第4章 シンセミラ・ゲリラ と アメリカ・コネクション 1979-1997
●シンセミラ、禁断の知識
しばしばオランダが、シンセミラとして知られるマリファナの特別な形態の発祥の地とされるが、これは真実ではない。
アメリカはカナビス禁止法を書いた当事者だが、皮肉にもカナビスの栽培テクニックを発展させシンセミラを作るのに主要な役割を演じたものアメリカ人だった。折りしもアメリカ政府はカナビスのユーザーと栽培者に対する戦いを強めているころだった。
また、現在では1兆ドルの輸出ビジネスに成長したカナダのカナビス文化も、ベトナム戦争の召集を拒否してカナダに逃れたアメリカ人によってマリファナ栽培の知識がもたらされた。これがカナダ西海岸の革命、有名な「BC-BUD」の始まりになった。同様にオランダのカナビス・シーンを一変させたのもアメリカ人の持っていたカナビスの「禁断の知識」だった。
オランダのコーヒーショプの創始者ワーナード・ブリューニングはメロー・イエローを火災で失ってからしばらくアメリカの友人のところで過ごして1978年にオランダに帰国したが、滞在中、彼はアメリカ人たちがシンセミラと呼ばれる最高級の種なしマリファナを吸っているのを目の当たりにした。シンセミラという名前はメキシコの言葉、シン=無、セミラ=種、つまり「種なし」を意味していた。
なぜ種なしのマリファナなのか? 種なしのカナビスは雌株の花のつぼみを受粉させないように育てるが、受粉し種のある植物よりも多くのTHCを生成するからだ。カナビスの種子からは栄養満点のオイルが多量に採れる他にも様々な製品が作られるが、ドラッグとしての効力がなくハイには適していない。燃やすとポップコーンのようにはじけたりするので吸おうとしても大変だ。
ポジトロニクス・スーパースカンク
●再び、ワーナードの夢が芽生える
当時オランダではマリファナは主に「有色」人種によって使われ取引されていたが、ワーナードはアメリカのマリファナはもっぱら「白人」によって栽培され吸われているのに気付いた。1970年代オランダでは世界中からマリファナを輸入していたが、大半はアフリカやコロンビア、タイ、インドネシア、ジャマイカのような第3世界からだった。アメリカではカナビスはほとんどがカルフォルニアやオレゴン、南東部、中西部の白人によって栽培されていた。
強力なアメリカ・シンセミラを吸いながら、ワーナードと友人はカナビスに寛容で穏やかな文化が芽生え始めたオランダでシンセミラを育ててコーヒーショップに供給することを夢想して、オランダをマリファナ生産国、ヨーロッパのジャマイカにしようというビジョンを描くようになった。
何世紀にもわたりオランダが育んできた室内と室外の花栽培の知恵は大変なアドバンテージになる。THCの夢を実現することは単にオランダの名高い園芸技術の論理的応用にすぎない。マリファナを新たなチューリップだと思ってみればいい。
「家庭内栽培」の緑の革命はオランダで始まり、今ではヨーロッパ中にひろがり、さらに少しずつ世界中に浸透を続けているが、以前はオランダもアメリカのシンセミラを輸入しなければならなかった。アメリカからオランダがカナビスを輸入するというのは、今日でいえばテキサスが石油を輸入するようなものだが、当時ワーナードたちが行ったのはそういうことだった。彼らは本当にマリファナが好きだった。
高価なアメリカのシンセミラを売るために、ワーナードはそれだけの価値があることをみんなに説得した。コーヒーショップでは普通の種の入っているグラスは卸値で1500から3000ギルダーで仕入れていたが、キロ当たり16000ギルダーもするシンセミラはそのおよそ10倍の値段だった。紳士的なワーナードはアメリカのウイードの値段の高さについてコーヒーショップのオーナーたちからいろいろな意見を聞いたが、お客たちはシンセミラを気に入り喜んで払ってくれた。ラスランドのマーテンとブルドッグのハンクは、シンセミラの品質と効力についてのワーナードの話を全面的に信頼してアメリカ・シンセミラの最初の輸入分を引き受けた。
