第13章 アメリカからの眺め
ピート・ブラディ
カナビス・カルチャー・マガジン 国際レポーター
●ドラッグ戦争
1972年、ワーナード・ブリューニングと彼の仲間たちがオランダで最初のマリファナの小売店を始めた頃、アメリカでは大統領が新ドラッグ法を執行する組織をつくりドラッグ戦争という戦術を開始した。
共和党のニクソン大統領は、1974年、数々の犯罪で弾劾を受け辞任に追い込まれたが、彼の遺産であるドラッグ法の強行路線は継承され、マリファナのようなドラッグとそれを使用・栽培・販売したりする人々に対するアメリカ独自の弾圧を一層強めた。
この30年間、オランダでは 「ソフトドラッグ」 の使用を容認し、規制の上でコーヒーショップやスマートショップでマリファナやその関連商品が利用できるようになったが、アメリカでは何百万人もがマリファナで逮捕された。そして、2002年、オランダでは30年に及ぶ先進的なマリファナ政策を祝っていたが、アメリカはコーヒーショップ・システムを廃止を求めてオランダに圧力をかけ、世界中の 「テロ戦争」 と結びつけてドラッグ戦争をあおりマリファナ禁止を国内外の政策の中心に据え続けた。
●アメリカでのカナビスの歴史のはじまり
アメリカのカナビスの歴史を辿ってみればマリファナ禁止への執念は皮肉に満ちている。北アメリカにこの植物が持ち込んだのは17世紀に始まったヨーロッパの移住者たちだった。19世紀までは国でも最も収益性の高い作物で、薬効の弱いカナビス、つまりヘンプが何万エーカーも栽培されていた。南北戦争前までは毎年のようにケンタッキー、ミズリー、バージニアや南東部の州へ拡大していった。
ヘンプを繊維など製品として仕上げるには多大な労力を必要としたため、アメリカのヘンプ産業はアフリカ奴隷の労働力を活用した。そのためアフリカ系アメリカ人たちはヘンプの栽培と加工に独占的な知識を持つようになっていった。しかし南北戦争以後は奴隷も減少し、黒人の台頭を嫌う綿花や合成繊維業者との競争もあってヘンプ産業は徐々に衰退していった。
アメリカ建国の父トマス・ジェファーソンやジョージ・ワシントンをはじめとして何千もの地主や農民はヘンプを育てていたが、医療や楽しみのために使っていたという確証はほとんどない。
カナビスがアメリカで医薬品や陶酔物として最初に使われたのは19世紀中葉になってからで、ヨーロッパのカナビス研究やインドやアジアのカナビス使用の研究からもたらされた知識を起源としている。
1854年当時アメリカ薬局方にはカナビスが掲載されている。19世紀後半にはカナビスの抽出物が民間薬に使われ始め、特許を受けた万能薬として製薬会社や個人の薬草店から売り出された。カナビスは極めて安全な医薬品と考えられていて、鬱病、喘息、痛み、神経疾患、不眠症など様々な種類の薬として広く処方されていた。
●マリファナは気違い草
ヘンプの利用やカナビスの医薬品利用は20世紀初頭の技術革新との競争で衰退していたが、それを後押しするかのように、新しく設立された連邦麻薬局とその局長ハリー・アンスリンジャーがカナビスを 「マリファナ」 と再定義して1937年初めに闇市の商品に仕立ててしまった。
アンスリンジャーは 「気違い草」 神話を作りだし、マリファナが暴力と精神異常の原因になると主張した。第2次大戦中、アメリカ政府は戦争に必要だとして 「ヘンプで勝利を」 というスローガンを掲げ農家に栽培を奨励しりもしたが、戦争が終わるとすぐにアンスリンジャーはFBI長官のエドガー・フバーなどと協力してカナビスを一気に悪霊化した。
1940年代後半以降、アメリカは、ヘロインやあへん、コカインを対象とした国際反麻薬条約にマリファナを加えて世界に押しつけマリファナ禁止の中心勢力になった。
ハリー・アンスリンジャー ミスター禁止法
●ピッピーの出現
アメリカ政府のマリファナに対する反対にもかかわらず、若者の 「ピッピー」 文化が1960年代オランダに出現し、同時期にアメリカにも感染した。マリファナは社会的な儀式、正餐、陶酔物として多量に使われだした。
