第1章 オランダ寛容政策の幕開け

●すべては数人のくわだてから始まった・・・

オランダにカナビスがもたらされのは1965年ごろだったが、その当時はカナビスが商売にしようというビジネス的な動機があったわけではなかった。 カナビスが知られるようになったのはオータネイティブなライフスタイルをアムステルダムに持ち込んだ若者たちで、最初のころは主にレバノン産のハシシを吸っていた。やがてハシシの香りはアムステルダムの街角で公衆と警察の双方に知られるところとなり、スプイ地区に組織されたハップニングというイベントが注目を集めるようになった。

このイベントは明確な意図を持ったデモだった。集会の首謀者はロバート・ジャスパー・グルートフェルトだった。グルートフェルトは、学校や教育に馴染めず仕事も好きになれずにどれも長続きせず1時間ともたないこともあった。1955年にはアムステルダムの運河でボートを暴走させ全国新聞の見出しになったりしていた。

その後、彼は有名な「ノンスモーキング・マジシャン」になって、本来の目的とは全く反対のスローガンを掲げたのだった。当時、タバコを吸い続けるとガンになることが発見され、そのことを標的にした。抗議としてタバコのポスターに「K」(Kancerガン)と言う文字を次々と落書きした。その結果パブラックスという販促ポスターの広告会社から訴えられ裁判所で謹慎処分を受けた。しかしグルートフェルトはそれでやめるどころかさらに使命感をもってポスターに K をペイントし続けた。1961年に再び逮捕されて今度は有罪となり60日間の刑務所行きを言い渡された。

刑務所から解放されると、彼は同士の協力でアムステルダムのライツェワー通りコルテ29番地に活動拠点をおき、1962年、「アンチスモーク寺院」 別名 「K寺院」 を開設した。そこでグルートフェルトはアンチスモーク・マジシャンを演じることになった。たぶんその時は彼自身は気付いてなかったが、彼はオランダで最初のカナビス活動家の一人になっていた。

1965年、グルートフェルトは、ピーター・スチューサント会社の資金で作られたアムステルダムのストリートキッズを象徴した子供の像リーベゲンジェのあるスプイ地区でハプニンイングを始めた。もうもうたる煙が演出されたがそれにはタバコの煙だけではなくチラムやジョイントが回され吸われたの煙も含まれていた。このハプニングは数百人もの人の関心を引き寄せた。

しかし同時に警察も引きつけ、公秩序を乱すとして圧倒的な力の行使によってハプニングは妨害された。翌週にはさらに大勢の人が押しかけて再び警察と衝突がおこった。そうしたことが数週間続くうちに警察と彼のグループとの土曜の夜の恒例試合のようになっていった。グループはその後すぐに「プラボ」という宣言を発表した。

●プラボ運動

反核爆弾の活動家でアナーキストでもあったローエル・フォン・デューイがプラボ運動を立ち上げた。
「プラボは、アナーキスト、プラボたち、町の若者、アジテター、囚人、マジシャン、無抵抗主義者、無学者、ハプニング企画者、暴力革命主義者、放火常習者、田舎ぺ、同性愛者、野蛮人、暴徒、国家秘密警察、そして無法者を代表する雑誌。 プラボは、資本主義、共産主義、ファシズム、官僚主義、軍国主義、プロフェッショナリズム、その他の権威に対抗する。」
フォン・デューイはドメラ・ニューハウス発行の「自由社会主義」の後継雑誌「フリー」の編集者の一人だったが、古くさい「フリー」を新しいリーフレットにして再発刊させるためにすぐにそこを辞めてしまった。そして発行した雑誌が 「プラボ」 だった。プラボという言葉はプロボーク(挑発)するを短くしたものだった。

最初のリーフレットは1965年7月12日に発行された。しかし1週間後には雑誌は警察に押収され、フォン・デューイは副編集長だったロブ・ストークやルー・シュメールペニク、ハンス・メッツらとともに逮捕された。

彼らはスプイのハプニングに加わることに決め 「白自転車計画」 を始めた。警察との衝突は日常茶飯事だった。プラボはその年に行われるアムステルダムの市議会選挙で議席を獲ることを計画して活動し見事に13000票を獲得した。デューイのグループは大きく成長し自らをプラボと称するようになった。彼らは、スプイの子供の像の周りで行われているハプニングにグルートフェルトのハシシ・スモーキング・ヒッピーに仲間として加わった。