●オールド・エド。来た、蒔いた、雄を抜いた
ワーナードたちはシンセミラの密輸を長く続けられないこともわかっていた。彼らはマリファナの効力や味が保てるならオランダで栽培したかった。アメリカの友人はカルフォルニアのベテラン栽培者でシンセミラのエキスパートのオールド・エドを紹介してくれた。
オールド・エドの畑は警察の手入れでつぶされてしまっていたのでオランダに来ることを説得するのは簡単だった。
当時オールド・エドは60才だった。彼はカルフォルニアのカナビスの種子を携えてやって来て、アメリカ流の厳格な有機栽培でシンセミラの育てる方法をワーナードや多くの人たちに教えた。彼はまた植物と「対話」することを教えた。オールド・エドは白いひげのサンタクロースのようだった。足を雪深く埋もれさせてはいなかったが、いつもカナビス畑に埋もれて腰から上だけを出していた。
彼はワーナードと5年間を過ごした。ワーナードは彼のファンであり、生涯の友であり、最高の生徒でもあった。
オールド・エドとエド・ローゼンタール
●夢を叶えたドリーム・チーム
エドとワーナードの最初の収穫は1980年だった。ワーナードの家の裏のビニール温室を使った。ワーナードはハンク・デブリにキロ当たり14000ギルダーですべてを提供したが、すぐにもっと欲しいと言ってきた。これはブルドッグに、オランダで最初に 「ネダーウイット(ネザーランド・ウイード)」 を売ったという勲章を追加した。お客たちはすぐに大喜びした。
しかし次の収穫までは思うほど簡単ではなかった。規模を拡大するには大きな資金が必要だったが、最初の売上だけでは計画には足りなかった。ワーナードはシンセミラ計画を維持するために最初の数年間ナイジェリアからグラスを密輸して稼いだ。危ない橋だが誰かがやらなければならなかった。
彼はナイジェリアのグラスをスーツケース一杯に詰めてアムステルダム・スキポール空港に降り立ち、税関で「申告なし」のカウンターが混むのを見計らって通り抜けた。大胆不敵で悪ふざけのような密輸もした。帰国する前に高価なステレオを買い、外国製品の購入申請とその税金を払うために「申告あり」のカウンターに並んだ。次のカートにはグラスで満杯のスーツケースがあったが、税関の係官を輸入ステレオの税金の小銭を数えるのに夢中にさせてカナバッグには注意を払う余裕を与えなかった。(注意:けして真似しないこと。自分の自由を失うことになる。)
アムステルダム・オスト通りのビニール温室
●フリースランドに小さな農場
1981年、ドリーム・チームはオランダ北部のフリースランドに小さな農場を手に入れた。母屋は小さかったが人里離れ、裏には見えにくいところに大きな畑があった。最初のアウトドア・シンセミラの収穫は少なく、キロ12000ギルダーだった。
彼らは次の年には同じ場所で最低でも厳選されたメス1000本を栽培することを誓いジョイントを回した。古い農家はいい香りに包まれた・・・
フリースランドの畑。ポットに植えられたポット
●1982年。自転車の警官、オランダ・シンセミラ史上最初の手入れ
計画通り1000本のメスの植物が母屋の裏側の畑に植えられた。農村に突然住み着いたした自分たちをカモフラージュするために家の前には野菜の畑を整備した。
1982年5月の最後の週、前庭のカモフラージュ畑で作業をしていると一人の警察官が自転車に乗って近づいてきた。彼は、裏の畑で何をやっているのか知らないし知りたくもないが、といって話しかけてきて 「やっていること」 を引っ越せと言って再び自転車に乗って警察署に帰って行った。それはたった一人の警察官と自転車、そして明確な警告だけだったが、たぶんオランダ・シンセミラ栽培史上の最初の手入れだった。
このことはオランダの法執行の効率の良さと配慮深さを示している。もしアメリカだったら、当局はDEA軍と麻薬犬を連れて戻ってきて、敷地や栽培者は徹底的に調べ上げられて逮捕され、カナビスに対する長期刑で一生をめちゃめちゃにされていたに違いない。
