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幻覚が見えると精神病か?
統合失調症の最も特徴的な症状に幻覚と幻聴があるが、カナビスの酔いでも幻覚や幻聴が現れることから、その類似性の研究が古くから行われてきた。カナビスが精神病を引き起こすのではないかという考え方は決して新しいものではなく、19世紀の終わりにはインドで大規模な調査も行われている。
現在のカナビスと精神病の研究の多くは、カナビスによる幻覚や幻聴の体験が精神病の症状を発症しやすくするはずだというモデルを使って、ユーザーとノンユーザーの幻覚・幻聴などの精神病的症状の体験率を比較することで、精神病のなりやすさをリスクとして計算している。
こうした事情も影響して、一部では、カナビスと精神病の問題が、幻覚の見える見えないの議論に集約してしまうこともある。つまり、精神病では幻覚が見える、カナビスでも幻覚が見えるから精神病の危険あり、よって取り締まらなければならないという三段論法が展開される。
しかし、こうした議論は余りにも稚拙で、このような論法が通るなら、アルコールを始め、カフェイン、テレビ・ゲームどころか、失恋のショックで精神が乱れ幻覚をみる恐れがあるから恋愛も禁止などということになってしまう。
カナビスで幻覚が見えるか?
一口に「幻覚」といってもその内容は非常に曖昧だ。無い物が見えるという定義が当たり前のように使われているが、実際には、現実に有る物が見えていないことの方がずっと多い。例えば、自分が撮影した写真を後で見直すと、撮影したときには見た憶えのない物がたくさん写っている。カナビスでは、普段気がつかなかった物が見えて驚くことがよくある。これも幻覚と言えばいえる。
もっと定義を厳密にして、目を開けていても閉じていても同じ景色がみえるということであれば、カナビスでも、相当深くストーンしたときに体験することもある。しかし、このような体験はたまたま起こる稀な体験で、少なくとも体験しようと思って使用量を増やしたぐらいでは体験できるような頻度ではない。この点では、幻覚剤のLSDのほうがはるかに頻度が多い。
また、視覚と聴覚が融合して、「音が見える」 「物が聞こえる」 という体験をすることもあるが、やはり、頻度はLSDのほうが圧倒的に多い。暗い所から急に明るい外に出たときなどに、視覚がソラリゼーションを起こすこともあるが同様だ。
いずれにしても特徴的なのは、カナビス・ユーザー自身がカナビス使用中に 「幻覚」 を見ていると実感することはごく稀で、この点ではLSDとは非常に異なっている。実際、カナビス・ユーザーで、カナビスを幻覚剤だと主張する人はまずいない。
また、単に幻覚や幻聴を引き起こすということであれば、コーヒなどの
カフェインの過剰摂取でも起こる という研究もある。
カナビスの視覚効果
視覚効果という点では、カナビスの幻覚はLSDに比較するとかなり少なく、普通、カナビスを幻覚剤と分類することはない。これは、カナビスの場合、酔いの程度を自分で調整することができるので、ほとんどの人が中程度の酔いで満足し、強い幻覚が見えるところまで至らないことも関係している。
カナビスがどのような効果を持っているかの研究とすれば、カリフォルニア大学のタート博士の研究が有名だ。1971年に『On Being Stoned』という本が発表されているが、その詳細さは他に類がなく、現在でも広く読まれている。
この研究の特徴は、カナビスの経験が豊かでしかもLSDも経験したことのある人たちが、200以上の詳細な質問に答えたものを集計分析しているところにある。当時のカナビスが現在より弱かったとしても、LSDとの比較しながら答えているので、奥行きが深い。
効果については、単にどのようなバリエーションがあるかを列挙するのではなく、カナビスの酔いのレベルと出現頻度の関連を調べている。原文では、カナビスの酔いのレベルについては、弱・中・強・強大・最強となっているが、現在カナビス・コミュニティでよく使われている用語と対比すると、次のようになる。
- 5.very stoned (最強)…スローモーション、家の中で迷子になる、神秘体験
- 4.stoned (強大)…クリエイティブな思考、繊細な感覚、浮遊感
- 3.high (強)…最高にリラックス、食欲、おしゃべり、セックス、コンサート
- 2.mild high (中)…リラックス、音楽が心地よい
- 1.buzz (弱)…ざわざわ、いつもと違う
普通のユーザーが求めるレベルは、2.5〜3.5くらいが多いと思われる。従って、視覚体験は、視覚が豊かに感じるようになるレベルで、強い意味での幻覚までは至らない。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)は、アルコールで有名だが、ハシシも使っていたと言われている。統合失調症だったと言う説もあるが(そうでないという説もある)、自殺する2ヵ月前に書かれた『星月夜の糸杉』は、幻覚とはどのようなものかよく表しているように思う。LSDでは、このような感じで景色が見えることはしばしばあるが、カナビスではもっと弱いか稀なのではないか。