プラボの一部の人たちのハシシを吸っている写真がマスメディアのハプニングを扱った記事の表紙になると、当局によってカナビスと市民の不安とが結びつけられだんだんと公共の関心事なっていった。しかし大衆は警察のスタンスは支持せず、ピッピーやプラボが当局に立ち向かう姿に好意をもっていた。プラボはハプニングに来る人たちに干しブドウやバラの花をプレゼントするというユニークな活動で共感を得ていた。

警察はこの非暴力でアナーキーな解放されたやり方が気に入らずピッピーやプラボたちを追い立てて攻撃的に振舞うようになった。海兵隊員を仕向けることすらあった。しかし、ハプニイングでのプラボのこうした「おどけた」活動にはなんの実害もなかったので、オランダ市民は警察のこうした振舞いに怒りを抱きはじめた。市民たちの意見は、ハシシの喫煙が彼らの穏やかなライフスタイルの一部でピッピーやプラボたちは悪いことは何もしていないというものだった。


サンドイッチを食べ、ジョイントを吸うピッピーたち


●結婚式の煙爆弾

しかしプラボのすべての活動が共感を呼んだわけでもなかった。彼らはますます大胆になって有力な報道機関の力をさらに利用するようになっていった。彼らは、1966年3月10日に行われたオランダ王女ベアトリクスとドイツ伯爵クラウス・フォン・アムスバーグの結婚式のセレモニーを大々的に妨害することを計画した。

この計画の立案者の一人が後に筋金入りのカナビス活動家になったキース・ホッカートだった。結婚式の前夜に彼は自分のハウスボートで、ルー・シュメールペニクやジャール・ザンドバーゲンなどのプラボたちとプラボのトレードマークの煙を出す煙爆弾を作った。彼らはパレードのルートの秘密の場所でその時が来るのを待った。

ホーカートは王女の馬車が視野にはいると白い鶏を放した。それを合図にジャーがいくつかの煙り爆弾を投げつけた。彼と妻のリアはその場で逮捕された。怒った観衆はホーカートを運河に放り込んだが、報道によると彼はずぶぬれになっただけでその場を逃れた。ベアトリックス王女は立ちこめた煙が徐々に消えていくあいだもずっと聴衆に手を振っていた。

行事が終わったあとでルイ・ウイット警視総監は、鶏は予想外だったが煙爆弾ぐらいは投げ込まれることは折り込み済みだったと語っている。「そんな具合で、ベアトリクスとクラウスの御両人が安全なパレスに戻れられて全員がリラックスしたときに私は警備の人たちに向かって、諸君、スムーズに終わった、と総括しました。」  しかし後に警察は 「爆破班は洗練された完璧な組織を持っていた」 とも述べている。


アムステルダムを覆う煙。プラボの攻撃!


●プラボの死

そして1967年5月13日、突然、最後のプラボ・ハプニングが行われ「プラボの死」が宣言された。プラボの発刊から20か月と1日後のことだった。決して警察に負けたからではなく、もうすでにプラボすることはほとんどやり終えて世界中のメディアの注目を集めることに成功したからだった。

ある学生は暴力的な警察の振る舞いについて次のように書いている。「全く罪のない人々さえ警察にどつかれ投獄されることすらあった。オランダの司法は何千人もの注視のなかで完全に信頼を失った。1934年以降の平和時のオランダでは経験したこともない暴力の爆発でアムステルダムは緊張した空気に覆われた。」(ルドルフ・デ・ヨン、プラボから)

ハッピーなスモーカーに暴徒はいなかった。アムステルダム市長バン・ホールは抵抗派に対して意固地な態度をとりすぎて辞任し、警察長官も引責辞任した。プラボ運動とそのアイディアは大衆から広い支持を獲得し認知されていった。彼らは目的以上のものを果たしたのだった。運動を起こしたプラボたちはそれぞれ別の道に進むことを決めた。彼らは何と言われようとも自分の道を行くというモットーに忠実だった。

●愛のウイルス

フォン・デューインはアナーキストグループのカバウテル党を結成し政治活動を続けた。カバウテル(地の精)はアムステルダム市議会に何人かのメンバーを送り込むことに成功した。その後フォン・デューインの過激さは少しずつ薄らいだとはいえ、いまなお「緑の党」で政治活動を続けている。

