目標があったからでありました。加えて、グローバルな視野で学びたいという思いから、コースもインターナショナルビジネスコースに進路を決めました。
2年の後期になると、ゼミを選択することになりました。2年の前期から講義でマーケティングを受講したことが契機となって、マーケティングに関心が高まり、より深く、広く知りたいと思いました。経営学科の中でマーケティングのゼミは一つしかなく、1・2を争う人気がありました。ゼミ志望の用紙を提出し選考・面接で、ゼミ生として入ることを許可してもらい、高い倍率からゼミ生となることができることとなりました。
ゼミでは、消費者心理学、ブランド論を中心としたマーケティング全般について学習しました。3年生時には神奈川県の主催する産学連携プログラムの一環で懸賞論文に参加しました。この論文は県内の企業と大学が合同で行う形式をとっており、企業の課題・問題、例えば、新規事業提案や業務改善に対して学生側からの提言をするものでした。半年以上かけて、もう一人のゼミ生と論文を作成することになり、リサーチのために一般の人に向けてアンケートを実施し、分析にかけたり、実際にさまざまな場所へ赴いて情報収集を行い、完成したものをもとにパワーポイントを作って、企業の方の前でプレゼンテーションを行い、応募の結果、優秀賞を受賞しました。この年、ゼミの成績も優をもらいました。
また、大学生活の中で、1年生時は空手のサークルに入りました。2年生時以降は寮生活に慣れるに伴って、寮が日常の中でさらに大きな比重を占めるようになり、加えてゼミが開始したので、寮とゼミが第一優先になりました。学校のある時期は文字どおりゼミ一色となる状態でした。長期休暇に入ると、合宿を行い、連日徹夜でケーススタディを行ったりし、分析を行い、ディベートをし、プレゼンテーションのためのパワーポイントを作ったりする熱心なゼミでした。私もゼミ生も皆積極的にゼミ活動に参加していました。
そして、生活費のために、アルバイトをしました。それは同時に社会勉強でもありました。将来の仕事に活かすために幅広い職業を経験したいと思っていたので、ガソリンスタンドでの営業巡りをしたり、リゾートホテルでのフレンチレストランのウェイトレス、日本料理店のウェイトレス、百貨店の配送に関するクレーム処理、スーパーマーケットの中でのお中元・お歳暮、催事担当、テレマーケティング会社での受発信オペレーター、塾講師等として働きました。
同時に、通っている大学の女子寮である”萌生寮”も生活のなかで家族のような役割を果たすようになってきました。寮生が私に与えた影響も大きく、先輩は姉のような存在でした。
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祐美さん本人が書いた控訴趣意書です。
叫びのように聞こえませんか?
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控訴趣意書
2007年9月6日
被告人 木村祐美
東京高等裁判所第4刑事部御中
記
私は、氏名不詳者らと共謀の上、大麻を営利目的で密輸入したとして、千葉地方裁判所で有罪判決を受けましたが、それは事実無根です。
私は大麻の密輸入を誰とも共謀していませんし、アムステルダムでチャールズという人から缶詰を持っていって欲しいと言われて持ち帰っただけです。その中身が大麻であるということは全然知りませんでした。これから今回の事実について説明します。
1、幼少期から大学までの過程及び背景
一、栃木県での生活
私は、栃木県で父■■■■、母■■■■ の娘として生を受けました。昭和58年5月13日に次女として生まれ、姉であるさゆり、妹、弟の4人兄弟の中で育ちました。家庭はとても貧しかったので物心ついた頃から「大きくなったらひとりで事実して生活しよう」「親にも、誰にも迷惑をかけたくない」と強く心に誓っていました。そのための手段として勉学に励むことは自分にとって重要な意味を持っていましたし、大学へと進学する意思は固く、絶対に奨学金をもらって通うんだ、と計画を立てていました。成績は、小学生・中学生時にも良い方でした。地元の中学校に通い、3年時には10クラス程度あった学年の中で各クラスに1名ずつ選出される優秀生の一人として警察署で表彰を受けたこともあります。
