コステル

一般にはドイツのグーテンベルグ(1398〜1468)が活版印刷を発明したことになっているが、オランダではハーレムのコステル(1370〜1440)のほうが数十年早かったと信じられている。



残念ながら彼が印刷したものや道具がそのまま残っているわけではないので確かめようもないが、16世紀に書かれたコステルの伝記には、彼の着想や工夫、道具が残っていない理由や技術がグーテンベルグに伝えられた経緯などが書かれている。


コステルは1370年頃にハーレムで生まれた。ある日、孫と森を散歩しているときにブナの木片に文字を刻んで遊んでいたところ、砂の上に落として文字が転写されたことから活字を思いついた。その後いろいろな木で試してみて結局、鉛と錫の合金で活字をつくり、人を雇って印刷工房を始めた。ところがヨハン・ホーストという雇い人が技術を習得したあと1441年のクリスマスに機材を盗み出し、工房をめちゃめちゃにして逃げた。アムステルダムに逃れ、さらにケルンへ行き、最後にはグーテンベルグのいるマインツにたどり着いた、と言う。


少々信じがたい伝記ではあるが、いずれにしてもその後、1542年以降、グーテンベルグは有名な42行聖書を印刷している。しかし彼はやがでこれが印刷物としては失敗だったと気が付いた。1ページに42行しか印刷していないのでページ数が多くなりすぎたからだ。装飾部分も手書き後から書き加えたもので美術品としての価値は高かったが、それまでの写本と見栄えも似ていた。印刷で手間が減ったとはいえ、紙が十分に入手できず、子羊の皮をなめして作った羊皮紙に印刷したために値段の大半はそれに占められていた。その反省からグーテンゲルグは後に小さな活字の制作にも取り組んだが資金が不足して破産してしまう。結局、紙不足が発展を遅らせた。


グーテンベルグ42行聖書 1455?

印刷が産業として発展したのはオランダだった。1600年前後のオランダには各地で迫害された新教徒たちが亡命してきていた。技術を持っていたうえにもともと知的な人が多かったので本国では発禁になってしまうような本を盛んに発行し、ヨーロッパの出版センターになっていった。ガリレオの「天文対話」やデカルトの「方法序説」なども自国の迫害を避けてライデンで発行されている。


ガリレオの「天文対話」1638   ライデン

こうしたことが可能だったのは単に印刷技術ばかりではなく、印刷媒体となる紙の生産が背景にあった。つまりヘンプ(麻)を利用した紙なのだ。オランダの柔らかい土壌はヘンプの生育に適していたばかりではなく、風車を利用して茎を砕き、豊富な水にさらして紙を多量に生産するのに向いていた。ヘンプの紙は薄くて強靱で裏透けもないだけでなく変色しにくいので400年前の本でも白味が残っている。

コステルに始まるハーレムの印刷産業の発展はヘンプがなければ途絶えていたかもしれない。1500年代前半には印刷ギルドができて後半には市の図書館が設立されていたという。1658年にはヨーロッパで最初の新聞が発行され、7代続くエンシュドの印刷所は現存するヨーロッパ最古の新聞社(現ハーレム日報)を1737年に設立している。エンシュドは精密印刷でも知られオランダの紙幣の印刷所にもなっていた。











印刷などの職業訓練学校の設立もオランダでは最も早く、現在でもハーレムの多くの人が印刷関係に従事しているといわれる。ハーレムには本や雑誌や楽譜などの出版社も多く、VNU( Verendigde Nederlandse Uitgeversbedrijven)はオランダ最大の出版社になっている。本屋も100軒近くあり、古本の販売も盛んだ。

このようにヘンプの利用はハーレムの印刷業発展の土台を成している。まさにヘンプ・シティーと呼ぶのにふさわしい展開なのだ。コステルの銅像はヘンプの上に立っている。



(2003年10月)