第7章 カナビスと平和人間

カナビスが人間の性質・本能に対してどのような影響を与えるか、というテーマは興味深い問題だが余り論じられていない。 ここでは断片的なエピソードを紹介して、カナビスが平和な人間を作る可能性を持ち、また、 新しい世代がいろいろな難題に対処していく際にカナビスは意味の多い触媒になりうることを指摘しよう。


1 カナビス人種とアルコール人種

非常に興味深いことに、カナビスを好む人間とアルコールを好む人間とでは一般的な性格に違いがあるようだ。 ここではそれを示唆する例として、エジンバラ大学の心理学教授ジョージ M.カステエアース博士のレポートを挙げよう。 彼は1951年にインド北部のジャイプール州の大きな村で或る調査を一年ほど行っていたところ、 カースト制度の中に予期していなかった一側面があるのに気づいたという。カースト制度の最上部にはバラモンといわれる僧侶がおり、 その下に政治・軍事などを司る士族がいるが、彼らは共にインドでは上層階級に属する。 カステエアース博士によると、バラモン達はバングを飲むが決してアルコールは飲まず、逆に、ラジャプットと呼ばれる士族達は アルコールを飲むがバングはほとんど使わないという。この違いは、各々のグループの価値観の違いに根ざしており、 生活様式にも著しい対照を作り出しているという。

以下に訳した文はカステエアース博士の“Bhang and Alcohol”('The Marihuana Papers’103〜120p)の抄訳である。 この中で、“ダル”と言われているのがインドのアルコールであり、mahwaという樹の花から作られた強い蒸留酒である。 また、村人達の会話がいくつか取り上げられているが、その際、ラジャプット達の名前には必ず Singh(ライオンの意) という文字を 付けて区別される習慣があり、さらに、バラモン達のセカンド・ネームが多くの場合 Lal(赤、つまり幸運の色)であることを 覚えておくと役に立つ。

ラジャプットとバラモンとの間にある第一の明らかな違いは、バラモン達は皆ながダルをひどく嫌っているのに対し、 ダルを擁護する側のラジャプット達はかならずしも足並みがそろっていない、ということである。Himat Singh が説明するには、 『神を崇拝する一部のラジャプット達は肉を食べたり、ワインを飲んだりしません。というのは、肉や酒はそのような人達が最初に 断たなければならないものだからです。酒は人間の心を汚すものです。一部の人達は神に誓いを立てている一方では、 酒を乱用しています。これは神を汚すことです』だが、酒も肉もとらないようなラジャプットは極めてまれで、ほとんどいない。 『残りの人達は、肉を食い、酒を飲み、さかりがついて怒り狂った象みたいです』

多くのラジャプット達は、毎日飲んでいる酒の量の多さを自慢していた。例えば、Nahar Singh は 『私の父は毎晩決まった量のダルを飲んでいました。それも少量ではありません。それが父の習慣だったのです』と語っていた。 また、Ragunath Singh と呼ばれている若者は、彼のカースト階級・士族の好戦的な伝統と肉・酒の必要性を強調していた。 『ヒョウやトラは草を食べませんが、これはラジャプットが何を好むかということ、つまり食肉的な人種であることを物語っています』 だが、彼はまた、酒が危険な友であることも強調していた。 『もし飲みすぎれば、精液やよい素質、体力などが損なわれてしまう。しかし、適量なら反対に増進されます』

Gambhir Singh は、警察の警部であった彼の父が毎日多量の酒にひたっていたことを話していた。 『酒は父を激しく、ズブとい気性にし、必要とあらばすぐさま人を殴りつけるようにしてくれたので、仕事の役に立っていた』

