|
ハーレムの歴史
●「世界は神様が創ったかもしれないが、オランダだけはオランダ人が創った」という。まさにその通りで干拓によって国土を広げてきた。オランダの歴史を理解するには現在と過去では陸地の形が全く違っていることを押さえておくことが重要だ。
ハーレムという名称は、砂の陵地を意味する haar と、森の lo、家の heim から出来たと言われ、10世紀初頭には地名としてが使われだしている。回りにに森が少しあって、丘になった砂地の村という情景が思い浮かぶ。調査によって再現された13世紀の地図をみると、西には北海がありそれ以外の周辺も湖ばかりで陸の孤島のような感じさえする。
スパールネ川の流れ出す南部のハーレメル湖は非常に大きく、これがハーレムの歴史に重要な役割を果たしている。アムステルダムとの間にもスピーリング湖があって陸路は細い。現在では干拓されて海抜下の陸地になっているが、物資を舟で水上輸送するしかない当時では大変有利な立地だった。
原料を運び込んで加工して製品にして輸出するという加工貿易の拠点となった。特に糸を持ち込んだ亜麻布(リネン)に加工では周辺の砂丘では豊富な水を利用して布の漂白が行われた。17世紀になると、迫害されてアントワープなどからハーレムに逃れてきたフラマン人たちは高度な繊維加工技術を持っていたので繊維産業が発達した。
またビールの生産も盛んだった。原料の大麦はポーランドから、燃料のピートはオランダ北部の湿地帯から調達し、周辺の砂丘で濾過された良質の水を使って多量のビールを醸造した。ドイツなどに輸出するばかりではなく、自分たちも毎日2リットルを飲んでいたという。1430年頃には100軒の醸造所があった。
いずれにしても水路と船のおかげだった。造船技術は高度化しより速度の早く積載量の多い船が求められて造船業も発達した。スパールネ川は水路の大動脈としておびただしい数の船が行き来している。
ハーレムが本格的に発展する17世紀の主要三大産業は繊維、ビール、造船だったが、すべてヘンプに支えられている。船の動力の帆や多量のロープはヘンプから作られ繊維業の土台になっていたし、ビールの醸造も原料の調達に船が利用できたからだった。当時からハーレムはヘンプ・シティだったのだ。
●ハーレム人の気質を最もよくわかるのは、1573年のスペイン軍の包囲攻撃だ。当時のオランダはまだスペインの支配下にあったが、宗教改革でプロテスタントが興るととくに北部オランダでは盛んになった。カソリックの守護者を任ずるスペインのフィリップ2世はこれを弾圧するために最強の軍を派遣してきた。
アムステルダムの東にあるナールデンではスペインに刃向かったために村人全員が殺害された。次に狙われたのがハーレムだった。ハーレムは北部への要衝にあり、ここを押さえてオランダを分断する計画だった。城壁は強固でなく軍隊も十分に組織されていなかったので簡単に陥落できると考えられた。
だが、スペインに従順するように要求されたハーレムはこれを拒否したために1万発の砲弾を打ち込まれ徹底した攻撃を受けた。ハーレム側は女性や子供も含め市民一丸となって勇気と知恵を振り絞って対抗した。カナウという未亡人は300人の婦人部隊を編成しどの戦闘にも加わったという。正面攻撃では攻めきれないことを悟ったスペイン軍はハーレムを包囲して兵糧攻めにした。餓死者が続出しついに8ヶ月後に降伏した。
クリックで拡大
しかし想像を超えた抵抗に、歴戦の名将といわれていたスペインのアルバ公は、これほど組織化され戦略的で勇気のある城壁は見たことがないと驚愕した。どこの城壁よりも弱いと思われたハーレムを陥すために、無敵を誇ってきたスペイン軍が3万の兵のうち1万2千人を失い、8か月もの期間を要した。オランダ制圧の展望を失ったアルバ公は最高司令官を辞任した。