高校への進学は学費の面と大学受験を考慮して県立に行こうと思い、栃木県立矢板東高等学校の普通科に平成11年4月入学しました。進学校であり、クラスは文系・理系に分かれており、私は文系の中で、1クラスしかない国公立クラスという選抜クラスに属していました。成績は、4・5位だったと思います。県立だったので学費は非常に安かったのですが、それが払えずに滞り状態がずっと続いたため、途中から奨学生として学費免除をしてもらえることになりました。
また、部活動として山岳部に入っていたこともありました。栃木県内の山に2泊3日の短期日程等で、他の高校と合同で登頂したり、20キロ以上のリュックを背負って移動したりしました。夏期には、日本アルプスの八ヶ岳に登ったりしました。険しい道程を乗り越えた後の達成感、目的に向かって努力すること、やり遂げることを学んできました。
高校卒業後は、高校が受験生や各中学校等、一般的に配布する学校案内のパンフレットを作成するとのことで、元担任の先生の推薦で卒業生の代表として、文系の代表で紹介文を書くようにとお話をいただき、高校生活について拙文載していただいたこともあります。
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麻枝光一的大麻生活で、教育評論家・斉藤次郎さんの裁判があったことを知った。リンク先に飛ぶと産経の記事だった。
大麻所持の“教育評論家”斎藤次郎被告に有罪判決
2007.11.5 12:12
自宅に大麻を隠し持っていたとして、大麻取締法違反(所持)の罪に問われた教育評論家、斎藤次郎こと水谷次郎被告(68)の初公判が5日、さいたま地裁で開かれた。
斎藤被告は起訴事実を認め、検察側は懲役10月を求刑して即日結審。佐藤基裁判官は懲役10月、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。
被告人質問で、斎藤被告は「昭和47年ごろから、友人に薦められ吸い始めた。大麻には意識の拡張作用があり、心を豊かにする。自分や周りを深く知るために役立つ」と述べた。
佐藤裁判官は「断続的に大麻を使用し、常習性も認められる。大麻をなぜ持っていたか自己分析できておらず、動機に酌量が認められない」と非難した。
判決によると、斎藤被告は9月21日、自宅書斎に乾燥大麻約3.56グラムを所持していた。
斎藤被告は教育評論や著作、教育に関する相談者として活躍。1年間、青森県の小学校に“留学”するなどユニークな活動でも知られる。
取り調べや裁判で「大麻は悪くない」などと言うと、反省していないとして、罪は重いほうに傾く。私は裁判官に、「被告人は大麻取締法の非合理性を主張するなどその態度はよくなく」と判決で言われた。裁判官がヘーきで思想と信条と良心の自由を踏み潰す。裁判官が思想を弾圧しているのである。
次郎先生はさすが。
「大麻には意識の拡張作用があり、心を豊かにする。自分や周りを深く知るために役立つ」
よくぞ言って下さいました。
佐藤基裁判官は笑わせてくれました。「大麻をなぜ持っていたか自己分析できておらず」だって。次郎先生は自己分析できてるでしょう。むしろ、自己分析するために大麻を使っていたわけでしょう。次郎先生は「自分や周りを深く知るために役立つ」って言ってるんだから。聞いてなかったのかな?聞こえないのかな?聞く気がないのかな?佐藤さん、あんたでしょ、自己分析できてないの。判例を踏襲してるだけのくせしてエラそーに。
次郎先生の裁判、他の新聞がネットでどう伝えているのか、毎日、朝日、読売の社会面ページを探してみたが、見当たらなかった。そこで、各新聞サイトで、「大麻」でサイト内検索してみた。やはり次郎先生の裁判の記事は見当たらなかった。探し間違いだったら指摘して下さい。
で、改めて、産経のニュースサイトで「大麻」をサイト内検索してみた。
1.簡単に買える大麻の種 野放し状態に批判(1/3)(07/11/27 04:30)
おっといきなりさすが産経。次郎先生の裁判の記事は4番目にあった。
1番目にリストされた3ページに及ぶ記事は、一言で言えば、「大麻の種が簡単に買えるのは問題だから規制しよう」と書いてある。
タイトルは「簡単に買える大麻の種 野放し状態に批判」だが、いったい誰が批判してるのか?
