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カナビスの年代記

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2737 BC 中国の神農本草経という書物によると、この頃にはすでに、カナビスは卓効のあると薬草として使われていた。
1500 BC カナビスを吸うスキタイ人たちがヨーロッパとアジアに進出して定住し、草刈り鎌を発明した。
1400 BC インドのヒンズー教徒たちは、ガンジャやチャラス、ハシシなどのカナビスを生活や宗教で使っていたという記録がある。
c600 BC インドのゾロアスター教の経典には、ヘンプ樹脂による酩酊について書かれている。
c500 BC 仏陀はヘンプシードを食べて生き延びたと語っている。
450 BC ヘロドトスによれば、スキタイ人やトラキア人は、カナビスを吸い、ヘンプから上質なリネンを作っていた。
300 BC カルタゴとローマの政治と経済をめぐる覇権争いは、地中海におけるヘンプとスパイスをめぐる争いだった。
100 BC 中国では紙をヘンプや桑から作っていた。
70 BC ローマ皇帝のネロの外科医ディオスコリデスは、カナビスから丈夫な紐が作れるばかりか、医療効果もあることを讃えていた。

c30 キリストの教え、「口から入って来るものは人を汚さない。口から出て行くものが人を汚すのだ。」(マタイ伝 15:11)。また、新しいワインに関する福音書では、穂が熟した時が最高、と書かれている。
100 ローマの外科医ディオスコリデスが、植物にカナビス・サティバという名前を付けて、さまざまな医学用途について書き残している。また、ローマの博物学者プリニウス(23−79)は、産業用のヘンプと栽培のしかたについて報告している。
400 イギルスにおいて、ノーフォーク地方オールド・バッケンハムでカナビスが初めて栽培された。
500 コンスタンチノープルで、初めて植物図鑑にカナビスが掲載された。ドイツ周辺でもカナビスが使われていた。
600 ドイツやフランス、バイキングなどヨーロッパ全域でヘンプの繊維を使っていた。
800 マホメッドはカナビスの使用は認めたが、アルコールは禁じた。

1000 英語の「hempe」という言葉が初めて辞書に載った。イスラムの世界ではハシシを医薬品や一般用として作っていた。
1150 イスラムはヘンプを使ってヨーロッパで初めて製紙工場を開始下。これ以降750年間、聖書も含めてほとんどの紙はヘンプから作られた。
1379 イスラムの首長 Soudon Sheikhouni of Joneima は貧民のあいだでのカナビス使用を禁じ、作物を潰して、罰として歯を抜いた。
1484 ローマ法王イノセントVIII世はハシシを違法なものとした。
1494 イギリスで製紙業が始まった。

1545 中国でも本格的な農業としてヘンプ栽培を始めるようになった。
1554 スペインがペルーでヘンプを栽培。
1563 イギリスのエリザベス女王が地主たちに60エーカー以上ヘンプを栽培するように布告を出した。違反には罰金5ポンド。
1564 スペインのフィリップ王がアルゼンチンからオレゴンまで植民地全域にわたってヘンプの栽培を命じた。

1600 オランダがヘンプの貿易で「ゴールデン・エイジ」を謳歌。探検家が北アメリカで野生のヘンプを発見した。
1606 イギリスが、海運帝国発展のためにカナダへカナビスを持ち込んだ。
1611 イギリスがバージニアでもカナビスを栽培。
1619 バージニア植民地ではヘンプ栽培が強制され、多くの植民地がこれに続いた。ヨーロッパはヘンプ栽培奨励金を出した。
1621 憂うつ病の研究で、症状にはカナビスが治療が有効と発表された。
1631 アメリカの植民地全域ではヘンプが通貨として通用した。
1632 ピリグリム・ファーザーズがニュー・イングランドにカナビスを持ち込んだ。
1637 コネチカット・ハートホードの行政当局は、全家族にスプーン一杯のカナビスの種を蒔くことを命じた。
1639 マサチューセッツの行政当局もこれに続いた。

1753 植物学者リンネによって、カナビス・サティバの植物学上の分類が定められた。
1763 新しく作成された英語の辞書に、カナビスの根が皮膚の炎症を和らげると書かれている。
1776 アメリカ独立宣言の草案はヘンプ紙に書かれた。
1791 ワシントン大統領はヘンプを国内の産業に育てることに力を注いだ。「インド麻の種をすべて自給せよ」(Library of USA Congress 1794 vol. 33 p.270)。 ジェファーソン大統領はヘンプの必要性を説き、農民はタバコに代えてヘンプを栽培するように力説した。

1800 コットン用の綿繰り機はヘンプよりも安価な繊維製品を作り出すようになった。ナポレオンは、エジプトで、自分の兵隊たちにカナビスを使わないように命じたが、ほとんど効果はなかった。
1835 フランスでハシシ・クラブが設立。
1839 ホメオパシー関連雑誌(American Provers' Union)が、アメリカで初めてカナビスの酩酊効果を報告。
1840 「ものごとを禁止しても、その理由になった範囲を超えて適応してしまうと、法を通じて人間の欲望をコントロールするようになってしまう。その結果、本来犯罪でないものまで犯罪にしてしまう。無節操に禁止すれば、政府がこれまで築いてきた原則そのものに打撃を与える。」 アブラハム・リンカーン(1840.12)
1841 WB・オシャネッシー博士が、「インディアン・ヘンプ(ガンジャ)の調合について」 という論文で、カナビスの科学的探求の道を西欧にもたらした。
1845 精神分析医で近代精神薬理学と精神病治療を考え出したジャック・ジョセフ・モローは、カナビスの身体・精神効果について文書を残している。

1850 石油化学工業の時代が始まった。毒性のある亜硫酸塩と塩素を使って木から紙が作られた。帆船が蒸気船に換わり、熱帯地方の繊維が広まった。アメリカ国勢調査の結果には、2000エーカー以上のヘンプ農場が8327カ所あると記録されている。
1854 バヤード・テイラーが 「ハシシの素晴らしい情景(Visions of Hashish)」 というエッセイを書いた。
1857 フリッツ・ヒュー・ラドローが 「ハシシ・イーター」 を出版。
1857 エジンバラのスミス兄弟社がカナビス・インディーカ抽出液の販売を始める。
1860 政府の委員会が主催する、初のカナビスとハシシに関する研究がオハイオ州医学会によって行われた。カナビスを有用とした疾病には、神経痛、神経性リウマチ、躁病、百日咳、喘息、慢性気管支炎、けいれん、てんかん、乳児痙攣、しびれ、子宮出血、月経困難症、ヒステリー、アルコール中毒症、食欲減退、などが掲載されている。
1868 エジプトの君主がカナビスの所持を死刑にした。
1869 AC・キメンス 「ハシシ物語」。
1870 カナビスが医薬品としてアメリカ薬局方に掲載された。
1870 南アフリカで、インド人労働者のあいだでのカナビス使用が問題となり、インド人のカナビス喫煙、使用、所持が禁止された。
1876 アメリカ独立100年博覧会でハシシが振る舞われた。
1877 トルコのスルタンがカナビスを違法にしたが、ほとんど効果はなかった。
1894 イギリスのインド・ヘンプ調査委員会が、インドでカナビスの習慣について大規模調査を実施し、悪影響はないとして禁止には強く反対した。
1895 メキシコ・ソノラ村の住民たちのあいだで 「マリファナ」 という言葉が使われていることがはじめて知られるようになった。

1909 アヘンについて討論する目的でドラッグに関する最初の国際会議が上海で開催された。アメリカは、非医学目的でのアヘンの売買について禁止する法案を採択した。
1910 ニューオルリンズのジャズクラブでアフィリカ系アメリカ人が 「reefer」 を使っており、白人に影響を与えていると書かれている。メキシコ人がテキサスでマリファナを吸っているとう記事もある。
1911 サンフランシスコではヒンズー系の人たちがガンジャを使っていると書かれている。
1911 南アフリカではカナビスが禁止された。
1912 ビクター・ロルソン 「ハシーシについて」。 アメリカで、はじめてカナビスを規制しようという動きがでてきた。
1912 第2回ドラッグ会議がハーグで開催され、46カ国が集まりアヘン、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、カナビスについて話し合いが行われた。アヘンなどのドラッグを抑制することを盛ったハーグ協定が採択され、医学または法で認めた場合にのみアヘン、ヘロイン、モルヒネ、コカインの製造・販売・使用を制限することを各国に求めた。しかし、カナビスはそこには含まれなかった。 (From Mandeson, D. From Mr Sin to Mr Big, A history of Australian Drug Laws, Oxford University Press Melbourne 1995)
1912 第1回のアヘン会議で、国際的にカナビスを禁止しようという議論がでてきた。
1915 ユタ州に続いてカリフォルニア州でもカナビスが違法になった。アメリカ連邦はコカインを禁止した。
1916 アメリカ農務省公報404では、木材パルプでかえてヘンプの生産を拡大する新しい計画を呼びかけた。
1919 テキサス州でもカナビスが違法になった。

