第8章 ハーレム・モデル、その誕生と働き

●ウイリー・ウォーテル・ワークショップのはじまり

アムステルダムから西へ16キロ、北海のブルメンダール海岸近くにホランド州の州都ハーレムがある。 2002年現在、ハーレムには16軒のコーヒーショップと3軒のグローショップが営業している。

その点ではオランダの他の市や町と何ら変わらない。しかし、ハーレムでは、市当局とコーヒーショップの双方が協議しながら、すべての関係者にとって満足できるようなカナビス政策を作上げてきたというところが異なっている。

私は最初のコーヒーショップを1991年に前妻のリアとマーセルとともに始めた。マーセルは私がアイデアを話したその日から働き始めてくれた。私がビルを借りると彼はそれまでの仕事も辞めた。当然、最初は容易ではなかった。資本金は300ギルダー。エド・リーゼルのピンボール・マシンとビリヤードをバーの脇に置くことで彼にも家賃の一部を負担してもらった。


かつてのウイリー・ウォーテル・ワークショップ

店にはウイリー・ウォーテルと名前を付けた。バーとトイレがあるだけだったので会員制ワークショップとして登記した。月25ギルダーでメンバーになれば、自転車の修理や美術作品の製作などで場所や機材や道具などを自由に使うことができた。ところが、たまたまメンバー全員がハシシ・スモーカーだった。友達の友達だったハンスは掛売でハシシを用立ててくれた。また彼はこの広い場所が気に入って、きちんとしたコーヒーショップにすることを勧めてくれた。

●ビリヤード・トーナメントで回り始めた

ハーレムにはすでに21軒のコーヒーショップがあったが、中心街から外れたわれわれが競争するのは難しかった。有利な点といえば場所が325平方メートルあって広いことだけだった。 コーヒーとティーとハシシの売上げだけではすべての請求書を払いきることはできなかった。やむなく家賃のために夜中は建築現場で働いた。マーセルと、2ヶ月後から加わったマルスカが店を回してくれた。

何もないところから始めたのでまともなインテリアもなく、たいていはリサイクル物やゴミ置き場で見つけた物とか友達や親戚から貰った物だった。 ビリヤード・テーブルがもう一台手に入ったので、ビリヤード・トーナメントを開催することにした。ハーレムで2台テーブルを持っているところはなく、1台もないところさえあった。トーナメントの日は私の誕生日にも近かったので、特別にビールやワインも用意した。その日はトーナメント中も終了後もお祭りになって大成功だった。200人も集まり、夜中まで続きマーセルはビールの追加調達に親父さんの雑貨店に2度も行き来するはめになった。


ウイリー・ウォーテル・ワークショップの内側

●どちらがお気に入り ビール? バッツ?

儲けたお金の大半はインテリアと塗装に費やした。タクシーのガレージだったところを飾り立てクラブハウスとしてコーヒーショップにしたが、ビールも持ち込んで売り続けた。私はレジャー業免状を持っていたのでアルコールを売っても問題ないと思っていた。まもなく警察はビールの販売に気付いて止めるように言ってきたが、何よりもお金が優先で売り続けた。儲けはすべて場所につぎ込みうまく回り始めた。新しい椅子やバーカウンターも仕入れた。

警察は5回にわたって警告してきた。その都度、マーセルやマルスカか誰かの誕生日を祝っていたのだと弁解した。しかし5回目には私が警察署に呼ばれ調書をとられた。ディック・フォン・エグモントという警察官が、ビールの無許可販売で500ギルダーの罰金と70ケース全部のビールの撤去、あるいは閉店するか、と迫ってきた。折れざるを得ず罰金と撤去を約束した。

その後で、本当はアルコールとハシシのどっちを売りたいのかと彼は聞いてきた。私はそんな選択を聞かれて仰天した。冷静を装って即座のハシシの販売と答えた。自分でも信じられないほどだった。しかしそれは現実になった。2日後、罰金の手紙と共に店でのハシシの販売を認める書類も入っていた。お客さんたちが店でハシシを吸うことも許可された。夢が実現したのだ。



●アルコール抜きで閑古鳥

ビールとワインがなくなると客足が遠のき利益が減った。アルコール抜きの最初のウイークエンドは全くの閑古鳥だった。ビールはもう売らないと言うとほとんどのお客が帰ってしまった。 貧乏の毎日に戻ってしまい客のいない日ばかり続いた。しかし、ストリップとランジェリーショーのエロティック・ナイトを企画すると少しずつ客足は戻ってきた。昼も夜も働いて、細かく区分けされていた客席やテーブルを移動して一目で見渡せる部屋いっぱいの大きなホールにした。マルスカとマーセルはそこをペンキで塗り上げた。

日に日によくなってきて、商売もゆっくりと持ち直してきた。その最大の理由はわれわれがアムステルダムの栽培者ミシェルのカリフォルニア・ゴールドという強力なシンセミラを扱ったことだった。ハーレムでは誰もそのようなものは売っていなかった。われわれは特別販売で儲けた。

●計売りで急上昇

また 「量り売り」 を始めるとカナビスの売れ行きは急上昇した。お客さんは欲しいものを注文すれば、目の前でディーラーはグラスを計量しハシシをカットする仕組みだった。 アムステルダムのコーヒーショップ・スモージーが部屋の壁越しにやっているのを見て、オープンでフェアなカナビスの取引の方法がとても気に入った。次の日から真似したらとてもうまくいった。このやり方もハーレムのコーヒーショップでは最初だった。



●アルコールとカナビスの分離政策

1993年3月、市議会の後、市と警察はハーレムでアルコールとソフトドラッグの販売を完全に分離する決定をした。市議会の安全局長ワーロップと市警察のレジャー部長ドーデマンが共同で任にあたった。私の罰金もそれに沿うものだった。オランダではアルコールは医学的にハードドラッグと見なされている。

市議会の意図はカナビスをアルコールなど他のドラッグと切り離すことだった。ハシシとアルコールを売っている店はどちらか一方を選択するように宣告された。一部の店はアルコールを選んだが、大半はソフトドラッグをとった。そのときハーレムには22軒のコーヒーショップがあったが、市は住民1万人あたり1軒で15軒まで減らすことも目標にしていた。

