第6章 田舎のコーヒーショップ、ファー・アウト

●マーク、デデムスワートでコーヒーショップを始める

カナビスのことではアムステルダムのことばかり話題になるが、オランダの片田舎にもグッドなコーヒーショップはある。オランダには全体で504の自治体があるが、ある程度の数のコーヒーショップを認める「寛容政策」を掲げる自治体や市が105カ所ある。

200軒のコーヒーショップを有するアムステルダム(BigBud)を筆頭に、その他に600軒のコーヒーショップが各地に拡がっているが、その大半はロッテルダムやハーグ、ユトレヒト、マースリヒトといった大都市に集中している。それ以外の小さな町や村にはコーヒーショップはほとんどない。


マークは巨大ジョイントがお気に入り

そんな状況の中で、生まれながらの商人であるマーク・ラベンホールトは1995年までドイツとアンティークの取引をしていた。数年間は自宅近くにあるコーヒーショップに通っていたが、やがて自分の店を出すことを決意してオーフェルエイセル州のデデムスワートにビルを借りた。「ワート」とは運河の意味で、デデムスワートの議会は自分たちの小さなコミュニティをアムステルダムに似せようとしているのをたまたま知ったからだった。

彼は友達や将来の顧客たちに助けてもらいながら数ヶ月かけて店を改装した。映画のチーチ・アンド・チョンからとって「ファー・アウト(Far Out)」という名前をつけた。ファー・アウトは1996年3月1日に開店した。デデムスワートの高世代の保守層にはショックを与えたが、カナビスが欲しいときには25キロ先のゾワールまで行かなければならなかった20代までの若者たちには歓迎された。当初は任せられるスッタッフが不足していたのでマークはかかり切りで働いた。

●度重なる警察の手入れ

警察は何度かファー・アウトを捜査に来たが、マークによれば威嚇のようなものだった。最初に逮捕されたのは、何もなく1年が過ぎた1997年4月10日のことだった。驚くべきことに警察は探知犬をつれてやってきた。ハシシ探知犬デゥーコはビリヤード・テーブルのポケット穴のまで探るように命じられた。 警察は合計でハシシ559グラムとグラス1472グラムを見つけ出し、マークは1997年12月一杯で店を閉じろという勧告書を突きつけられた。


それ以降、ファー・アウトは2年間で4回の強制捜査を受けたが、捜査は少しづつ訪問のようになってきた。それでも係官はローリング・ペイパーや計量器なども含め何でも押収していった。 4回目の捜査のあと彼はプレスの関心を得た。ゾワール新報のインタビューの中でマークは手入れについて憤慨している。
「最初の2回の捜査はとても厳しいもので、自分だけではなく顧客の一部も警察署に連行されました。この前の金曜の捜査では2人の捜査官がやってきて、混乱させるつもりはないと言いながらまた商売道具を押収していきました。

命じられていやいややっているような感じで、やり方には何のポリシーもないように思えました。 捜査の度にたくさん金を失いましたが、警察が去ったあと店を再び整えてまたウイードを売り始める。こんなのまともなやり方といえますか?」


ファー・アウトのカナビス・コレクションを見せて微笑むデデムスワートの警察官

●市議会の選挙に向けて討論会

だが、マークはへこたれるようなことはなかった。毎年開催されるハーレムのウイリー・ウォーテル主催の室内と室外の2つのサッカートーナメントに参加するためにサッカーチームまで作った。彼は、今度こそ勝ってトロフィーを持ち帰るといってやって来るがいまだ果たせず、ウイードの服をまとったオレンジ色の自由の女神トローフィーはハーレムに置かれたままになっている。

ファー・アウトが活動を始めてから2年半が過ぎたころ、マークと支持者たちは来るべき市議会の選挙に向けてデデムスワートのコミュニティ・センターで候補者たちとのデベートすることを企画した。すべての政党に招待状を出して参加したのは民主党系のVVDとD66だけだったが、1997年11月27日、議会のこの主要政党の2つを交えてデデムスワートにコーヒーショップができたことについて討論会が開催された。

