第3章 ハシシはいかにしてビジネスになったか
●遅かれ早かれ合法化
1974年、文化・観光・社会福祉担当相のウイム・メイジャーは独自のカナビス政策で注目された。彼は 「ソフト・ドラッグは若者相手の合法的なディーラーのネットワークを通じて配布されるべき」 と考えていた。
カソリック人民党のドライ・フォン・アグト司法相はこの提案に賛成ではなかったが、
最終的には政権を担当するすべての党がソフトドラッグとハードドラッグの間を明確な区別する政策が必要だと認識するようになった。
将来は 「遅かれ早かれ合法化」 される。それまでの間もオランダ唯一のコーヒーショップ、メロー・イエローは繁盛していた。寛容政策が行われようが行われまいが政治的混乱にはなんら影響されることなくハシシやマリファナの販売を続けていた。
ワーナードのメロー・イエローは3年間、市や警察との間で大した問題も起こさずカナビスを提供してきた。
メロー・イエローのヒッピーたちが生計を立てているばかりではなく、さらにそれ以上のことをやって成功しているのを見た他の人たちは羨ましがった。カナビスの需要は大きく成長していたので他にもコーヒーショップが必要になってきていた。しかし、ヒッピーたちは非商業的だったので開店時間も気分次第で、メロー・イエローは競合相手のことなど気にしていなかった。カナビスの商売を始めるには、安全で魅力的な場所と皆に提供できる程度のカナビスの大きな塊とやる気さえあればよかった。
●変革を求めてラスランドに進出
メロー・イエローの常連だったマータン・ブルッセラーはすぐに赤線地域に隣接するラスランド(ロシアの意味)通りにコーヒーショップを開いた。店の名前も「ラスランド」と名付けた。
後にワーナードは、マータンが警察との面倒を避けるためにいかに都合のよい立地を選んだか語っている。マーテンは赤線地区との境界になっているラスランド通りのウォームスタット警察管区側に店を見つけのだ。
赤線を抱える管轄区はオランダでも最も物騒なところだ。それを避けてマーテンは通りを隔てただけの別の管轄にコーヒーショップを出したのだった。
このことで全く手入れを受けなくなったわけではないが、後に赤線地区に店を出した「ブルドック」に比べれば回数はとても少なかった。
ラスランドはとてもキュートな店で3階の店内は実際よりも大きく見える。それは今でも変わりなく、すべてのスモーカーにも居心地がいい場所になっている。
ブラッセラーは冗談まじりに 「変革のためロシアに侵入せよ」 というスローガンを掲げていた。
そんな挑発に警察も何度か撤回するようにやってきたがブラッセラーは止めなかった。現在、ラスランドはオーナーは変わったものの同じ名前で営業している。マータンは今はタイあたりに住んでいる。
●カナビス界の帝王ハンク・デブリ登場
しかし、世界的に最も有名になったコーヒーショップはもう一人の先駆者ハンク・デブリが始めたブルドックだった。
ハンクはコーヒーショップにコマーシャリズムを持ち込んだ功績で評価されている。彼は現在もブルドックをやっており、コーヒーショップ史上もっとも長く活動を続けるカナビス界の帝王と言われている。
ハンクはカナビス・ビジネスの障害に立ち向かい、カナビス産業に身を置くことの代償に多大の犠牲を払ってきた。彼がオランダではもっとも多く起訴され妨害をうけてきたが、今ではビジネスも順調だ。
ハンクは16才のころからポットを吸い始めた。彼は、アムステルダムでも最も熱い場所である赤線地区で育った。
1970年、ハンクは友達とロッテルダムのクラーリング・フォレストで行われていた有名なポップ・フェスティバルに出かけた。
この日がハンクの運命を変えた。コンサートを聴きながら吸うためのハシシも持っていったが、友達があっというまに全部のハシシを売ってしまったのだ。ハンクはアムステルダムにハシシを取りにもどることを決心し、今度は公園の橋の上でおおぴらに自分で売った。
主催者に宣伝してくれるように頼み、放送されると15分で売り切れた。
その日、彼は何度かアムステルダムを往復し儲けを手にした。