われわれはそれ以降、魔女狩りにはあわないことを保証された。警察は次のような新基準を適用した。
  • NOハードドラッグ
  • NO16才以下販売
  • NO暴力
  • NO盗品
  • NOアルコール
  • NO武器
上のルールをひとつでも犯せば店主にはイエローカードが発行され3枚になるとコーヒーショップ許可が取り消されることになっていた。コーヒーショップのオーナーやスタッフは税関の係官のようにお客さんのIDをチェックするように求められた。 警察はまた、年4回抜き打ちでルールを遵守しているか検査を行い、その際にはマネージャーの同席するように言ってきた。 しかし、逆に心配の種もなくなった。ハーレムのコーヒーショップではカナビスを1500グラムまで在庫することが認められたのだ。なかには30グラムだけという地域すらあり、それに比べればオランダ中でどこよりもよかった。

●最初の査察

後にわかるのだが、ハーレムは国の政策のテストモデルにもなった。ドーデマンは、時のハーレム市長エリザベス・スミットと密接に協力してすべての党が受け入れ可能なシステム作りに精力的に取り組んだ。 新政策は1993年8月11日に発効した。コーヒーショップの最初の検査はわずか3ヶ月後だった。テストアニマルを使った最高の検査を行うので、少なくともテスト対象になるものはすべて自主的に提出するようにと時間の猶予が与えられた。

実際の検査は思っていた程ではなかった。初回、警察は平服で市の役人を伴ってやってきた。礼儀正しく、ディーラーとお客さんとのやりとりが済むのを待って彼に調査に来たことを告げた。 私はオフィスから呼び出されて実際の査察が始まる前に彼らに会った。彼らはバーやディーラー・カウンターのなかを見たいと言ったので案内した。 調査登録に部屋の広さも必要なのでワークショップ部分も見たいといった。店のチェックが済むと、座っていくつか質問に答えるように頼まれた。私はオフィスに案内し飲み物をすすめた。調査の間にジョイントを吸っても支障はないかと尋ねると問題ないとのことだった。

彼らは何故われわれがハーレム他のコーヒショップのように事前に袋詰めしないで計量してカナビスを売っているのかを尋ねた。袋詰めの前にお客さんに買ったものを見てもらって公正さ示すためで、正しく計量されたかを見ることもできるし、場合によっては自分で計り直すこともできる、と答えた。後の質問は開店時間のことや事務上のことだけでカナビスの販売や使用については何の質問もなかった。 コーヒーを飲み終えると協力に感謝してくれた。彼らが去り警察による最初の査察が終了した。

ハーレムのコーヒーショップを一巡した最初の警察の報告はハーレム日報という地方紙に掲載された。小さな違反として査察を受けた1軒でアルコールが見つかり警告書が発行された。ハーレムの市民たちはコーヒーショップがシステムとしてコントロールされているという事実を知らされ、われわれを覆う闇も少しずつ明るくなってきた。その後、査察はランダムに行われたが、システムは機能しているようで警察はコーヒーショップに対して何もしてこなかった。調査では何んの異常も出てこなかった。


店のおふざけ、ウイリー・ウォーテル・タイガー

●奇妙な15軒制限

ハーレムのコーヒーショップの数はゆっくりとだが確実に減ってきた。最近の例は警察や市が閉鎖したのではなく、オーナーが事故で亡くなり未亡人が続けなかったからだった。もう1軒はビールとバッズを売っていて捕まり、免許はアルコールに切り替えられてその場所ではアルコールだけしか売れなくなった。1994年は16軒が営業を続けていた。政策目標よりも1軒多かった。コーヒーショップのオーナーは15軒からはみ出さないように今までよりも一層正しく商売をしなければならなかった。

ハーレムのローカル・システムには奇妙な 「例外」 があった。市は中心部には10軒のコーヒーショップを認めておきながら、残りの5軒だけを外側の地域に割り当てていた。私はこのハーレムの非民主的な規制に対して常に苦情を言ってきた。中心部の10軒は安全だが、残りの6軒のうち1軒は営業ができなくなる可能性があった。

いずれにしても、カナビス販売の許可証とともにコーヒーショップを売る権利、つまり普通のバーやカフェが酒のライセンスも同時に売買しているような移転可能な許可証は15軒に限り認められることになっていた。 この制限には、自らの都合でなく移転せざるを得なくなったとき市はライセンスの延長を拒否することができるという危険があった。しかもこの脅威は外側の6軒にだけ適用されるのだ。全くの差別としか言いようがない。この件では、少なくとも非民主的ではないかと関係当局と何度か衝突した。

●グロー・アウト・ヘッド・ショップでクローンを販売

私は、1996年2月、ハーレム駅のすぐ外のビルで 「グロー・アウト・ヘッド・ショップ」 を始めた。リース代は高かったが、栽培装置やクローンのカッティング、その他の道具やスモカーの小物などの売上げで簡単にペイできると思った。

クローンはオランダ中で売られていた。主にグローショップを通じてだったが、種類名と携帯の番号がかかれた新聞の広告を使ったものもあった。注文を受けた 「ベイビー 」は買い手の指定場所まで配達される仕組みになっていた。ちなみにベイビーとは電話でしばしば使われる隠語だ。

こうした例をみて自分でもうまくいくと確信した。グローショップを立ち上げた最初の最も大きな理由は、自分のところに供給してくれる栽培者たちにいろいろな種類を供給して、ウィリィー・ウォーテル・ワークショップのメニューに載せたかったからだった。

この願いは店の開店日にトラブルに巻き込まれた。土を盛った鉢に4本のクローンを植えて店の窓の前に展示しておいた。警察には来て確かめるように事前に連絡しておいたので彼らには何を売ろうとしているか分かっていた。開店して1時間ぐらいしたころ、平服の役人たちがやってきてレジャーとショップ部門の警察官だといって、場所を見たいと頼んできた。

全面承諾して、すべてのドアやキャビネットを開いてみせた。やっていることをよく知ってもらいたかったので教育用にハイライフ・マガジンまで進呈した。係官の一人ゲリット・シルバスは興味を持ったらしく雑誌を受け取って読み始め、同僚のもう一人の係官メイジャーと私が話をしている間も読み続けていた。