シュメールペニクはデザインスタジオを開設し大成功を収めた。彼はまた「ホワイト・カー・プロジェクト」を立ち上げ共有自動車をデザインして開発したが、製造経費がかかり過ぎて彼の白いユリの花は美しく散っていった。ストークはプラボ・マガジンの印刷担当だったが道を変えずプリントショップを開いた。彼は世間から雇い入れた人々のためにひたすら働いて前向きな運動を支持した。

キース・ホーカートはハウスボートに戻り、その後何年もカナビスの種子とその知識を育て続けた。彼はグルートフェルトと共に再び世界に向けて新聞を発行した。警察は今度は好意的だった。変革の種は蒔かれ、アムステルダムとオランダに自由と民主主義の新しい時代が訪れた。1967年、アムステルダムは「愛のウイルス」に感染した。

オランダの首都はヨーロッパのヒッピーの首都になり、ライツェ広場の南にあるホンデル公園はマジックセンターになった。オランダが以前から認めてきたリベラルなドラッグ政策と性のモラルのおおらかさに人々が洪水のように押し掛けて来た。あまりに急激にピッピーの数が増えてしまい、ラブ・インやピッピー・セレモニーを行うための大きなコンサート会場を探さなければならなくなった。冬に向かい、1967年10月29日、ピッピーのグループは暖かくセレモニーを行える場所を求めてホンデル公園を後にした。

●ミュージック、マリファナ、そしてミルク

彼らは公園のすぐ外のベッテリングスカンス地区の以前は教会だった場所をスクワッティング(占拠)した。市議会はアムステルダムの若者たちのためにポッミュージック・テンプル用に利用できる場所を作ることを約束していたが、ピッピーたちからすればアムステルダム市の役人は何もしようとはしていなかった。彼らは何の制止もなく教会に入り込んだ。当時は、長期間空きやになっている家やビルにいつのまにか住み着つかれてスクワッティングされるとオーナーが追い払うことは容易ではなかったが、彼らは後で警察にたたき出されてしまった。

翌年の末に市議会の援助で「パラダイス」と呼ばれるアムステルダムのポップ・テンプルがオープンした。パラダイスのそばには似たような小さなクラブ、「ビートクラブ66」や「クラブ67」などができて、ビート・ファンはお気に入りのレコードを聞けるようになった。

オランダでの最初のポップ・フェスティバルも1967年に開催され、後の「ローランド・パラダイス」の先駆けとなった 。規模は小さくなったが、多数のバンドが参加して マリファナもたくさん吸わていた。 フェスティバルはアムステルダムのライ地区の古いビルディングで行われたので「Hai in de Rai」と呼ばれた。この名前は英語の「ハイ・イン・ザ・ライ」と発音が似ているので、オランダ人と英語を話すピッピーやビート・ファンの双方にわかりやすかった。

「クランゲル」、「ロディー・ロブホーク」のようなバンドが出演し、そのほかにもライトショー、映画、スライド、ミルク、ポスター、ハーレー・ダビッドソン、花、飲み物、ダンス、りんご、フェイスペインティングなどもあった。 その当時、啓蒙詩人のサイモン・ビンカーン、前衛芸術家のジョニーーザ・セルフキッカー、「エレクトリック・ジーザス」として知られたパフォーマンスアーティストのジョニー・フォン・ドアたちがいた。

1968年になると、アムステルダムには「ファンタシオ」「リジン3」というもう2つの重要なクラブが出現した。ファンタシオはコミック・リラックス・センターとなって短期間で閉鎖されたが、ハーブティーを楽しみながらくつろげる場所として世界的に有名になった。リジン3はフォンデルパークの橋の下のあり小さなバンドが独自のギグを演じていた。同時期に「プロバディア」が大人気となった。最初のプロバディアは1年ほど前にフェリックス・メリテで始まったショーだった。

こうしたミュージックショーはバンドばかりではなく、マジックやライトショー、ポルノ映画などの催しもあった。これらはプラボのハップニングにビートミュージックを混ぜ合わせたものだった。フェリックス・メリテがキャバレーのスターだったラムゼス・シャフェイに場所を貸し出した頃、プリンス・ヘンドリカデという場所でファンタジオはパラボーヤのステージを始めた。それらの催しは全国の人を引きつけ、パラボーヤは国全体の興奮になって1970年まで続いた。

