第5章 コーヒーショップ の バックドア

●カナビスのレジャー化

1982年、カナビスの少量販売に対する寛容政策はまだ全国に普及するには至っていなかった。ある都市で許されていても隣りの町や市では厳しく禁止されていることもあった。コヒーショップ産業の起業家たちが国境近くでは旅行者にハシシを簡単に提供できるのに目を付けて商売を拡大させたことから外国の反対の声も強くなった。

この時期の悪名高い事件は、ドイツ国境近くのエンシュヘーデの若者の店コカーユッファーでの出来事だった。市はハシシやウイードの販売を許可しようとしたが、国境を越えてドイツ当局の激怒を引き起こした。責任を負う検察庁のR・ゴンサルブス長官は反対し、司法省のJ・デルイター大臣は賛成した。この計画に反対するスエーデンまでもが介入し、最後はドイツ側が押し切って販売は禁止された。しかしエンシュヘーデでの論争となったようなことがあちこちで起こったというわけでもなく、アーネムのような国境地帯の別の町や市ではすんなり受入れられてもいた。

80年代には、オランダ人のビジネス魂と国中の需要が絶妙に絡み合ってコーヒーショップは国内の至る所に出現した。  「若者向けの店のハウス・ディーラーや自営店の人たちまでも販売に名乗りをあげている」 とアムステルダム大学の経済学者でドラッグ研究家のアドリアン・ヤンセンは説明している 「だか品薄でマージンが上がったために請求書に翻弄されている。明らかにハシシの価格が上昇しているのがわかる。」

大都市で始まったコーヒーショップという考え方は国中に浸透していった。ますます増加するカナビスのレジャー化という商業活動は現実のものとなった。

●大半は輸入に頼っていた

「司法当局や警察は80年代になると、多少大がかりなハシシ取引にも関心は払わなくなっていた」 と警察長官のフォン・リーセンは言っている 「捜査はまずヘロイン、次いでコカインなどのハードドラッグに向けられていた。もしハシシ入りの荷物を見つけても押収するだけで終わりだった。」 たとえハシシ600キロ入りの荷物の所持で捕まっても6時間以内に釈放された。これはアムステルダムばかりではなく国中どこでも同じだった。

当時オランダで売られていたほとんどのカナビスはまだハシシとグラスで、スカンク・スペシャル、ノーザン・ライト、カンフォルニア・ゴールドといったシンセミラ製品に対する需要の増大を満たすには至っていなかった。吸うと強烈なハイをもたらすこの香り高いTHC強化グラスは限られた幸運なコーヒーショップがメニューに載せていただけだった。


ハシシは「スタシュ(隠し)」とも呼ばれる

オランダで売られているカナビスの大半はまだ密輸に頼っていた。もっぱら大がかりな組織が税関や法律をあらゆる手段でごまかして巨大な量を持ち込んでいた。コーヒーショップはそこから直接仕入れていたわけではなく、まず全国の下部組織に分配されてから最後にコーヒーショップに分けられていた。小中規模の組織による密輸も数百はあった。荷物を分散するだけではなく危険を分散させるために国境のいたるところから持ち込まれていた。一部の荷物が押収されてもその損失は残った大半の荷物の価格を上げることで埋め合うようになっていた。


モロッコでのカナビスの収穫

組織的なもの以外にも小さなグループによる密輸も常にあった。ネパール・テンプル・ボ-ルやマナリ・フィンガー、タイ・スティック、マラナ・クリームのような特産品が数キロ単位で持ち込まれた。こうした行商人はコーヒーショップ・ビジネスではごく普通のことで、店は良質の珍品を公正価格で提供して良いコーヒーショップのイメージを作ることで周辺の同業者に差をつけようとした。

●コーヒーショップはアンタッチャブル

コーヒーショップが広まるには少し時間がかかったが、1987年ごろまでには司法省や警察は、それまでの少量のハシシ販売は認めて卸売りは禁止するという対処方法がとんでもない大きなモンスターを作ってしまったことに気付き始めた。フォン・リーセンは「コーヒーショップはアンタッチャブルになった」と言っていた。

70年代初頭にドラッグ政策に立案にかかわっていた人たちはハシシの卸売の量を規制しても何の解決にもならないのを認めていが、だからといってこの問題にまともに取り組もうともしなかった。政策変更の結果を甘くみていた。 「悲しいかな時計を反対にまわすことはできない」 ガレン・ハーマンは言う 「確かに議論はバン委員会でも行われていた。しかし提言には盛り込まれなかった。」

委員会は寛容政策の半分を妥協することで満足していたので、政策の骨格の大きな変更は考えていなかった。そのかわりに70年代の半ばまでの数年以内にほかの国もいずれソフトドラッグの合法化が避けられないことに気付くことを期待していた。 デン・ウル内閣は外国にカナビス政策に関して説得を開始した。しかしどの国もその考えを歓迎せず成果をあげることはできなかった。オランダは孤立を避けるために中途半端な解決を迫られ、リスキーな立場におかれた。