もっとも現在のオランダ警察や検事はそれほど理解あるとも寛大だとも言えない。何故ならアメリカやフランス、スエーデンのようなヨーロッパ諸国から圧力を受けているからだ。それらの国はオランダもマリファナ戦争に加わるように望んでいる。オランダ警察も大規模な栽培には家宅捜査を行い告訴せざるを得ない。現在のオランダでは庭に5本までの植物を栽培することを認られているだけになっている。
●シンセミラの炎ひろがる
自転車警告の出来事は彼らを降参させたわけではなくむしろ発奮させた。いずれにしてもそのまま続けるわけにはいかなくなった。突然、ワーナードとエドは1000本の雌植物の新しい場所を探さなければならなくなった。彼らは1000本の雌植物を、カナビスの栽培と喫煙に興味をもち苗床を提供してくれる人オランダ中に募り、植物を配った。そして世話に出かけ、収穫して乾燥させて売った。
庭のオーナーはただ見て育て方を習っていただけだが儲けは折半された。今度はキロ10000ギルダーになった。この苗床システムは庭の状態を維持するために旅をたくさんしなければならないことを意味していたが、全国に拡がった庭の環境はさまざまで複雑な問題にも遭遇することにもなり、それから多くを学ぶこともできた。
次の3年間、ワーナードたちは多毛作で収穫した。価格はキロ6000ギルダーに下がったが、栽培者側の供給は需要に追いつかなかった。
毎年、ドリームチームの指導で学んだ遠隔農園の何人かが独立していった。1985年までにはカナビス栽培者数十人がオランダ中で独立し、事業としてシンセミラを育てるようになっていた。
今日では何百軒ものコーヒーショップが数百万のオランダ人とツーリストたちを相手にしているが、オランダの数万人の栽培者がコーヒーショップの需要に応えている。ツーリストの中には休暇でネザーウイードランドを満喫し、刺激されて種子を持ち帰る人も多い。
シンセミラ・ゲリラ・ガーデンの一つ。オールド・エドとワーナードが世話していた
●ローランド・シードカンパニー 1981-1985
ワーナードは常に新しいウイードの道を模索している。オランダで家庭内栽培を促進することばかりではなく、強力で適応性の高い遺伝子を持った種子を作って配布したいと思っていた。彼は当時すでにカナビス関係では評判になっていたローランド・ウイード・カンパニーのキース・ホーカートのところを訪れた。目的を説明し、キースにローランド・シード・カンパニーという新会社の社長になってくれるように頼んだ。
キースはそれを受け、ローランド・シード・カンパニーはオールド・エドの種子をきれいな写真入りポスターと伴に売り始めた。ポスターはワーナードがデザインしたものでシンセミラの栽培テクニックを説明してあった。このポスターと肥料をセットにして「グローイング・パック」という商品にした。
ローランド・シード・カンパニーはオールド・エドの種子を発芽させた苗も売っていた。植物には「ローランド・シード・カンパニー認定」というステッカーが付いていた。
シード・カンパニーは、特別の種子でシンセミラを家庭で育てるするオランダ人たちを応援し、家庭内栽培を促進する機関の役割を果たした。これがオランダの種子ビジネスの始まりだった。
ローランド・シード・カンパニーのロゴ、平和の鳩
しかし、例によって、バーナードは最初に取組みはするものの、発展して大きな規模になってくるとうんざりしてしまうのだった。
ワーナードは1985年にドリーム・チームを離れた。余りにも大きく商業的になり過ぎたからだった。もはやこれ以上続けれは道徳的な正当性を持てないと深刻に悩み、自分の信条に立ち返った。ワーナードは種子ビジネスを他の人たち譲って去った。
他の人たちは、ワーナードが大切にしていたメローなヒッピーの雰囲気を壊しながらドリーム・チームの道を進めた。今日ではベン・ドンカー・ファミリーが種子市場で最大の役割を担っている。彼らの「センシ・シード・バンク」は世界的に有名だ。
キース・ホーカート。カナビスの栽培は簡単。靴のなかでも育つ
●ポジトロニクス、サッカーから栽培機へ