ラジャプット達の夕べの宴が開かれると、禁酒したり、少量にとどめておこうといった抑制心はすぐに消散してしまう。 何杯も何杯もグラスに酒が注がれ、そのたびに一気に飲み干される。酔っ払いながら、Amar Singh はよく自分の抑制できない気質を 自慢し、かっとなって殺してしまった人達のことや売春婦に対する自分のセックスの腕前について誇らしげに話していた。 彼の友達で Gordhan Singh は話の仲間に加わってきて、ラジャプットの典型的な祝典の様子を語ってくれた。 『皆は座って、完全に酔っ払ってしまうまでたっぷり酒を飲み、その後は大声で話をしたり、バカなまねをして物笑いの種になったり、 また自分の着物の上に食べ物をこぼして汚してしまったり、踊り子に向かって大声を上げたりするんです。 それはそれはいいながめで、非常に愉快なものですよ』

以前、この村一帯を統治していた人は、ダルに関し、同時に相反した二つの見方を持っていた。 彼は一方では祈りと厳格な業を通じて“精神の高揚”を得ようとしていた。このことは、アルコールに酔う習慣に厳しい制限を課すこと になる。だが、彼の質素にしたいというこの意向は、話の途中でも度々乱された。そんな時、酒をたたえる彼の口調は一段とはずむ 『我々ラジャプットにとって、目の赤いことは非常に美しいことだと考えられています。それは肉欲のしるしです。 目に赤い線が入っているような幸運な人々は非常に強壮な人だと思われています。ラジャプット達は非常に強壮です。 悲しいかな、肉を食べ、酒を飲むために肉欲的にならざるを得なくなってしまうのです。』 さらに彼はワインをたたえる詩を引用しはじめた。『酒は目を赤く変え、夫婦の間に喜びを与えつづける。 なんとたたえたらよいのだろう、おお火酒よ』そしてまた『戦争の太鼓が鳴り響いている時は、アヘンとダルだけが 恐怖を取り除いてくれる』

また別のとき、彼は、肉がなければ食べ物はすべて草であり、ダルがなければガンジスの水にも徳はない、 といった趣旨の少々不敬な対詩を引用していた。しかし、この不敬の言行に、彼は一瞬まじめ顔にかえった。 彼はいそいでこの詩を否定したが、しばらくして彼はまた生き生きとした顔をして、豪華なラジャプットの結婚式のパーティーについて 話してくれた。

『皆は座って夜遅くまで飲み続け、踊り子達は皆をもてなすのです。皆は一人の踊り子を呼んでひざの上に座らせて、 我慢できなくなると、彼女を一室に連れて行ってドアには全部錠をかけてしまいます。すると残った女達はドアをたたいて “Rao様、私達もその子に会いたい”と呼ぶんです。でも悲しいかな、その子はどこへ行ってもドアは閉められている。 そこで朝まで楽しむわけですが、彼女は主人が望むことをやらなければなりません』

彼の弟も、自分が宗教上の問題でアルコールを飲む楽しさを放棄してしまうようなラジャプットでないということをしきりに 強調していた。『私はそんなことには興味ありません。普通そうした宗教的なことは40歳をすぎると関心を持つようになるものです』 40前は? 『それまでは、肉を食い、酒を飲み、陽気に騒ぐんです』

ラジャプット達は時々バングについて話をするが、決して強く賛成したり反対したりするようなことはない。 彼らは、バングが長旅をしてたずねてきてくれた客人に疲れを取るようにと供される茶菓によい、と言っている。 以前家臣だった Anop Singh と呼ばれる人は次のように言っている。 『我々にはバングを使う習慣はありません。でも、使わなければならなくなったときは我々も使います。例えば、時々聖人達が たずねてきますが、彼らは好んでバングを使っている人達です。従って、もし招かれて彼らに加わらなければならないときには 我々もバングを使います』

あるとき私は Vijay Singh と呼ばれる若いラジャプットの地主が多量のバングを食べて取り乱しているのを 見たことがある。彼はバングを加えた菓子を与えられ、何も知らないで食べてしまったのである。 『自分はバングを食べているとは知らなかった。もし知っていたら食べなかったでしょうね。好きではないんです。 バングを食べるとすぐに眠くなって、のどが乾いてくるんです……。ぼくは嫌いですね。まったく元気がなくなり、何もできなくなる。 だがダルはそういうものじゃない。飲んでもやはり事は処理していくことができます』