マリファナの使用は公民権運動や反戦運動とも結びつきを持っていた。黒人のジャズ・ミュジシャンや活動家たちはマリファナを吸い、若い学生たちも人種差別や資本主義、ベトナム戦争に抗議するときにマリファナを吸った。
1968年ニクソンが一期目の大統領に選ばれたとき、彼は政治ラジカルとマリファナ使用の関連に非常に神経質になった。カナビスに対する刑罰を強化し、マリファナを医学的有用性のない大変危険な 「規制薬物」 として政府の公式一覧表に追加した。
しかしこうしたニクソンの努力は無駄に終わった。1960〜1970年代には多量のマリファナがアメリカにもたらされた。高品質のマリファナがメキシコやコロンビア、アジア、ジャマイカから船舶や飛行機さらにメキシコ国境の陸路を経由して洪水のように流入してきた。
この時期、効力の強いカナビスは1オンス平均40ドルだった。レバノンやアフガン・ハシシ、タイ・スティクなど外来のカナビス製品やハシシ・オイルなども豊富で値段も手頃だった。ベトナム帰還兵たちは戦争地帯から本国にポットの種子を持ち帰り、アメリカ中に、特に北カルフォルニアや南西部州を中心に移植した。それらの種子と、ヒッピーたちによってネパールやアフガニスタンなど広範囲から収集された種子が遺伝交配された。マリファナはどこででも受け入れられ、すべての社会階層で公的私的に使われてきた。それはまるで反マリファナのプロパガンダや実効的な警察活動など無くなってしまったような状態だった。
●ジミー・カーターの失敗
実際マリファナはごく当たり前のものとなり1976年の大統領選挙のキャンペーンでは民主党のジミー・カーターは非犯罪化を掲げ、共和党のジェラルド・フォードもポット・スモーカーを刑務所には送らないと約束していた。
「ハイ・イン・アメリカ」 の著者でカーターのスピーチ・ライターをしていたパトリック・アンダーソンは1970年代の興味深いマリファナ政策の内側を語っている。カーターの運動員の多くがプレスの記者たちと大ぴらにマリファナを吸い、カーターとフォードの息子たちは双方ともマリファナを使っているという信頼できる報告もあった。
カーターが選挙に勝ち、ポット支持者たちは連邦マリファナ法の劇的な変化がすぐに実現すると思っていた。だがそうはならなかった。カーター政権のドラッグ政策の顧問ピーター・ブーン博士が偽処方箋の発行とNORMLのパーティでドラッグを使ったというスキャンダルで解任され、カーターは非犯罪化の公約を取り下げざるをえなくなった。
このようにしてアメリカでは理性的な連邦マリファナ政策への最大最後のチャンスが失われた。カーターは1980年にはロナルド・レーガンに破れ、それ以降ドラッグ戦争は常態化し犠牲ばかり大きいアメリカの国家プロジェクトになってしまった。
●反ドラッグ・キャンペーン、「ノーと言おう」
一方、レーガンとホワイト・ハウスのスタッフたちは秘密のCIA-DEA作戦を展開し何トンものコカインやヘロインを北アメリカに流入させ、レーガンはそのドラッグ・マネーを使って中米地域の反共産テロ対策に資金供給した。妻のナンシー・レーガンは 「ノーと言おう」 という反ドラッグ・キャンペーンを始めて親たちや学校をドラッグ戦争の最前列に立たせた。
レーガン時代の8年間に政権は近代的なドラッグ戦争関連産業の土台を巧妙に作り上げた。ドラッグ戦争にはDARE(ドラッグ中毒抵抗教育)のような準政府のプロパガンダ機関が参加し、ドラッグ・フリー・アメリカとの協力関係もはじまった。これらの機関は公立学校やメディアに再び気違い草の神話を広め、放送の無料時間枠を使った反ドラッグ広告や番組を盛んに作らせた。
またレーガンの支援を受けた 「正直者の集まり」 とういような住人向けドラッグ治療プログラムもあった。マリファナ使用の疑いのある親をもつ子供たちは監禁、拷問されて洗脳された。
学校の教室を管理するのために警察官たちが送り込まれ、生徒たち親や友達を密告するように指導させた。警察の指導に従った生徒たちの家は家宅捜査を受け、親は逮捕され本人たちは養護施設に入れられた。
