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オランダのカナビス政策
ヘロイン使用の蔓延が原因
神話
(他人の話を遮って…) 確かにオランダではカナビスは合法的な値段で吸えます。でもねあれには理由があるのですよ。ヨーロッパやアメリカの主流の乱用薬物はヘロインです。ヘロインやられたら国家が滅びる。しかもヘロインは注射ですから回し打ちやってエイズやHIVや肝炎などの感染症がひろがりますよね。
苦肉の策なわけなのと、あとはマフィアとか暴力組織が不当な利益を上げるくらいなら、正当な値段で売ってともかく暴力組織の資金源を抑えるのだということなのです。(久米宏のテレビってヤツは 水谷 修 2008年11月19日)
ちまたで言われている 「カナビスは海外では合法」 だ、といった議論は誤りである。なぜなら、カナビス非犯罪化が行われている国では、カナビスの害が少ないから摘発されなくなったのではなく、ヘロインなどの使用が蔓延し、それが 「広まるくらいなら、カナビスを吸わせた方がまし」 だと考えているからだ。
事実
この人は、オランダでカナビスの容認政策が始まったいきさつを全く調べていない。それは、容認政策が検討された1970年代前後のヘロインやコカインなどのハードドラッグ事犯が年間数百件程度でしかないという事実からも明らかだ。また、ヘロインで滅びた国家などないし、エイズが正式にアメリカで症例報告されたのは、オランダでカナビスが容認された10年後の1985年のことだ。
しかも当時でもオランダは、ハードドラッグに関しても少量であれば使用が黙認されており、その意味で非犯罪化すら行われている。現在でもオランダではハードドラッグがアメリカのように厳しく取り締まられているわけではない。
オランダでのカナビス問題はライフスタイルの問題だった
オランダでカナビスが普及し始めたのは1960年代とされている。
それ以前のオランダは、宗派別あるいはイデオロギー別に縦に分離した柱状社会(ピラー・ソサエティ)」で構成されていたが、60年代から80年代にかけてのグローバリゼーションの進展で教会や政党労働組合離れが起こった。その結果、それまでオランダに主流の既成概念として受け入れられていた様々のタブーが突き崩されて、従来のピラーに所属しないような新しい政治的・社会的集団が台頭し、若者たちの間にはカウンターカルチュー(対抗文化)も生まれた。
それがアムステルダムでプロボ運動(1965年)として広がり、スプイ広場でさまざまなイベントを始めた。市や警察は暴力で排除しようとしたが、平和的で個人の自由を求めるライフスタイルに共感する人が多くなって、結局、アムステルダム市長バン・ホールは辞任に追い込まれ、警察長官も引責辞任した。
プロボ運動は「煙」を象徴としていた。そこでは、ハシシの煙は自然と受け入れられていった。若者たちの間に新しいライフスタイルが広まっていったときに、ヘロインやコカインやLSDが使われなかったのは煙ではなかったことも大きく関係している。
ドラッグ問題の諮問を受けたバーン委員会が1972年に提出したレポートでは、「制度に順応しないライフスタイルをどのように寛容に扱うか」 が中心課題となり、それを実現するために 「危険なドラッグ使用による健康および社会への害の削減」 および 「ドラッグの地下経済への刑事対処方法をどうすべきか」 が検討された。ドラッグ問題は犯罪や病理の問題ではなく、ライフスタイルの問題だった。
若者たちの新しいライフスタイルがハードドラッグの分離を求めた
1973年、ワーナード・ブリューニングと彼の仲間たちが可能な限りオープンにハシシとウイードを売るティーハウス 「メローイエロー」 を開いてからコーヒーショップの歴史が始まった。のちにメローイエローは、オランダで最初の公認コーヒショップと言われるようになった。
それ以前のワーナードたちは、アムステルダムのカイゼル運河にあるユースセンターの近くの 「セカンド・ホーム」 で共同生活を営み、訪れる友人たちにカナビスやLSDを提供していた。だが、ワーナードは次第にLSDの使用には疑問を抱くようになった。
このようにして、ワーナードらはカナビスだけを扱うようになった。それは、お金が十分にない中で、ベテランの代表一人が品質のよい安いカナビスをできるだけ多くまとめてディーラーから仕入れるためでもあった。多くのディーラーたちがあらゆる種類のドラッグを売っていたが、やがてワーナードたちがカナビスしか買わないことが分かると他のドラッグは奨めなくなった。 (ダッチ・エクスペリエンス 第2章 紅茶とハシシ25ギルダーください・・・)