これに対して、バラモン達はみんな足並みをそろえてダルやダルに酔っ払った人達のことを悪く言うのである。 彼らはダルが各人の内にある神(god head)の生気を汚して破壊してしまう、と言っている。Shankar Lal は次のように言っている。 『肉を食べ酒を飲むと激情と激怒でいっぱいになってしまう。そしたら一体どうなると思います?  神はその人の内から飛び去ってしまいます』

宗教的な信心と多少酒に酔うことを調和させようとした意見は、学者タイプの師 Mohan Lal によって侮辱的なまでに 蔑まれてしまった。『彼はすべて間違っています。彼はベールをかぶった好色家です。常に酒と女に心を奪われていて、 このつらい困難な道に対して、彼はどのようにして自分の道を見出すことができるというのでしょうか?』

バラモン達はバングの使用について語るとき、抽象的というよりはむしろ具体的である。『バングは良い bhakti を 与えてくれる』と Shankar Lal は言う。『バングを使うと非常に良い bhakti が得られます』 続けて彼は bhakti をすべての 世俗的な乱心を払いのけ、神のみのことを考える信心の行、と定義していた。信心の道をきわめた僧は、 取るに足らない問題・肉欲的な問題に踏み外れることもなく黙想を続けることができる。そのような人々は己を超越した無我の境地 の中で、世俗的な関心事を忘れてしまい『クツで顔を100回叩かれてもちっとも動かないでしょう』(Mohan Lal)

バラモン達は、非常に大きな影響力をもつ僧が主宰している近くの巡礼センターについてたくさんの事を教えてくれた。 その僧と彼の先輩達は大いなるバング・ドリンカーで、信心による無我の境地の深さでは英雄的だった、 とバラモン達は尊敬の念をこめて言っていた。巡礼センターの最大の崇拝対象は、黒い石でできた古代の男根像で、 シバ神を象徴するものであった。シバ神は、バング・ドリンカーでしかも黙想生活の理想像としてしばしば例にあげられる。 修行僧達が模範とするのはこのシバ神である。彼らは、感覚世界の乱心から出てくるあらゆる雑念を払い、 何時間も外界から離脱して内面を見つめた状態を得られるようになるまで厳しく長い修行をするのである。

この修行をきわめた人は Saddhu と呼ばれ、自分自身から自分の体をはぎとってしまうことができ (つまり、一見命が無いようでいて、不死の状態)精神界に直接何回も入ってゆくことができるようになる。 バングはこの状態をもたらすものとして高く評価され、ほとんどの Saddhu は規則的にバングを使っている。 私は、大きなシバの寺の境内で、聖なる屍灰を体に塗っただけで他にはほとんど何も身に付けていない聖者達にしょっちゅう出会ったが、 彼らはバングの酔いの初期で、あたりをフラフラ歩いていた。挨拶を送ると、彼らはただとらえどころのない微笑を返してくれたり、 大声で『Hari,Hari, Hari ! 』と神の名前の一つをくり返して答えてくれた。この村のバラモン達の多くは、 苦行を通してさほど大きな偉業を得ようと望んでいるわけではなかったが、毎日数分から数時間の祈りと脱俗の座行をおこなっていた。 彼らは、この行に際し、少量のバングが非常に役立つことを経験によって知っていた。


2 アルコール文化圏とカナビスの関係

世界はいくつかの文化圏に分けることができるが、大きな相違は宗教であろう。 例えば、インド文化圏ではヒンズー教、近東文化圏ではイスラム教、ヨーロッパ・北アメリカ文化圏ではキリスト教が主流を 占めているが、興味深いことには一つの文化圏内で同時にカナビスとアルコールが使われているところは あまりないという事実がある。一般的に言って、近東やインドではカナビスが主流をなし、ヨーロッパ・北アメリカなどの キリスト教系の社会ではアルコールが主流で、近年まではカナビスに対してきわめて疎遠であった。