レーガン将軍は民間企業や政府機関に対して従業員の強制的なドラッグ・テストを実施するように勧告し、違法ドラッグに陽性反応を示した人に薬物乱用相談の受講を強制した。もし受講を拒否したり、再びテストで陽性になったりすれば解雇や時には逮捕されることもあった。
レガーン時代は、麻薬取締局や税関、沿岸警備隊、米軍を総動員して国内のマリファナを一掃し、アメリカへのマリファナの流入を阻止して他の国のマリファナ栽培を根絶しようとした。
アメリカの反ドラッグ政策は外国に対してはしばしば帝国主義や植民地主義のようになり、ジャマイカやコロンビアの識者によれば、ガンジャ畑をなぎ倒し、輸送路を破壊するためにアメリカの軍隊と武器が使われた。アメリカとメキシコの国境にも軍隊が配置された。
アメリカ本国で行われた反マリファナ作戦では、ハワイやカルフォルニア、中西部などの市民たちは、武装した軍が裏庭にヘリコプターで降り立ち、DEAがマリファナに除草剤パラコートを空中散布するのを目撃している。
アメリカのポット使用者たちにとっては、レーガン体制はマリファナの価格と偏執症の増大を意味していた。1980年代後半には最高品質のマリファナの小売価格は1オンス200ドルにも達し、屋外の大規模なマリファナ栽培も公共の場所での喫煙も過去のものとなった。
ロナルド・レーガン。ノーと言おう
●シンセミラの登場
しかしながら、価格の上昇と警察の活動は思わぬ結果を導いた。マリファナの栽培家たちは高度な植物園芸技術を使って一層強力なシンセミラや室内栽培マリファナを育てるようになった。輸入マリファナも重要な供給源ではあったが、アメリカ国内の栽培者たちがマリファナの新しい種類を作り出し栽培技術を改良して製品やマーケット・シェアを増やした。
1988年、ブッシュ大統領がホワイト・ハウスを指揮する頃になると、過去10年間に多大が経費をかけたにもかかわらず、マリファナの使用は恒常的に高くとどまり、マリファナとその支持者たちに対する戦争は失敗した。
●さらなる戦争の強化
ブッシュもドラッグ戦争を国内政治の中心に据えた。ブッシュに協力した上院は憲法から市民の自由を保証する条項を徐々に取り除いていった。裁判所は警察が確度の高い証拠や同意なしで市民の家や車、身体を捜査できるように判決をあらためた。
警察は人種や経歴などのプロファイルを作成してそれを口実に市民に接近することができるようになった。また捜査令状請求に嘘を申し立てたり、尋問中に脅しや肉体的な暴力や嘘をつかって被疑者に自白を強要したり、さらに警察や検察は被疑者が確認したり反論すことのできない匿名の情報提供者に頼ることもできるようになった。時には 「誤り」 を犯し、間違った住所でドラッグの家宅捜査を行って無実の市民を殺害してしまったことさえあった。こうしたことはドラッグ戦争の必然であり処罰も行われない。
アメリカの最高裁はドラッグ使用が国の緊急課題で国家安全の脅威であると認定し、憲法上の公民権保護規定を 「戦時」 は適用しないことにした。警察が引き起こしたどのような過失や野蛮な行為も、ドラッグ戦争の 「不慮の犠牲」 ということで見過ごされた。またこの時期には 「財産の没収」 も行われた。これにより刑事責任が確定する前に民事裁判で警察が個人の家や車、銀行口座などの資産を没収することができた。不当に短い期限を区切って財産の正当性を主張するように要求し、それが出来なかったりすれば後で刑事上無罪になっても財産は没収されたままで決して返却されることはなかった。
匿名情報と財産の没収という組み合わせは腐敗した法執行機関や関係者たちをたき付け、犯罪活動ではなく没収した財産の価値を基準に犯罪捜査や逮捕が行われた。
レーガンとブッシュ時代には強制的な最低刑罰が制定された。強制刑罰では過酷な留置期間が規程され、情状酌量による減免措置の適応も排除された。このような刑罰のガイドラインの結果は統計的に人種差別的な様相を呈している。