その他の参加者は地方のドラッグ相談局(CAD)とACMの代表、ゲール・デ・ズワンと私だった。マークはACMのメディウイード(医療用マリファナ)のサプライヤーだったので私たちも参加したのだった。聴衆はファー・アウトのお客とデデムスワート市民だった。

討論会はプジルマン市長が議長になって行われた。最初にゲールと私に対して何故ロッテルダムとハーレムの人間が参加しているのか質問があった。 私は、ゲールとマークと私がメディウイードの主要サプライヤーであり、コーヒーショップとメディウイードの仕組みを擁護するためにここに来たと答えた。もしオランダの北東部を担当しているマークの店がなくなれば拠点を失い、こちらから供給するのも輸送上困難なのでマークの患者たちはメディウイードを入手できなくなる、と市長に説明した。

われわれは大きなテーブルに付くことを許され討論に加わった。市長は開会を宣言し、まず、投票の支持を得るために解決の糸口を見つけなければならない立場にある政治家から発言するように促した。

●マークに大喝采

警察の捜査官出身のVVD代表の政治家テジェク・ヒッズはあからさまにマークのことを個人的に嫌っていた。ゲールと私は、彼がマークの個人攻撃を始めようとする度に話しの腰を折った。マークはわれわれに話をさせて彼の振舞いを笑い過ごした。 ヒッズは捜査官として以前に大きな事件を解決して国中に知られたが、そのうち失敗続きで今はフラストレーションで固まった地方「民主党員」になっている。

テーブルのすべての人が自分の考えを話し終えると聴衆にも議論に加わることが許された。年長の市民の何人かは、コーヒーショップができてからドラッグの路上取引は目に見えて減少したと発言し、警察もそれを認めた。 住民から出た恒常的な不満はどれも酒場の客が起こしたもので、バーやカフェ内外のけんか、車や家への小便、公共物の破損などアルコール乱用による「正常な」結果だった。

市民の一人が立ち上がってヒッズに向かって叫んだ。「テジェーク、全部分かっているはずだ。先週、あなたの車を踏みつけていたヤツが通りの角の酒場から出てきたじゃないか。」   ヒッズは酒場の客にたくさんの苦情があることを認めた。当然、彼のところの路地の住民も両側を酒場に挟まれてたくさんの問題を抱えていた。

市議会議員でD66のウム・セケリスは、ファー・アウト周辺で問題があるのを聞いたことがないと述べ、コーヒーショップは残すべきだと発言した。 マークはほとんど発言することを許されず、一言でも発すると市長は制止したが、ヒッズ以外の論客たちと聴衆は大声で抗議した。市長はハンマーをたたいて静粛を求めたあとマークに発言を許した。

マークは、デデムスワート中の酒場はたくさんの問題を起こしていても営業を続けられるのに何故自分はこのような目にあわなければいけないのか困惑している、と訴えた。確かに、コミュニティ唯一のコーヒーショップの周囲ではなんの問題も起きていないのに、この討論会の最大の焦点は、ファー・アウトの将来に関することで、閉鎖されるのか続けられるのかが問題だった。マークは大喝采を浴びた。普段は話上手ではないが、言っていたことはまさに核心を突いていた。

市長は鎮まるまで何度もハンマーを下ろし、皆に会合に参加してくれたことに感謝して閉会を宣言したが、余り満足しているようには見えなかった。閉会後、マルスカはカナビスについて啓蒙しようとして市長といい雰囲気で話しをいていた。彼は10分間ほど「感化」されていた。

●活動を通じて一緒に楽しもう

その日以降マークは捜査を受けることはなくなった。一歩前進だが、彼は警戒をゆるめることはなかった。唯一起こった小さな事件ではカナビス宅配サービスで20グラムのグラスが押収されたが、すぐに代替品で補われた。 ファー・アウトは地域の18歳以上の若者のコミュニティ・センターになった。パーティをやったり、デデムスバートの街の郊外にある美しい森を馬車でピクニックしたり、地元のインドアのサッカー大会にチームとして参加したりした。

欲求不満で飽き飽きしていた彼らは、やがて、デデムスバートに何か起こそうとして政治運動を起こした。 虐げられたスモーカーや若者たちはDAAPSという政治団体を組織した。DAAPSとは「活動を通じて一緒に楽しもう」というオランダ語の頭文字をとったもので、オランダのスラングとして「いかれた」という意味もあった。