ハンクはフルタイムでハシシ・ビジネスにかかわることを決心した。彼は、当時のカナビス・シーンの主役だったメロー・イエロー、メルクウェグやパラダイソのようなディスコにいるピッピーやインテリとは違い、ストリート・キッズだった。
ハンクは小さなセックス・ショップで商売を始めた。店はアムステルダムのアウデ・フォールブルグ近くのドルベジニン通りにあり、ハシシ仲間のたまり場になっていた。
赤線地区のど真ん中だったのでカナビスを欲しがる外人ツーリストに簡単に接触できた。ハンクは商売を拡げ、店でカナビスを吸いに来て本国にも持って帰りたいというツーリストたちにもたくさん売り始めた。
●秘密エージェントの陰謀
そして、200キロのハシシを届けて欲しいというドイツ人に会った。
ハンクはそれに応じることに決め、ハシシを集めるために当時の彼のコネクションをかけずり回った。
「全部集めるのに何日もかかった。思ったより簡単じゃなかった。」 と彼は回顧している。
ハンクはいくつもの安全策をとった。ドイツに運ぶために、荷物を2つに分け、サンプル用に3キロだけ自分の車に積んだ。バイヤーにそれを見せ、本当に金を持っているか確かめるつもりだった。残りの197キロは他の車に積みバイヤーが金を用意してから出すようにした。
彼はドイツの客が指定する場所で会うように手配して、生涯に残るビッグな取引を期待してアムステルダムを後にした。
しかし取引はそうはいかなかった。ハンクは彼の輸出活動を止めさせようとするアメリカの秘密エージェントに協力したドイツ麻薬局にはめられたのだった。ドイツで車っを降りた瞬間ハンクは逮捕された。だが、その時彼が持っていたのは3キロだけだった。警察は、荷物が2台の車に分けらていて3キロは見本で残りは取引成立後に渡されるとは予期していなかった。
秘密捜査としては穏健だったが、ハンクはペテンに掛からないように注意した。結局警察は3キロのハシシを見つけただけだった。ハンクは決して話さなかったので残りが見つかることはなく、197キロは他のドライバーがオランダに持ち帰った。
ドイツ警察はハンクに残りのハシシについて聞き出そうとしたが、そんなことは何も知らないと答えた。
「警察は残りを決して見つけられなかった。」 しかし1973年に釈放されるまでドイツ刑務所に2年間投獄された。
●ブルドック・コーヒーショップ開店
オランダに帰るとただちにカナビスの商売に復帰した。逮捕と有罪判決で以前よりさらにやる気と賢さを増していた。
ハンクは、メルクウェグやメロー・イエロー、パラダイソのような行きつけの場所でピッピーやインテリとは馬が合わないと感じていた。
彼はみんなハシシを欲がるよになったことを好ましく思っていたが、ピッピーたちは真剣にビジネスとして取り組んでいないという意見を持っていた。ハシシはもっとプロフェッショナルに扱われるべきであり利益にならなければならない、と考えていた。
ハンスはコーヒーショップ・ラスランドを何回か訪れた。マーテンのことはメロー・イエローで会って知っていた。彼は、きちんとした営業時間をもち各種のコーヒーをつくるエスプレッソマシンを使ったマーテンの商売のほうがメロー・イエローよりも営利的だと思った。
店はティーハウスではなくコーヒーショップと呼ばれていて、お客が好きなカナビス・ブランドを選んで注文できるようにカナビスの種類を書いたメニューも用意されていた。
ハンクは少なくともマーテンと競争できるぐらいのコーヒーショップを開店しようと決心をした。
彼は、1975年、セックス・ショップを改装し、カプチーノとティーとカナビスを用意して最初のコーヒーショップを開店した。
店の名前は彼の忠実な犬ヨリスにちなんで 「ブルドッグ」 と名付けられた。いまでは有名で巨大なビジネスに成長しているが、当時は運河からも入ることも可能なビルの角の小さな店に過ぎなかった。
1975年開店のブルドック1号店
●デブリ方式
「デブリ」方式はコーヒーショップの即成功をもたらす新しいコンセプトの先駆けになった。ブルドッグはコーヒーショップからホテル、土産物屋と手を広げ、ハンクはアムステルダムの繁華街のすべてに支店を持っている。
ハンクはコーヒーショップの「ハウス・ルール」を始めた一人だ。店ではノーハードドラッグ、ノー暴力、ノー盗品、守らなければ警察を呼ぶ!