ドラッグ戦争によって引き起こされた公民権の深刻な侵害は現在では法体系に組み入れられ、アメリカ愛国法や911以後の政策や法的措置の土台として利用され、令状無しの秘密捜査、予防監禁、秘密裁判が行われ、まっとうな潔白を主張する被告の能力を押さえつけることになった。
押収したカナビス草を 「刈り入れ」 する警察官
●クリントンの裏切りと失敗
ビル・クリントンは、マリファナを吸ったことはあるが吸い込んではいない、と言い張っていた。1992年にこの若いアーカンソー風体が大統領になったとき、アメリカのマリファナ支持者は共和党の前任者たちよりもドラッグ戦争に対してもっとリベラルな対応をすると信じた。しかしそれは間違いだった。クリントンが大統領だった8年間に、マリファナの逮捕者数やマリファナ法の執行のために費用は劇的に上昇した。
クリントン時代にはドラッグ戦争に対して別の戦術も採られた。学校で薬物試験紙や麻薬犬などが利用され、お互いに見張りあう密告ネットワークも作り出された。
さらに、クリントンの国家薬物規制政策ホワイトハウス事務所と軍の出世主義者バーリ・マカフェリー総司令官は反マリファナの宣伝に何百万ドルもをメディアにそそぎ込み、主要テレビ・ネットワークには金を与えて番組中にこっそりと反マリファナのメッセージを挿入させた。このやり方はブッシュ政権にも継承され、主要メディアにマリファナ使用者はテロに資金援助しているといったプロパガンダ広告を流させた。
しかし、莫大な費用をつぎ込み、何百人もの人々を逮捕し起訴したのにもかかわらず、北アメリカのカナビス文化は繁栄を続けている。
信頼できる調査ではマリファナはアメリカでも最も人気の高いドラッグで、タバコやアルコールと同程度か若干下回る程度にランクされている。ドラッグ戦争筋によると、マリファナは12-18才の若年層ではしばしば最高になっている。多くの者たちはどんちゃん騒ぎのなかでアルコールを試すが、これに対して、マリファナを使うアメリカのティーンエージャの多くは、1960-70年代のオランダの 「ピッピー」 や 「プラボ」 文化を体現したのと同じようなオルタネイティブなライフスタイルの中で試したと言っている。
一人当たりの量で見ると、アメリカの若者たちはオランダとは対照的に多くのカナビスを使っており、これは、オランダではマリファナが比較的簡単に手に入り社会的な罰則も無いことを考えれば、とりわけ驚くべきことだ。統計によればアメリカの若者のハードドラッグや望まれていない妊娠、銃、暴力、学業破綻、自殺などの問題を起す一人当たりの率はほかの先進国に比べてもかなり高くなっている。
●デニス・ペロンとプロ・ポット条例
もともとアメリカにはマリファナ・コーヒーショップのようなものはなかったが、オランダのコーヒーショップと似たような特徴をもったビジネスやクラブはいくつか存在している。
そのような事業の歴史をたどっていくとデニス・ペロンという名の一人の男にたどり着く。イタリア系アメリカ人の彼はベトナム戦争の退役軍人で、1970年代初頭ベトナムから帰還してからサンフランシスコでマリファナの小売りと卸売りを公然と始めた。
ペロンはマリファナのサンプリング抽出や栽培テスト、レストランやテーハウス、ロッジなどへの販売や営業活動などを組み合わせた一連のポット・ビジネスを設立し運営した。多様で上質なマリファナのメニューの中から吟味して買えるというペロンのビジネス手法は、お客さんが食べて飲んで喋り友情を育てるオランダのコーヒーショップの形態に極めて近い。
そのころサンフランシスコはピッピー・サイケデリック文化の首都だった。ペロンは比較的警察の干渉も受けずにマリファナ・ビジネスを立ち上げることができた。何度か逮捕され投獄されたが、彼はマリファナの合法化運動を組織し、投獄中に彼の政治団体はプロ・ポット条例でサンフランシスコの有権者の賛同を得てそのたびに解放され次のマリファナ・ビジネスを再開することができた。
●はじめての医療用マリファナ裁判