1920 清教徒(ピューリタン)の影響が強かったアメリカではアルコールに対する強い批判があり、このころまでに18州で禁止されていたが、連邦法で禁酒法が成立し全国的に禁止するようになった。だが、ほとんどの州でカナビスはまだ合法だった。
1920 デュポン社が石油化学への取り組みを開始。ギャングがアルコール産業を支配し、殺人が急激に増加した。
1923 南アフリカが、炭坑労働者の労働意欲が低下するとして、国際的なカナビスの規制を国際連盟に訴えた。イギリスはさらなる調査の必要性を強調。
1923 ルイジアナ、ネバダ、オレゴンの各州がカナビスを違法にした。
1924 第2回アヘン会議で、エジプトがハシシの使用に関連して深刻な問題が起こっているとして、国際的な規制を早急に行うように提案した。分科会ではエジプトとトルコの主張を聴取して、カナビスが麻薬であると宣言された。
1924 ラマルクによって、カナビス・ルデラリスが新らたな品種として分類に加えられた。
1927 ニューヨク州がカナビスを違法にした。
1928 イギリスの危険ドラッグ法1925が9月28日に発効し、カナビスが違法になった。
1929 パナマ運河地区調査報告書は、カナビスの使用には習慣性や害があるという証拠がないという結論を出し、カナビスの使用や売買を禁止すべきではないと勧告した。
1929 アメリカ南西部の州が、メキシコ移民の追い出し策の一環としてカナビスを違法にした。
1929 10月24日、暗黒の木曜日(ブラック・サースデイ)、世界大恐慌発生。

1930 ヘンリー・フォードはヘンプで塗装しヘンプ燃料で動く自動車を開発した。ヘンプを紙やプラスチックにするために、自動的に植物をほぐして繊維やパルプする機械が開発された。ニューヨークには1200軒のハシシ・バーが営業していた。人種差別主義者たちは、メキシコやアジアやアフリカ系住民を恐れ、カナビスを違法にするように強く主張した。
1930's 30年代を通じて、ヘンプ収穫用の新しい農業機械が次々と開発された。
1930 ロスアンジェルスで、ルイ・アームストロングがカナビス所持で逮捕された。
1931 アメリカ連邦麻薬局がアンスリンジャーを局長として設立された。この時までに全米で29州がカナビスの非医学目的での使用を禁じていた。
1933 F・ルーズヴェルト新大統領がニューディール政策開始。大恐慌収束へ。
1933 密造酒による社会混乱と税収確保のため禁酒法が廃止された。禁酒法時代は13年10ヶ月間続いた。
1934 アンスリンジャーは、禁酒法取締りの中心だったFBIとの会合でリーファーと関連づけて 「縮れ毛のニガー」 を連発した。
1936 南西部の諸州がカナビスを取り締まるようにFBIに要請した。
1937 アンスリンジャーは、人類に知られているドラッグの中でマリファナが最も暴力を引き起こすと議会で証言。全米医学協会が異議を申し立てたが無視された。マリファナ税法が4月に歳入委員会にかけられ12月に通過した。これによって産業・医学用のカナビスも課税対象となり、植物の花部は麻薬として扱われることになった。

当時はまだ、カナビス医薬品が薬局方に登録されていたので1オンス1ドルの課税となった。だが、当時は、1ドル以下の商品がほとんどだったので、大半が商業的には成り立たず販売を止めてしまった。また、鳥のえさやロープ、糸などは課税対象から外された。

マリファナ税法は、自動小銃通商法をベースにしたもので、政府のスタンプなしでの自動小銃の通商を違法にした上で、実際にはスタンプを発行しないというやり方をマリファナにも応用したもの。つまり、マリファナ自体は違法ではないものの、連邦政府のスタンプのないマリファナの売買には1オアンスあたり100ドルという実質的に支払い不能な罰金を科すことで、憲法上の権利を侵害することなしにヘンプを禁止した。
1937 デュポン社が、カナビスの禁止法によってもたらされた機会に合わせて、ナイロンとプラスティックの製造技術、紙の漂白技術で特許を取得した。
1939 ニューヨーク市長の要請でラ・ガーディア調査委員会が発足。

1941 カナビスがアメリカ薬局方から抹消された。
1941 ヘンリー・フォードがヘンプで車体を作りヘンプ燃料で自動車を走らせた。
1943 戦時のヘンプ不足で農民にヘンプの栽培を奨励した。Hemp for Victory
1943 US軍医マガジンが、カナビスの喫煙はタバコよりも害がないと主張。
1944 ニューヨーク医学アカデミーは、マリファナの使用が暴力行為、精神症、性的異常を引き起こすことはなく、アヘンの使用を促すこともないと報告している。これに対して、アンスリンジャーは著者を危険で物知らずだと罵った。
1944 ニューヨーク市長ラ・ガルーディア報告。ニューヨーク市におけるマリファナ問題について、マリファナの喫煙は医学的にみて性的異常を引き起こすようなことはなく、青少年の非行もマリファナの喫煙とは関係が薄く、ニューヨークがマリファナで壊滅的な打撃を受けているというマスコミの主張を裏付けるものはない、と結論を出した。
1944 アンスリンジャーは、カナビスの研究をする医者は投獄すると脅した。
1945 ニュースウイーク誌はアメリカのカナビス使用者が10万人を超えたと書いている。
1948 共産主義の浸透に対抗するマッカーシズムの嵐のなかで、追求を受けたアンスリンジャーは、今度は、カナビスがユーザーを非暴力にして国家のために戦う意欲を失わせるから禁止しておくべきだと弁解した。
1948 国連が世界人権宣言を発表。
1948 ハイウッド俳優のロバート・ミッチャムがカナビスで逮捕された。

1951 国連の薬物広報では、世界中で200万人がカナビスを使っていると報告している。
1952 イギリス、ロンドンのクラブでカナビスによる初の逮捕者。
1955 アメリカで再び農家のヘンプ栽培が違法となった。

1960 ヒッピーやベトナム帰還兵、ポップ・ファンの間にカナビスが流行。
1961 国連406ドラッグ単一協定が世界各国に、カナビスの使用・栽培を違法化して、30年以内(1991年までに)にカナビス喫煙を根絶するように求めた。アメリカ代表はアンスリンジャー。
1962 ケネディ大統領がアンスリンジャーを更迭。ケネディは戦争で負傷した背中の痛みの緩和にカナビスを使っていた。
1963 ケネディ暗殺。
1964 テリン・ブラザーズがアメリカ初のヘッド・ショップをオープン。
1964 イスラエルで、THC(テトラヒドロ・カナビノール)の単離に初めて成功。

1966 ドノバンが、イギリスの著名人としては初めてカナビスの手入れを受けた。
1967 イギリスのソーマ・タイムス誌がカナビスの合法化の請願書を作成。ビートルズも署名に加わり、ハイド・パークでは3000人のスモーク・インが行われた。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズやミック・ジャガーが逮捕され投獄された。こうした弾圧に対してタイム誌は 「誰が車輪まで持出して蝶を殺したのか?(Who breaks a butterfly on a wheel?)」 という社説を掲げた。この年にイギリスでは2393人がカナビス事犯で逮捕された。
1967 アメリカでは、アビー・フォフマンとイッピーたちが無作為で全国に3000本のジョイントを郵送した。
1968 ジョン・レノンがカナビス所持で逮捕された。
1968 イギリス政府の諮問していた委員会がウットン・レポートを発表し、カナビスの所持は罰すべきではないという勧告を提出した。「利用できるすべての資料を検討したが、インド・ヘンプ委員会報告(1893-94)やニューヨーク市長委員会(1944 - LaGuardia)が出した、カナビスを長期使用しても適度なら害はない、という結論に全員一致で賛成した。」
1968 ベトナムのアメリカ兵のカナビス喫煙を止めさせるキャンペーンが行われたが、その結果ヘロインが使われるようになった。
1969 イギリス労働党のジェームス・キャラハン内務大臣はウットン・レポートを拒否し認めなかった。
1969 ジョージ・ハリソンがカナビスで逮捕された。