アムステルダムとロッテルダム、ハーグ、ユトレヒトの4大都市とオランダの連合評議会は 「カナビス使用緩和と違法取引の間に緊張関係を維持するように考慮して」 ヘンプ製品をドラッグの法律から切り離すように大臣に要請していた。 市や協議会は、コーヒーショップがカナビスを不法取引することになれば 「バックドア」 を犯罪組織の手に握られてしまうのではないか、と懸念して合法化を望んでいた。

●ハシシ・オフィス

国際条約の手前、内閣はそのような立場をとったが、本当に犯罪組織が入り込むとも考えていたわけでもなかった。同時期、アムステルダムではカナビスの新しい流通チェーン 「ハシシ・オフィス」 が形成されつつあり、何軒かのハシシ・オフィスが営業をはじめた。コーヒーショップ側はどこでやっているか分かりさえすればキロ単位でハシシを買うことが出来た。オフィスはたいていは信用だけで商売をすることができた。元締めの業者は売るのを彼らに任せて後でその分だけ支払いを受けた。

オフィスは取引で良い手数料を得ることが確実にできた。カナビス産業における仲介は財政的なリスクもほとんどなく他人の商品を分配させるだけなので、今も昔もたいへんな利益になる。ハシシ・オフィスの卸売はバイヤーにその時に提供可能な見本を示して取引可能な量を提示した。当然のことだが実物は外に隠してあった。バイヤーはサンプルを試して欲しいアイテムを選んでから欲しい量だけを注文できた。

もちろん本当の取引はそこでは行われない。ハシシ・オフィスが家宅捜査を受けたときの少量のロスや警察での取調時間のことを考慮して、建物内には数キロ以上のものは決してストックしないようにしていた。地域のマーケットに対応するこのネットワークは自然と外国のバイヤーの分配システムにもなった。このシステムは国のハシシやウイードの需要を適正価格でバランスするような機能も果たした。

多様なハシシが流通し、普通の外国産グラスも豊富にあったので供給には何の問題もなかった。当初、種のないシンセミラは最も人気が高くブランドとして扱われていたがやがて多量に売り出されるようになった。 バンダイクやフォン・スメレン、スタインメッツらの助言を受けた司法省の報告書によれば、当時オランダのハシシとウイードの国際取引は2百万キロ、金額にして180億ギルダー(82億ユーロ)に達している。国内の供給マーケットはそのほんの一部の8億ギルダーに過ぎなかったが、80年代後半にはコーヒーショップがどんどん増えて拡大し続けた。


手で固めたネパールのテンプル・ボール。

●コーヒーショップが1400軒

1990年ごろにはアムステルダムには約400軒、それ以外のオランダの各地も含め1100〜1400軒のコーヒーショップが出現した。現在では、ハシシのレジャー産業は多様なハシシやウイードを用意して、お年寄り向けのカフェから派手なギャラリー・ラウンジまであらゆるライフスタイルの層に対応している。多くは団らんの場所になっていてセカンドホームにしている人さえいる。店ではスタンプカードを発行して客をつなぎ止め、スタンプが一杯になると無料のカナビスを進呈したりしている。

コーヒーショップではテーブル・サッカーやビリヤード、バックギャモン、チェッスなどはいつも人気がある。オランダの酒場と同じようにサッカーのTV中継に夢中になっているスモーカーもいるが、ここでは多量のアルコール漬けにされる心配はない。 ユースセンターは政府の財政支援が減らされて閉鎖を余儀なくされてきたが、コーヒーショップはゆっくりだが確実にユースセンターとしての社会的役割を果たすようになってきている。

アムステルダム薬物ヘルプデスクの霊感豊かなリーダー、アウグスト・デルアはカナビス産業を完全に受け入れるように後押ししている。1993年にコーヒーショップ周辺で新たな問題が起こって来たとき  「コーヒーショップをアルコールに次ぐ第2のレジャー産業として受け入れる時期だ。多くの人たちがアルコールからソフトドラッグに移行してきている。従来のアルコール産業に比べてお客たちの振る舞いが悪いわけではない」  と雑誌で語っている。

1990年代初頭まではハシシ産業は当局との間にほとんど何の問題も抱えていなかった。しかし司法省がふたたび乗り出してきて状況が変わった。あまりにも急激で乱雑にコーヒーショップができて近隣の住民から苦情がおこり、組織犯罪が「発覚」したとして再びハシシが問題になった。国境周辺の町も同様だった。警察はふたたびコーヒーショップを手入れするようになり、あらゆる分野の「専門家」たちが集まり、開店しているコーヒーショップの数を制限して状況を調整し始めた。