インドのヒンズー教ではカナビスが宗教の添え物になっており、近東のイスラム教の場合は、聖典コーランでアルコールが 禁じられ、忠実なイスラム教徒達はアルコールを使わないでむしろカナビスを使う傾向がある。 これに対して、キリスト教ではアルコール(ワイン)がキリストの血として宗教の添え物となってきた。 だが、カナビスは悪魔の薬であるとしてキリスト教国では法的に強く禁止されている。実際アメリカあたりでは、 医学的・社会的見地からではなく、純粋に宗教的見地からカナビスに反対してきた人達がしばしばみられる。

一般的に言うと、アルコールが許されている国々では、普通カナビスは禁止されているが H.B.マーフィーは、その理由を、 積極的に行動するということに対する価値観の相違にあると考えている。
アングロサクソン文化では、何にもしないということは見下げられ、しばしば恐れられるが、一方行動のしすぎは、 それがアルコールによるものであれ、よらぬものであれ、しかもたとえ社会不安の原因になったとしても多分に寛大に取扱われている。

確かにヨーロッパやアメリカでは、何もしないということははなはだ屈辱的な目で見られがちである。 というよりは、常に動き回って何かをやっていないと気のすまない民族のように思われる。このような能動性は、 前節からも示唆されるように、肉食と深いかかわりがあるらしい。実際、肉食系の人間と菜食系の人間とでは、前者の方がより行動的で、 時には好戦的だと度々いわれている。

比較史の研究家である鯖田豊之の『肉食の思想』(中公新書)によると、ヨーロッパ人やアメリカ人が肉をたくさん食べるようになった 理由は、ヨーロッパやアメリカの風土が牧畜的であまり農業に適していなかったためだという。 しかもそのような条件の下にこそキリスト教が拡まる素地があったという。確かにキリスト教もイスラム教もヒンズー教も地域的には 同じところから発しているが、何故キリスト教だけがヨーロッパに拡まっていったのか奇妙なことである。彼は次のように説明している。
ヨーロッパの高い肉食率を維持するには、どうしても動物愛護と動物虐殺を矛盾なく同居させる必要があり、 そこから人間と動物の断絶を極端なまでに強調する人間中心主義の立場がでてくる。そして、この強烈な人間中心主義こそ ヨーロッパの思想の根底であり、キリスト教の中にもそれがありありとうかがわれる。

アメリカ人やヨーロッパ人がどの民族よりも肉食系であるとすれば、彼らが行動を消極的にする傾向のある カナビスを受け入れず、行動を積極的にする傾向のあるアルコールを受け入れた理由はそこにあるのかもしれない。 しかも、肉食系の民族がキリスト教系になるとすれば、その民族がカナビスを認めないのに、アルコールを聖体として 使っていても不思議はないかもしれない。

アメリカ・ヨーロッパ人(白人)が肉を食べアルコールを飲むのは、インドのラジャプット達によく似ている。 ラジャプット達が好戦的であることはよく知られているが、歴史的にみると、白人達もやはり好戦的で、他のどの民族に比べても 残虐で侵略的であった、ということができる。さらに、ラジャプット達がカナビスを好まないのと同様に、 近年まで白人もカナビスを好まなかったのである。いずれにしても、好戦性と反カナビス性は奇妙に呼応しているのである。 アレン・ギンズバーグは戦争の中心とカナビス弾圧の中心が同じところにあるのを当然だとして、次のように書いている。
マリファナを触媒にした個人の意識の微妙な揺れ動きを抹殺・迫害しようとするピュ−リタニズム的意識の中心が、長年、 人間の戦争の中心であるモスクワとワシントンそのものであったという事実はなんら驚くに当たらない。 アメリカの右翼的な考え方においては、抽象的なイデオロギーの妄想を追い求める狂信的でかたくなな精神状態が物事の決定を 下しているが、それは鏡に映った自分の姿である。共産主義陣営の“党派的・教条的”なイデオロギーの精神状態を見て憎悪し、 戦いを求めている結果なのである。二つの権力の中心が双方ともマリファナに対して非常に厳重な取締りをしているのは、 やはり間に鏡をはさんで上と同じパターンが働いているからである。さらにまた、マリファナとアフリカの 儀式音楽(ロックンロール)が鉄と時間のカーテンをへだてた両側の若い世代の反イデオロギー意識に対して、ゆっくりと触媒作用を 果たしているのも、やはり同じパターンが働いているからである。