1970 違法にもかかわらず、カナビスの一般の使用が広く受け入れられるようになった。非犯罪化政策の要求がアメリカやイギリスに広まった。
1970 カナダのレ・ダイン報告が、マリファナの個人所持の合法化を真剣に論じるように勧告を出した。その中で、カナビスを使用すると、自信が芽生え、想像力や知覚が増し、集中力や自己容認を促すが、緊張や敵意や攻撃性を弱める、精神的な依存性はあるようだが身体的な依存性はない、として、所持禁止法は廃止すべきだと勧告している。
1970 アメリカでキース・ストロウプがNORML(マリファナ法改革のための全国組織)を設立。
1970 裁判で、アメリカのマリファナ税法は憲法違反であると宣告された。

1971 イギリスではドラッグ乱用法でカナビスを刑罰の重いB区分のドラッグとして分類した。この分類でカナビスの医学使用も禁じられ、ウットン・レポートは無視された。
1971 幻覚剤に関する国連協定が制定された。

1972 アメリカ大統領リチャード・ニクソンが 「私はマリファナの合法化には反対」 と宣言。
1972 オランダのバン委員会が保健相に、250グラム以下のカナビスの売買を軽犯罪扱いすべきだと勧告した。

1973 オレゴン州がカナビスの合法化を検討。
1973 ニクソン大統領に諮問を受けたシャーファー委員会は、マリファナの個人使用は非犯罪化されるべきで、少量のカジュアルなやりとりは問題にしないように答申した。
1973 幻覚剤(向精神薬)に関する国連協定にカナビスが追加された。

1974 アメリカ上院は、マリファナとハシシの蔓延と国家の安全保障への影響に関して、カナビスの使用が脳の損傷を招き、意欲を失わせ、染色体や生殖を害する、と主張する報告書を提出した。

1975 上院の報告書に対して、アメリカの多数の医学関係者がカナビスについてはもっと研究する必要があると述べた。
1975 アラスカ州でカナビスの個人使用が合法化された。所持のリミットは1オンス(約30グラム)。
1975 イタリア・ラジカル派のリーダー、マルコ・パネーラ議員は、3年にわたりドラッグの使用に対する刑罰の撤廃を求め続けてきたが、ついにはジョイントを公然と吸って警察に逮捕するように強要した。
1975 ジャマイカの研究で、多産のカナビス・ユーザーから生まれた子供の健康状態が良好であることが明らかにされた。「生理的、感覚・知覚行動、概念形成力、抽象化能力、認知方法、記憶力のテストでは何の欠陥もみられなかった。」

1976 オランダがカナビスに対して寛容政策を採用し、コーヒーショップやユースセンターでのカナビス販売を認めた。
1976 ニューヨーク・タイムス誌は「科学者たちはマリファナに実害を見つけられなかった。」 という記事を掲載した。
1976 アメリカのフォード政権はカナビスの医学研究に政府の資金を使うことを禁止し、合成カナビノイドの研究だけを続けることを認めた。
1976 フォード政権のチーフ・ドラッグ・アドバイサー、ロバート・デュポンは、カナビスがアルコールやタバコよりも害が少ないとして非犯罪化を提言。
1976 ロバート・ランダルが、治験薬の適用免除プログラム(Investigational New Drug (IND) Program)の一環として、初めて連邦政府からカナビスを支給されたアメリカ市民になった。

1977 カーター大統領は、カナビスが合法化されるべきだという意向を示した。
1977 オーストラリアの上院社会福祉常任委員会(ボーム委員会)は、ドラッグを法律問題ではなく社会・医療問題として扱うようにし、また、ハシシやオイルや純粋のTHCを除く通常のカナビス所持の刑罰は罰金までにすべきだ、と勧告した。

1978 ニューメキシコ州が医療用カナビスの売買を認可。
1978 ドラッグに関するニューサウスウエールズ州の両院協議会は、カナビスの不法取引の刑罰はそのまま維持するが、個人使用の刑罰を軽減して、初犯に対しては保釈金と保護観察処分で、それも無事期間を終えれば記録から抹消する、ことを勧告している。

1980 日本入国に際して、ポール・マッカートニーがカナビスで逮捕され10日間拘留された。
1980 コスタリカでの研究で、カナビス・ユーザーの健康に問題がないことが報告された。
1980 5月10日、ハイド・パークでスモーキー・ベア開催。

1981 エジプトのコプト人に対する調査で、カナビスの使用は「人間の脳や知能に何ら害はない」と発表した。
1982 マリファナ政策分析に関するアメリカ科学アカデミーの研究班が、「供給の禁止政策だけにしたほうが、供給と使用の両方を禁止するよりも好ましい。」という結論を発表した。

1983 レーガンおよびブッシュ政権は、アメリカの大学に対して、1966年から76年の間に行われたカナビスに関する研究をすべて破棄するように命じた。
1983 イギリスにおけるこの一年間のカナビス所持逮捕者は2万人を超えた。

1985 マサチュセッツ大学のウインターズとディフランザが、肺癌の半数がタバコの放射性物質が原因で起こると発表した。カナビスには放射性物質は含まれていない。

1986 イギリスでドラッグ密輸犯罪法が施行され、ドラッグ・ディーラーの財産の没収ができるようになった。

1987 アメリカのメルクマニュアル・診断と治療には、「カナビスは、たまに使うのなら、社会的・心霊的な機能障害を伴わずに連続して使うこともできる。依存性という概念は、多くのユーザーには文字通りの意味ではあてはまらない。・・・カナビスに対する反対の主な原因はモラルや政治的なものであって、薬物の毒性を根拠にしたものではない。」 と書かれている。

1988 DEA(麻薬取締局)の行政法主任判事であるヤング裁判官は、政府がカナビスの医療使用を認めるべきだと裁定し、「天然のマリファナは、治療効果をもつ物質としては人類に知られたなかでも最も安全なものの一つである。」 とした報告書を提出したが、DEA側は受け取りを拒否した。
1988 麻薬および向精神薬の不正取引防止に関する国連条約(ウイーン条約)の対象にカナビスも含まれるようになった。
1988 イギリスではこの年に2万3229人がカナビス事犯で逮捕された。

1989 レーガンとブッシュ大統領はカナビスに対する戦争を宣言。喫煙器具の販売店の禁止、尿テストの導入、州の再犯罪化の推進、資産・財産の没収、武力を使った強制執行、刑務所増設。「Just Say No」キャンペーンが繰り広げられ、PDFA(Partnership for a Drug Free America)やDARE(Drug Abuse Resistance Education)、タバコ産業、核産業へ補助金を支給した。

カナビスの価格は金よりも上昇し、世界的な禁止運動によって、犯罪組織はカナビスの市場をコントロールするようになり、組織には巨大な利益がもたらされた。レーガンはドラッグ戦争の勝利を宣言したが、国務長官のジェームス・ベイカーは、麻薬生産に対する世界戦争に 「勝利していないことは明らか」 と報告している。

1990 ジャック・ヘラーが自書 「裸の王様(The Emperor Wears No Clothes)」 の中で、ヘンプで地球は救われる、という彼の主張を論駁した人には10万ドルを進呈する、と宣言。
1990 アラスカ州が再びカナビス所持を違法にした。
1990's 90年代を通じて、アメリカの有権者は地元の住民投票などでカナビスの医療使用を認める判断を下した。こうした関心やヘンプの産業利用などが、カナビスの一般の余暇利用の法的権利を求めるキャンペーンの新しい柱に加わった。

1991 脳内でTHCレセプターが発見された。
1991 ミスター・マリファナこと ハワード・マークス がスペインで逮捕され、アメリカに移送された。カナビス密輸の罪で25年の禁固刑が言い渡された。
1991 イギリスのピックル判事がドラッグの合法化を提唱。
1991 イギリスのトニー・バンクス議員(労働党)がカナビスの合法化を提唱。
1991 イギリスで4万人がカナビスで逮捕された。