ワーナードの初恋はカナビスで変わることはないが、第二の恋がやってきた。テーブル・サッカーは「心の愛人」だった。彼は新しいサッカーのテーブルをデザインした。見栄えがよく、フィールドは早く、ハンド・コントロラーを強力にしてボールの動きをよくしてスコアーボードを電動ディスプレイにした。彼はこの新しいサッカー・スタジアム・ミニチュアにポジトロニクスという名前を付けて商標登録した。
ポジトロニクスという名前は、機械は人間に奉仕すべきポジティブなエレクトロニクスでなければならない、というワーナードの哲学から名付けられた。彼は最高のテーブルを提供してプレイヤーがスキルを発揮できるテーブル・サッカー・ゲームを充実させたかった。
「テーブル・サッカー・ゲーム市場では勝ちは一人。よくても二人。」 と彼はジョークを言っていた。ワーナードの計画は他の仕事ほどうまくいかなかった。最新の機械に対する需要は鈍かった。そこで金のかかるテーブル・サッカー趣味を支えるために、カナビスのビジメスも手がけたが、テーブル・サッカー・システムの完成ばかりを考えていた。
元祖ポジトロニクス・テーブル・サッカー・ゲーム
しかし、たくさんの人たちがインドア向けの育成ランプや栽培液などの栽培装置を売り出すようにワーナードに頼んできた。室内育成装置というアイディアは彼の興味をそそった。ワーナードは、カナビスとカウンター・カルチュアのアメリカの月刊誌ハイ・タイムスに宣伝を出し、メールオーダーで直接販売することにした。
ワーナードは、照明灯が一つずつ安定器を個別に持ち、栽培室内に熱を発生させる原因になっているのに気付き、よく反射するリフレクターを用意して育成用照明システムを改良した。重くて熱を発生する電源安定器をまとめて別のプラスティックの箱に収納し、黄色の長いケーブルを使って強力な光ランプから分離した。これで安定器を栽培室から外に出しておけば、室温を数度下げることができるようになった。特に夏期には大変好都合だった。
ワーナードはさらに最高のカナビスの栽培技術を求めて努力した。エキスパートではないおばあさんでもバルコニーで簡単にポットを育てられるようにしたかった。そこで彼は、最適な性質をもつ植物を「母本」として多量にクローンを作る方法を開発した。
クローンは母本のメス株から作られるのでどれもメスになる。これによって栽培者は均一な収穫が保証される。種から育てる場合、もし雌雄両株の種子が混ざっていれば、オスの花粉がメスに授粉してしまう可能性を高めてしまう。
ワーナードは栽培者のためのサプライ・センターを整備し、育成ランプ、培養液、環境調整装置、種子やクローンなどを販売した。彼は栽培者たちに無料のアドバイスも提供して、 「ブッシュ・ドクター」 というあだ名も付けられた。カナビスの栽培で何か問題が起これば 「虫、熱、移植問題? ブッシュ・ドクターに聞け」 が合い言葉になった。
この事業で彼は世界的に有名になった。ポジトロニクスは最初のプロ向けの室内マリファナ栽培機の店となった。テーブル・サッカー・マシンに代わってポジトロニクスはグローショップの代名詞になった。おかげで彼の作ったサッカー・テーブルの何台かは現在では高価なコレクターアイテムになっている。
ワーナードはまたバッズの先端の小葉から樹脂を取り出すことを始めた一人だ。Tシャツの印刷に使うシルク・スクリーンの布でふるいにかけ、平らな表面上に粉を降り落として、クレジットカードをこすりつけて付着させ強力なネダーシの小さなカードを作った。
クローンの苗床を撮影するTVクルー
●シンセミラ・ファンクラブ
ワーナードは、自分の愛するカナビスの枝が拡がっていくように、ポジトロニクスに 「シンセミラ・ファンクラブ」 という名前を付けて、世界中のグリーン・コミュニティから4000人以上のメンバーを集めた。また、彼は 「カンティーナ」 と呼ばれる複合店を開店した。カウンターカルチュア・レストランもあった。ピッピー流に運営されて正規の価格表はなかったが、お客さんは食事やサービスに対して自分が思った額を払った。ある人はたくさん払い、少ない人もいた。収穫が先で金欠のカナビス栽培者は無料で食事をすることもできた。