●乗船終了!  ローランド・ウイード・カンパニー船出

キース・ホカートとロバート・ジャスパー・グルートフェルトは再び共同して「ローランド・ウイード・カンパニー」を設立し、1969年に最初のヘンプ専門店をオープンした。

彼らはアムステルダムの道路や公園、ベランダ、バルコニーなどいたるところにカナビスの種を蒔いた。キースのハウスボートの上には陸からも植物が見えるように置かれていた。15000本を1本1ギルダーで売り始めた。何百人もの人がこのチャンスに惹かれて毎日のようにボートを訪れた。グルートフェルトとホーカートはどんどん売って、客は持ちきれるだけの苗を抱えて立ち去った。そのシーズンは数週間で合計30000本を売り切った。

この緑の商売は近隣に渋滞も引き起こした。栽培用にトランクいっぱいの植物を買おうとしていた馴染みの客はどういうわけか交通整理の警察に先導されてローランド・ウイード・カンパニーのボートのところまで連れていってもらたりした。 予期していなかったとはいえ、ローランド・ウイード・カンパニーでの交通渋滞は彼らが目指していた目標 「アムステルダムのアスファルト・ジャングルをヘンプ畑に」 とは逆の結果になってしまった。


キース・ホカートとロバート・ジャスパー・グルートフェルト。マリファナ販売中!

今日では彼らのミッションが成功したことを誰もが歓迎している。彼らよって起こされた緑の雪崩は広がりなおも勢いを増し続けている。ハプニングに続いてカナビスの種の販売を始めた彼らは最大の尊敬と感謝の対象となっている。

1994年、キースはハウスボートで次のように語っている 「私たちのローランド・ウイード・カンパニーは常に象徴的な機能を果たしていたのです。お客には5ギルダー相当の草を売り、後は自分でやりな、もうここに来る必要はない、と伝えました。」 ハウスボートは2000年に火災に遭った。彼はその夜ホームレスになってしまったが、翌日には友達の助けられた。

グルートフェルトは残骸のボートを修理して港の桟橋に定置しそこでオルタネーティブ・ワークショップを始めた。屑を使った景観芸術はそのひとつで、オルタネーティブというテーマが彼の生きる道になった。

●ストック情報。カナビスの売値のラジオ放送

1973年に保険相になったイレーヌ・ボーリンクの息子のクー・ズワールは「これが始まり」という放送番組を毎週やっていたが、そこで「ストック情報」としてオランダのハシシとグラスの市場価格を声高に語った。オランダの日刊紙パルールで、彼はこのサービスを 「いかさま売人からユーザーを守るための情報」 と説明している。

●1968-1976年、オランダのカナビス論争とその結果

ソフトドラッグ政策で最も重要な研究と進展はバン委員会によって行われた。この委員会の名前は、神経学者で精神衛生部門の主任医学調査官だったP・バン博士にちなんで付けられた。彼は異色の人だったが常識人としても知られていた。

委員会の秘書官だったR・フォン・グレン・ハーマンは 「バン氏は、魔女狩りはさけるべきで刑務所をハシシ・スモーカーでいっぱいにする必要はないという明確なガイドラインを持っていました。私も同じように感じていました。」と回顧している。とは言っても、当初バンは、彼の部門の役人たちの大半はハシシとマリファナの合法化を支持していたものの、それを司法省がどう思うかとても懸念を持っていた。しかし抵抗は主に保険省から出てきた。省のドラッグ政策の責任者はクリスチャン歴史党書記のR・J・H・クルシーガで保守的・教条的なことで知られていた。