メイジャーは雑誌には興味を示さず、店でのクローンの販売は許可されていないと言った。私はすぐに遮り、法律のどこに書かれているのか聞いた。書類にはなっていないがクローンの販売はすべて禁止されていると答えた。私はその裏付けになるものを見せるように強く主張した。しかしそれができないことを認め、検事がその準備をしている段階だと答えた。

●業務執行を要求

もしクローンの販売で捕まったらどうなるのか、店が閉鎖されるのかそれともただクローンが押収されるだけなのかを質問した。メイジャー係官は、押収するが再度繰り返さなければ店は開いたままでよいといった。私は携帯電話をつかんで言った 「それなら、新聞広告の番号に電話してすぐに他のクローンを注文するから手に入り次第販売する。」

「電話をするから失礼」と断って、登録済みの番号を呼び出してノーザンライツ・クローン1箱80ベイビーを注文した。係官たちは電話が終わる前に店を離れた。無言だった係官のシルバスは雑誌を持ち帰ったようだった。電話が終わった時も彼らがまだ見えていたので外まで追いかけて、一時間もしないうちにクローンが届くから業務執行のために後でまた戻ってくるようにと伝えた。彼らは答えようともせず帰っていった。

支払いを済ませるとすぐに 「ノーザンライツ・クローン1本5ギルダー」 と大きく書いてショーウインドウにクーロンを展示した。何が起こるかしばらく様子を見ていたが、前をパトロールカーが通っていった程度で大したことは何も起こらなかった。クローンはその日に売切れてしまったので翌日また2箱注文した。


根の付いたクローン・カティング。あとはポットに植えるだけ

●警察に雌株クローンの優位性を説明

翌朝、私は警察署に行き、マリファナ植物のことでメイジャー係官と話しをしたいと受付に頼んだ。メイジャーは私を部屋に招き入れて、どうしてほしいのかと聞いてきた。私はクローン売上げのレシートを示して、何で押収しに来なかったのか聞いた。メイジャーは、この件については調査中で今週中に検事と話し合うと答えた。売り続けるのでその言葉通りに実際に店に来て欲しいと言った。彼はしどろもどろして、なぜ種子だけの販売ではだめなのか、なぜ種から栽培しないのか、と聞いてきた。

逆に、シンセミラを育てるのに他にどのような方法があると思うか尋ねた。オランダでは、種なしでTHCの含有量が高い雌の母本を選んでクローンやカッティングを作り、それを移植して栽培し、マリファナの種類に応じて10-12週間という比較的短い期間で収穫する。一部の種類では市場価格を上げるために完熟まで16週間かけることもある。 彼はこのようなことについては全く知らなかったので、種子の選択から雄雌の違い、 鳥や虫のこと、雌株クローンの優位性などについて説明した。

もし彼が、クローン関して検事にアドバイスする立場にあるのなら、この件について少しは知っていていいのではないかと思って話した。店ではいつでも歓迎するしクローンも手に入れられると言うと、いつかそうすると答えた。


ポットに移してから1週間。スプリンクラーがレディーたちに養分を与える

●警察の腰砕け

その日は120クローン売れた。翌朝また新しいレシートを持ってメイジャーに会いに警察署に行ったが、駐車場は満杯で警察署の前に違法駐車している車にはどれも違反キップが貼られていた。しかたなく店に戻って、メイジャーになぜ脅すだけで実行しないのか、と短い手紙を書きレシートをつけて警察署の彼宛にファックスした。彼からは返事も出向いて来ることもなかった。

私はトップの司法大臣ウイニー・ソルグドラガー女史にこの件を直接働きかけることにした。新しく開いた自分のグローショップでの出来事と彼女の部下のメイジャー係官の反応と何もしないことを手紙に書いた。 メイジャーにきちんと仕事をさせるように頼んだ。クローンの利用や販売についていかなる司法権限も無しに彼にこのまま脅迫を続けさせるのか、それとも私を放っておくように彼に命じるかはきっりしてほしい、と書き、メイジャー係官に示したレシートのコピーを添付した。

返事はなく押収も行われなかったので、彼女のオフィスにも直接ファックスしたがやはり返事はなかった。忙しかったようで無視しただけだったらしい。後に分かったのだが、当時彼女はオランダでも最大の秘密捜査IRTゲート事件に忙殺されていた。コロンビアからの大量のドラッグ密輸に関して超大物の犯罪者たちを逮捕し起訴する「通常」の犯罪に取り組んでいた。

約4万キロのコロンビア・ウイードが秘密捜査官と税関の捜査官の手引きによって国内に持ち込まれたが計略はうまくいかなかった。超大物を結びつける手がかりを得られぬままどこかへ消えてしまったのだ。うわさでは、コロンビア・グラスの積荷には何キロものコカインが仕込まれていて、カナビスがコカインのカモフラージュに使われたらしい。

●年齢制限を16才から18才に引上げ

ウイニー・ソルグドラガーは、われわれの意向を汲みコーヒーショップに対して理解ある取組をしていると思われていたが、やったことは反対だった。彼女はコーヒーショップの年齢制限を16才から18才に引上げ、その理由として「若者たちのカナビス喫煙をやめさせるために」という奇妙な説明をした。

16-17才のコーヒーショップでのウイード喫煙は、他のドラッグがないことを保証したコーヒーショップのような守られた環境ではメロー・イエローの時代から容認されていた。おそらくウイニーはアルコールの規制に触発されて考え付いたのだろう。新法は頭文字を取ってAHOJG基準として制定され次のように解釈されている。
  • A:ソフトドラッグ販売の広告禁止
    コーヒーショップの店頭に葉っぱのマークを掲げてはいけない。ライターにロゴや住所をプリントすることを禁じている市もある。ステッカー、Tシャツ、広告の禁止

  • H:店でのハードドラッグの禁止。販売だけではなく個人使用も禁止
    店主とスタッフは警察とともにこれにはとても神経質だ。ハードドラッグ・ユーザーの疑いのある人のコーヒショップへの入場は認められていないので、査察で発覚するば個人が持ち込んだものでも店にはイエローカードが発効される。

  • O:迷惑禁止。大音響の音楽や店を出るときの客の大騒ぎなど平静を害することの禁止
    このルールはすべてのバーやカフェ、レストランにも適用されていて、オランダでは共通している。