インドのマラナ・ハシシ

●観光産業

しかしカナビス産業はかつてなく生産的で活発に取引を行い繁栄していた。何軒ものグローショップや栽培者たちが需要に応えていた。大半のコーヒーショップが数種のオランダ産のシンセミラをメニューに載せていた。価格は品質により前後していたが、キロ当たり6000から7000ギルダーで安定していた。

アムステルダムは世界中の 「自由のない」 国の人たちからにフリーセックスとコーヒーショップと運河と自由の町として知られるようになり、シンセミラが普及するとグラスの巡礼者たちが訪れるようになった。アムステルダムは燃えるポットのるつぼとなった。市の観光産業は持ち前の商売熱心さで物見高いツーリストにすぐに対応した。

ティーカップからボクサーシャツにいたるまでいろいろな商品にカナビスの葉がプリントされ、繁華街のどこでもディスプレイされ販売された。ネクタイにまでプリントされるほどのブームになった。 ワーナードの理想やアイディアなどはるかに越えていた。カナビスに全く関心のない人たちがどうでもいいようなものにまで 「みんなの」 カナビスのロゴを付けて儲けはじめた。 「誰が作っている? どこにいけばその商品が手に入る? 売れるなら自分も売りたい!」 といった会話が普通に行われた。

●カナビス・カップ

実際、1979年ワーナードがアメリカでシンセニラを吸ったときに夢想し夢見た世界が実現したのだ。彼のカナビスに対する貢献はオランダをヨーロッパのジャマイカあるいはそれ以上に変えた。 アムステルダムのカナビス・シーンは世界中のハシシ愛好者やポット・スモーカーにとってまさに天国になった。特に1998年、「ハイ・タイムス」というアメリカのマリファナ雑誌を発行している数人のアメリカ人がカナビスの競技会を企画してから一挙に知られるようになった。

アムステルダムがその舞台に選ばれた。もっともアメリカで開催すればドラッグの使用を促したとして長期の刑務所行きになってしまうのでそれ以外に選びようもなかった。最初のころは、カナビスの種子会社が競技会に提供したグラスの質をみんなに判定させようというイベントに過ぎなかったが、カナビス・カップで優勝すると観光マップに掲載されて世界中のプレスがよろこんで取り上げてくれるので大変な宣伝になることが知られるようになると、コーヒーショップやグローショップも加わるようになった。
最初のカナビス・カップは1988年に開催された。ハイ・タイムスの編集長スティブ・ハガーが最高の種子会社を判定しようと 「インドア博士」 とカメラマンを伴ってアムステルダムにやってきた。3年間はそんな感じだったが、1991年になってカナビス・カップはコーヒーショップお抱えとなり、1992年、コーヒーショップと種子会社が混じって同じ競技会で競うようになった。

1993年までは公開されることはなく50人がカナビス・カップの審査官を務めたていたが、1994年になると規模も内容も劇的に拡大し、ヘンプ・エキスポとヘンプ・ファッション・ショーとなり審査官も700人になった。この年のカップは今まででもっとも大きく、北アメリカから2000人が参加した。

(カナビス・カルチュア・カナダ発行者マーク・エメリー。1995年)

●カナビス・ロビーの分裂

エディ・イーグルマンは1992年までオランダ保健省のドラッグ政策を担当していたが、国際会議やカンファレンスで使う司法省用のスピーチも書いていた。彼は、1987年にオーストリアのウィーンで開かれた国連のドラッグ会議に司法大臣F・コルサル・アルテスがスピーチする原稿を書いたが、それを引用しながら次のように語っている。
オランダのドラッグ政策の根元にある哲学の説明から始めました。たいへん微妙なところもあるので、すべてを分かっているというような態度は取らないように注意していました。でもどのように語れば分かってもらえるかを常に考えていました。

外務省はいつもすぐにコピーを要求してきましたが、内容を説得するのは困難になり始めました。私はまず司法大臣のコルサル・アルテスに承認をもらうようにして、スピーチの原稿にOKをもらった後で外務省にコピーを送りました。明らかに外務省は内容に不満でした。よく憶えていますが、飛行機で移動中に外務大臣のフォン・デン・ブロークがコルサル・アルテスを呼びつけ、これではダメだ!と言ってきました。
実直な政治家だったコルサス・アルテスは既にOKしたものに対するする批判には動じなかった。1992年イーグルマンは16年間務めた省をやめた。自分の信念に従いオランダのソフトドラッグ政策に係わってきたが、プレスの質問に対して、彼を動かしていたものについて明確に答えた。 「それが私の生き方だから」。

彼が辞める直前、オランダ政府はドラッグの区別を 「クリーンアウト」 して、ハシシ・ビジネスを再び締め付けようとしていた。イーグルマンはこの抑圧方針には全く同意しなかった。ハシシ・ビジネスの「クリーン作戦」を正当化しようとして引き出し奧から持ち出されてきた古くさいドグマの数々を彼は批判し、省を離れる時に彼は語った。
17,18世紀にはコーヒーを飲むことも厳しく反対されていたのです。でも今はどの文化でもそれに囲まれています。 カナビスの少量販売を再び締め付けることはできます。しかし、カナビス政策を厳しくしたからといって国の健康問題にとって利益にはなりません。今はまさに適切な代案を考える時です。
イーグルマンが去ったあとオランダのカナビス・ロビーは分裂し、時代が変わった。