バーン委員会も若者のハードドラッグの使用率が低いのに気づいていた
1972年のバーン委員会のレポートでは、「制度に順応しないライフスタイルを寛容に扱う」ために、「どのように危険なドラッグ使用による健康および社会への害の削減すべきか」 が検討されたが、若者のハードドラッグの使用率が低い実態を反映して、カナビスとハードドラッグを分離する 「二軌道政策」 を打ち出した。
同時期にはポルノや堕胎に対しても刑罰的アプローチが疑問視されており、社会学的アプローチが有効だとみなされ始めていた。飛び石理論が成立するのはソフトドラッグとハードドラッグが同じ市場で取引されるためだとして、法的手段によってこれを分化することでカナビスがハードドラッグへの入り口となるのを防ぐことにしたのだった。
一方、1969年に実施された調査では中等教育学生の11%が、1971年の調査では20%がカナビスを使用していることが明らかとなり、司法省に非犯罪化を検討させるのに十分な理由となった。文化娯楽福祉省も1970年にカナビスの合法化を急ぐべきだとする審議会報告を受けている。
そうした流れの中で、文化娯楽福祉省は、若者文化センターでのカナビス使用を取り締まることをあえて避けた。取締りを強化すれば、ドラッグ売買・使用がかえって盛んになってしまい、若者たちを社会から疎外してまうと考えられたのだった。 (ドラッグ使用をめぐる寛容性の社会的組織化、オランダのドラッグ政策をめぐって 佐藤哲彦)
犯罪組織には何の打撃にもなっていない
バーン委員会のレポートでは、ソフトドラッグとハードドラッグの分離とともに、「ドラッグの地下経済への刑事対処方法をどうすべきか」 も検討された。
ここで出てきたのが、いわゆるバックドア問題で、コーヒーショップの表側ではカナビスの少量売買を容認しながら、仕入れをどのように扱うかが問題になった。当時のカナビスはレバノンやモロッコから密輸入されたもので、バックドアを認めることは国際的なドラッグの密輸入を認めることになってしまうために、時間をかけて様子を見る以外にやれることはなかった。
したがって、コーヒーショップは相変わらず地下組織から仕入れるしか方法はなく、結局、地下のディラーは何の打撃も受けずにかえって販売先が安定し、ハシシの取り締まりが緩くなった分だけ資金的に余裕ももたらした。
もし、マフィアとか暴力組織の不当な利益を阻止することがドラッグ政策の第一の目標だったのならば、オランダに容認政策が生まれることはなかった。
犯罪組織に打撃を与えたのはオランダのシンセミラ栽培
バックドア問題は1970年代にコーヒーショップが認められて以来ずっと続いてきた問題ではあるが、その内容については80年代後半と当初では大きく変化している。
オランダで本格的にシンセミラの栽培がはじまったのは、ワーナードがオランダで最初の公認コーヒーショップである「メローイエロー」を火災で失ってからアメリカにわたり、シンセミラの専門家の オールドエド をオランダに連れ帰った1980年以降のことになる。
ワーナードとオールド・エドがオランダでシンセミラを育てて売り始めてから市場はゆっくりだが確実に変化してきた。小さなビニールハウスから始まってやがてはオランダの家内産業といえるまでにビジネスは拡大した。ワーナードはまた世界で最初のグローショップを立ち上げ、シンセミラの栽培装置ポジトロニクスを開発して販売を開始した。
コーヒーショップはシンセミラの生産と取引が始まる以前は100%近く輸入に依存していたが、需要あれば供給ありで、数百にもなる犯罪組織にとってはコーヒーショップが最大のビジネスになっていた。だが、オランダ国内でのシンセミラ生産が本格化すると、コーヒーショップの仕入れの大半は国産のシンセミラに変わった。
ハシシの輸入も続いていたが、ミラ・ジャンセン の ポリネーター装置 やアイソレーター装置の開発で、国産のシンセミラを原料とした強いネダーシも登場するようになった。このように、1980年代半ばからはシンセミラの自給が可能になって密輸入問題は自然消滅してしまった。
このために、バックドア問題もさほど深刻な問題ではなくなった。ワーナードの「緑軍」シンセミラ・ゲリラはオランダに家内栽培という文化を生んだが、それはまたドラッグ流通にからんだ犯罪の75%を減少させることにもなった。 (ダッチ・エクスペリエンス 第4章 シンセミラ・ゲリラ と アメリカ・コネクション 1979-1997、 第5章 コーヒーショップ の バックドア、