  • J:JはYの意味で、18才未満の未成年の入場禁止
    1976年以来、この規則ができるまでは16才未満だった。

  • G:多量販売の禁止。コーヒーショップは1日1人5グラム以上を販売は認められない
    コーヒーショップは最大で500グラムの在庫が許される。

●年齢制限イエローカードに抵抗

ウィリー・ウォーテル・ワークショップのファンからは批判が続出した。1997年11月、われわれは18才以下の会員316人を外へ追い出すように命じられた。さもなければイエローカードだったが、私はそれを拒否して関係する親たちとプレスに助けを求めた。

母親たちはウイリー・ウォーテル・ワークショップと若者の会員システムのために立ち上がった。皆は、欲しいときに子供たちがどのような行動をするか知っていた。見境なく何でも扱う売人に子供を近づければハードドラッグの闇に若者を晒すことになるのが恐ろしい、と国のテレビ放送で訴えた。しかし助けにはならなかった。若者たちを追い出すように再び命令された。若者をハードドラッグに遭遇させないためというコーヒーショップ・システムの根幹とは全く矛盾することだった。

カナビス・ユーザーやその予備軍のなかでも最も脆弱な層が再びアスファルト・ジャングルに放り出された。年齢制限など金次第でどにでもなった。若者はあらゆるドラッグを提供する売人たちによってハードドラッグへの道に連れ込まれることになった。学校の周りでは25ギルダー札がなんでも買える若者のIDになってしまった。

われわれはとういて命令に従うことはできず2回目のイエロー・カードが発効された。検察と警察はウィリー・ウォーテル・ワークショップに2週間の営業停止を求めてきた。



●破産という暗雲

すべての政策に責任をもつポップ市長が最終決定を行うことになっていたが、入場の年齢制限に関する現在の規制に同調すると述べていた。  「ルールは非常に明快です。ファン・シャイク氏には弁明の機会が与えられるでしょう。しかし検察側は法を維持することを望んでいることを承知しています。新しいガイドラインAHOJGはとても有用だということがわかっています。」

地方紙でこれを読んだ後われわれは折れることを決めた。3枚目のイエローカードはウィリー・ウォーテル・ワークショップのすべてが永遠に終わることを意味し、コーヒーショップに対する許可数を市の思惑通りに減らすことを意味していた。 われわれには選択の余地がなく、1997年11月7日から18才未満の入場を拒否することになった。翌日から店はもぬけの殻のようになった。私の頭には破産という暗雲が立ちこめた。生き残るためにいろいろやった。再生するためにすべての請求書の期限を数ヶ月延長してもらって何とかしのいだ。


ウイリー・ウォーテル・サティバ

●市役所で弁明

数週間後、私は市役所の会議に呼ばれた。会ったのは警察署長のピエト・ドーデマンと市安全局のカリン・ハーゲマンだった。市長は多忙だったようだ。二人とも、国の政策に沿う方針に対する私の頑なな態度にひどく立腹し、年齢制限違反で2週間の営業停止処分を考えていると言った。この6年間、市や警察さらには私に敵対する政党でさえ16-17才に対する強制会員システムに常に好意的であったが、このことは言わないことにした。

私の弁明の最大の柱は高校に通う16才の息子の言っている事実だった。学校では2つの敵対するディーラー・グループが「縄張り」をめぐって争っていた。コーヒーショップ・オーナーの私の息子は何も吸わないが、学校のドラッグをめぐる争いに巻き込まれて捕まり傷つくこともあり得ると話した。

私はまた、車のナンバーなどを示して、どのような車が学校の外に止まって運転手がお客を相手にしているか報告した。このような輩は大半がすでにエクスタシーやカナビスを週末のホーム・パーティーで商売をしているので、今回の措置は彼らの商売の間口を広げてさらに新しい飯の種を作っているだけだ、と訴えた。

私を非難するのは簡単に出来るとも伝えた。18才ルールを拒否することをプレスに告げると、彼らは警察に行ってそのことを調べ私だけが若者の強制立退きの問題に直面しているように書かれた。私のスタッフたちは、何とかして店に入り込みウイードと吸う場所を確保しようとする何百人もの「前」会員たちと格闘していた。大半は完全に追い払われていたが、中には無理にせがんで、警察への発覚しないように買ってすぐに店を追い出されるものもいた。

●コーヒーショップ・オーナー全員との討論会を提案

私は、ハーレムのすべてのコーヒーショップ・オーナーを召集し、自分のことを例にしてこのことを話合い、さらに現在のコーヒーショップの数に関する状況やその他不明の事柄についても議論することを提案した。 また、16-17才に対するわれわれのシステムを支持する600人の署名簿も提出した。多くが会員の親たちからのものだった。 二人はまだ不満そうだったが、話し会いの論点は理解してくれた。市長と相談して提案を受け入れるか拒否するかを知らせてくれることを約束した。

次は2枚のイエローカードについての質問だった。ウィリー・ウォーテル・ワークショップの現在の状況について聞いてきた。ルールを守っていないのがもう一回でも見つかれば永久に店を閉鎖される恐れがあるので規則を受け入れることにした、と答えた。 彼らは、この話し合いの内容を市長に伝え、罰則についての市長の決定も知らせると言った。3人とも顔を紅潮させながら部屋を出た。議論では合意できない部分もあったが、ともかく話し合いを続けることを約束して、最後は握手と作り笑いで別れた。

その後、2枚のイエローカードの処遇をめぐって私はもう一度呼び出された。今度は警察署だった。ドーデマンとハーゲマンは、私の言い分をすべて考慮して、18才制限を守ると約束すれば厳しい警告に留める、と述べた。彼らは政策の変更に対する注意を喚起しようとした私の動機には理解を示してくれたのですぐに承諾した。

●討論会が実現

彼らはまた、ハーレムのすべてのコーヒーショップ・オーナーの会議の開催についても同意すると言った。私はほんとうに嬉しかった。きちんとした討論が行われることこそ私がずっと望んでいたことだった。1998年1月に会場を決めてコーヒーショップ・オーナーを招請することになった。

結局、2週間の業務停止は回避され、最後には何よりも期待していた行政当局を交えた会合が行われることになった。商売は少しずつ持ち直して請求書の山もデスクから消えていった。ウイリー・ウォーテル・ワークショップは生き返った。