●バック・ドア問題

オランダ民主党から分派したD66はまだ政府には加わっていなかったが、いままで成功してきたドラッグ政策の成果を示して合法化とオランダ・システムに反対する国を説得する積極策を主張していた。社会党のPvdAもそれを少し柔軟にした政策で同調していた。 1994年オランダに最初の「紫」連合が誕生すると、政策の実現に向けて動き出した。司法省の女性新大臣ウイニー・ソルグドラガーはオランダのコーヒーショップの 「バック・ドア」 問題を解決しようとした。


ソルグドラガー大臣と知識人代表のフォン・リーワン博士

彼女の党D66はつねずねソフトドラッグ政策の拡大に好意的だった。カナビス業界は、栽培者とコーヒーショップが合法的に取引することができる認定サプライヤー制度を考えていた。こうすれば、ウイードやハシシの取引が発覚して逮捕や起訴されるのではないかという、栽培者と店の重圧状況が消えることになる。

●さらなる自由化の挫折と後戻り

ところが、1996年前後、「紫」の第3の連立パートナーでありドラッグ政策に決定的な発言力を持つVVD(自由民主党)は、よその国が強行に反対する限りこれ以上の自由化は望まない、という方針を明らかにした。 ソルグドラガー大臣は、コーヒーショップとサプライヤーのもつれた関係を整理するという約束を取り下げた。これで、カナビス製品に対する品質基準なし、コーヒーショップの「バックドア」での販売の取決めなし、ハシシとマリファナの購入に対する税務用の詳細な領収書なし、という状態に後戻りしてしまった。

司法と外務の両省は外国の反感を気にしてドラッグに対する姿勢を強化ようとしていた。さらなる緩和政策をとってフランスを刺激することを恐れていた。実際には、外国に駐在するオランダ外交官たちが受けた苦情は、カナビスのことよりも、アムステルダムで開催された政策会議に出席した関係者たちから正規の駐車許可を持っていても車輪クランプをかけられたいったことのほうが多いくらいだったが、ハーグの中央政府は恐怖を払拭できなかった。合法化に代わって根絶を始めた・・・

ソルグドラガーの計画で寛容的許可を受けてコーヒーショップに卸すことができるはずだった小規模の自宅栽培者たちは、不法とされる大手卸と同様に再び犯罪対象に格下げされた。ハーグ中央政府はすべての町や市がネオン街からコーヒーショップを閉め出すように要請し、地方議会はそれのどのように対処すべきか決めなければならなくなった。

●政策定まらず

デルフザイルのような市では余りにも容認に積極的過ぎたために、ブッサムのような方式を選ぶように勧告をうけた。ブッサムの政策は、町や市の財団に独占権を与えて、利益を関係当局への財政援助や若者のソフトドラッグ教育に充てる仕組みになっていた。

後に大臣も反対するようになったが、コーヒーショップ店主たちは不公平な競争に苦情を唱え、州議会もソフトドラッグの売買について直接関与することを全く望まなかった。ブッサムやデルフザイル、アルメール、ハーヒュゴワードは地方当局の関与するこの独占形態を取り続けているが、このモデルは解決策として疑問も持たれ広まることはなかった。

国の政策の状況も定まらなかった。どの議員も地元のコーヒーショップ政策に関与していた上に、社会党やリベラル派はコーヒーショップを認め、CDA(キリスト教民主連盟)や他の保守カソリックの議員は認めない、というように違いが明からさまになってきた。 コーヒーショップ規制と司法権のエキスパートで現在もソフトドラッグ政策に携わっているクー・ズワートは、カナビス小売ユニオンのアドバイサーの立場から国に警告した。  「オランダには572の地方議会があるが、このままだと572種類の異なった政策を持つことになる。」

●ハーレムの規制モデル

ハーレム議会はすでにカナビスショップに対する新しい規制を実施していた。オランダの新しいモデルの先駆けになったもので、コーヒーショップはアルコールとカナビスを同一の敷地内で販売することは認められていなかった。ソフトドラッグの販売はアルコールとは厳しく分離され、警察は年に数回ランダムにコーヒーショップをチェックするようになった。

チェックするルールは明確だった。ノー・アルコール、ノー・ハードドラッグ、ノー・武器、ノー・盗品、ノー・18才未満、ノー・広告。この規則でコーヒーショップの表にはカナビスの葉の図柄を使うことができなくなった。ハーレムのコーヒーショップはハシシとウイードの在庫を1500グラムまで認められていた。これは30グラムまでしか認められていない他の地域のコーヒーショップに比べれば大変なアドバンテージだった。このことが大きな一歩だった。