委員会は、影響力を持った何人かの社会行動の専門家も含め、社会のあらゆる階層の代表で構成されていた。ファン・ガレン・ハーマンは周到な準備の後、バン委員会の報告書を書き1972年2月に発表した。彼女はドラッグ使用の背景について次のように述べている。
「経済福祉はとても重要な課題です。若者たちは片方で常識を受け入れ、その一方でそれを拒絶しています。多くのドラッグ・ユーザーは物質的な成功を得ようとは思っていません。彼らにとって、ドラッグを使うことはライフスタイルなのです。幸福や楽しみが人生の最大のゴールなのです。核兵器や人口過剰、環境汚染、人種差別、貧富格差の増大といった問題に直面し、多くの若者が将来を悲観しています。」
報告書の結論は、一言で言えば、ヘンプ製品が身体依存を引起こさず中毒性はないということだったが、委員会は新しい規制法に対する勧告案を一本化することは出来なかった。しかし、法律を変えなければならないのは明らかになり、委員会は3つのオプションを併記してどう対処すべきかを勧告した。
・個人的な使用や売買目的の少量の所持の非犯罪化。重罪とするのをやめて逮捕なしの罪とする
・酒場で完全に合法的に販売
・上記2つの中間
バン委員会の慎重な姿勢は、また、閣僚たちのカナビス論議の当初の反応を考慮したものでもあった。1972年7月の覚え書きで政府はバン委員会の勧告をさらに前進させた。試験期間を設けようという考えを完全に退けて、さもなければハードドラッグに対する現在の比較的軽い罪状が放置されることになるので修正のための先送りは避けるべきだと結論に達した。ただちにハードドラッグをソフトドラッグから分離して罪を重くし、逆にハシシやマリファナの所持や使用の罪を軽くすることを提案した。

普通こうした提案は困難を伴わずに受け入れられることはない。保険省は長い間カナビスの法律の変更に対して頑なに反対していた。しかし司法省の広範な圧力のもとで保険省も政府の原案を若干薄めて承認した。さらに1973年の政権交代で、それまでの保守派の大臣クリシンガ博士が、将来の完全合法化を指向していた社会民主党のイレーヌ・ボーリン大臣に交代して保険省のスタンスは急速に変わった。


マイクの後ろがボーリン大臣


●「単一協定」の壁

ボーリン大臣は、たまたま合法化論者のクー・ズワートの母親だった。彼は自分のラジオ番組でカナビスの価格や品質について論じていた。 就任直後、彼女はヘンプは合法化されなければならないと発表し、諮問機関にカナビスを自国の資源から作れるかどうかを調査させた。 保険省の役人たちは政変の結果、カナビスの非犯罪化に向けて多くの関心を払うようになり、3省の大臣たちは阿片法の完全な改革の可能性について数年がかりで様々な研究を行った。

最大の障害は1961年の「単一協定」だった。この協定ではカナビスの合法化は認められていなかった。 協定の制約のなかでの唯一の可能性は罪を軽犯罪にすることだった。さらなる合法化をすれば国際的な問題を起こす可能性があった。 その当時のオランダに生育しているヘンプは品質が悪く輸入が必要だったが、国の専売が事実上不可能なので市場は外国製品をあてにせざるを得なかった。諮問委員会とすれば、80年代以降にオランダ・ヘンプが改良され最高の競争力を持つまでになるなどとは予想もしていなかった。

ではどのようにしてオランダは禁止されていた外国からのマリファナやハシシを非合法的に輸入すればいいのだろうか? 国際条約の義務はオランダのカナビスの合法化を阻んでいた。しかし、これは政府の目標に必然的にでてくることでもあった。1974年1月に発行された覚え書で政府は次のように主張している。
個人のカナビス製品の使用及び所持は早急に刑事裁判の対象からはずさなければならない。しかしながら、条約の義務との衝突ですぐに実現することはできない。政府は、単一協約が、国の考えによってカナビス製品の分離政策が自由に行えるように修正が可能かどうかを国際協議の場で話し合う。
単一協約の抜け道について膨大な調査が行われたが実りはほとんどなかった。また、協約の修正に向けた国レベルの慎重な協議も何も生み出さなかった。

しかし、1976年、オランダの国内法である阿片法は改正され、カナビス製品は、受入れがたいリスクを伴うドラッグ、いわゆるヘロインやコカイン、アンフェタミン、LSDなど、とを区別するようになった。カナビスの取引と使用についての罪状は大幅に軽減されたのに対して、それ以外のドラッグ取引の罪については大幅に引き上げられた。

30グラム以下のマリファナやハシシの所持は軽犯罪になったが、このことがカナビスを販売するティーハウスやコーヒーショップのブームを引き起こした。オランダ社会に新しい流れが始まった。「チープ」とか「ゴーイング・ダッチ」という表現が「オランダに行ってコーヒーショップでハイになろう!」という全く新しい意味で使われるようになった。