1980年代の終わり、彼はマリファナの法執行に歯止めをかける絶好の理由を手に入れた。家宅捜査で乱暴な警官に自らが撃たれ、さらにAIDSで逝った若いパートナーが逮捕されたことで、医療品としてのマリファナの使用が裁判の争点になった。
ペロンは以前に比べていっそう政治的な情熱に駆られた。エイズ蔓延の悲劇と闘うための医療マリファナの使用が単に医療行為に極めて有効であるというだけではなく、娯楽目的のマリファナに対する世論とは一線を画して一般大衆の共感を得る強力な政治的な道具なることに彼は気付いた。
活動家の彼はサンフランシスコのゲイ・エリアとして有名なカストロ地区に医療マリファナ・クラブを設立した。そこで得た利益を基金に実行力のある政治集団を組織し、医療マリファナの認知を求める住民投票プロポジション215を1996年11月のカルフォルニアの選挙で実施させた。
アメリカの医療マリファナのパイオニアで第一人者のデニス・ペロン
●メデポット・クラブとマーケット・ストリート・クラブ
サンフランシスコのマーケット・ストリートに作ったペロンの最初のメデポット・クラブとそれに付属するクラブは、オランダの最高のカナビス施設さえ凌ぐ質と大きさと娯楽の提供をした。
マーケット・ストリート・クラブは洞窟のような5階建ビルで、複数のマリファナ・バー、各階にはそれぞれ種類の違うライブ・バンドやDJ、レストラン、マッサージとカウンセリング・サービス、庭園、テラス、社交イベント、壁画、栽培室、土産物屋、ホームレスのシェルター、自転車置き場、ライトショー、医療施設、さらにフルタイムの救助隊まで備えていた。
二階のペロンのオフィスは政治活動の司令室でもあったが、そこは極上のウイードを埋め込んだスーツケースや布袋を持ったポット栽培者たちでいつも賑わっていた。大半が北カルフォルニアの有名なエメラルド・トライアングル地区で有機栽培でつくられたポットだった。
果敢な彼は週に何百ポンドも売り買いし、あらゆる種類のマリファナ、関連食品や染め物、マリファナ・オイルなどをクラブ中の掲示板で宣伝した。良質のマリファナを買う余裕のない人たちにはメキシコ産ウイードを週サービスし、しばしば貧しい医療患者たちには「四つ星」クラスの樹脂に富んだ高価な貴重品を何オンスも無料で配った。
クラブは、一時、数千人の患者を抱えていた。訪問者は各階を行き来する階段やエレベータで様々なマリファナのサブカルチャーを体験した。1998年政府の命令で閉鎖されたが、クラブは世界最大のマリファナ集合施設として有名になった。最も質の高い会員制クラブとダンスホール、ヒーリング・センター、バー、そしてダッチ型コーヒーショップが一つ屋根の下に融合していた。
●プロポジション215
ペロンはいくつものマリファナ関連の功績を誇りにしているが、とりわけ1996年11月の医療マリファナ住民投票で有権者の賛同を得たプロポジション215を組織し財政支援したことは多大な栄誉に値する。
プロポジション215は広く手本とされ、1996年にカリフォルニアを先鞭としてアリゾナ、ネバダ、ワシントン、オレゴン、ハワイ、アラスカ、メインの各州に類似のメディポット条例が成立した。ワシントンDCの有権者も医療マリファナ法に賛成したが、アメリカ議会の命令によって投票は廃棄された。
ペロンの医療マリファナ・クラブのアイデイアも広く模倣されたが、カルフォルニアの他の大半のメディポット・クラブは裁判所の命令かDEAの家宅捜査で閉鎖された。アメリカでは現在もいくつかの医療マリファナ・クラブが活動しているが、アメリカの最高裁判所とDEAはどのようなものでも違法だとしているので、ほとんどが閉鎖を恐れてひっそりとやっている。
デニス・ペロンと友人のライアン。マリファナ畑で
●戦争強化 と さらなる抵抗運動
ジョージ・W・ブッシュは、2000年の選挙キャンペーンでは州の自治権を尊重すると言っていたにもかかわらず、大統領になるとメディポットを合法化した州に対して州自治権に対する連邦政府の権力を強化した。