当時、ハーレムには22軒のコーヒーショップがあったが、市と警察は、ハーレムの人口15万人に対して1万人に1軒の割合いで15軒まで減らす計画を発表した。

●コーヒーショップの淘汰

1995年の初頭から1996年の末までにコーヒーショップの数は約170軒減少して1300軒を下回った。この数は公式に登録されたバーやカフェの軒数の12%に過ぎない。

当局は次のように見積もっている。オランダのソフトドラッグ・ユーザーの数から1軒のコーヒーショップは550人の顧客を抱え、1人が週1-2グラム吸っているとすると店の売り上げは週5万ギルダーくらいになる。カナビス業界は、弱小の店はやっていくのが精一杯で、大きな店だけが月6万から10万ギルダーになっているに過ぎない、という。もっとも税務署の目を気にして控えめな数字かもしれない。

財政当局や情報局はコーヒーショップの売上げは年間ベースでは40万-70万ギルダーだと見積もっている。それからも明らかなように、大半の店は順調で、なんとか生き残りにもがいている店は一部にすぎない。閉鎖された店もあるが、たいていは規則に従わなかったことが原因だ。

アムステルダムは、1997年、ハシシ・レジャー業界に属さずウイードやハシシを売っているスナックやミュージック・ストアなどのゲリラ販売を一掃した。これは特にそれらの店の財務が問題だったのではなく、警察がコーヒーショップの数を減らし始めた結果だった。

●coffeeshop  シール

アムステルダム市は、容認したコーヒーショップがソフトドラッグ販売の税金を払うと窓に貼る認可シールを発行することに決めた。ノー・税金、ノー・許可。このシステムの導入に際して、当時のアムステルダム市長パティジンはこのシールを「パティジン認定」と冗談をいっていた。

市は、市議会がカナビスの販売を認めた約350軒に白と緑地に文字で「coffeeshop」と書かれたステッカーを発行した。コーヒーとアップルパイだけを売っている本来のコーヒーショップのオーナーたちは名前を変えることを望んでいたが、コーヒーショップという名前はそのまま残った。ソフトショップやカナビストロという代替名も検討されたが、カナビストロという名前はすでにグラス店のオーナー、サイモン・ウイットマンが商標登録していた。1996年に彼が急死したために市はこの名前を使うことに同意を得ることが出来なかった。


ステッカーは小さな前進ではあったが、銀行や保険会社から認知されるのには余り役に立たなかった。コーヒーショップは相変わらず銀行口座の開設やビジネス保険は拒否されていた。 あるコーヒーショップ・オーナーが大手保険会社のナショナル・ネーデルランドに受け入れを拒否されたときの説明は 「金銭的なリスクではなく道徳的リスク」 だった。オランダをカナビジネスが始まってから25年経っていたが、今だコーヒーショップの経営は楽にはほど遠かった。業界はまた次の機会を待つしかなかった。またこの年は、ビジネスを始めて25年目のワーナードのポジトロニクスが破産した悲しい年でもあった。

●オランダ・コーヒーショップの見えざるバックドア

バックドアは今日でさえグレーエリアのままだ。コーヒーショップのオーナーは三つの異なったモードで行動しなければならない。サプライヤーから数キロのハシシを買う1分間は犯罪モード、次の瞬間には役人に対しては職務モード、キッズフェースの客が入ってきたときは年齢確認でIDをチェックするモード、という具合。お客が若すぎるときには警備員にもならなければならない。良質のカナビスの入手先としてふさわしくない路上で買わざるを得ない若者に対して憎まれ役を買って出なければならない。

賢いコーヒーショップの経営者は、店の望む方法で上質の商品を恒常的に確保するために長年にわたり特定の栽培者と安定した関係を築いている。コーヒーショップはシンセミラ・メニューの種類を指定し、栽培者は注文された種類を注文された方法で育てる。栽培者は収穫の時期を指定されて2週間後に収穫物を届けに店に顔を出す。買主とジョイントを吸い、お金を集めていく。西オランダの種類は東オランダの店のものとは違っているので、遠く離れたコーヒーショップが仲間同士で種類を時々スワップすることもある。「ローカル」 な種類を交換しあうことでメニューを豊富にして常連を喜ばせるためだ。

こうした実態はカナビスショップにとって 「バックドア」 がさほど深刻な問題ではないことを示している。小中規模の栽培者はたいてい一人でやっているし、警察にしてもわずかばかりの植物を押収して時間を取られたくないのでわざわざ追跡しないからだ。 ただし、強烈な香りを発散するホワイトウイドウ・シンセミラなどで周囲を困らせたり、培養液を漏らして水で迷惑をかけたりしたときだけは警察も乗り出してくる。