続いて標的になったライデンはハーレムよりも強固な城壁もっていたために最初から兵糧攻にされた。しかしハーレムの英雄的な抵抗を手本として市民たちは街を守り、南部を拠点に独立戦争を戦っていたオランダ軍は堤防を決壊しながらスペイン軍を追いつめた。展望と粘りを失ったスペイン軍は撤退し、ついにライデンは解放された(1574年)。以後スペイン軍はオランダには侵攻することなかった。オランダの独立への最大の転機はハーレムの死闘がもたらしたものだった。
ハーレムのカナビスへの取組には、困難にも果敢に挑んでいくこうしたハーレム人のスピリッツを感じる。
●ハーレムというと真っ先にニューヨークのハーレムを思う人が多いかもしれない。しかし本家はオランダだ。1620年にライデンに住むピリグリム・ファーザーたちがメイフラワーでアメリカに渡り初のヨーロッパ人定住者になると、イギリス本国のピューリタンたちやオランダ人たちもそれに続いた。イギリスが北部のボストンを中心に移住したのに対してオランダはマンハッタン島を目指し、1626年、西インド会社がニューネザーランド植民地を設立した。
オランダはマンハッタン島の南端にニューアムステルダムを作り、南北に長い島の中央部にブロードウェイを通し、北部のロードアイランドからコネチカットに植民地を広げた。しかしオランダとイギリスは、スペインの脅威があるときには協力して立ち向かったが、17世紀半ばになってスペインの力が衰えると、 イギリスはオランダの繁栄を妬んでオランダバッシングを始めた。 2度にわたる英蘭戦争(1652年〜)はアメリカの植民地にも影響を与えた。
オランダの植民地は南のバージニアと北のニューイングランドに挟まれて苦戦した。総督だったピーター・スチューフェサントはニューアムステルダムの北側に城壁(ウォール)を築き、マンハッタン島の北部に安い住宅を造って入植者を送り込んで防御を固めた。それが現在のウォール・ストリートとハーレム地区になる。ハーレムの名前はその置かれた要衝的な位置や抵抗精神にあやかって付けられたに違いない。
結局、植民地では本格的な戦争には至らなかったが、本国の戦争でオランダが負け、ニューネザーランドをイギリスに明け渡すことで決着した(1664年)。このときニューアムステルダムはニューヨークと名前を変えた。ちなみにニューヨークのハーレムは通常 Harlem と書き、オランダの Haarlem より a が一つ少ない。
●ハーレム歴史年表
2000BC 最初の集落がつくられる
918 「ハーレム」という名称が初めて使われている
1245 ウイリアム2世から市の自治が認められる
1350 バフォ教会の建造が始まる
1395 オランダで初の救貧院(ホフィエ)、バケネッセホフが作られる
1430 フラマン避難民のローレンス・コステルが活版印刷を発明
1571 人口2万を越える
1572 スペイン軍の正面攻撃と包囲攻撃を受け翌年陥落
1578 バフォ教会がプロテスタント教会になる
1581 オランダが独立を宣言
1585 アントワープがスペインに陥落。フランス・ハルスなど多数のフラマン人が避難してくる
1596 本が多数出版され、教会などだけでは収納しきれず市の図書館ができる
1600 人口4万人。半数がフラマン人
1603 食肉ギルドの建物建造
1608 男性老人用救貧院(現フランス・ハルス)建造
1631 アムステルダムへの水路が整備される
1637 チューリップ・バブル
1656 ライデンへの水路が整備される
1656 ヨーロッパで初の新聞を発行
1735 バフォ教会のパイプオルガン建造
1737 エンシュデが現存するヨーロッパ最古の新聞を発行。ハーレム日報の前身
1778 オランダ初の博物館。テーラー博物館開館
1839 オランダ初の鉄道。蒸気機関車でハーレムとアムステルダム間を30分
1852 ハーレメル湖の干拓。市内の運河に悪臭
1899 オランダ初のトラムが市内を走る
1913 市に買い上げられた救貧院がフランス・ハルス美術館として開館
1995 市政開始750年を祝う
|
|