ワーナードはさらに自宅栽培者向けの 「ソフト・シークレット」 という雑誌もはじめた。教育と警告を目的に栽培現場の逮捕、コーヒーショップや闇店舗の手入れなどの新聞記事を取り上げた。同じ過ちを繰り返すな! 安全策を取れ! 慎重になれ! と啓蒙した。
ポジトロニクス・コンプレックス、カンティーナ店内
ワーナードたちは週あたり数千本のクローンを作り、ほとんどをファンクラブのメンバーたちに販売した。ワーナードは栽培組織のチェアマンと名付けられた。彼は、ファンクラブに入会しようとする人は犯罪的な意図を持っているはずがないので、たとえクローンが違法だとしてもメンバーにだけなら売っていても道徳にかなっている、という意見を持っていた。
ファンクラブシステムと登録制度は利益を追求する大手の栽培業者たちを近づけないようにする機能も果たした。ワーナードのモットーである 「吸わない人は育てるな」 は、自らは吸わないくせにハッピーなピッピーから手っとり早く稼ごうとする 「カーボーイ」 たちを排除することを意味している。
ポジトロニクスのクローンはすべて登録制で、必要な3ヶ月前にメンバーが注文するシステムだった。クローンはその時になってカットされ根付けされるようになっていた。クローンの販売については適切に会計処理され税金も納めた。たまに警察が帳簿を見せてくれといってきたが、ワーナードは断固として見せることを拒否した。警察は強要しなかったので 「ソフト・シークレット」 のままだった。
●カナビス・スーパーストア
カンティーナでは食べ物のほかにもグラスを売っていた。もはや何がカナビスの店の限界かという線引きをすることは意味がなくなった。ワーナードはお客の栽培したものものほかにも、どのようにポットを育てるかを実演した店の白タイル壁の小さな栽培ショールームで育てたもの売っていた。こうしてワーナードはピッピーの平和のなかでカナビスを吸いテーブル・サッカーで遊びながら、最高にハッピーに年を取っていくことができるようになったと感じていた。
ポジトロニクスはカナビスのスーパーストアに発展し、アドバイスと育成装置と最高の遺伝子をもったカナビス植物を提供した。
ワーナードはスタッフたちに、商品だけを売るのは望まないと語っていた。カナビスを中心にした考え方やライフスタイルを売ることを決めていた。シンセミラ・グラスを育て、それを吸うことで人生の質を高めたいと思っている人たちを応援したかった。
オランダ人は成金なることを 「ポケットを一杯にする」 というが、ワーナードはそのようなことはしなかった。金儲け目当ての栽培者たちの動機は彼の信条に合わず拒んだ。メロー・イエローのときと同じ姿勢だった。そしてそれは今度も同じ反応を引き起こした。
外国の多くの人たちやメディアを惹きつけワーナードはカナビス・カルチャーの有名人になった。
ユーゴスラビアの雑誌ムラディアからアメリカのフォーブスまで世界中の報道機関が特集を組んだ。ドイツのフランクフルト・アルゲマインやイギリスのヘラルドなど多数も含まれていた。
その結果、ドイツやヨーロッパ諸国から店へ人が押しかけてきて、多量の栽培装置を本国に持ち帰った。彼らはワーナードがポジトロニクスを設立したときの望んだようにカナビスの知識と文化をひろめた。
やがて、ポジトロニクスの栽培ショールームの映像や写真を求めて世界中からプレスがやってくるようになった。禁止論や法律などはおかまいなしにワーナードのカナビスに対する知識を取材した。
ポジトロニクスは商売として世界中の栽培用品店の見本になり、地球上いたるところに類似店がひろがった。ワーナードと忠実な後継者たちはスモークとスマイルのカナビスを世界の生活必需品にした。
ポジトロニクス育成ショールーム
●メディウイードの誕生
ワーナードは、カナビスが癌やエイズ、扁頭痛、緑内障などの重い病気に苦しむ患者の役に立つことを知ると、オランダで最初にマリファナの医療プロジェクトを始めることを次の目標に掲げた。非営利組織 「メディウイード」 を立ち上げ、医学的な理由からカナビスを使いたい病気の人たちがグローショップやコーヒーショップから50%の割引を受けられるように卸値に反映させた。