こうしたハウス・ルールは最初にラスランドのクー・ズワートとマーテンが作り、店では許可されたソフトドラッグしか扱っていないことを警察に見せるために店内に掲示されていた。
後にこの自主規制は政府のカナビス寛容ガイドラインに統合されていくことになるが、ハンクのハウス・ルールは警察には良い印象を与えたわけでもなかった。警察はハンクへの関心を解いたわけではなく警戒を続けた。
しかしハンクはコーヒーショップの娯楽的な側面にも先見の目を持っていた。彼はコーヒーショップもバーやカフェのように運営すべきだと信じていた。年月を経てみれば彼が正しかったことがわかる。ブルドッグはオランダでハイネケンの第3位の販売実績がありトップディーラーの一つになっている。ハンクのビジネスはたとえハシシやウイードの売上げがなくても生きていける。彼はカナビジネスをどのように営利化できるのかを示し国中で模範とされてきた。
●1976年11月、黙認政策始まる
ワーナードやマーテン、ハンクなどの初期のパイオニアたちが今日のカナビス・ビジネスシステムを作り上げている間、オランダ政府も合理性のあるカナビス政策を模索していた。
1976年、オランダ政府は 「受け入れがたい危険なドラッグ」 とマリファナやハシシのような 「ヘンプ」 製品を区別する法案を成立させた。法案は、ヘロインやアンフェタミンのような 「ハードドラッグ」 の売買に対する罰則を強化するという条件付きで大多数の賛成で通過した。数ヶ月後オランダ上院は決定を覆そうとしたが、司法大臣ファン・アグト(当時KVP党、現在CDA)が原案のまま受け入れるように上院を説得した。
1976年11月、オランダのドラッグ法の根幹とも言われる新阿片法が発効した。
カナビス30グラム以下の所持はもはや犯罪ではないという世界にも類を見ない政策がオランダに誕生した。
バン委員会はすでに「重要な社会的利益」のために司法は訴追を控えることが出来るという、いわゆる「適時原則」を掲げていた。これと新法が一体となって後に寛容システムといわれる道筋を付けたのだった。このようにして警察は30グラム以下のカナビス所持については黙認するようになった。
最終的な目標は、ドラッグそのものと 「ユーザーの状態」 を明確に区別して警察当局にハシシスモーカーの魔女狩りをさせないようにすることだった。オランダの深刻なヘロイン増加問題も、ソフトドラッグ・ユーザーをハードドラッグ市場から効果的に切り離したいという理由になっていた。
新政策はドラッグの現実とドラッグ・ユーザーという二面性を認めて防止と教育プログラムが始められた。他の国ではドラッグの使用は警察と司法のみが扱う犯罪だが、オランダでは社会的で医学的問題と見なされたのだった。
一体どのようにしてオランダは他の国と違ったドラッグ政策を生み出すことができたのだろうか?オランダのカナビス寛容政策を促進させたいくつかの影響や流れや出来事をあげてみよう。
- アムステルダムでのカウンターカルチャーの勃興。ハシシやマリファナを主要な背景として60年代にはすでに世界の「マジック・センタ-」と言われていた。
- アムステルダム警察はヘロインとその中毒者と取引のほうに関心を向けていた。
- オランダ人の生まれながら持っているビジネスの才能がカナビジネスの機会に最大限の投資を促した。
- バン委員会の多様なメンバー構成が、医者や薬理学者だけで政策を決めてしまうという状況を防いだ。ヨーロッパの他の国ではドラッグの使用は犯罪か病気と考えられている。
- ドラッグ政策についての討論で政府が前向きだった。