1992 カリフォルニア州学術研究審議会が、禁止法は違法ドラッグ使用の直接の害よりも、社会や個人に対してもっと悪い影響を及ぼしている、と指摘。
1992 イギリス政府が、カナビスの産業および科学研究用途の栽培を認めるライセンスの発行計画を発表。
1992 エコノミスト誌。「医薬品にはしばしば身体に不快な副作用がある。カナビスにも不快な副作用があるが、それは身体的なものではなく政治的なものからきている。」
1992 オーストラリアで産業用ヘンプの栽培が認められた。
1992 アメリカで、カナビスに対する治験薬の適用免除プログラム(Investigational New Drug (IND) Program)が打ち切られた。
1992 アメリカ大統領クリントンは、カナビスを吸ったが吸い込んではいないと釈明。ハワード・マークスは、カナビスを吸ったが吐き出したことはない、と陳述。
1992 ヨーロッパ17都市が、一般のカナビス使用を容認するフランクフルト・チャーターに合意した。
1992 オクラホマ州で、下半身不随でけいれんの緩和のためにカナビスを吸っていたジム・モンゴメリーが手入れを受け、マリファナ2オンス(約60グラム)所持の罪で逮捕され、終身刑プラス16年の刑を言い渡された。
1992 アメリカではこの年に34万人がカナビスで逮捕された。

1993 イギリスの産業用ヘンプ栽培の規制緩和で、ヘンプコア社がライセンス取得第一号となる。ロンドンのハイストリートの店でヘンプ衣料品を販売。
1993 メトロポリタン警察のジョン・グリーブ署長がカナビスの非犯罪化を提唱。
1993 インターポールのレイモンド・ケンドール長官がカナビスの非犯罪化を提唱。
1993 イギリスの上訴院判事ウールフ卿がカナビスの合法化を提唱した。
1993 ドイツ最高裁はカナビスの禁止法は憲法違反と裁定した。
1993 イギリスの国会議員19人がドイツドイツ最高裁の裁定を歓迎すると表明。
1993 イギリスの国会議員55人が、多発性硬化症の治療にカナビスを利用することを認めるように主張した。
1993 イギリスのマイケル・ハワード内務相(保守党)が「ドラッグ戦争」を宣言。カナビス所持の最高刑を2500ポンドに引き上げた。
1993 カナダがオンタリオ州で産業用ヘンプの栽培を認めた。
1993 イギリスでこの年に7万2000人がカナビス事犯で逮捕された。

1995 オランダが周辺諸国からの圧力で、カナビス所持で起訴しない限度量を30グラムまでから5グラムまでに減らした。
1995 イギリスのテレビ、チャンネル4が「Pot Night」、BBCが「Panorama's High Risk」を放送。
1995 イギリス下院議員44人がカナビスに関する王立委員会の設置を主張した。
1995 クラレ・ショート議員(労働党)が、カナビスに関する王立委員会の設置を主張したことで党首から叱責された。
1995 アムステルダムでヨーロッパ・カナビス・コンシューナー・ユニオンが発足。
1995 カリフォルニア州で、デニス・ペロンが医療患者のためにカナビス・バイヤーズ・クラブを設立。1年でDEA(麻薬取締局)に強制閉鎖された。
1995 政治ガイドラインを定めるヨーロッパ協議会が、ドラッグの合法化と実施方法について研究することを要請した。
1995 第一回のCHIC (Cannabis Hemp Information Club) カンファレンスがロンドンで開催された。
1995 イギリスの医学専門誌ランセット11月号が「カナビスの喫煙は、たとえ長期にわたっても健康の害にならない。」と発表した。
1995 オランダ、健康・福祉・スポーツ省が、「オランダのドラッグ政策、継続すべきもの、変更すべきもの」という政策を発表。「この20年以上にわたるオランダのドラッグ政策は成功だった。」
1995 フランスのヘリオン・ドラッグ政策諮問委員会が、カナビスの非犯罪化を支持し、2年間の小売販売の試験導入を提案したが、政府はこれを拒否した。
1995 クリントン政権下で、145万751人がカナビスで逮捕された。その内86%が単純所持。

1996 オーストラリア・ビクトリア州議会がカナビスの非犯罪化について検討。
1996 5月、ロンドンで「種を蒔く日(Sow the Seeds Day)」集会開催。CLCIAが次の総選挙に候補を立てることを発表した。
1996 イギリスの自由民主党がカナビスに関する王立委員会の設立を主張した。
1996 イギリスのマクラスキー上院議員がカナビスの非犯罪化を検討するように提案。
1996 薬物依存研究所がカナビスについての見解を発表。「 明確に断言できることは、1) カナビスの使用は一般に他のドラッグの使用に先行して行われる、2)  カナビスの使用は必ずしも(あるいは通常)他の違法ドラッグの使用を招かない。」
1996 イギリス・ユース・エイジェンシーのジャネット・パラスケーノ代表が、カナビスの 「非犯罪化ではなく合法化」 を主張。
1996 ジョージ・ハワース議員(労働党)が、自分の党ではカナビスに関する王立委員会の設置は望んでいないと表明し、その理由として、労働党政権ではカナビスを合法化するつもりはなくとも、委員会が合法化すべきという結論を出す可能性があることを上げた。
1996 ルクセンブルグ議会は、カナビスとその製品の自由化法案を審議し、ベルギーとオランダとともにベネルックス3国で協調していくする動議を可決した。
1996 イギリスで、禁止法58周年・カナビスの真実を知る月間(Cannabis Awareness Month、9月)開催。
1996 アイルランド共和国が、先細りするピート燃料の代替えとしてカナビスの利用を計画していると発表した。
1996 オランダ北東部の国境にある港湾都市デルフザイル市議会が市営のコーヒーショップを通じてカナビスを販売することを決議し、店の名前を 「パラドックス」 と命名。そこで得られた利益は、学校でのソフトドラッグ情報キャンペーンに使われた。一方、この年までに、ドイツやフランスの圧力で多くのコーヒーショップが閉鎖された。
1996 スイスのチューリッヒ州はカナビスの合法化を求めた。
1996 イギリス公訴局は、多発性硬化症患者のカナビス所持と栽培することを認めることを求めた訴えに対して、それによって公共の利益が増すわけではないとして棄却した。
1996 カリフォルニア州とアリゾナ州で、医療目的のカナビスを認める住民投票が採択された。カリフォルニアの215条例は、その後に続く各地の州条例のモデルとなったことでも知られている。
1996 クリントン大統領が再選され、FBIは医療カナビスを処方する医師を起訴すると脅した。
1996 モルジブで、スイス人が、バッグにカナビスの種を3粒入れてインドから密輸した罪で終身刑を言い渡された。
1996 ジャマイカ・ガンジャ合法化同盟が発足。
1996 ニュージーランドで行われた総選挙でMittertond地区の候補者が30%の得票を獲得したが、全国での得票率は1.4%で比例代表での議席は得られなかった。
1996 イタリアの国会議員100人がカナビスの合法化を主張。
1996 サンデー・タイムス誌が、イギリスの45人の裁判官のうち16人がカナビスの合法化を支持していると報道した。
1996 CLCIAのオフィスが火災で焼失。
1996 スコットランド・ナショナリスト会議で投票が行われ、カナビスの個人使用、医学研究のための栽培を認めることが採択された。
1996 オランダが 「合法化を通じたドラッグ・コントロール計画」 を発表。