記事の冒頭。
検挙者が右肩上がりで増え続ける大麻。その原因の1つとして「種」がクローズアップされている。関東学院大ラグビー部の大麻取締法違反事件で、逮捕された部員2人も「渋谷で種を買った」などと供述したように、街やインターネットで簡単に買うことができる。栽培は違法だが、種の所持は合法。捜査関係者からは「(大麻の)所持や栽培をいくら摘発しても、種が野放しでは追いつかない」と嘆きの声も聞こえてくる。
捜査関係者が嘆いてるって話なのである。この記事、ぐーたらあーたら書いてあるが、何度か笑える。で、最後はこうである。
ある捜査幹部は「いくら栽培を摘発しても追いつかない。検挙者が増加しており、法整備など新たな手だてが必要だ」と訴えている。
ほら来た。やっぱり。相変わらずの、反動の御用聞きというか、提灯持ちというか。
でも、次郎先生の法廷での言葉を伝えてくれて、ありがとねん。こちらの受け止め方とは正反対の意図で書いたのだろうけど。
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裁判員制度が導入されることに賛成する主張があり、反対する主張がある。
裁判員制度は、なぜ導入されることになったのだろう。「裁判員制度」でググってみると、「裁判員制度」というタイトルのサイトが1番にある。とても最高だとは思えない最高裁が公開しているサイトで、「導入の理由」というページで2点挙げられている。
導入の理由
裁判を身近で分かりやすいものにする。
司法に対する国民のみなさんの信頼を向上させる。
これは、現在の裁判は「遠くて分かりにくく」、「国民のみなさんが司法を信頼していない」という正しい現実認識が前提にあるのだろうか。
騙されて何も知らずに運び屋にされてしまっただけの、本当は被害者である無実の者に、長期の実刑を科す裁判は、確かに全く分かりにくい、というか、理解を超えている。わけが分からない。信じられない。狂ってる。国民のみなさんが司法を信頼できるわけがない。
大麻取締法違憲論の裁判をやってきて、最高裁の判事席がシルバーシートに見えた。耳が遠くて目が悪い。息をしていないのではないかと心配になったが、どうやら息はあるらしい。
最高裁の裁判員制度関連ページに「明日の裁判所を考える懇談会(第9回)協議内容」というのがあって、出席者名に、「大谷昭宏委員,北川正恭委員,田中直毅委員」というテレビで見る名前があり、読んだらなかなか面白かった。
日本弁護士連合会(日弁連)の「はじまります。裁判員制度」というサイトには、「裁判が、あなたの良識を必要としています。」とある。
良識を疑うような弁護士は多い。
過日寄せられた相談で、大麻所持で夫が逮捕され、取り調べが終わって勾留期限も切れ、保釈請求できる状況になり、国選の弁護人も決まり、夫の保釈請求を頼んだところ、やるなら自分でやれ、国選の弁護は1回飲みに行くくらいの報酬にしかならないのだと言い放った弁護士もいる。
同じような逮捕容疑と状況で、私選の弁護士に保釈を頼んだら、悪いことをしたのだから少しのあいだ辛抱させなさいという、習性が抜けないヤメ検か?みたいな弁護士もいた。
私が一審で選任した弁護士は、大阪拘置所での初めての面会のとき、自分も学生時代に大麻を吸ったことがあると言って、依頼人の安心を勝ち得た。弁護士もいろいろである。
日弁連のサイトでは、裁判員制度について次のように書かれている。
裁判員は、刑事裁判の審理に出席して証拠を見聞きし、裁判官と対等に議論して、被告人が有罪か無罪か(被告人が犯罪を行ったことにつき「合理的な疑問を残さない程度の証明」がなされたかどうか)を判断します。
「合理的な疑問」とは、みなさんの良識に基づく疑問です。良識に照らして、少しでも疑問が残るときは無罪、疑問の余地はないと確信したときは有罪と判断することになります。