- 適時原則が司法に「寛容」な取扱をできるようにした。(同様の原則はフランスにもある。だがどういう訳か オランダのシステムをいまだ非難している)
- オランダの著明な知識人が他の国の知識人よりも熱心にソフトドラッグを受け入れるように働きかけた。
- オランダの歴史には阿片取引をしていた人たちがいたので、ドラッグが良いビジネスになることが知られていた。
- ハシシ・スモカーの増大で刑務所に十分なスペースがなく全員を訴追することが事実上不可能になった。
●最初のブームに沸くカナビス業界
オランダが理性的なソフトドラッグ政策を取るようになってからもメロー・イエローは何度か捜査をうけた。もっとも世界で最初のマリファナ・コーヒーショップが手入れされた主な理由は、お客が道路に車や自転車を止めて通り道をふさいでしまったからだった。
警察がやって来てハシシを押収していったこともあったが、「彼らは二階に上がろうともしなかった」 とオランダ初のハシシ小売商ワーナードは言う。最も驚いたのは誰も逮捕されなかったことだった。「力があるように見せ」 たかったのではないか、と彼は推察している。
ワーナードはマーテンやハンクのやり方のほうが正しかったと認めている。
「コーヒーショップ・システムを成熟させたラスランドやブルドッグの人たちは賞賛に値いする。店を毎日早朝から夜中まで開けた。たくさんの非難や度々の手入れにも耐えた。ラスランドとブルドッグは今日あるすべてのコーピーショップに舗装道路を敷いてくれたのだ。」
1976年の司法省のガイドラインが完全実施された1980年、カナビス業界は突然のブームに沸いた。
長年に渡ってカナビスの合法化に向けてロビー活動をしてきたダッチ・カナビスの指導者エディ・イーグルマンは
「政治の透明性を確保するために政府声明が発行された」 のだと言う。「ヘンプ製品の少量販売に対する訴求の優先度が低いということは、実際上、警察や検事は小規模の小売りがあからさまな宣伝をしたり、他のドラッグを勧めたりしたときにのみ対応するということを意味していた。」
政府が受け入れた政策提言はオランダ法の変更を盛り込んだ政府声明として発行された。
すでに若者相手の店のハウス・ディーラーは警察から手入れを受けることはなく、個人がカナビス30グラム以下なら所持できるようになってはいたが、詳細は明らかになっていなかった。しかしこの声明で明確になった。今日では誰でもこの政策を読むことができる。
当局流の言い方をすると 「カナビスを勧めたり宣伝しない、ハードドラッグは扱わない、暴力を許さない、という単純なルールに従っている限り、コーヒーショップは事実上容認されていることを周知するのを妨げない」 ということになる。当然、コーヒーショップが30グラム以上のストックを持つことが出来ないという規制は非現実的だったが、カナビス業界にとっては些細なことだった。多くの人たちがこのチャンスに反応し、新しい市場でシェアを獲得するというただ一つの目標に向かってコーヒーショップやジュースバーを開いた。
確かに何十件単位でコーヒーショップの数は増えていったが、メロー・イエローの開店から8年、オランダ中で雨後の竹の子のようにコーヒーショップが本当に広がりはじめるのはまだ先だった。
●前警察署の建物にブルドッグの旗艦店 「ブルドッグ 最初!最高!最大!」
次から次へとコーヒーショップの開店が話題になっていった。ハンスはカナダにまで支店を出すほどだった。彼はまたアムステルダムのライツェ広場にある以前の警察署の建物まで手に入れて、大胆不敵にもコーヒーショップを開いた。
ブルドッグ・パレス。前は警察署だった。独房からグラスをどうぞ!