1997 アメリカ・テキサス州の裁判で、医療マリファナ・ユーザーのウイリアム・フォスターが1本のカナビスを栽培していた罪で93年の禁固刑を言い渡された。
1997 スイスの2つの州が少量のカナビス所持を合法化することを決め、政府も同じようにすることを要請した。
1997 ドイツのシュレースビッヒ・ホルステイン州が5グラム以下のカナビス所持を合法化。
1997 モルジブにカナビスの種3粒を密輸した罪で終身刑を受けていたスイス人が、スイス政府とCLCIAのサポーターたちの嘆願で解放された。
1997 アメリカで200万ドルをかけて、カナビスの喫煙と肺癌の関連を証明しようとして行われていた研究がその証拠を見い出せず、結果も公表されなかった。公表が遅れたのは 「資金がなかった」 から。
1997 アメリカで、ポール・フライン議員が、審議される見込みのないにもかかわらず(Early Day Motion)、医療マリファナの使用を認めて錠剤を利用できるようにしようという議員動議を提出し、カリフォルニアとアリゾナの市民に喝采を浴びた。
1997 アメリカで、国家医薬品政策局長バリー・マカフェリーに率いられた政府当局者が、カリフォルニアとアリゾナで医療カナビスの供給を妨害し、処方した医者は起訴すると脅した。
1997 CLCIAの後援をうけたイギリス・カナビス合法化党が、総選挙の議員候補としてハワード・マークスを指名した。彼は出馬した4選挙区で平均1.3%の得票を獲得した。
1997 イギリスの総選挙で労働党政権が誕生。トニー・ブレア首相はカナビスを合法化するつもりはないと表明。
1997 スコットランド教会はカナビスの合法化を支持していることを明らかにした。
1997 アメリカ海軍が、ハワイでマリファナ畑を潰すために、住民の反対を押し切ってヘリコプターから除草剤パラコートを散布した。
1997 アメリカ・カイザー保険社の研究 「マリファナの使用とモラルの問題」 が発表され(American Journal of Public Health)、「人間の長期にわたるカナビスの使用が臨床的に悪影響を及ぼすという報告はほとんどない。しかしながら、マリファナ使用を犯罪とすること自体がユーザーを暴力や犯罪行動に追いやり、健康を損ねる結果を招いている。」 と結論を出した。
1997 カリフォルニア大学医学部の研究者たちが8年をかけてカナビスの長期使用の肺への影響を調べた研究が発表された。その中でタシュキン博士は次のように書いている。

「ヘビーで常習的なマリファナ・スモーカーに対する長期にわたる追跡調査から明らかになったことは、ヘビーなマリファナの喫煙が肺疾患の顕著なリスク要因になるという従来の説を覆すものだった。長期連続あるいは断続的にマリファナを吸っていたスモーカーのいずれにおいても、全くマリファナを吸わない人に比較して肺機能の低下には目立った違いは見られなかった。」 結論とすれば、「例え極めてヘビーなマリファナ・スモーカーであっても、マリファナのノンスモカーと何ら差は生じない。」
1997-07 イギリス医学会が医療カナビスの法律を作ることを提唱。
1997-07 オーストラリア法務長官兼労使関係大臣のJW・シャウが、若年のカナビス事犯者に禁固刑を科すことを止めると発表した。「私は、多くの親が、カナビスを使っただけで息子や娘が投獄されることが子供の将来にとって著しく害になると思っていると信じている。」
1997-07 オーストラリアのシドニー・モーニング・ヘラルド誌は、「ニュー・サウス・ウェルズ州の伝統的保守系選挙民の調査では、圧倒的多数のコミュニティがカナビスの非犯罪化を支持している。」 と伝えた。これにあわせて、州では、植物5本、バッズ30グラム、ハシシ3グラム、ハシシ・オイル2グラムまでのカナビス所持を非犯罪化した。
1997-08 イギリス・ボルトンで5歳になる男子がドラッグ争いに巻き込まれて射殺された事件をうけて、ブライアン・アイドン議員(労働党)がドラッグに関する王立委員会を設置し、非犯罪化を検討するように提案した。日刊紙サンが行った世論調査では40%以上の人が非犯罪化に前向きな姿勢を示した。しかし、内務大臣の広報官ジョージ・ハワースは、ラジオ4のニュースで、カナビスには害があり、労働党政権とすれば合法化の話し合いをするつもりはなく、唯一の解決策は根絶しかない、と述べた。
1997-08 カナビス合法化を掲げるイタリア急進党のマルコ・パネーラが、ローマの青空市ポルタ・ポルテーゼで公然とハシシを配布し、8ヶ月の保護観察猶予付き4ヶ月の禁固刑を受けた。
1997-09 元ビートルズのサー・ポール・マッカートニーがカナビスの非犯罪化を再び訴えた。
1997-09 イギリスの新聞・インデペンデント日曜版が、著名人や医者や学者など100人以上の支援を受けて精力的なカナビスの非犯罪化キャンペーンを開始した。
1997-09 イギリスのノリッジで、不毛な禁止法を追悼する集会が開催され、参加者100人以上がテレビカメラの前で公然とジョイントを吸って危険薬物禁止法69周年を振り返った。ロンドンのハイドパークでもCHIC(Cannabis Hemp Information Club)のロブ・クリストファーら300人が集まり、カナビス・ケーキを医療患者に配って警察を挑発したが逮捕されることはなかった。
1997-10 イギリスのジャック・ストロー内務大臣がカナビス合法化の考えはないと発表した同じ日に、イングランドとウエールズを統括する高等法院王座部首席裁判官(Lord Bingham of Cornhill)が、カナビスの合法化に関する公開討論を呼びかけた。
1997-11 ヨーロッパ議会の市民の自由を審議している委員会が、ソフトドラッグを合法化すべきと提言。
1997-12 フランスの公衆衛生大臣ベルナール・クシュネールが、リベラシオン誌のインタビューで、深刻なヘロイン中毒に苦しむ人にヘロインを支給することに前向きな姿勢を示し、また、カナビスの医療への利用についても支持を表明した。
1997-12 インデペンデント日曜版が、ロンドンで「カナビスを非犯罪化すべきか?」というコンファレンスを開催。国会議員全員に招待状をだしたが、出席したのは5人だけだった。コンファレンスは圧倒的多数でカナビスの合法化を支持した。
1997-12 アメリカの麻薬取締局(DEA)が保健社会福祉省に対して正式に、マリファナ等のカナビノイド・ドラッグに関する 「科学的・医学的なデータ評価と規制薬物法分類の適応区分についての勧告」 を求めた。このことは、麻薬取締局が初めて、マリファナを規制薬物法分類1表がら取り除く十分な根拠をもとに自らの決定をしようとしていると受け止められた。分類1表とは、医学的価値のない中毒性のハードドラッグ類を規定した一覧表のこと。
1997-12 イギリス内務大臣ジャック・ストロー(労働党)は、デイリーミラー誌から、レポーターのダン・アルフレッドが大臣の息子ウイリアムからカナビスを10ポンドで売ってもらったと告げられ、直ちに息子を連れて警察に出向いた。数週間後、息子は警察から警告を受けた。

1998-03 スペインのマドリッドの国際カナビス・シンポジウムで、ヨーロッパとアメリカの科学者たちが医療カナビスを擁護し、フンダシオン・ラモン・アルセス出版社に本部を置いた。彼らによれは、カナビスは癌や多発性硬化症の治療に有効で中毒性もない。
1998-03 オーストラリア・ビクトリア州警視総監ニール・コムリーが、ドラッグに対する戦いは破綻しており、州はドラッグ・ユーザーを裁判にまでしないようにする大胆な計画を導入すべきだと提唱した。
1998-03 保守党のデビッド・プライアー議員は、カナビス喫煙を認めたイギリスで3人目の議員になったが、合法化には反対した。
1998-03 フランスで100人以上の芸術家や知識人がソフトドラッグを認めるように嘆願書に署名し、自ら吸って起訴するように要求した。
1998-03 イギリスで、インデペンデント日曜版やCLCIAなどが中心になって組織したカナビス非犯罪化マーチが開催され、2万人がハイドパークからトラファルガー広場まで行進した。広場で演説した人の中には、ハワード・マークスロジー・ボイコット、ポール・フライン議員、キャロライン・クーンなどの姿も見られた。
1998-03 ジョン・ホプキン裁判官は、肝臓移植を受けて痛みの緩和のためにカナビスを栽培したことを認めたた患者に対してそれを容認する判決を下した。「私には、大変な痛みをやわらげるためにカナビスを栽培していた理由が理解できます。現在のところこうした見解は法に反してはいますが、本被告の場合はそれに見合うだけの酌量余地があります。」

ノッチンガムの刑事裁判所の裁判官は、6人の子供を持つリチヤード・ギフォード(49)に対してカナビスの栽培と所持で2年の保護観察付き有罪判決を下し、「この物質が処方箋で入手できるようにすべきかは議会が決めることだが、これまで自分が関与した多くの裁判で多くの人にとって有益であるとの印象を持っている。」 と述べた。

ジャック・ストロー内務大臣の議会秘書官パディ・ティピングは、政府としてはカナビスを非犯罪化する計画はなく、「ポプキン裁判官のように医療価値があることを認める人もいますが、それを積極的に示唆した研究は今までありません。」 と語った。