祐美さんの裁判や、福岡の高藤さんの裁判は、合理的な疑問だらけ、不合理な事実認定だらけで、絶対に無実である者に長期の懲役を科している。高藤さんは既に収監されたようだ。3年半である。
裁判員制度に反対する主張のひとつに、「あなたは人を裁けるか」という問いかけがあるようだが、裁判員が裁かなければならないのは、被告人というよりも、捜査や取り調べが適切であったか、供述調書の作成に問題はなかったか、など、裁判の公正さではないかと思う。無実の者に有罪判決を出すことなどあってはならない。そのための裁判員制度でなければ意味がない。久保田君(高藤さん関連)、高藤さん、祐美さんと、次々と無実の者に長期の実刑が科されてゆくのを目の当たりにして、捜査や取り調べの適切さ、裁判の公正さこそ国民が監視しなければならないのだと痛感している。
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(10)結論
以上検討したように、原判決の認定手法には非常に大きな問題がある。判決が掲げる情況証拠によって、木村祐美さんが缶詰の中身が大麻であったことを知っていたと合理的な疑問を入れない程度に証明されていると考えることは不可能である。
3 情況証拠の検討
原判決が掲げる以外の情況証拠を見てみよう。
木村さんは真面目一辺倒のうぶな女子大生であり、男性経験に乏しい。彼女は、黒人音楽に興味があり、英語が話したくてクラブに出入するようなタイプの女子大生だったのである。そして、「オフィサー」 の意味もわからず、クラブに出入する外人と接触した。
「ラブ・コネクション」のカモを探している不良外人にとって、これ以上にイージーなゲームはなかったであろう。
チャールズは木村さんを徹底的に騙していた。
アメリカ生まれのアメリカ人で、ニューヨークに病気の父親がいるとうのは嘘である。
軍籍――人事の仕事をする米軍のオフィサー――も嘘。独身で結婚したことがないも嘘。彼にはれっきとした日本人の妻がいる。であるにもかかわらず、木村さんは逮捕されて事実を弁護士から聞かされるまでチャールズは独身だと思っていた。彼女は心底チャールズを愛していたのである。
彼の「除隊」後の仕事――東京駅近くにオフィスがある「プレクストン」という会社でSEをしている――も真っ赤な嘘である。
このように嘘で固めたチャールズが、缶詰の中身についてだけ本当の話しをするなどということがありえるわけはない。
ベルギーの会社から携帯電話を買うという話も、オンボード・クーリエの話も、全て、木村さんを騙して「運び屋」に仕立てるための嘘だったのである。
木村さんは、一生懸命に就職活動をしていた。そうして、ようやく、彼女は希望の会社に就職が内定していたのである。
幼いころからの夢が実現しようとしていたのである。その彼女が、「薬物の運び屋」をやるために内定を断るなどということがありえるだろうか。絶対にない。
彼女は産学協同プロジェクトの懸賞論文に全精力を捧げたのである。その彼女がようやく手にした物流会社の総合職の地位をどうして、大麻密売人の手下という地位と交換するだろうか。絶対にありえない話である。
彼女は、ごく親しい友人やゼミの恩師に、せっかく内定した会社を断って「友人とビジネスをはじめた」「輸入業をしている」と報告している(甲56・「英文メール訳文作成報告書」29、335、381頁)。これこそ彼女の真意を物語るものであろう。彼女は自分の夢をさらにステップアップするために、就職を蹴ってチャールズの手伝いをすることを決断したのである。