会議は市役所で行われた。店の主要メンバーとして私はマーセルとリアを同伴し確実に間に合うように余裕を持って出かけた。 だが、私たちが一番乗りではなかった。大きな会議室にはすでにコーヒーショップ・エンパイヤのウイルフレッド、コーヒーショップ・ムーンライトのガスが来ていた。ウイルフレッドとガスは私が作り出した状況に不満をあらわにしていた。「オレたちはあんたの問題でここにいるのだ。オレたちが求めたわけじゃない。」

私は、みんなのビジネスの将来にかかわることだし、ここにいることでよい方向に変化していくだろうから席へ戻って支援してくれと頼んだ。 すべての仲間が顔を出したわけではなかったが10軒が集まって過半数を十分に超えていた。この数は招請を欠席した残りの店の意向も代表できた。


ハーレム市役所

●16軒問題の差別を訴える

市側からはハーグマンと彼女の上司ワロップ氏、警察側からはドーデマンと同僚が会議への参加を歓迎してくれた。名簿の名前と出席者の確認が終わって、まず現行のAHOJG規制についての短い説明があり、その後で質問が認められた。

ノートと新聞の切り抜きの山を持込んだコーヒーショップ・オーナーは私だけだった。作った質問リストの最初は、私が最も関心を持っているオフセンター地区の16番目のコーヒーショップの閉鎖方針について取り上げた。センター地区の10軒は安全なのにそのまわりの6軒だけが狙われていた。私は、この方針はあきらかに差別だと思うが、仮に受け容れるなら、コーヒーショップが内と外の2つのグループに分けられ将来の処遇についても異なるというルールはハーレムのすべてのバーやカフェについても適応されるべきではないかと質問した。

市と警察の双方はこのルールが完全に順調でうまく機能していると言い張った。私は、センターのコーヒーショップは投資したり、リースしているところを買い取ることさえできるのに、オフセンターでは出来ないので公平ではないと反論した。 オフセンターのコーヒーショップは、経営者に落ち度はなくても、例えば店のビルのリース切れのような場合にも突然の閉鎖という恐怖がある。オフセンター仲間のキー・ウエストとサンドマンも同調しはじめた。彼らもやはり分離政策は差別だと感じていて、センターの店は回避できるのに自分たちは投資のすべてを一日で失う可能性がある、と述べた。

当局側はすべてをノートに書いて、これらの指摘を考慮すると答えた。私は不満を伝えてから、リストの第2の問題に移った。私は、過去5年間のハーレムでのコーヒーショップ査察の結果を掲げて、1994年以来残っている16軒のコーヒーショップが社会や警察に対していかなる問題も起こしていないことを示した。

●改善の兆候

16軒すべてのコーヒーショップは4年間査察を受けてきたが、会議の発端になったウイリー・ウォーテル・ワークショップの年齢問題を別にすれば、どこも1枚のイエローカードも受けていなかった。私は、この事実はコーヒーショップ数を再考する十分な理由になると主張した。さらに、われわれはマーケットを分け合って、公正な活動をして従業員を雇用し税金さえ払ってきた、と述べた。

また、16軒がハーレム市民153000人だけのために働いているのではないことに当局は考慮して15軒という目標に変えて16軒のコーヒーショップを受け容れるように求めた。ハーレムは今も昔もスモーカーたちの地域センターになっている。ホフドロップやヒレゴム、リセなどスキポール空港周辺などコーヒーショップのない地域にも4万人もの人たちが住んでいる。店の現在の会員は18才制限で112人に減ってしまっていたが、そのリストを掲げて40人はホフドロップ、35人がハーレム、残りはその他の町から来ていることを示した。

私は今の状況を説明し、6軒を受入れないことでオフセンターのショップオーナーの一部が安心できる将来を確保されないばかりではなく、許可証が登録した本人によってのみ維持されるという仕組みのせいで、すべてのコーヒーショップ・オーナーもやはりビジネスの継続が約束されているわけではない、と指摘した。

もし何らかの原因でハーレムのコーヒーショップ・オーナーの一人が死亡した場合、市は落胆している家族からビジネスを続行するための許可証まで取り上げることになる。再び仲間たちは私を支援し始めた。皆がこの件について意見を述べることを希望したので全員に話す機会が与えられた。

全員がどのように思っているか説明した後、ワーロップ氏は上半身を前に出してドーデマンに話しかけた 「このことには気付いていなかった。これも理にかなっていないと思う。解決に向かって取り組まなければならない。」  ドーデマンは、この規則が1992年以来8軒のコーヒーショップを廃業に追い込んできたと説明したが、市側と話し合う用意もあると弁解していた。

とても前向きな感じがした。覚書も作成された。会議は続けられたが最も重要な件は終わり、後は営業時間などマイナーな話題だった。私は物事をはっきりさせたかっただけだった。

●16軒体制の見直しに成功

その後、近いうちに再び会議を召集して16軒体制の見直しの結果を知らせると告げられた。遂に彼らの目を覚まさせたのだった。ハーゲマンはその時すでに16軒体制を認めることになったと話していたが、郵便で正式に通知すると言った。ハーレムの当局者たちはこれらのことを盛り込んだ特別のガイドラインを作成することにした。新ガイドラインは早急に作業して年度内に作成し、召集時に新しい許可証を受け取ることになった。いい感じだったが、新聞を見てむしろ 「よりよい」 感じではないかと思った。

6月、最終決定の確約書を受け取るためにわれわれは市役所に再召集された。学校に卒業証書をもらいに行くような気分だった。場所は最初と同じ部屋だった。その日は8軒だけしか出席しなかったが、仲間の半分は最高の瞬間を見損なってしまうことになってしまった。コーヒーショップ16軒体制になり、店を移転させたり、名義を子供の名前に変更したり、コーヒーショップ自体もカナビスの販売権付きで譲渡することさえ認められたのだ。

いくつかの制限はあったが、リーズナブルで少なくとも私には制限と感じない程度のものだった。われわれは前述の新ガイドラインが書かれた小冊子と地図を受け取った。 地図には丸がたくさん描かれていて、ほとんどが学校をいくつかがコーヒショップを表していた。コーヒーショップ自体の売買は空白地帯、つまり学校やカレッジから離れた場所でのみ許されていた。