以上、イギリス・タイムス誌。
1998-04 チェコ共和国発ロイター。バツラフ・ハベル大統領は、人権との関係で個人使用目的のドラッグ所持の禁止法に対して拒否権を行使し、議会に送り返した。「大統領は、この法が犯罪者とは言えない起訴の犠牲者を増やすだけだという意見に至った」 と広報官のラジスラフ・スペイシクは語った。ドラッグの専門家は、このような法は犯罪の増加とドラッグ価格の高騰を招き、中毒から立ち直ろうとする人の意欲を減退させるものだと警告していた。
1998-04 イギリス・チェシャー州で、多発性硬化症の妻のためにカナビスを栽培していた男性が栽培・供給目的栽培・供給の罪に問われていたが、陪審は過半数で無罪の評決を出した。この男性はタクシー・ドライバーのアラン・ブライズさん(52)で、「状況選択余地のない罪の抗弁(defence of duress of circumstances)」 を使い、ウォリントン刑事裁判所の陪審がそれを受け入れたもの。

裁判では、彼は、妻ジュディスさん(48)のためにカナビスを栽培して与えていたのは、それ無しでは多発性硬化症の急性の痛みに耐えかねて妻が自殺する恐れがあったからだ、と訴えた。裁判官は陪審に対して、それでも栽培の罪には抗弁は成り立たないと注意したが、陪審は無視した。しかし所持に関しては忠告を受け入れ、結局、100ポントの罰金が科せられた。
1998-04 ベルギーでは、司法相の決定で公式にカナビスが非犯罪化が行われ、個人的使用と所持では起訴されないことになった。
1998-04 アメリカ・サンフランシスコの医療マリファナ・クラブが裁判所の命令で閉鎖されたが、翌日にはオーナーと店の名前を変えて再オープンした。
1998 イタリアが、カナビスの所持と自家用の少量栽培を認める非犯罪化を行った。
1998 イギリス・ノリッジの地方選挙でカナビス合法化同盟のダニー・タンゲートが7.8%を獲得した。
1998-06 イギリス政府は、GW製薬のゲオフェリー・ガイ博士に対して、医学臨床研究目的でカナビスを栽培・所持するライセンスを与えた。イギリス南東部にある秘密栽培場は、電気フェンスと監視カメラ、見張りの犬で守られる。
1998 アメリカの連邦当局は、カナビスを薦めたカリフォルニアの医師を脅迫・逮捕し、州内の多くの医療マリファナ・クラブを強制閉鎖してきたが、オークランド市は連邦法を回避するために、医療マリファナの供給者を市の代理人と定めて逮捕されないようにする措置を取った。
1998-03 ドイツ医療カナビス学会によると、ベルリンの 「医療カナビス自助会」 が集めた3万人の署名がベルリン市議会に提出され、すべての会派がこの問題の討論に加わり満場一致で支持を表明した。署名は現在も続いており、既に集めた3万人分とあわせてドイツ中央政府の嘆願書委員会に提出されることになっている。
1998-06 カナビス栽培で裁判にかけられていたイギリスのコリン・デビスが、陪審に、脊髄損傷の痛みを緩和する医療的必要性を訴えて無罪を獲得した。裁判官は陪審たちに法の規定と証拠だけ判断するように求めていたが、陪審は従わなかった。
1998 クリス・ロウリーが代表をつとめるイギリス・ウエールズのグループが、ジャック・ストロー内務相、トニー・ブレア首相、 ビンガム卿刑事裁判所裁判官、テンビー判事を、カナビスの禁止を支持して人間性・平和を脅かしている罪および子供に対する罪で公訴する手続きの一環として告発状を発表した。
1998-09 ロンドンでリンデスミス・センターが主催するシンポジウム「21世紀の規制オプション」が開催され、世界中から専門家が集まった。
1998-10 イギリス・ノリッジの裁判でカナビスを危険なものとした裁判官に、CLCIAの代表が公開書簡でその根拠を求めた。 回答では、根拠は科学的なものではなく法律によるものだった。
1998-11 イギリス上院は、現在利用できる証拠をもとに、余暇用途の合法化は認めないものの、猶予のない患者にカナビスを利用できるようにする内容の報告書を作成して政府に提出した。ジャック・ストロー内務相は直ちにこれを拒否し、適切な基準を満たした医薬品のテストが終了しない限りカナビスを利用できるようにはしない、と述べた。
1998-11 ランセット誌編集局、「現在利用できる証拠によれば、カナビスの適度の酔いは健康に過度の悪影響はない。われわれの見解とすれば、カナビスの禁止あるいは合法化の決定にあたっては、健康問題は考慮の対象外にすべきだ。」
1998-12 イギリスのチャールス皇太子は、多発性硬化症患者を前に、カナビスが役に立つと聞いています、と語った。

1999-01 アメリカ・カリフォルニアの医療カナビス運動家スティーブ・クビーと妻が、共謀してカナビスの売買のために栽培・所持していたとして逮捕された。彼は自身も医療カナビス患者で、アメリカ自由党の候補として知事選挙に出たことでも知られている。
1999-02 イギリス・西ウエールズで関節炎に苦しむ男性(55)が痛みの緩和のためにカナビスを利用していて逮捕された。スウォンジ刑事裁判所の裁判官は、カナビスを使用する前に十分に合法的な治療を受けていなかったとして懲役1年の刑を言い渡した。
1999-03 アメリカ・アラスカ州で医療マリファナ法が発効した。先の住民投票で約60%の支持を得て条例化されたもので、癌、エイズ、緑内障、慢性疼痛、けいれんの発作なとの患者は、医師の推薦があればカナビスの少量の栽培が認められる。
1999-03 アメリカ連邦裁判所の裁判官が、マリファナの医療使用の合法化を求める告訴を棄却せず、原告に、「政府が深刻な病人のカナビス使用を拒絶する理由を持っていない」 ことを証明する機会を与えることには意味があるとして訴訟を認めた。司法省側はマリファナが違法であることを拒絶理由として上げているが、原告165人を代表する弁護士は、医学研究で緑内障や癌・エイズの化学療法に伴う吐き気などに有効であることが示されている、と主張している。
1999-03 アメリカ政府が諮問していた委員会は、カナビス の活性成分が痛みや吐き気、エイズの深刻な体重減少などの治療に役に立つと報告した。カナビスに関する医学文献を最も総合的に分析したこの報告書のよれば、病人にカナビスを与えても一般の違法な使用を助長するという証拠はなく、ゲイトウエイとして病人をコカインやヘロインなどのハードドラッグ導くことはない、としている。
1999-03 ドイツの保健相は、カナビスの一般使用は別としながらも、医療目的に利用することには支持を表明。
1999-03 カナダ・トロント大学の研究で、マリファナ喫煙中のドライバーはアルコールほど運転能力が低下しないことが示された。
1999-03 イギリスのカナビス合法化同盟 LCA(Legalise Cannabis Alliance) が正式に政治団体として発足し、次の地方選挙に候補を立てることを表明した。
1999-04 アメリカの農家がヘンプ栽培を合法化するようにロビー活動。
1999-04 スイス政府が諮問していた委員会が、カナビスの禁止法は機能しておらず、むしろ禁止が若者を助長しているとして、カナビスの売買と使用を、ドラッグ天国にならないように規制した上で合法化することを勧告した。
1999-05 世界各地で多数の人が参加してマリファナ・マーチが行われた。
1999-05 イギリス地方選挙でカナビス合法化同盟 LCA(Legalise Cannabis Alliance)の候補者の平均得票率は3.5%。
1999-05 アメリカ・ネバダ州では長らく法的にはマリファナ所持が少量でも重罪という国内で最も厳しい状況が続いてきたが、実際には捕まる人はごくわずかで空文化していた。しかし、天国と地獄が同居するこうした状態を改めようと、1オンス以下の所持初犯を非犯罪化して罰金500ドル以下する法案が提出された。
1999-06 カナダ連邦政府は、カナダ史上初めて、医療目的でのカナビス栽培と利用の許可をエイズ患者2人に与えた。
1999-06 アメリカ・ケンタッキー州に、過去のヘンプの多用途な歴史を展示するミュージアムが開館した。
1999-06 ニュージランドの保健特別委員会は心の健康に対するカナビスの影響を調べてきたが、現在の政策は機能しておらず見直すことを求めた。報告によると、カナビスが統合失調症にような深刻な病気を引き起こす可能性は否定しなかったが、カナビスの適度な使用はほとんどの人に対して害にならないことがわかった、としている。
1999-06 イギリスGW製薬の合法カナビス治療薬(吸引式)の治験が開始された。
1999-06 カナダ・カルガリーの医療カナビス・クラブでは患者のためにカナビスを栽培していたが、泥棒に入られ収穫直前の植物と設備を盗まれた。クラブを運営するクリエガーは、これを立て直すために、許可を受けた患者自身に自宅で栽培してもらい、自分で使って余った分を他の患者に販売できるようにしたい、と語った。
1999-06 イギリス・スコットランドの医師グループが、カナビスの医療用途だけでなく一般の使用も合法化するように求めた。委員会のジョージ・ベンター委員長によると、これはカナビスとハードドラッグを分離するためで、違法状態のままだと、若者がどちらも同じようなドラッグだと思い、コカインやヘロインの危険性をカナビスと同程度だと誤解する恐れがあるからだと言う。
1999-06 ジャマイカの司法大臣は、経済のために、薬効成分の少ない産業用カナビスの栽培を奨励した。
1999-09 イギリス医学研究審議会は医療用カナビス錠剤のテストのために約100万ポンドを支出し、募集した多発性硬化症患者650人に対して3年間の試験を行うことを認めた。
1999-10 ジャマイカ上院は、カナビスの非犯罪化の是非を調査する委員会の設置を満場一致で可決した。調査には、医療用カナビスの合法化と、過去の少量所持で逮捕された人の犯罪歴の抹消措置についても含まれている。