当時オランダの保健システムはカナビスの医学的な効用を認めていなかったので、医師が処方する通常の医薬品のような患者に対する財政補助はなかった。後年、メディウイードのメンバーはマリファナが患者の役に立つことを認めた医師から処方箋をもらうようになり、
一部の薬局でも売り出したが、ワーナードのメディウイードを扱う店よりも高く割引もなかった。ほとんどの患者たちはメディウイードのあるコーヒーショップに行き続けた。今日でも医薬品としてのカナビスをコーヒーショップに頼っている。
●裏切りと突然の破産
ポジトロニクスは成長し、1997年の初頭には60人以上の会社に成長した。ワーナードは自分のメッセージをひろめ、ファンや友人たちの栽培グループに考えや技術を提供するのに忙殺された。そんな頃ヨーランドという美しく若い女性と出会った。結婚することになり彼はそのことばかりに気を取られるようになった。
スッタフを信頼して仕事の進行状況に十分な注意を払わなくなった。生活そのもののほうが重要だった。しかし幾人かのスタッフはワーナードの信頼を裏切り、会計も通さずワーナードの開発した装置やクローンを多量に売り始めた。
明らかな詐欺や盗みであったが、それよりも衝撃だったのは不誠実なスタッフたちがワーナードが商売だけで金儲け目当てだとして追いやっていた栽培者たちを相手に売っていたことだった。犯罪社員たちは、ワーナードに店を追払われた 「カーボーイ」 たちと手を組み、店が閉店後、外で取引する約束をしていた。彼らはポシトロニクスの向かいにあるカフェで落ち合い、在庫から商品をバイヤーの車に積み込んだ。購入代金も支払わずに!
ワーナードによれば、長い間そのようなことができたのは管理と現金の流れをまかせてきた女性経理が彼と結婚したヨーランドに嫉妬していたからだった。彼女はワーナード・カップルのゴシップにばかりで仕事がおかしくなり始め、しまいには経理も無視するようになってしまった。
財政破綻がやってきたとき、ワーナードは何が起きたのかわからなかった。ポジトロニクスは日に16000ギルダーになっていたし、お客を維持するために宣伝の必要もなかったのに、倉庫は空になり多額の金は闇に消えた。
彼は何か不正があることに気付いたがそれがなんであるか分からなかった。このことで彼はクレイジーになり完全に燃え尽きた。
ポジトロニクスは未払いの請求書と税金で150万ギルダーの負債を負って破産した。
●彼らは自分を自由にしてくれた
ワーナードは疲れ切ってカナビス関係からしばらく身を引いた。皮肉にも彼がカナビスの社会と栽培にかかわるようになって「金時計」の25年目だった。ほとんどの人は彼の破産を気にかけなかった。カナビス文化での25年のキャリアも知っている人はほとんどいなかった。
ワーナードとヨーランドは不誠実と不法行為の犠牲となり、失意のうちにアムステルダムを離れた。家族が一緒にいられることだけを望んだ。彼はまさに一夜にしてすべてを失った。借金を返すのに何年もかかった。
試練から何年も経ち、ワーナードは怒りを乗り越えてことの顛末を振り返っている。
彼は自分が致命的ミスを犯したのを認めている。
「誰もがそれぞれの責任をもっているのに、自分は会社の管理責任を果たしていなかった。自分のミスで、完全に道を外していた。」
彼は今では泥棒や詐欺師たちに恨みは持っていないと言う。回りの人たちを食べさせていく義務や責任から解放してくれたのだから、
「彼らは自分を自由にしてくれた。」
カナビス業界も、スモーカーも、栽培者も、そしてすべてのカナビスの店はこのユニークな人物に感謝と尊敬を払わなければならない。もしワーナードがオランダのカナビジネス・システムを導いてくれなかったら、今われわれは何を吸っていただろうか? メロー・イエローなバナナの皮かもしれない。
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