戦争の中心がカナビスに対して非常に厳重な取締りを行っている中心になっており、奇妙なことに最もアルコールを 多量に使っている中心になっているという事実は、単なる偶然ではないのである。これまで見てきたように、 そこには奇妙な対応関係が存在している。ソ連のカナビスの状況を示す一例として、『朝日新聞』の記事(1972.9.23)をあげておこう。
麻薬の悩み
ソ連最高会議はこのほど、麻薬常習者を最高2年間、強制的に『労働治療院』に収容することができる法令を採択、施行した。 これは、ソ連当局が、同国にも麻薬問題があり、治療のための強制労働キャンプまでできていることを認めたわけで、 西側筋を驚かせた。最もはやっているのは、マリファナで、若者の間ではかなり常用されている。 法令の適用対象は18歳から退職(男60歳、女55歳)するまでの成人男女。しかし、特別な場合は、16歳以上に適用される、 とされており、ソ連の麻薬問題はかなり根が深くなっていることがうかがえる。(AP)

もともとソ連は世界有数の麻生産国であり、カナビスが吸われている可能性は十分にある。ふつうの感じからすればソ連の若者が カナビスを吸っているなどとは考えにくいが、実際はギンズバークの指摘のほうが正しいようだ。


3 アメリカの未来とカナビス

将来、アメリカでカナビスが合法化され、これまで以上に人々がカナビスを吸うようになったら、 アメリカの文化・気質はどのように変化していくだろうか? もちろん単純な答えは禁物である。しかしながら、カナビスが アルコールに置き換わっていったなら、これまでとは気質の異なった人間が生まれてくるのではないか、と期待することもできる。 実際、カナビスと大きなかかわりを持つ世代・価値観の断絶はその表れかもしれない。

アメリカの大人達(白人)は、より多く活動して富を築いていくという反面、好戦的で侵略的な祖先の価値観を 受け継いできた。彼らの祖先は多数のインディアンを殺し、土地を奪い、さらにはアフリカから黒人を連れてきて重労働をさせて 富を築いてきた。形態が変わったとはいえ、現在でも自らの富を築くことに最大の関心を寄せている。しかしながら、 現代の若者達の間には、利益の追求のみに根ざした従来の価値観の中には、人間の精神を真に豊かにするものが無いと考えて、 自分達の祖先から受け継がれてきた価値観に背を向ける者が出てきた。その典型的な人達がビートとかヒッピーと呼ばれる人達であった。 彼らは別名“ホワイト・ニグロ” とか “ホワイト・インディアン”とも呼ばれているように、たとえ外面は白人であっても、 精神・意識構造はむしろニグロやインディアンのやり方・考え方を指向している。

こうした価値観は現在の大人や祖先が野蛮で非文明的であると考え、“文明化”の必要があると強調してきたものであった。 現在では多くの白人の若者が、かつてのニグロのようにカナビスを吸い、かつてのインディアンのようにコミューンをつくって生活 している。自分達の祖先の価値観に背を向け、180度の転換をした考え方が新たに芽生え始めているのである。 要するにこの価値観の断絶が世代の断絶と呼ばれるものの最も基本的な要素となっているのである。 この断絶を象徴している一つの実態として、好戦的な古い世代がアルコールを受け継いできたのに対し、 新しい世代は平和で愛のある交わりを求めてカナビスをとりあげたのである。