カナビスのサプライ・チェーンを見てみれば、バックドアは栽培者と政府の間の問題でもある。法律によればクローンを作っている人たちも犯罪活動に荷担していることになり、逮捕されればトラブルに巻き込まれる。カナビス植物がどんなに小さくてもその植物はソフトドラッグをつくることを目的としているとみなされるからだ。カナビス栽培の処罰システムは次のようになっている。

1カ所で99本までは犯罪としては逮捕されない。しかし手入れを受けた場合は1本あたり35ユーロの罰金が科せられ、再び繰り返さないという宣誓を警察でしなけれなならない。繰り返すと罰金が上がる。99本以上の場合は一本当たり60ユーロで最大11000ユーロの罰金になる。当然、警察で供述書もとられる。

しかし、栽培者が電気料金を払っていないなどの問題がなければ、警察と栽培書の双方にとって大事にまで発展することはない。警察は本業に戻るだけだし、栽培者は押収された代替装置をグローショップに買いに行ってまた始めるだけだ。もっとも栽培者すら分からないこともある。ある時など、警察は工場跡地に3万本もの大栽培施設に遭遇したことがあったが、所有会社がその場所で計上も支払いも行われていない大規模な電力漏洩に気が付いたからだった。カナビスの植物と同様、カナビス栽培者を絶滅することはできない。

●家庭内栽培

ワーナードが金儲け栽培と言ってる大規模栽培の生産物はコーヒーショップを相手にしているわけではなく、供給が需要に追いつかない周辺の国々にトラックや乗用車で運ばれる。だが、ワーナードがかつて予測したように、そうした国でもやがて自給システムが整えられる日が来るだろう。彼にはカナビスの自由をミッションとするヒッピーの先見性がある。


オランダの屋根裏栽培室

現在ではあきらかに家庭内栽培のシンセミラが市場の大半を占めるようになっている。輸入ハシシですらオランダのカナビスと競争できるだけの品質を求められるようになってきている。栽培者の技術も向上し、装置も改良されている。コンピュータで制御されている栽培室もある。何か問題だ起こったときには電話回線を通じて栽培者に知らせてくれるので、その時に問題解決に出向く。

巨大栽培場に対する大がかりな家宅捜査もたびたびあるが、通り全体が手入れされたこともある。すべての住民がシンセミラを育てていたのだ。赤外線装置を積んだヘリコプターに察知されたのだが、新聞の写真にはホット・スポットの2本のラインが写っていた。


別の栽培室。自動溶液システムを使い、石綿のテーブルに「クローン」並べられている

●品薄シーズン

コーヒーショップは供給不足に悩まされるようなことはもうないが、毎年夏の終わりの時期にちょっとした危機が訪れる。その理由の一つは、ほとんどの栽培者が収穫を済ませて休暇にいって栽培を中断してしまうからだ。これで次の収穫はその分だけ先延ばしになる。8月中旬から品薄になり、ホリデーシーズンが終わる9週間後まで続く。

もう一つの理由は、オランダでは家庭栽培の大半が屋根下のロフトで行われているからだ。オランダの夏は3ヶ月ほどだが、ロフト内の気温を下げておくのが難しい。カナビスは室温が摂氏27度以上になると生育しにくくなり、品質が悪く軽量のものしか収穫できないのでコーヒーショップに売るには商品価値が低下してしまう。

さらなる最大の理由は、オランダを訪れる外国のカナビスファンが急増することだ。彼らはあたかも二度と吸えなくなるといった調子で吸いまくる。また好きなライフスタイルを少しでも長く続けようとして可能な限り多くカナビスを持ち帰ろうとする。このようにしてその時期のシンセミラの値段は急騰し1-2ヶ月後にはふたたび元に戻ることになる。

こうした3つの要因が重なって毎年8月中旬から9月の終わりまで品薄になる。コーヒーショップの常連のオランダ人たちは休暇から戻ると再び自由に吸えるようになって目一杯吸いたくなり、さらに外人カナツーリストの存在が品薄に拍車をかける。経験豊富なコーヒーショップのオーナーはこのことをすべて心得ている。必要量を確保するために3月から6月にかけて備蓄して8月末に干上がらないように備える。当然これにはリスクが伴うので、コーヒーショップは注意深く別の場所に隠す。友達などに頼み、タダの喫煙といくらかの金と引き替えに保管してもらったりする。

●カナビスの自給体制の確立

ワーナードとオールド・エドがオランダでシンセミラを育てて売り始めてから市場はゆっくりだが確実に変化してきた。小さなビニールハウスから始まって今ではオランダの家内産業といえるまでにビジネスは拡大した。オランダは他のヨーロッパ諸国にもこの流れを引き起こし、規制の有無に関わらずオーナーの決断で育成装置を売る店があちこちに出現した。機材は合法で課税されたもので、商品をうまく組み合わせればどれもシンセミラの栽培が可能だ。