ウイリー・ウォーテル・ワークショップの丸は空白地帯を示していた。その他では3軒が空白地帯だった。他の店は別の丸印がつけられ、犯罪歴のない新オーナーに限って許可証だけの売買が認められていた。許可を買った後で新オーナーはビジネスを始める前に空白地帯に引っ越すこともできるようになっていた。これは、バーなどと同じルールが適用され、オランダの法律では十分に広く適用されていたものだった。

われわれは今やレジャー・ビジネスとして認知されたのだ。ビジネスとしての一つの例外は、われわれはアルコールを一緒に販売できないことだったが、これはバーもカナビスを販売できないので同じことだった。


ハーレムのコーヒーショップ地区割り地図

●ハイ&ドライに最大の笑顔

明快に、われわれは 「ドライ」 レジャーに分類され、アルコールの店は 「ウェット」 レジャーと呼ばれた。われわれは 「ハイ&ドライ」 という言い方が気に入った。

市はオフセンターの16軒目がAHOJG規則違反で閉店した場合にはいずれにしても新しいコーヒーショップは認可しない方針だったが、私の店をはじめわれわれは規則を厳格に守っておりその限りにおいては将来が保証されているのでそれは些細なことだった。会議の後、われわれは今度は大きなな笑顔で係官たちと握手を交わした。私が最大の笑顔だった。


ウイリー・ウォーテルの収穫祭。テーマに会わせて仮装したキーとマルスカ


●オランダのポット人口

1999年1月5日付けのテレグラフ新聞にオランダのポット・スモーカーは30万人しかいないと掲載されていた。アムステルダム大学のピーター・コーエン教授の指導で行われた調査の結果だった。彼は、オランダをドラッグ国よばわりし続けるフランスとアメリカに対抗するためにこの数字が使えると言っていた。

にわかに信じられなかったので、私の店の場合とハーレムのコーヒーショップの数をもとにした計算結果と突き合わせてみることにした。まず分かったことはレポートの人数では自分の店の家賃すら払えないということだった。ハーレムには16軒のコーヒーショップがあり、人口16万人。オランダの人口を1600万人とすれば、レポートからハーレムには3000人のスモーカーが週2グラム吸っている勘定になる。つまりコーヒーショップは200人の顧客が毎週25ギルダー買ってもらって生き延びていることになる。

オランダのスモカー数についてはハイライフ・マガジンの自分のコラムにも書いたことがあった。ローリング・ペイパーを扱うヨーロッパの主要な会社の一つリズラの数字を元にしたものだった。ベネルックスのジネラルマネージャ、アラム・ハールに電話したところ、彼のところと競争相手の数字から考えてオランダには100万人のスモーカーがいて70万人がリズラとスモーキングを使っているとのことだった。 私はまた、自分のところのローリング・ペイパーと小物ポリパックを仕入れているフューチャー・バッグにも電話してみた。彼らもレポートの数字は低すぎると指摘し、アムステルダムの5人に1人がジョイントを常用していると主張していた。フューチャー・バッグはアムステルダムだけで100軒以上のコーヒーショップに卸している。

私はレポートの掲載元のテレグラフ新聞にファックスした。返事がきて、フューチャー・バッグとリズラに取材を始めたと書かれていた。その結果が1999年1月9日の記事になってテレグラフに載った。見出しは「わが国のスモカーは最低でも70万」となっていた。記事によると、専門家であるフューチャー・バッグとリズラと私たちの意見と計算による、と書かれていた。大学の調査には30万ギルダーが費やされたそうだが、私の調査は数本の電話とファックスだけで約1ギルダーだった。

●ヘンプ博の開催とウェッブサイトの立上げ

その年の12月、私たちはハーレムでヘンプ博を開催した。当初、市議会は、ウイードの喫煙を理由にベジンシャル体育館を使わせようとはしなかった。ホールのバーのオーナーと一緒になって抗議した。前に同じ場所でコーヒーショップ・サッカー大会をやったときにはウィードの喫煙が許されていたのにヘンプ博では何故だめなのかと申し立てた。最後はやっと許可が下りた。大会は44のブースすべてがヘンプ草で覆われ美しかった。植物のTHC関連のみの催しだったので育成やボングなど喫煙器具関係には出展を遠慮してもらった。もっとも当然のことのようにお客さんたちはボングでもウイードを吸っていたが。

さらにわれわれは、6月24日にウイリー・ウォーテルのウェッブサイトを立ち上げた。カナビス販売用の計量器のうえにウェブカメラを設置するというアイディアを思いつき、閲覧者はわれわれの取引の目撃者でもあった。ウェッブカメラのことはデンマークからブラジルまで世界中に報道された。


ウイリー・ウォーテル・インディーカ

●コーヒーショップ代表として招待される

ウイリー・ウォーテル・ワークショップの管理部はハーレム青年協議会が市役所で主催する討論会にコーヒーショップ代表として招待された。討論会はコーヒーショップの入場制限年齢の変更と若者への影響についてだった。 集会の議長はポップ市長が務め、すべての政党が勢揃いし、育英会、若者の労働者たちや興味をもったグループなども参加した。

結論は16-17才の若者は学校や路上で買うのではなく、地元のコーヒーショップでウイードを買えるようにすべきだというものだった。私は、路上の売人にとっては年齢などどうでもよく金がIDカードになっているだけだ、と主張した。

何も変わったわけではなかったが、新聞でポップ市長がコーヒーショップの利点を言っているのを読むのは愉快だった。彼は、若者のためだとしてここ何年もウイリー・ウォーテル・ワークショップを閉鎖すると脅してきたのだから・・・

●オランダ、グラスがいつもグリーン

一方、ハーレムは世界中のカナビス・ツーリストから注目されるようになってきた。われわれがアメリカン・エキスプレス発行のトラベル&レジャー・マガジンに紹介されてからツーリストの数は増え始めた。マーク・オーエルの記事の一部を引用しよう。

オランダがドラッグ法を緩和してから24年。アムステルダムはポット・スモーカーたちのテーマパークとなった。近郊のハーレムではオランダのヘンプ文化めぐってどう受け入れるべきか議論が続けられてきた。これらの街ではどのようにしてオランダの容認政策の限界を押し拡げてきたのだろうか?