How to avoid criminalisation of Euro Cannabis, learning from the Dutch Experience, Wernard Bruining)
チャンスを逸した無策の政府
オランダ政府と役人たちは、ハシシの卸ビジネスから派生する組織犯罪に対して仕事をしないで済むようになったのだから、ワーナードと国中のシンセミラ・ゲリラたちに感謝し、その機会を捉えてバックドア問題の解決に本格的に取り組むべきだった。
しかし、1990年代後半の労働党のコック政権は、栽培の合法化を求める声には理解を示しながらも、増えすぎたコーヒーショップの整理に重点を置いた政策を優先させた。だがさらに不運なことに、コック政権は、1995年にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで起きたムスリム人虐殺事件の政治責任を取るかたちで2002年に総辞職した。
その後タナボタ式に政権を手にしたのが、キリスト教民主同盟(CDA)を中心としたバルケネンデ政権で、コーヒーショップに敵意をむき出しにする政策を取るようになった。バルケネンデ政権は、911以降の右傾化やイスラム排斥の風潮、ユーロ経済の好調さに支えられて現在もつづいているが、実際にはコーヒーショップ問題には何の展望も解決策も持っていないことが明かになってきている。
コーヒーショップを直接管理する地方自治体の市長たちは、再三にわたって栽培を合法化してバックドア問題を解決するように要請したが、政府は国際条約を盾に退け、グローショップの閉鎖まで口にして、カナビスの違法栽培の摘発に力をそそぐようになった。
しかし、そのことで、長らく家内栽培で良質のカナビスを生産していた人たちのリスクも高くなり止める人がたくさん出てきた。そこを埋め合わせるように進出してきたのが犯罪組織だった。カナビスの違法栽培の摘発はますます地下組織を肥大化させ、オランダのカナビス生産は年間500トン25億ユーロで輸出が80%を占める までになってしまった。
すでに6年以上も続くバルケネンデ政権は、この問題は過去にコーヒーショップを認めたことから派生したもので、自分たちの責任ではないと開らき直っているが、かつての密輸入問題を密輸出問題にしてしまったのはまぎれもなくこの政権に責任がある。
ドラッグ政策、オランダの成功とアメリカの失敗
2008年に発表された WHOのドラッグ使用状況調査 によると、カナビスの経験者数の割合は、アメリカが40%なのに対して、実質的にコーヒーショップで買うことが合法化されているオランダは20%で半分になっている。このことは、厳罰化によってドラッグ使用が減るという考え方が神話に過ぎないことを端的に物語っている。
また、オランダのヘロイン中毒者は確実の減ってきている。これも、厳しい取り締まりのせいではなく、ハードドラッグとソフトドラッグの分離政策が成功して若者のヘロイン離れが進んだためだ。オランダでは、ヘロイン・ユーザーが高齢化し、ヘロイン中毒者を保護しているユーザー・ルームも収容者が減少して閉鎖されたりしている。
さらに、オランダのエイズ対策は厳罰化ではなく、クリーンな注射針やユーザールームの提供で害削減することで行われている。これに対して、アメリカでは害削減という考え方の導入を拒んでいるためにエイズの成人感染率はオランダよりも高い。(オランダ 0.2%、アメリカ 0.6%、UNAIDS: The Joint United Nations Programme on HIV/AIDS)
このことは、サンフランシスコとアムステルダムでのカナビス使用を比較した 2004年の研究 でも示されている。
アムステルダムとサンフランシスコは、人口、経済状態、都市の形態などの環境が非常によく似ているが、カナビスについては、アムステルダムが事実上合法化されているのに対して、サンフランシスコはもっと厳しい政策を取っているという違いがある。その違いの特徴には、住人のカナビス使用率と、ヘロインなどの他の違法ドラッグをすすめられる割合の違いによく表れている。
25回以上カナビスを使ったことのある人の率は、自由なアムステルダムのほうが厳しいサンフランシスコよりもずっと少なくなっている。このことは、規則を厳格にすればするほど使用率は下がるはずだという主張が成り立たないことを示している。
また、サンフランシスコのように規制が厳しい環境では、ヘロインやコカイン、アンフェタミンなどの違法ドラッグの使用も高くなることも見出されているほか、カナビス入手にあたっては、違法ドラッグをすすめられる率がアムステルダムの3倍になることも示されている。この結果は、禁止法自体がゲートウエイの役割を果たしていることを物語っている。