ところで、携帯電話を輸入するビジネスは実在する。木村さんの原審における説明は次のようなものである――外国の携帯電話はプリペイド式になっていて、先払いして使う;中にチップが入っていてそれを差し込んで使う(記録74頁)。これはチャールズが彼女にした説明であるが、間違ってはいない。日本以外の国の携帯電話はキャリアー(電話会社)に登録したSIMカード を入れ替えることで全ての機種を使うことが出来る。だから、ユーザーはキャリアーに依存することなく機種を変えることができる。電話機の販売がビジネスとして成り立つのである 。実際に、木村さんは最初の海外旅行の際に上海でチャールズが携帯電話を20個も買うのを見た。彼が「携帯電話を海外で買い付けて輸入するビジネスをしている」という説明を彼女が信じたとしても無理はない。
彼女はオランダやベルギーに行くことを秘密にしていない。友人らに話したりメールで知らせたりしている(甲56・205、462頁)。もしも彼女が大麻の運び屋であるという自覚をしているのであれば、これはありえないことである。
木村さんは、チャールズに頼まれて、オランダやベルギーと日本との間を繰返し往復したが、それによって何らの利益も得ていない。もしも毎回時価2000万円以上の大麻が運ばれたのだとすれば、木村さんはチャールズから莫大な報酬を得ていたはずであり、そうでなければそのような仕事を繰り返すことはありえない。
BROOK STONE横浜の家賃をチャールズが支払っていたが、これは2人で住むための部屋であり、チャールズが家賃を支払うというのは自然なことである。チャールズはこの家のことを「私たちの家」("our house")と言っていた(甲56・「英文メール訳文作成報告書」499頁)。搬入したベッドも大きなダブルベッドであった(被告人質問・記録108頁)。
4 結論
このように、本件の情況証拠は、彼女が騙されていたこと、「ラブ・コネクション」の魔の手にさらわれた被害者だったことを示している。
原審は、曖昧で多義的な「間接事実」を恣意的に取り上げ、一面的な解釈を施して、本来被害者であるはずの木村祐美さんを大麻密輸組織の一員と認定し、重罰を科した。
原判決が一刻も早く破棄されて、彼女が本来いるべき場所に戻ることを弁護人は心の底から願う。
第Ⅱ 事実誤認及び法令適用の誤り
原判決は、木村祐美さんが逮捕当時に所持していた現金2万円と123ユーロ12セントを没収するとの判決を言渡した。その根拠として、原判決は「国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法の特例等に関する法律」11条1項1号を掲げた。同号は「薬物犯罪収益」の没収を定める規定である。
しかし、木村祐美さんが逮捕当時所持していたこれらの現金が「薬物犯罪収益」であることを認めるに足りる証拠は存在しない。
原判決は証拠によらずにこの現金を薬物犯罪収益であると認定し同号を適用したが、これは事実誤認かつ法令適用の誤りである。
以上
以上、高野弁護士による控訴趣意書である。これを、東京高裁(裁判長裁判官・池田修、裁判官・吉井隆平、兒島光夫)は公判初日に即日棄却した。信じがたい暴挙である。いったい何のための裁判なのか。
祐美さんは現在上告中である。
優秀な妹を誇りに思い、学費を支援してきた姉のさゆりさんは、最低の糞男・チャールズに殺意すら感じている。
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(8)「感謝のメール」
原判決がいう「大きいバッグを運搬することを感謝する電子メール」というのは、チャールズが2006年3月21日付で木村さんに送信した電子メールであり、その全文は次のとおりである。
thanks for coming today. you made my work very easy for me. thanks a lot. i know it is not easy to go and come back and carry big bag. i am so sorry. i hope to see you genki when you come back. take care.