現代社会は、いろいろな意味で全世界的・地球的な規模に広がってしまったために、従来の考え方・価値観では対処できなくなろうと している。原子爆弾の出現、人口の増加、食料・土地・資源の不足、公害と環境破壊……このどれ一つとってみても、 単に一地域の問題ではなく、すべて地球的な規模をもつ深刻な問題である。このようなことは地球史上かつてなかった現象であり、 しかも多くの人々が指摘しているように、西洋白人文明の行き詰まりを示唆するものである。

これからの地球に住む新しい世代は、古い世代のやり方を受け継ぐわけにはいかない。何故なら、このまま進めば人間は 滅びるしかないからである。次の世代が、さらにその次の世代が生き残っていくためには、まず第一に戦争という無意味な浪費は 抑えなければならない。ということは、単なる政略上の問題ではなく、真に暴力否定の人間をつくるということであり、 結局人間の好戦性へ挑戦するということである。つまり人間の本能へ対する挑戦である。これは人間が進化しなければならぬ、 ということであり、きわめて本質的な革命を意味する。この革命に比べれば、フランス革命もロシア革命もたいした意味を もっていないようにさえみえる。

カナビスの現代的視点というのは、この革命に対して大きな触媒になるかもしれぬということであり、従って、 新しい価値観を求める新しい世代の新しい行動の一つとして、カナビスがこの革命の第一陣の風であるかもしれぬということである。 現代、世界に多大な影響をもつアメリカで、カナビスを吸う若い世代が成長していけば、人類の好戦的で略奪的な性格が 変わっていくかもしれない。


4 カナビスと人間の新しい意識

近年に至り、科学や科学技術が長足の進歩を遂げ、物質文明とまでいわれるほど物質的に豊かな時代が築かれた。 これが単純に幸福感・精神的充実感と結びついていれば、問題はそれほど深刻ではなかったかもしれない。 しかし、そうした期待とは裏腹に、結局は精神の空洞化を一層目立たせる結果になってしまった。 また、飛躍的に増大した知識も決して人間精神を育てるのに役立っているわけではない。むしろ知識の過剰と偏重は アンバランスな人間をつくり上げてしまった。多くの人達が気づきはじめているように、 これからの人間がぜひ手に入れなければならないものは、より高度の科学や技術、あるい知識ではなく、新しい知恵・意識なのである。 例えば、アレン・ギンズバークは次のように述べている。
我々の地球文明は人口過剰・原爆による絶滅の恐怖・中央集権化された抽象的な言語イメージ伝達網・地球を離れる能力などによって、 その神にも似た複雑さを一層増してきたが、将来の世代はそれに対処していくために、古い思想体系を新しいものにするというよりも、 むしろ新しい知覚能力に頼らなければならなくなると思う。新しい知識、すなわち新しい知覚が発達して、変化した生態学的環境に 対応することになろう。

つまり求められているのは、より“進化”した人間の意識の創造であり、今までとは違った能力を手に入れることである。 話を個人的なレベルに限れば、自分の精神に強く働きかける方法としては、大雑把に分けて三つの流れがある。 その第一は、ヨガや禅などに見られるように、心を平衡状態におくことによって精神を高める方法であり、 第二は、いわゆる断食を通じて、心身のひずみを再調整しようとする方法であり、 第三は、カナビスやLSDなどの薬を使って、脳細胞に生化学的な変化を起こして、精神に働きかけようとする方法である。 この最後の方法がいわゆるサイケデリック体験と呼ばれているものである。

もちろん、実際にはこんなに単純で平面的なものではなく、複雑に入り組んでいて、別の大きな要素が加わることも多い。 例えば、前述したバラモンの場合は、上の三つの方法を平行して行っている上に、信仰という要素が加わっている。 一般的な通念からすれば、第一の方法で得た悟りだと快く受け入れられるが、ドラッグを通して得た悟りだと、“助けを借りた” として非難される傾向がある。これは芸術活動などの場合も同じであって、ドラッグ体験をもとに作られた作品に対して 『芸術はそんなに安っぽいものではない』などと力説する人がいる。