「そんなつもりじゃなかったけど、おかけで当局に目を付けられてしまて大きな災いの元になってしまった」 と彼は後に述べている。
ハンクがビルを買ったときにはすでに前のオーナーがレジャー施設を整えていた。しかし、ハンクがその跡地をコーヒーショップの旗艦店にして
「ハシシ・ツーリスト」 たちを引きつけようとしたので警察はいきり立った。
ワーナードとハンク・デブリ。ライツェ広場のブルドッグの旗艦店
当局との関係はハンクが過去最大の宣伝で世間をあっといわせたことで修復不能になった。彼は、1985年頭、サッカー決勝戦の行われたアムステルダムのオリンピック・サッカー・スタジアムの上を飛行機を借りて飛ばさせた。サッカーの観衆からは飛行機の流すバナーの幕に
「ブルドッグ 最初!最高!最大!」
という文字がでかでかと見えた。
デブリはまたアムステルダムのトラムにブルドッグの広告を出そうとしたが運転手たちが運転を拒否した。このことで当局がコーヒーショップの広告を禁止し、ハンクは宣伝することが不可能になった。だが、彼は世界的に有名なブルドッグのロゴと名前を使って大がかりなキャラクター戦略をはじめた。カナビスの葉の絵は使えなかったが、ブルドッグのロゴだから可能だった。
●犯罪組織の親玉?
政府は国税庁のエージェントを使ってハンクを何年にもわたって監査した。彼はとっくに正しい税金を払っていたが、彼らはさらに多くを要求してきた。
彼は、もし同業者にも同じことを適用するならばその時はそれに従うつもりだった、と述べている。もし、カナビジネス界で彼だけがめいっぱい税金を払わされたなら、税金込みカナビスを値上げせざるを得なくなり、つぶれていたはずだ。
アムステルダム麻薬局の前捜査官ダン・グリシェメールは「われわれ麻薬局はブルドッグを押さえつけようとした。われわれは彼の家や仕事場に8つの電話盗聴器を仕掛ける許可を得ていた」と言う。検察は秘密捜査官を派遣させもした。最初は少量から初めて、プリパックされたものよりも多量なものを公然と売っていないか調査した。平服の捜査官が数キロの取引を持ちかけ、しまいには14キロにまで購入量が増えた。
しかし突然、検察が全ての捜査をキャンセルし調査は全部ストップした。グリシェメールは続けて言う 「われわれは大変憤りを感じていた。ハンクの件がうまくいかなかったからではなく、余りにも労力と金を使い過ぎたからだった。われわれは大きな問題になってきたヘロインやコカインの取引に全力で取り組まなければならなかった。なぜハンクを追い回さなければならないのか疑問に思うようになった。彼は好感のもてる奴だし、自分のやっていることを秘密にしたりしない。」
グリシェメールはキャンセルされたはずの捜査が続けられていたのを知らなかった。ハンクがうち明けたところによると、秘密捜査官が受け取ったと思っていた14キロは実際には6キロしかなかった。
「当局は14キロ注文したが、受け取ったのは6キロだけだった。」 ハンクは言う 「スタッフの一人がつまらないミスをしたんだ。」
この結果、大がかりな手入れが行われて帳簿が押収された。その後、彼の全財産の押収令状が出され長期にわたる裁判が行われた。
彼はいまでも1987年12月4日付けの税金の書類を持っている。1982年1月1日から1987年9月までに納めたビジネス税の総額は3千百万ギルダー近くになる。
「たぶんそれ以上の5千万ギルダーの税の請求があった。」 彼は言っている 「彼らはどんな手を使ってでも私を破滅させようとした。」
彼は、特に当局が彼のことを「犯罪組織の親玉」呼ばわりしていることに対して今だに当局にわだかまりを持っている。
最終的に有罪判決を受けた後、10万ギルダーの罰金を科せられた。
つらいとき何度かタオルを投げ入れようと思ったが決してしなかった。彼のビジネスは今だ繁栄している。アムステルダムでは彼の店はいつも注目を集めていてすぐに見つけることができる。
●ハンクのカナビス喫煙のTIPS
ハンクが成功した理由の一つは彼がカナビスについて偏見がなかったからだ。
彼はカナビスでも乱用があることを知っていたので、カナビスでバッド・トリップしないように 「カナビス喫煙のTIPS」 を作った。多くのツーリストがオランダのカナビスの効力の強さを知らないので目を回してしまう。
ハンクのTIPSは今日でも役に立つ。