アムステルダム     メキシコシティーのジーゼルの臭い、あるいはボンベイのカレーの芳香のようにビッグ・バッド(大きなつぼみ)ではマリファナの甘い香りがする。電車やトラムに乗り、石畳を通りと広場をさまよい、スキポール空港のメイン・コンコースを歩いているときでさえ感じる。

昨今では、ハイネケンのビール醸造所ツアーよりもコーヒーショップのツアーをする旅行者のほうが多いいようだ。コーヒーショップといってもカフェインのコーヒーではなくマリファナのほうだが。1919年のオランダ阿片法の改正からおよそ四半世紀。ウイードとハシシを販売できるコーヒーショップへの道はひろがってきた。ショップはカナビス販売のかたわら実際にコーヒーも提供しているので、名称は実よりもお上品な看板の役目を果たしている。

1976年の法改正の背景には、ソフトドラッグの普通のユーザーを、ヘロインやコカインやLSDなどのハードドラッグの売人から引き離す目的があった。ポットの所持は処罰の対象から外され使用は軽犯罪と見なされるようになった。法を自由化するに当たって議会が検討しなかった唯一のことは、スキポール空港にジョイントの広告搭を立てなかったことくらいしかない。

オランダの市や町はコーヒーショップを独自に規制することが認められた。一部では完全禁止というところもあったが、とりわけアムステルダムでは飲食店として政策に取り込んだこともあって、現在400軒以上のコーヒーショップがある。

コーヒーショップはコフ(咳)・ショップなどともよばれることもあるが、オランダ中に蔓延している。アムステルダムのは独特の症状をもっていて、ダム広場や赤線地区、ライツェ広場などに集団発生し、地元の人間よりツーリストに好んで感染する。外国から来た訪問者たちは週の休暇に目一杯刺激を求めようとして、ブルドッグやワーモスタート警察の隣りにあるヒル・ストリート・ブルースのような染まった場所でグレイトフル・デッド・ユーのファンたちがざわついているようなムードに浸るのだ。

ダッチ特有の控えめな物言いだったが、アムステルダムの顔役たちでさえ状況は手に余ると認めている。2年前に市のコーヒーショップの半数近くをハードドラッグ販売などの違反で閉鎖した後で、シェルト・パッジン市長はロンドン・サンディー・タイムスに 「ちょっと前進しただけで道は遠い」 と語っている。


ハーレム     だが西へ10マイル、石を投げたら届きそうなところにアムステルダム・サーカスとは違う世界がある。ハーレムだ。多くの人がこここそがコーヒーショップ・システムのモデルだと思っている。1994年、警察と市議会、地方検事それとコーヒーショップ・オーナーたちが類い希な協力で現在のローカル政策を作り上げた。当時のコーヒーショップの数は20軒だった。現在では16軒まで自然減少したが、1万人あたり1軒、つまり15軒を越えないように制限することを目標にしていた。

またコーヒーショップ・オーナーたちは、バーのお客に適用されている国のアルコール販売18禁規則と同様なポット販売量制限を受け容れ、ひきかえに当局側はショップ運営の制限を緩和した。

ハーレム警察部門25年のベテランでコーヒーショップ・オーナー側との主要なパイプ役のゲリット・シルバスは 「かってよりも状況はずっとよくなりました。前は犯罪者だらけだった。」と言う。 「ルールは無きに等しかった。たいていの警官は現状の政策を好むものです。酒場には多くの問題が起きていますが、コーヒーショップにはほとんど何もない。昨年は16軒全体で受け取った苦情は1件だけ。それも17才が店の1つに入っていたというものでした。」

あえて言えば、ツーリストが比較的に少なかったことがハーレムのコーヒーショップに貢献したのだ。アムステルダムの多くの店で見られるような大音響のロックミュージックやパーティー騒ぎ、低品質カナビスといった上わずったシーンと違い、ハーレムはずっと落ち着いている。 いくつかの店はアマチュアそのもの味を出している。ノリータという24才のカップルが始めたカクテルランジ風の店がそうだ。他に、国際感覚が溢れているのが駅のそばにあるフランツ・ハルスだ。大理石のカフェテーブル、歩道に面した大きな窓、カウンターで飲み物をつくる魅力的な女性・・・


かつてのハランツ・ハルス。現ウイリー・ウォーテル・サティバ

ノル・ファン・シャアイク     フランス・ハルスのオーナーは46才のノル・ファン・シャアイクだ。彼はハーレムにさらに2軒のコーヒーショップ(ウイリー・ウォテル・ワークショップ、ダッチ・ジョイント)とグローバル・ヘンプ・ミュージアムのオーナーだ。マリファナ殿堂入り殉教者の中でファン・シャイクはハーレムのドープ王であり、自らを不当行為からの逃亡者と称している。

大工でボディビルダーで密輸業者だったファン・シャイクは1989年にモロッコから200キロのハシシをオランダに持ち帰ろうとしてスペインとフランスの国境で逮捕された。だが、劇的に逃れてハーレムに戻ってくると「ノルに自由を」運動をしていた人たちから祝福された。オランダ政府は後に彼に対する引き渡し要求を拒否している。それ以来かれはフランスのお尋ね者だ。

ファン・シャイクは一日10本もジョイントを吸っているので長期的無気力状態になっていると思う人もいるかもしれない。しかし彼は精力的だし夢想的ですらある。彼の3軒の店とヘンプ・ミュージアムはオランダのカナビス文化の歴史に貢献し、若者たちにとってもとても親しみやすい。ウイリー・ウォーテルでは手軽なATMを操作する要領でポリ小袋に入ったポットも買うことができる。ローリング・ペイパーやパイプ?ギルダーコインで自動販売機にどうぞ、というわけだ。

ファン・シャイクはウェッブサイトでカナビス国際カナクイズ・コンテストを開催することを計画している。「勝者をハーレムに招待して現場に参加してもらう。一日ディーラーになってもらったり、ポットの栽培法を勉強したり、あるいはただぶらぶらしてもらうんだ。」  ハーレムの運河をボートでのんびりとコーヒーショップ巡りをするポットヘッド・クルーズなどのアイディアも持っている。「ウォーター・バイクを借りてショップからショップへ漕いでもらう」 とにこにこ言う。彼はまたストーンしたサッカー好きのためにチームを応援したりもしている。