2000-01 カナダ保健省は、C型肝炎の男性(43)に医療カナビスを利用する許可を与えた。この男性は雨のなか議会前で2日にわたりピケをはって許可を勝ち取った。保健省が昨年カナビスの医療利用の治験を開始して以来20人目。
2000-03 イギリスのカナビス合法化同盟 LCA(Legalise Cannabis Alliance) が初めてのカンファレンスを開催。多発性硬化症や関節炎に苦しむ人々を継続して支援していくことを表明した。
2000-03 イギリスで大きな影響力のある独立系警察財団が設立した委員会が、ハードドラッグやカナビスの量刑全般を大幅に下げるように提言した。ブレア首相は拒否したが、自由党は政府にいつもの条件反射はやめてきちんと考えるようにた申し入れ、内務相は報告書の検討を約束した。
2000-03 スイス国民議会の後で開かれた議会がカナビスの合法化支持の声明を発表した。チューリッヒとバーゼル州から提出されていた、カナビスを麻薬法から抹消する提案を認めたもので、売買に関しては政府の規制の下で行われる。
2000-03 マレーシアで18才の少年が自宅でカナビス1本を栽培し、終身刑とムチ打ち6回の刑を言い渡された。
2000-04 アフリカのマラウイで農業大臣代理をつとめるジョー・マンデゥアは、産業用カナビスの栽培を合法化するように一人キャンペーンを開始した。マラウイの外貨獲得の主役であるタバコが反タバコ運動で将来が見込めないために、ヘンプに切り替えることを提唱している。
2000-05 カナビス戦争の終結を要求してマリファナ・マーチが開催され、各国で多数が参加した。
2000-06 カナダ・バンクバーで、医療カナビス・クラブのためにカナビスを栽培していた赤十字の前責任者が最高裁で無罪になった。
2000-06 オランダの議会で、カナビスのコーヒーショップでも販売を認めながら供給を認めないというねじれた状況を解消する動議が極小政党から提出されたが、票が73対72で真っ二つに割れ、政府は対応に苦慮。
2000-07 アメリカ・カリフォルニア州オークランドの医療マリファナ・クラブが深刻な病気の患者にカナビスを配布することに対し、連邦地方裁判所は、政府が患者にカナビスを使わせない理由を明示していないとして、配布を認める判断を下した。
2000-07 カナダ・オンタリオ州控訴院は、カナビス所持を禁止した法律が憲法違反であるとの判断を下し、1年以内に法律を改正するように求めた。
2000-08 イギリス・ケネディ・リウマチ研究所のマーク・フェルドマン教授は、BBCの番組で、カナビスの成分がリウマチ関節炎の痛みに卓効があり、現在の抗関節炎薬よりも安価に供給できると考えている、と語った。
2000-08 アメリカ・カリフォルニア州の上訴裁判所が、オークランドの医療マリファナ・クラブにカナビスを医薬品として調剤しないように緊急命令を出すように求めた連邦政府の訴えを退けた。
2000-09 オランダのボースト保健省が、スイスとドイツとも協力して半年後に、カナビスに関するヨーロッパ会議を開く意向を示した。この会議では若年層のカナビスの害とともに医療カナビスについても話し合うとしている。
2000-09 アメリカ連邦地方裁判所のウイリアム・アルサップ裁判官は、医師が患者にカナビスを勧める行為は憲法に保証された権利であり、政府がそのような医師を前もって捜査することを禁ずると判決を下した。さらに裁判官は、たとえ患者のカナビス使用が連邦法に違反することになると医師が認識していても同様である、と加えた。
2000-09 アメリカのクリントン政権が、カリフォルニアの医療マリファナ法に対して、患者にカナビスを勧めた医師を罰するべきだと訴えていたが、裁判所から退けられ対応に苦慮している。
2000-09 アメリカ・グァム島の最高裁は、カナビスをラスタファリアンの宗教聖体として認めた。
2000-09 イギリスの多発性硬化症患者リズレイ・ギブソンが、カナビスを所持していたのは痛みの緩和のために必要だったと訴えて無罪になった。
2000-10 カナダ政府は、7月に出された、マリファナ禁止法が憲法違反だとするオンタリオ州控訴院の決定に対して上訴しないことを決定した。
2000-10 イギリス・オックスフォード大学薬学部のレズリー・アイバーセン博士は、カナビスがアスピリンよりも安全で、長期使用しても深刻な副作用はない、と著書で述べた。
2000-11 アメリカ連邦麻薬局は、カリフォルニア州サンマテオ郡に対して、カナビスの効果を調査するために、12週間にわたり政府の栽培したマリファナを60人のエイズ患者で試すことを認めた。
2000-12 カナダ政府の合法医療カナビスの供給プログラムが開始された。最初のカナビスは、マニトバ州の銅の地下廃坑を利用してハイテク栽培される。   

2001-01 ベルギー政府が、カナビスの個人使用目的所持を非犯罪化する意向を示した。
2001-03 スイス政府が、カナビスを合法化して少量の売買や栽培を認めることを議会に提案。
2001-03 メキシコのビセンテ・フォックス大統領が、ドラッグ戦争に勝利する唯一の方法はドラッグを合法化することだという警察高官の声明に賛同を表明。ウルグアイ大統領も、それが国際カルテルを壊滅する唯一の現実的方法と追認して、翌月行われるケベックの先進国首脳会議でも議題にするように要請した。
2001-03 イギリス上院委員会は、カナビスをベースとした医薬品の開発をもっと早めるように提言した報告書を提出した。委員会は1998年にも、医師がカナビスを薦めることができるようにすべきだという報告を出したが、政府側に拒否され、今回改めて早期の解決を求めた。
2001-04 カナダ保健相が、老衰や危篤状態の人も医療カナビスの利用および所持を認める発言。
2001-04 アメリカ・ニューメキシコ州のグレー・ジョンソン知事が、NORMLのカンファレンスで 「われわれにはマリファナの合法化が必要」 と明言。
2001-06 カナビスの常用者は、普通の人よりもカロリーを40%以上多く摂っているが太らない、という研究結果が発表された。
2001-06 イギリスの新内務相デビット・ブランケットは、ロンドン警察がヘロインなどのハードドラッグの取締まりに重点を移しカナビスに対するのソフトアプローチを取ろうとしていることを歓迎した。この発言は、従来からカナビスに対して厳しい禁止措置を維持してきた政府の方針からの際だった転換といえる。
2001-07 イギリスの麻薬問題担当長官キース・ヘルウエルは、カナビスに対する扱いを緩める意向を示し、今では、カナビスがヘロインのゲイトウエイになるとは考えていないと表明した。
2001-07 カナダでは、無用な混乱を避けるために、医療目的でカナビスの栽培と所持を認められた患者に対して写真入りのIDカードを発行することになった。
2001-07 ロンドン警察は、時間をもっと凶悪な犯罪に費やすために、一部の地域でマリファナを黙認するテスト・プログラムを開始した。
2001-08 フィジー共和国の高官が、マリファナを栽培した者は射殺すると発言し、翌週に控えた選挙の争点になっている。
2001-09 フランスの社会保健相バーナード・クシネールが、科学者や法学者や医者が参加したエイズ会議で、ドラッグの使用を禁じているフランスの制度は、病気の治療と使用の抑圧のあいだで政策が定まらずエイズのリスク削減戦略の足かせになっているとして、すべてのドラッグの非犯罪化を提言した。
2001-10 オランダ政府が、カナビスを医薬品として薬局で販売できるようにする計画を発表。多発性硬化症や癌やエイズなどの患者は医師の処方のもとで利用できるようになる。オランダでは既にコーヒーショップで通常の医薬品よりも安い価格でカナビスを購入できるが、医師の指導なしに患者が自分で使ってしまうことも多く、こうした好ましくない状態を解消する必要がある、ことを理由に上げている。
2001-12 インドネシアの高等裁判所は、58.7kgのマリファナを所持していた被告に死刑を宣告した。
2001-12 オランダ・ティルブルグ大学のジャン・ファン・オアース教授が、10年間にわたるアムステルダムのドラッグ・ユーザーの調査で、カナビスはハードドラッグの使用を招くことはないという研究を発表した。