カナビスは世界中で人気を獲得しつつある。今のオランダでは育成機器などには何のインパクトもないが、始まったばかりの国ではやはり大きな出来事に違いない。生産に伴って需要も増えていくのでそれを満たすためには何年もかかる。オランダで育成装置が拡大したことで最も賞賛すべきことは、コーヒーショップの主役がハシシやグラスから国産のネダーウイードに代わったことだ。


オランダで人気のハイブリッド、パワープラントと手入れの行き届いた畑

●シンセミラ発進。組織犯罪を駆逐

コーヒーショップはシンセミラの生産と取引が始まる以前は、100%近く輸入に依存していた。需要あれば供給ありで、数百にもなると犯罪組織にとってはコーヒーショップが最大のビジネスになっていた。今日ではオランダのカナビスショップ販売のおよそ75%が国内で生産された多様な種類のグラスになっている。残りは依然と輸入が続いているがもはや巨大な量ではなくなっている。

1990年以前、あるコーヒーショップのオーナーは密輸業者からハシシのサンプルの提供されてどのくらいの量が欲しいか尋ねられたとき、3000キロのストックを持っていると言われて仰天したこともあった。多くの大量密輸が摘発され、なかにはトンを越えるハシシもあったが、たぶんそれよりも見つからず安全な倉庫に荷が納まってハシシ・オフィスや売人たちに分配されていたもののほうが多かったに違いない。

しかしハシシ販売は減少してきた。それはシンセミラが入手しやすくなたことと関係している。もはやオランダはワーナードやオールド・エドの弟子たちによって多量のハシシ輸入が必要なくなってしまった。これはワーナードのヒッピー思想とオランダでシンセミラを生産しようとした決意がカナビス文化に多大なインパクトをもたらしたことを意味している。彼は膨大な後継者たちを育てオランダ中にシンセミラを拡げたが、いまではさらに地球上に拡大し続けている。

ワーナードの「緑軍」シンセミラ・ゲリラはオランダに家内栽培という文化を生んだが、それはまたドラッグ流通にからんだ犯罪の75%を減少させることにもなった。しかしながら政府はこのことに気付いていないように見える。それとも知らんぷりしているのだろうか。

オランダ政府と役人たちは、ハシシの卸ビジネスから派生する組織犯罪に対して仕事をしないで済むようになったのだから、ワーナードが始めたことを喜ぶべきであり、国中のシンセミラ・ゲリラたちに感謝を示すべきだろう。 にもかかわらず、オランダのカナビス文化がシンセミラの生産を拡大して 「バック・ドア」 問題を解消しているという本来の利益に目を向けようともしない彼らは、今だコーヒーショップは必要悪だと思っている。


初心者用の育成計画ポスターを掲げるオールド・エド

●カナビス政策に関するヨーロッパ都市カンファレンス

外国の指導者の中には自国のドラッグ問題が深刻化していてもオランダのリベラルなドラッグ政策に全く同調しない人もいる。しかしオランダ政府はそのような指導者にも耳を傾けオランダ・モデルの有効性を説得している。いずれにしてもハーグの政治家たちは、カナビス産業や生産者の状況を変えることに対しては何の役割も果たさなかったが、ドラッグの使用と乱用に対するダッチ・アプローチ政策を成功に導く役割は果たしてきたとはいえる。

オランダ司法省は、2001年12月6-8日ユトレヒトでカナビス政策に関するヨーロッパ都市カンファレンスを開催した。 フランスは出席しなかったが、40か国140人の代表が新教会に集まり、カナビスに対するオランダのやり方についてもっと知ろうとダッチ・モデルが議題になった。その様子はオランダの新聞に詳しく報じられた。モデルはうまく機能しているとみられたが、コーヒーショップの謎めいたバックドアについては説明が十分できなかったようだ。

EU諸国はカナビス政策を緩和へ
ヨーロッパ連合の各国のドラッグ政策は、その実施方法を別にすれば、思われているほどの違いはなかった。先週、EU諸国の専門家や当局者たちがオランダの中心都市ユトレヒトで会合し、カナビス政策に関するヨーロッパ都市カンファレンスを開催し意見を交換した。その最大の結論は、どのヨーロッパの都市も同じような問題を抱えているということだった。

誰でも思うように、会議がオランダで行われたのは当然だった。何をおいてもオランダはハシシやマリファナなどのソフトドラッグの非犯罪化をめざす法律を通過させていた。しかしドラッグをこれ以上合法化するというところまでには至っていない。寛容政策にも限界がある。オランダ司法省のドラッグ政策を担当するステバン・フォン・ホーグストラテンは次のように指摘している。 「たとえリスクの詳細は分からなくてもカナビスの使用にはリスクがあります。カナビスはオランダでも違法な物質であることには変わりありません。私たちはこの点について国際条約のなかで責務を負っています。」