ファン・シャイクのビジネス・プランは意外と堅実だ。彼のどの店でも、目を輝かせた美しい女性がコーヒー・バーを切り盛りしている。ディーラー・ブースは入り口のすぐのところにあり、店の手前のスペースにはテーブルがいっぱい並べられ、奧にはピンボールとプールテーブルが置いてある。

ファン・シャイクの店のドープは、ポットの大半がオランダ国内で違法栽培されたもので、ハシシは主に密輸されたものだが供給源が固定されておりマクドナルド流に均一で効率もよく配分も洗練されている。「今は35人を雇用しています。」 少し照れながら言っていた 「ハーレムで経済力が付いてきて4大地域それぞれに店を持てるようになって、どこを通ってもそのうちの店の一つが目に入ります。」

ドープ・ディーリング     ウイリー・ウォーテルのディーラー・ブースでは39才になるハンス・ゴーバスが様々な種類のポットを様々なお客さん相手に販売している。1グラムで2-3本のジョイントが作れるスカンク・ウイードで14ギルダー(約6ドル)、レッド・ヘヤーが12.5ギルダーだ。金が足りなければジョイント1本が5ギルダー(2ドル)以内で手に入る。

「ある人たちはともかく新鮮なものを好み、強いのや甘いのを好む人もいます。好みを教えてくれればどれを買ったらいいかアドバイスしています」 とハンスは言う。彼は15才のときからディーリングを始め21才で自分の店を持った。長い髪をポニーテールにまとめ腕まくりしたカジュアルシャツを着たストーン・ディーラーの趣きがあり、眠たげな人なつっこい表情を顔に宿している。  「人生の大半を違法な取引でやってきました。」 と言う 「でも犯罪だと思ったことはありません。本当に仕事が気に入っているんです。ここのすべてがゆったりしていてフレンドリーです。」


ハンス・ゴーバス。ドープ・ディーリングに生きる

バックドア問題     でも、ディーラーはどうやって商品を仕入れているのだろう? 単純な質問の答えは単純ではなかった。コーヒーショップへの供給側の卸しはとりあえず違法ではある。しかし、力学はうまく働いて黙認されている。「政府はここがグレーエリアで暗い穴であることを知っています。」 ファン・シャイクは言う 「しかしあえて手をつけずにいるんです。」  ハーレム警察のゲリット・シルバスもそれを認めている。「逮捕するだけなら裏口で待っているだけでできます。でも1回限りです。オーナーは別の住所に配達先をかえるだけです。裏口の寛容政策はシステムがうまく動かすためなのです。」

バックドア政策が難問だということは誰でも認めている。非犯罪化されるよりも前の1972年にアムステルダムに最初コーヒーショップ、メロー・イエローを設立し、現在もオランダのヘンプ文化に精力的に関わり続けているワーナード・ブリューニングも 「日常の現実からルールを導き出さねばなりません。歴史はないのです。新しい領域なのです」と語ってる。

まさに新しい領域。警察官ですら地元栽培されたネダーウイード・10ギルダー・パックとスナック、飲み物などを買いにコーヒーショップに立ち寄っている。 「私自身は職業上行くことはありますが、個人的には行きません。」 とシルバスは言う 「でも自分の時間に行く警察官もいます。行くなとは言えませんから。ですが制服でいくのは控えるようには言っています。」


マーセル・デッカー。ウイリー・ウォーテルのマネージャー

政治家はポットの法律を緩和し、警官も一服している。次はどうなる?  マリファナ成金がフランチャイズでも始めるのか?   最もありそうなのが、オランダ以外の国々もハーレム・モデルを追随することだ。すでにヨーロッパのいくつかの国ではドラッグの法を緩めだしている。スイスはカナビス販売業者のライセンス制を考えているし、スペインでは少量のマリファナ所持や使用はもはや犯罪ではなくなっている。 コペンハーゲンの北、ヒッピーのユートピア、クリスチャニアではオランダと同様のポット容認政策を採っている。 大西洋のこちら側のバンクーバーは実質的に非犯罪化されコーヒーショップのコミュニティが育ってきている。

「ハーレムのシステムは理想的だ」 ブリューニングは言う 「オランダの別の地域の見本になっている。アムステルダムは大き過ぎて問題ばかりだ。でも、他の町には、コーヒーショップのオーナーと地域行政が皆の幸せを考えて真の民主主義を実行するチャンスがある。」

    マーク・オーウエル記者

●ハーレムのコーヒーショップは輸出商品

地元紙がこの記事を知るようになると、ハーレム日報は「ハーレムのコーヒーショップは輸出商品」と題する記事を掲載した。彼らは水晶の球でも覗いているのだろうか・・・

2002年1月3日までに店のあるビルを明け渡すことになっていたができなかった。理由は単純。それまでに他に場所が確保できなかったからだ。しかし角のビルと交渉していた。コーヒーショップ用のビルの金策は簡単ではない。大半の銀行が違法状態にあるサプライヤーや栽培者、卸しといったところからカナビス取引の金が流れてくるのを望まないからだ。

2002年3月3日、ウイリー・ウォーテルはワークショップ部分を除いてアウト広場の角のディスコだった場所に引っ越した。大家の弁護士と散々もめたが、市のレジャー担当班のピエト・ドーデマンの強力な後押しで実現した。今この場所は 「ウイリー・ウォーテル・シンセミラ」 と呼んでいる。

200平方メートルもある明るく広々とした場所で、二方に窓がありルーフテラス付きだ。テラスは来年に使えるように準備中。また、将来、最上階に部屋を作りホステルにする計画もある。グローバル・ヘンプ・ミュージアムは2003年の1月にここに引っ越して合流した。


ウイリー・ウォーテル・シンセミラ

われわれは、オランダでも非常に啓蒙的な都市であるハーレムにもう2軒の店、ウィリー・ウォーテル・インディーカとウイリー・ウォーテル・サティバを開いている。すべての政党がソフトドラッグ政策に取組み、コーヒーショップと対抗するのではなく一緒になって実行可能な最高のシステムを模索してきた。その結果、ハーレムはカナビジネスには非常によい場所になった。

ハーレムの16軒のコーヒーショップに残された最後の課題は年齢制限だったが、1999年、17才でも決められた一軒のコーヒーショップで袋入りウイードを買えるようになった。