2002-02 ケニア共和国で、ハシシの板1540枚とカナビス4715kgを密輸した罪で2人組に合計45年の懲役を言い渡された。
2002-03 イギリス自由民主党は、国内の主な政党としては初めてカナビスの合法化に前向きな姿勢を示した。党の当面の方針は非犯罪化だが、党代表は将来の合法化にまで言及し、カナビスでユーザーを起訴することは 「時間の無駄」 であり、合法化アプローチは 「ユーザーの健康を助け、密売人を罰する」 ものだとしている。
2002-03 カナダの医師5万2000人を代表するカナダ医師会が、違法ドラッグに関する上院委員会で、カナビスの単純所持と個人使用を刑法から除外して罰金だけにするように求めた。非犯罪化では、カナビスには中毒性があるが、中毒は病気という認識が必要だとしている。
2002-03 イギリス政府のドラッグ乱用諮問委員会は、カナビスの扱いについて諮問をうけていたが、C分類ドラッグにダウングレードすることを勧告した。委員長のサー・マイケル・ローリンは、カナビスは無害ではないとしながらも、現在では同じB分類になっているアンフェタミンなどに比較するとリスクはほとんどない、と述べた。
2002-06 メキシコ国境のチワワ地方は、世界でも最も悪名の高いドラッグ・カルテルの本拠地になっているが、取締りに効果がないことから、カナビスの合法化で対抗できないかを検討している。
2002-06 フィリピンでマリファナのブロック25kgを所持しているところを囮捜査で捕まった男に注射による死刑が宣告された。
2002-07 イギリス内務相デビッド・ブランケットが、カナビスの分類をB区分からC区分へダウングレードすることを発表した。これによってカナビスの少量所持では逮捕されないことになる。「現在のカナビスの区分は害の程度に見合ったものではなく過大視されている。若者へ信頼できるメッセージを用意し、ダウングレードによってできた時間をもっと害のあるドラッグに集中しなければならない。」
2002-07 オーストラリア・ニューサウスウエールズ州では、警察にカナビス・カファを強制閉鎖する権限を与える改正案が審議されることになった。シドニーのキングス・クロスで、警察本部から200メートルも離れていないところにマリファナを売買していると噂される店があり論争になっていた。
2002-08 イスラエル保健相が、癌末期患者のカナビスの使用許可を迅速に決定。この6年間同じような申請が8件ありその半分に許可が下りているが、許可は患者の状態や医療的問題を見極めて迅速に処理されるようになった。
2002-10 イギリス・マンチェスター州ストックポートに初のオランダ式コーヒーショップ 「ダッチ・エクスペリエンス」 を開いたコリン・デビスが、カナビスの供給や密輸など8件の罪で3年の懲役を言い渡された。彼は自身も医療カナビス患者で、他の患者を助けるために店を開くことを決心した。   
2002-11 イギリスのGW製薬は、3年ほど前から600人を対象にカナビスをベースにした舌下型スプレーの臨床検査を行っていたが、7段階の3段階目の治験を終えた段階で、良い成績が出ていると発表した。
2002-11 チェコ共和国で、カナビスがパーキンソン病の患者に良好な結果をもたらしているという研究が発表された。
2002-12 アメリカのRANDドラッグ政策研究センターは、ティーンエイジャーのマリファナ使用がヘロインやコカインのようなハードドラッグのゲートウエイになることはないという研究結果を発表した。この研究は、1982年から94年にかけて国が行ったドラッグ乱用に関する全国家庭調査のデータを使って行われたもので、ハードドラッグを使う若者にとって、マリファナが一番身近にあるために最初に試したに過ぎない、と結論を出している。
2002-12 アメリカ・カリファルニア州サンタクルズ市議会は、医療カナビス・クラブの設立者たちを形式的に市の職員とすることを満場一致で可決した。この措置を受けたのはMAMM(Wo/Men's Alliance for Medical Marijuana)のコラール夫妻で、これによって医療カナビスの栽培と配布が市の委託活動として認められた。

MAMMは9月に連邦当局の家宅捜査を受け、栽培していた植物と器具を押収されたが、これに対抗する法的な保護が与えられることになった。これと同じ措置はオークランドやサンフランシスコでも行われている。しかし連邦当局は、違法マリファナの供給基地になる恐れがあるとしてそれを無視する姿勢を崩していない。

2003-02 アメリカ・カリファルニア州オークランド市から職員として委託をうけて医療カナビスを栽培していたエド・ローゼンタールが連邦当局の家宅捜査を受けたが、裁判の際に、裁判官は陪審に市の委託のことは故意に伏せて評決を行わせて大問題になった。評決後にそのことを知らされた陪審員たちは怒りをあらわに裁判官を非難した。

陪審員の一人マーニー・クレイグは、この裁判を 「私が体験した中でも最も恐ろしい体験」 と語り、「人生最大の過ちを犯してしまいました。他の多くの陪審も同じ気持ちです。全く公平でない不正な裁判です。被告は犯罪者ではありません。」  
2003-02 アメリカ連邦麻薬取締局(DEA)が、過去最大規模で全国一斉にヘッド・ショップの手入れ(パイプ・ドリーム作戦)を行い関係者55人を逮捕し、喫煙器具など数千トンを押収した。この量はアメリカ全体で販売されている半分以上にもなるという。販売業者の多くは年間10億ドル規模で、インターネットなどを通じて器具を販売していた。

DEAのジョン・ブラウンによれば、ドラッグを販売することとそれを使うための器具を販売することには何ら違いはなく、殺人に使われるサイレンサーと同じことだという。アメリカの連邦法では、明らかに違法ドラッグ用に使われる製品を販売することは犯罪になる。
2003-03 ジャマイカの法務長官AJ.ニコルソンは、2年前に諮問していたカナビスの個人使用の非犯罪化についての委員会の勧告にもとずいて法整備に取りかかっていることを明らかにした。法案が議会に提出される時期については未定としながらも、非犯罪化が視野に入ってきたことを強調した。

ジャマイカでは古くからカナビスが使われ、ラスタファリアンには宗教聖体として扱われてきた。近年までそれによる暴力犯罪などなかったが、最近アメリカへのコカインの中継地になってから暴力犯罪が著しく増加した。「これはガンジャのせいではありません。コカインの違法取引がジャマイカ人の心を引き裂いてしまったのです。」
2003-04 ロシア連邦のブリャンスク地区(モスクワの南西250k)の人口4万3000人のノボズイブコフという小さな町の役場にはカナビスをあしらった町の旗がはためいている。町は、チェルノブイリ原発事故で大きな打撃を受けたが、それを乗り越えるために過去の栄光の時代を象徴であるカナビスを掲げることにした。

このあたりの地区は、18〜19世紀にはヘンプの主要生産地だったところで、ロシア海軍のヘンプ工場もあった。ヘンプは19世紀前半までは町の紋章にもなっていたという。しかし、クリミア戦争で壊滅的な打撃を受け、その後、海軍からの需要も途絶え、20世紀に入るとスターリンの命令で集団農場になりヘンプの生産は完全に途絶えてしまった。