今日は来てくれてありがとう。おかげでうまく行った。本当にありがとう。行ったり来たりしたり、重いかばんを持ち歩くってのは大変だね。申し訳ない。また元気な君に逢いたい。気をつけて。
チャールズが木村さんにお礼を言っているのは確かだが、何に対するお礼なのかはわからない。「行ったり来たり」「重いかばんを持ち歩く」といのが誰のことなのか、どのような場面なのかも、この文面からは不明である。
このメールに対応する木村さんの送信メールがあるはずだが、不思議なことに甲56の報告書の「送信メール」はこの翌日の3月22日から始まっている。3月21日の分がない。
チャールズからはこのメールの前に「カメラはどこで買えるかな?」「今、終わった。カメラを欲しがっている友達には話していないんだ」「いま、池袋にいます」「待ってます」というメールが送信されている。
そうすると、この感謝メールは、彼がカメラを買うのに彼女が付き合い、その過程であちらこちら行き来したり、かばんを持って歩いていた状況があった、このようなことにつき合わせて申し訳ない、というメールであった可能性が十分にある。
この1片の曖昧なメールを、大麻の「運び屋」をやってくれたお礼のメールだと決め付ける原審裁判官の想像力は非常に偏っている。
言い換えれば、原審裁判官は木村さんを有罪と決め付け、「何か有罪の証拠はないのか」という姿勢で証拠を評価しているのである。
(9)缶の運搬や意見
原判決は、木村さんが「チャールズの意を受けて缶詰を運搬したり、缶詰の譲渡について意見を述べたりしていた」と認定している。
彼女が缶詰を運搬していたという認定の根拠は、2006年5月2日付のメール(甲56、603頁)に出て来る
"Please can you do me a favour by going to ikebukuro tomorrow around 7 pm to give my friend 2 cans of the juice. peach is ok."
(「明日午後7時ころ池袋に行って、私の友達にジュースを2缶渡してくれないか。ピーチが良い」)
という記載である。この記載から、彼女が缶詰の中に大麻が入っているのを知りながら「運び屋」としてこれを池袋に運搬したと認定するのは強引過ぎる。
フルーツやジュースの缶詰の中から、友達がピーチのジュースを欲しがっているので、僕の代りに渡して欲しい、という趣旨のメールであるに過ぎない。
そして、「ピーチが良い」(peach is ok)と言うのは、もしも缶詰の中身が全て大麻であることを木村さんが知っているのだとしたら全く意味のない表現である。
チャールズが「ピーチが良い」と言ったのは、少なくとも彼は彼女に対して、缶詰はラベルごとに中身が違うという前提で話しをしていること――より端的に言えば、彼女に対して中身が大麻であることを隠していたこと――を示しているのである。
「缶詰の譲渡について意見を述べていた」という認定の根拠は、チャールズの2006年5月20日付メール(甲56、625頁)に出て来る次の表現であろう。
Thanks for your advice today. I was thinking about that guy before you called, just that I promised that guy that I will give him the remaining cans for cheap price.
今日は助言をありがとう。あなたが電話をくれる前に、あの男のことを考えていました。彼に残りの缶詰を安い値段で譲ることを約束したばかりだったんです。
ところで、このメールは木村さんからの「あなたが帰って欲しいというのであれば、私はいつでも戻ります。大丈夫ですか。何かあったんですか」というメールに対する返信である(甲56、625頁)。
チャールズのメールにいう「アドバイス」というのは缶詰の譲渡に関するものではない(被告人質問・記録137頁)。
このメールをやり取りしているとき、チャールズはナイジェリアに滞在し、木村さんは栃木県の実家に滞在していた。
千葉の保税蔵置場に荷物が預けたままになっていると保管料がかかってしまうので、必要があれば自分が代りに取りに行ってもいいという話を木村さんがしたのに対して、チャールズは「アドバイスをありがとう」と言ったのである(被告人質問・記録138頁)。
缶詰を安く譲る約束をしたというくだりの後に、"If it can be possible for you, I will like to give it to him…"(もしもあなたが可能ならば、彼に渡したいんだが……)という文章が続く。要するに、ここでもナイジェリアにいる彼に代って缶詰を渡してくれないかという単純なお願いがなされているのであって、缶詰の処分について彼女が意見を言ったなどということではないのである。
(続く)
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