コーヒーショップのグレーゾーン
しかしながらオランダではカナビスの使用は許され、厳しい制約のもとでコーヒーショップはソフトドラッグの販売を許可されている。そこには矛盾もある。店はカナビスを販売することは許されていても、一方では、ソフトドラッグの仕入れについては依然非合法のままだ。カナビスの取引や栽培も処罰対象のまま変わっていない。ステバン・フォン・ホーグストラテンも曖昧さがあることを認めている。

「私たちの政策の結果については好ましく評価されています。しかし政府の側から見ると状況は満足できるほど単純ではありません。一方で禁止してもう片方で容認しているのですから。これを説明するのは容易なことではありません。」

オランダが先頭ランナーであることには変わりはないが、他のヨーロッパの国も追い付こうとしている。ベルギーの連邦政府はソフトドラッグを合法化する法案を準備している。 これは北側の隣国のリベラルな政策に間接的な影響を受けたためだ。ベルギーの多くの若者たちはオランダ国境を越えてドラッグを買いに行っているが国では何の問題も起こしていない。

健康問題
フランスはオランダのリベラルなアプローチに対して猛烈に反対してきたが、今では厳格なドラッグの法律を緩和しだしている。近年、フランス政府はドラッグ関連の問題を中毒の防止と治療を重点にした「健康問題」として扱うようになってきた。

ポルトガルはオランダのさらに先を行こうとしている。7月にはソフトドラッグ、ハードドラッグの区別なく少量であればすべてのドラッグの使用を非犯罪化する法案を通過させた。リスボンのヨーロッパ薬物調査センターのダニラ・バロッタはポルトガルの新しい法律について次のように説明している。 「ドラッグの少量所持で捕まった人は犯罪者としは扱われませんが、行政措置を受けます。これはカナビスにもヘロインにも適用され少量であれば処罰は免れます。」

ドラッグ関連問題
EUのメンバー諸国の間には政策に違いがあり、ドラッグの無料配布からカナビス乱用の寛容政策まで多様な措置を生み出しているが、実質的にはどの国も犯罪率の上昇という側面からドラッグ関連の問題を扱っているのは同じだ。合法化を信じていないEU唯一の国がスエーデンだ。ゴセンベルグ市を代表するマルー・リンドルムは次のように説明している。

「1960年代、スエーデンはオランダよりも早く実際にドラッグにリベラルな政策を採用した最初の国です。カナビスだけを対象にしたわけではなく、中毒者にはハードドラッグの処方も認めました。その結果は惨憺たるものでした。大勢の人たちがドラッグを乱用するようになり、中毒者は爆発的に増えてしまったのです。」

スエーデンに従えばドラッグに対する現在の厳しい政策は変えられないことになるが、これがヨーロッパ共通のドラッグ政策の最大の障害になっている。しかし話し合いの余地も大いにある。次回のカンファレンスは2月にブルッセルで予定されている。

ラジオ・オランダ・ワールドモア。2001年12月7日。

●完全合法化に至るステップ

しかしながら、仮りに、オランダ司法省のスポークスマンでカンファレンスの主催側の当事者であるステバン・フォン・ホーグストラテンがオランダ国営テレビで発表した声明を信じるなら、オランダでカナビスを合法的に栽培できる日がくる希望の光はある。フォン・ホーグストラテンは、なぜオランダは最後のステップ、カナビスの完全合法化に踏み込まないのか、というベルギーのレポーターの質問を受けて、コーヒーショップに対し全面的に統制された供給を認めるまで至っていないことについて次のように答えている。

オランダはこれまで国連や多くのヨーロッパ諸国の批判と与えられた制約のなかで最大限にカナビス政策を拡張してきた、と前置きして、 「オランダはこれより先に進むことはできないのです。しかし他の国が同じようになればカナビスの完全合法化に至る次のステップに進むでしょう。」 この説明がこれまででもっとも論理的に聞こえる。これならコーヒショップのオーナー側でも受け入れられる。

フォン・ホーグストラテンは彼のプライドを抑えていた。インタビューに答えているときに、他の多くの国がもはやオランタを「麻薬の国」と考えなくなったという事実とフォローアップ可能なモデルになったことを喜んでいた。

●カナビスは社会の害ではなく社会の一部

いずれにしても、コーヒーショップと供給者はいつものように仕事を続けながら、以前とは少し違ってきたことを実感している。 今日では、供給業者が、ショップの気に入るような上質のハシシをトランクやスーツケース一杯に持って来ても、ショップのオーナーはたいして話込んだりせず、急かせるように「じゃあ、キロか半分でいいよ。いやなら持って帰って」といった調子で済ませてしまう。

オランダの輸入については何十年も非難の対象になってきたが、現在では荷物の流れは反対に周辺の国々に向かっている。もはやオランダは自分でカナビスを育てられるようになった。 オランダ国民はカナビスの使用を受け入れている。社会の害ではなく社会の一部になっている。


カナビスのメニュー。お客は好きなものを買うことができる