しかし、こうした非難は当たっているとは思われない。 何故ならば、ドラッグは結局触媒的なものであって、人間の精神・魂はむろんドラッグを越えたものだからである。 人間は見えないものを見るためにメガネを発明し、さらには高能力の電子顕微鏡まで発明した。 これらは人間の身体的な能力を補うものであるが、精神の領域でも、さらに深いところを見るためのもの(ドラッグ)があっても 何ら不自然ではない。ドラッグを触媒に人間の精神・魂を育てていくことは、魂を干からびたままにしておくよりもはるかに 大きな努力を必要とすることであり、また、素晴らしいことなのである。

第一・第二の方法に比べてドラッグを用いた方法が有利な点は、誰でも簡単に、いわば日常的に始めることができるということである。 今までの宗教、特にキリスト教は、一部の人達の得た宗教体験を多くの人々に説教し、教え諭すことでその内容を伝えてきた。 しかし、ほとんどの場合、真に伝えることはできなかった。というのは、漠然とした教えでは意識の底にその体験が定着しないからである。例えば “汝殺すことなかれ”というキリスト教の教えがキリスト教徒の心に染み付いていたならば、 あれほど多くのインディアンが殺されただろうか。人は説教されて新しい意識を獲得するのではない。 自らの肉体・精神を通じてのみ獲得できるのである。ドラッグはその有力な媒体になり得る。禅の研究家として名高い アラン・ワッツは1966年の‘East Village Other’の中で次のように述べている。
LSDの使用ばかりでなくマリファナの使用が激増し、サイケデリック革命が起こってきた。 以前にはそのような物をつかったことのない人達、例えば知識人や高い収入を得ている人、あるいは上層階級の人達が 使うようになった。

ありきたりの宗教では飽き足らない若い人達の間には、精神的・宗教的な、あるいは形而上的とさえ言えるような飢えがある。 その原因の一つは、今まで何世紀もの間、ありきたりの宗教には基本的に足りないところがあったからである。 彼らは説教する。人がどうしなければならないか話をする。だが、彼らは力の源ではない。 言葉を変えていえば、彼らは、人がものを感じる仕方・自らの実存体験や自己確認の方法を変えるわけではない。 彼らは語りかけ、力説するのみである。

このことは歴史の偉大な教訓の一つである。つまり説教は有効に作用しない。人の振る舞いを変えさせる唯一の方法は、 仲間に加わるように誘い招くことであって、説教することではない。

ここで一つ注意しておかなければならないのは、新しい意識を指向してカナビス(やLSD)を使うことと、 単なるキックとして使うこととでは、質的に大きな違いがあるということである。 もちろん、カナビスを格式ばって使う必要は少しもないが、決してキックの段階で終わらせず、 常により高い段階にまで引き上げるように努力すべきである。そうでなければ、カナビスを本当に吸ったことにはならないし、 カナビスのもっている貴重な効果を体験したことにはならない、といえるだろう。

さて、ここで問題になってくるのは、カナビスを新しい意識の創造の触媒にするためにはどのようなテクニック を用いたら良いか、ということであろう。あるレベルに達するまで漠然とカナビスを吸っているのも一つの方法であるが、 もっと積極的な方法としては、バラモンのやり方やバロウズのようにカナビスを使わないでカナビスの効果を得るテクニックを 身に付けるやり方、さらに、リアリィらがサイケデリック体験の手引きとしてあげた本、例えば、"チベット死者の書" や老子の本 を参考にするのも良いのかもしれない。

だが、この問題は未解決であり、残念ながら、ヨガや禅などのように系統的に述べることはできない。 次に書かなければならない本があるとすれば、これをテーマにした本かもしれない。