カナビスの聴覚効果
幻聴というのも幻覚と同じで、無い音が聞こえるよりも、普段聞こえているはずだが気がつかなかった音に気づくことのほうが多い。カナビスで音楽が繊細に聞こえるようになったという体験はごくありふれたもので、誰でも、カナビス体験としては最も早い時期に経験する。これは、カナビスの酔いのレベルが低くくても頻繁に現れることを反映している。
統合失調症では、幻聴があたかも誰かが喋っているような実際の声として聞こえ、悪口や何か命令されたような脅迫に聞こえるとされているが、一般に、カナビスでは緊張がとけてリラックスするので、聞こえても、脅迫的なものよりもポジティブな音のほうが多い。
もともと、音は視覚よりも抽象性が高い。これは、馴染のない言語を聞いても単なる音としてしか聞こえないが、自国語ならば自然に意味あるものに感じることでもわかる。音は脳で処理される際に多くの情報が付け加わるために、知識や過去の経験やそのときの心理的な状態に影響を受けやすい。
このために、リラックスできる場所でカナビスを使っても音がネガティブに感じられるようなら、心理状態がネガティブになっている可能性が高く、しばらくカナビスを中断するか止めるべき時だと判断すべきだろう。
カナビス体験では視覚や聴覚は脇役
視覚効果や聴覚効果だけに焦点を合わせてカナビスを語っていると、カナビス体験の全体像を見失う。実際には、視覚や聴覚はカナビス体験の脇役に過ぎない。カナビス体験の主役は、内省的な知覚にある。
カナビスでは、聴覚が敏感になって繊細な部分まで音楽が聞き分けられるようになるが、さらに知覚を通じてその音楽が理解できるようになる。また、何気ない物を見てパターンや意味を感じるのは知覚の仕業だ。アメリカの著名な現代詩人アレン・ギンズバーグは 『破滅を終わらせるための第1宣言』 で次のように書いている。
当然のことながら、カナビスを吸えば誰もがギンズバーグのような体験ができるわけではない。聴覚や視覚から入ってきた刺激が、その人の知識や過去の経験が知覚に反応して、それまで無かった世界がその人にだけ見えるようになるのだ。カナビスの最も深い「幻覚」はこのようにして見える。
体験者としての自分、観察者としての自分
カナビス体験の特徴は、何かを感じ「幻覚」を見ている自分と、その自分がカナビスを使ってそのような状態になっているのを見ている自分がいることを自覚できることだ。酔いのレベルが高くて話をしたり体を動かすことができなくなっていても、そうなっている自分とそれがカナビスによるものだと自覚している不可分の自分が二人いる。
たぶん、精神科医ならすぐに精神分裂とか離人・離脱症と診断するかもしれないが、実際にはそんな対立的なものではない。相互補完的で安心感があって心地よく、一体感があって何も矛盾を感じない。自分が自分でないと感じるようなこともないし、分裂して葛藤するようなこともない。
統合失調症とカナビスの体験では 「幻覚」 を見るという共通点を認めたとしても、病識がないとされる統合失調症と違い、カナビスによるものだと自覚している自分がいるという点が決定的に違う。また、カナビスでは酩酊して眠ってしまうことはあっても、アルコールのようにブラックアウトして記憶を失なってしまうようなことはない。
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マリファナは特殊な視覚的、聴覚的な美の知覚力にとって有効な触媒である。わたしはあるジャズ曲の構成やマリファナの影響をうけた新しい様式の古典音楽を理解したが、それは多年わたって正常な意識のなかでも鮮やかに留まっている。
わたしはマリファナで気分が高揚している時はじめて、パウル・クレーの『魔法陣』という絵をクレーが意図した通りに(視覚的に三次元の空間構成として)見られるということを発見した。わたしはマリファナで気分が高揚した時、『水浴びする人たち』を見ているとはじめて、セザンヌが二次元のキャンパスの上に(この画家が手紙で述べているように色彩を近づけたり遠ざけたり、三角や立体の構成によって)達成した空間についての「小さな感情」に気づいた(「理解した」)。
さらにわたしは、以前はめくらのように気づきもしなかった自然のパノラマや景色の多くを、新しい目で見るようになった。マリファナを使用することによって、畏怖と細部が意識されるようになったのである。これらの知覚は永続的なものである―― すべての深い美的経験は痕跡を残し、何を求めるべきかという考えを残してくれ、それは後になってもたどることができるのである。
わたしはマリファナで高揚した気分で、リック美術館を歩きまわっている時、クリヴェリの均斉が好きになった。レンブラントの『ポーランドの騎士』をはじめて死の馬に乗った崇高な若者として見るようになった――騎士の顔にわたし自身を発見したと言ってもいい。