- ジョイントがあなたの問題を解決してくれると期待してはならない。
- ハシシやマリファナを毎日吸っているなら、時々2,3日間を空けてみよう。
- ハシシやマリファナを吸うと集中力に影響するので、学校や職場にいるとき、車の運転時には吸わないこと。
- ハシシやマリファナには高濃度のTHCを持っている強いものもある。経験豊かなスモーカーは吸っている量が十分かどうか、いつやめれば良いかわかる。しかし初心者にはわからないので、買うときに適切な情報を得ることが重要。
- 十分な経験がなければ、どのようなアルコール類とも併用はしないほうが良い。
- カナビス・ケーキを食べる場合はどの程度のカナビスを食べたか知ることは難しい。分かったときには食べ過ぎていることもある。少量から試そう。45分か1時間半で効果が現れる。それまで追加して食べるのは待とう。さもなければオーバードーズする。
- 時にはハシシやマリファナを吸って吐き気や不安で調子悪くなることもある。そのような時にはリラックスできる静かな場所を見つけ、何か甘いものを食べたり飲んだりしよう。パニックにはならないこと。一時間もすれば最悪の状態はおさまる。
- 医者にかかっているならハシシやマリファナを吸う前に相談しよう。妊娠している人は絶対に吸ってはならない。
- ハシシやマリファナの喫煙でタールや一酸化炭素のような物質も放出され、健康を害する。
- カナビスとタバコを混ぜて吸うことはタバコも吸っていることに注意しよう。ニコチンには中毒性がある。
- ストリートではハシシやマリファナを買わないこと。良いコーヒーショップを探そう。
- 外国に行く時はハシシやマリファナは持っていかない。
●ハンク帝国
ハンクは現在アムステルダムに5軒、そのほかに数軒のコーヒーショップをもっている。スモーカーに優しく娯楽あふれる店は彼の生まれ育った町のあちこちの繁華街にあり、27年経ったいまでも営業を続けている。
ハンクは旅人との交流も続けている。それが自分の夢を実現した場所アウデジン・フォーバーガルに国際ブルドック・ホテルをオープンした理由だ、と述べている。
「自分自身も多少なりとも旅をしてきたからバックパッカーや貧乏旅行をしている旅人が何を求めているか知っている。」
カナビスの大きな会社を運営する傍ら、彼はカナビス小売ユニオンのチアマンとしてオランダのカナビス事業者の権利の確立にたずさわっている。
ハンクにはトップ・ビジネスマンの素養と、ハッピーなスモーカーの笑顔とちょっとばかりブルドッグに似た風貌が備わっている。彼がブルドッグであることをやめることはない。
●新しいグラスの登場
マリファナ・コーヒーショップの最初の10年間はハシシの取引が大きく拡がった。当初、ほとんどのハシシは、休暇を利用してレバノンやモロッコ、インドなどから数キロをばくち的に持ち帰った人たちによって持ち込まれた。マリファナやハシシの需要の拡大は供給の拡大ももたらした。マリファナはインドネシアやコロンビアからの船便で始まった。
ワーナードはコロンビア・ウイードの荷が初めてアムステルダム港に入ってきた時のことを回顧している。1000キロぐらいあり、ほとんど種は入っていなかった。お客のほかマーテンやハンクたちに売るのに半年もかかった。
ハシシとウイードのコンビネーション
それほど大きな取引はまれだったが、入ってくる荷はどのどん多くなっていった。外国のディーラーとの取引やアムステルダムのドラッグ・トーリズムはもはやビジネスになっていた。セールスに限界はなかった。ビジネスはブームになり、需要の供給もうなぎ登りだった。
カナビスの友達のネットワークはオランダと周辺諸国の卸や小売りのネットワークになっていった。昔からの商売にかけるダッチ魂がマリファナやハシシを登場させた。もはやそれはなくなることはない。
警察はこのような変化に気付いていなかった。彼らはアムステルダムの阿片取引に狙いを定め監視するのに多くの時間を割いていた。アムステルダムの比較的小さなチャイナタウンに15軒ほどの阿片ハウスがあった。
数キロのハシシを発見したり押収したりしただけで祝杯を上げる程の大手柄と思われていた。もちろん祝杯は仕事が済んでからだが。
それとも彼らも吸って祝煙を上げていたのだろうか?
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