ジョン・アシュクロフト司法長官とDEFアサ・ハチンソン局長に率いられたブッシュの戦士らはカルフォルニアに侵入し、病人や死にかけている人たちまで逮捕し、完全に非営利で合法的だと皆が認めるメディポット・クラブまで家宅捜査した。これに対して、カルフォルニアの一地方の郡検察官のマイク・ラムゼイは6本のマリファナ草を庭から引き抜こうとしていたDEAのエージャントに向かって、自分の作ったガイドラインでは合法であるから破壊行為で逮捕すると威嚇した。
カナビスに対する迫害は強固なアメリカの抵抗運動を生み出すことになった。クリス・コンラッド、バレリー・コーラル、メイ・ラン・マスー、エサン・ルッソ博士などの個人が政府の職権乱用に対して大声で非難し、その一方ではマーク・エメリーやジョージ・ソロスなどの裕福な投資家たちがチームを組みNORMLやMPP、アメリカン・セーフ・アクセスなど有力なプロポット機関を支援している。
そしてアメリカの何百万という人々が庭先で平和のためにウイードを育てることによって戦争に抵抗し政府に挑んでいる。
●コーヒーショップの上に住む
私はカナビス・カルチャー・マガジンの国際特派員として世界中のマリファナ・ビジネスの現場を見てきたが、オランダではたくさんのコーヒーショップを訪れる機会にも恵まれた。
かって、私はオーストラリアのニンビンでアンドリュ・カバシラスに彼のトレンディで心地よいカフェ・オアシスで会ったことがあったが、
彼は、ハーレムに行ったときノル・フォン・シャイクとパートナーのマルスカ・デ・ブラーウに会ってカナビス・カフェを始めることを思いついたと語っていた。
「ニンビンはもともとマリファナで知られたところです」 と彼は言う 「でもここにはコーヒーを飲み、ケーキを食べ、音楽を聴いたり、ライブシアターやちょっと騒いだりするような場所がなかったのです。チャンスを掴んだのです。私と家族にとって素晴らしい興奮と挑戦でした。」
カバシラスはこの活動のために逮捕されたが、かろうじて投獄は免れた。ニンビンにはオアシスを真似た店もあるがどれもいろいろな意味でダッチ・コーヒーショップに似ている。
私はたいていの人よりもダッチ・コーヒーショップについては詳しい。2001年の夏、ハーレムの2軒のコーヒーショップの上に住んでいたからだ。どちらの店もノル・ファン・シャイクが経営するウイリー・ウォーテルのフランチャイズ店だった。
店の一つは復元された風車を望む川べりにあり、別の一つは駅近くのハーレムのダウンタウンにある。
私は毎日何時間も店で過ごし、店がどのように運営されているか分析し、人類学者が部族の集合体を観察するようにカナビス・カルチャーの一部始終を目撃した。
4ヶ月間観察したが、取っ組合いの喧嘩どころか深刻な口論すら見ることはなかった。ティーンエィジャーからお年寄り、アメリカ人とイラク人、金持ちと貧乏人、男と女、人々は一人であるいは大きなグループになって座り、すべての民族の世界市民たちが平和にポットを吸い、公共の場でカナビス・ファミリーとして共に心から時間を楽しんでいた。
ウイリー・ウォーテル・インディーカ・カナショップの対岸にあるアドライアン風車
●神よ、ダッチ・システムをありがとう
オランダがマリファナの実験で得たダッチ経験は成功だった。すべての国、とりわけ自分の本国であるアメリカはこの経験を再現すべきだ。アメリカのマリファナ・ユーザーはカナビスを吸うためにドアの後ろに隠れる。あえて公共の場で吸えば監視され逮捕されるのではないかという恐怖に悩まされる。
神よ、ダッチ・システムをありがとう。私は大きな声で感謝と賞賛を叫ぶ。ワーナード・ブリューニング、ハンク・デブリ、ノル・ファン・シャイク、オランダ政府、そしてすべてのコーヒーショップ・パイオニアに。ありがとう。
今この章を書き上げなければならないが、すぐにアムステルダム便の予約しなければ。もっと自由で健全な場所に舞戻ることを待っていられなくなった。
ピート・ブラディ
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