イギリスのドラッグ政策もヘロインや暴力組織の資金源とは直接関係ない
イギリスでは、違法ドラッグは危険と処罰刑量を組み合わせたABCの3分類で管理されている。各ドラッグは、その時代の状況や要請によって属する分類が変更できるようになっている。
この変更は法律の改正によるものではなく、科学者や医学関係者からなるドラッグ乱用問題諮問委員会(ACMD)の答申を経て、内務大臣の意志決定によって行われる。最終的には議会の承認を経てから発効するが法律が変わるわけではない。
カナビスは、以前はアンフェタミンなどの同類のB分類に属していたが、害が少ないとして2004年にC分類にダウングレードされ非犯罪化が行われた。しかし、この決定に対する反発も根強く、カナビスと精神病問題を取り上げてB分類に戻すべきだという揺り戻しも起こっている。
いずれにしても、分類は、対象ドラッグの薬理的・社会的な害がどの程度なのかによって決められるのあって、ヘロインや暴力組織の資金源などの問題が直接的に関係しているわけではない。
(2008年のACMDの報告書: ACMD: Cannabis: Classification and Public Health 2008)
2008年のマサチューセッツ州カナビス非犯罪化住民投票でもヘロインは問題にはなっていない
マサチューセッツ州は、2008年11月に行われた住民投票でカナビス所持に対する罰則を軽減化する発議が州有権者の65%の賛成を獲得して認められ、カナビスを使用する成人への刑事的制裁が撤廃された。
この発議は、分別のあるカナビス政策を求める委員会 が提案したもので、1オンス以下のカナビス所持に対する罰則を刑事罰から100ドル以内の罰金に改め、罰金を支払えば出廷する必要もなく、犯罪歴としても残らない内容になっている。それまでの州法では、軽微なカナビス事犯で逮捕された場合でも、最高6か月の懲役と500ドルの罰金になっていた。
この発議に対する議論は各地で非常に活発に行われたが、従来から定番になっているゲートウエイ論でヘロインという名前は出てくることはあったが、ヘロインの蔓延を防ぐためにカナビスを非犯罪化しようなどという議論は全く起こっていない。
これは、アメリカ全体としても、ヘロインがドラッグ問題の中心にはなっていないことを反映している。連邦政府のドラッグ使用と健康に関する全国調査(NSDUH, National Survey on Drug Use and Health)の2006年の報告 によれば、、過去1ヶ月以内にヘロインを使った人は全国で30万人程度(人口比0.1%) で、カナビスの1480万人(同6%) に比べればはるかに少ない数でしかない。(コカインは240万人で1%)
また、2007年12月に実施された ゾグビーの世論調査 では、「もし、ヘロインやコカインのようなハードドラッグが合法化されたならば、あなたは使うつもりがありますか?」 という質問に99%の人が 「使わない」 と答えている。しかも、その傾向は若者に顕著に出ている。
この数字は、NSDUHの実態数字ともほぼ同じになっており、すでにヘロインやコカインの危険性に対する認識が行き渡っていることを示している。このことからも、ヘロイン問題のためにカナビスを比犯罪化するなどという議論が出る余地も必要もないことが分かる。
これに対して、最近急激に問題になってきているのは処方医薬品の乱用による死亡事故で、インディアナ州の調査によれば、処方医薬品の乱用が増えたことが主な原因になって、ドラッグによる死亡事故が2004年には、1999年の2.47倍(147%増)にまで急増していることが示されている。
全国的には、違法ドラッグの使用やアルコールの無茶飲みは目立つほど増えていないが、ヘロインに代わって医薬品のオキシコンチンなどの使用が増えてきている。これまではドラッグの乱用問題と言えばアルコール、タバコ、カナビスに次いで処方医薬品の乱用は4番目に深刻とされてきたが、今後5年で処方医薬品がカナビスを抜いて、アルコール・タバコ・処方医薬品が3大問題になると指摘する専門家もいる。
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The case of the two Dutch drug policy commissions, An exercise in harm reduction 1968-1976 Peter Cohen)