マークは私に意見を求めたが、自分のところと同様に今こそ公式のレジャー・ビジネスとして市議会から認知され課税されるようになるべきだと説明した。彼はそうなることを望んでいたが先行きは疑っていた。私はもう少し待って様子を見ようと言った。


自分のサッカーチームを応援するために
マークはスタンドで巨大なジョイントをつくっていた。
2001年ウイリー・ウォーテル・クリスマス・サッカー・トーナメントにて

●煙のチーチ・アンド・チョン

マークは友達や常連とビールが飲めてジョイントを吸えるようなナイスな場所を探していた。廃墟になったいたカフェを買い取り、新しいプロジェクトをはじめた。オーフェルエイセル州で最初の「ブローカフェ」だった。

廃墟をさんざん苦労して芸術的な装飾とたくさんの植物を置いたトレンディ・ミュージックバーに変えた。そこはマークお気に入りの名前からチーチ・アンド・チョンと名付けられた。スモカーバーは1999年の夏、大音響と煙りでオープンした。マークはそこを本当に誇りにしていて、酔っぱらったあげく私を5回も見せに引き回したほどだった。


チーチ・アンド・チョン自動車

チーチ・アンド・チョンはバンドやDJが出演する音楽カフェで、デデムスバートの若者たちやサッカーチームのための店だった。そこはまたDAAPSの本部にもなって、収穫祭や音楽祭、ジョイント・ロール・コンテストなどのイベントを行うために様々な活動をした。

ここを拠点にマークやDAAPSたちは毎何行われるカーニバルのパレードに参加した。チーチ・アンド・チョンをペイントしたヒッピー・バンに12フィートの巨大ジョイントを屋根に載せてスモークマシンを取り付け、サウンドシステムをとキングサイズのスピーカーをまわりに配置した。

パレードではヒッピーの格好をして大音響で行進し、見物しているファー・アウトの常連たちにジョイントをばらまいた。チーチ・アンド・チョンの車の音は景気のいいビートにのって1マイル先からも聞こえた。聴衆は大喜び。過ぎたあとでも煙りがなくなるまで留まる人もいた。最高の出し物だった。


煙りのあるところにジョイントあり

●ついにファー・アウトに容認許可

1999年8月、マークは私に、ビリヤードとゲームマシンなどにレジャー部門からいろいろな請求書が来たと苦情を伝えてきた。 私は請求書が本当に市から来たものか、いままで払ったこともない地方税ではないのか尋ねた。「マーク、そいつはすぐに払ったほういい。市が課税しようとしているとすれば公式に認めようとしていることだぜ。喜べよ。やったね。」と私は答えた。

1999年9月14日デデムスバート市はコーヒーショップ、ファー・アウトに容認許可を発行した。マークは私が言った通りになったと電話してきた。彼はついにライセンスをもつソフトドラッグ店のオーナーになったのだ。私は彼を祝福した。


カナクイズ優勝のロニー、ノル(私)、マーク、マーセル。ファー・アウトにて

彼らの社会政治的な目標は「開かれたダイナミックな市議会を支援する」ことだ。 昨年の夏、DAAPSとファー・アウトは野外パティー、サマーダンスを開催した。 小さな湖畔のあちこちに5張りのテントを設営し、DJを配置した。このイベントは毎年も開催される予定になっている。

DAAPSは市議会の選挙に挑んだが失敗した。その時はたまたま選挙区の変更があり、DAAPSの地区はデデムスバート区からもっと大きなハーデンブルグ区に編入されたからだった。 集めた370票は、かつてデデムスバートに所属していたオーバレストの議会では2議席に相当していた。 しかし新しい地区では議席を持つには半分しかなく市議会に参加する資格は得られなかった。DAAPSは次の選挙に向かって活動を始めている。


最近、マークは現在の青年評議員、フレディ・フォン・ファッセンと緊密な関係を保ってデデムスバートの若者たちの社会生活について意見を交換している。また、パートナーのドリアンは元気いっぱいの赤ん坊を生んで、二人は親になった。彼らの娘キーンはいつしか田舎の向こうでファー・アオトをやっていることだろう・・・